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真田伊賀守の暴政 [隠れ郷土史]

嬬恋村から東吾妻まで戻ってきたら、車窓右手にこんな看板が。
見た最初は旅館か料理屋の看板かと思ったのですが、よく見ると、
何か禍々しいものが2.jpg
池廼薬師堂水牢??
水牢??
何か禍々しいものが1.jpg
池廼はいけのやと読みます。35号線県道、渋川東吾妻線、新巻交差点を山に分け入った先にあります。
何の為のものかすぐにわかりましたよ。水牢とは拷問の一種でしょう。そういうのを作るのは昔の治世者の誰かで大概は暴君と決まっているよね。
雨でジメジメした山間の一画にそれはあった。
水牢1.jpg
水牢の解説.jpg
湿気と光量不足で写真がボケてますが。
『池の薬師水牢の跡
薬師堂の山瑞の軟石を掘った古池跡が、真田伊賀守による苛政を物語る「水牢」の跡と伝えられている。
水牢とは6間(約10.8m)四方を掘り下げ深さ2尺(約60cm)ほど水をため、周囲に塀をめぐらし木戸を立てた牢屋。
当時の沼田藩主の重税は苛烈を極め旧暦12月の年貢上納に際して、刑罰として年貢未納の農家の妻子を4、5人ずつ縄で縛って水牢に投獄し、寒中の水の中に立たせたと伝えられている。
投獄された家の者は見るに堪えず、一族から金子(きんす)を集め、またある者は田畑を処分して年貢を済ませ妻子を救い出したと伝えられる。
この水牢は天和元年(1681年)8月11日、山崩れによって埋没したが、その一部は現在まで歴史の証言者としてその姿を今に伝えています。』

こんなものを作らせた暴君がいたらしい。真田伊賀守信利、沼田藩五代藩主、あの真田信之の直系です。苛政を敷いて領民に重税を課し未納者をこれに放り込んで虐めたの。
触ってみた。冷たい水です。飲めるかもしれない。
これが水牢である.jpg
見るからに池ですが、後で掘り起こして修復したのか。おの水の中に旧暦12月、寒い時期に。低体温症で命を落とすでしょう。
滑った太鼓橋.jpg
池に架かっている太鼓橋、これ、雨に革靴だと滑ります。転倒して尻餅つきました。アタマを討たなかったが、後で見たら左手首に少し痣が。
服の後処理も大変で、冷たい水で拭いて、後でホテルの部屋で洗ったもの。その後クリーニングに出して何とかなりましたが。
転んだのは領民に祟られたかと思った。伊賀守め。
水牢の絵.jpg
真田伊賀守信利が暴君になったのには理由(わけ)があります。
でも本人のエゴでもあり嫉妬だな。
一応、流れを検証してみる。

真田昌幸の長男、真田信之、ご存じですよね。
昌幸は主家武田家が滅ぶ前から信濃路から吾妻郡へ侵攻して、最終的には小田原北条氏と接する沼田まで進出します。主家を転々と変えながら真田家単独での勢力を維持する為にいろんなあざとい手を使ったようですが。
その嫡男信之(信幸→信之)は本多忠勝の娘で家康の養女として嫁いだ小松姫と婚姻したので、徳川氏の与力大名の位置づけだが、真田昌幸と次男、信繁は独立大名で豊家の家臣、真田家は上田城の昌幸と沼田城の信之の2家体制になる。

関ケ原戦後、真田昌幸と信繁は紀州九度山に流刑になっても上田の所領は東軍についた長男、信之に継承された。信之は沼田領と上田領併せて9万5000石を知行することになる。
問題はその後である。

元和2年(1616年)真田信之は沼田から上田に移り、沼田領3万石は長男の信吉に任せた。問題の伊賀守信利はこの信吉の子なのですが。
元和8年(1622年)真田信之は松代藩13万石へ加増転封となったが、沼田領は引き続き信吉の所領として残された。
上田藩→松代藩の系譜が本藩だから、真田昌幸があれだけ執着した沼田藩は支藩の位置づけになった感がある。

寛永11年(1643年)沼田藩を預かる真田信吉が死去、ここからがややこしい。(信之はまだ生きています。)
信吉の長男、熊之助という人が沼田藩三代藩主として相続したのですが、僅か4歳なので叔父の信政(信之の次男)が後見人になります。
信政という人は、父信之の松代藩転封の際に松代領内で1万7000石を分知され、小さいながらも大名に列していた。松代藩から沼田藩に出向?して後見したのだろうか。
ところが熊之助は寛永15年(1638年)11月6日に7歳で夭折、嗣子がいるわけないのでその跡は後見人だった叔父、信政がそのまま継いだ。松代藩内で貰っていた1万7000石を弟に譲って沼田藩3万石を継承したのが寛永16年(1639年)で、ここで暴君・伊賀守信利が登場する。信利は夭折した熊之助の異母弟なのです。沼田領3万石のうち5000石が信利に与えられる。
ここで最初に含んだかもしれない。自分が沼田藩正統の継承者なのに僅か5000石の分知だけかよと。

真田信之はまだ生きています。この人は当時では珍しく長生きした人ですが、なかなか隠居しなかった人(隠居が許されなかった?)で、明暦2年(1656年)にようやく隠居した。信政は沼田藩を継承してから17年経ってようやく松代藩の家督をゴッソリ相続した
でもわずか2年で死去しています。臨終前に父、信之の長命を恨んだかもしれない。
問題の暴君・真田伊賀守信利はこのタイミングで沼田藩主になる。信政が松代藩に戻ってそこの藩主に収まったからです。でもあっち(松代)は13万石、こっち(沼田)は3万石、4分の1かよと思ったのは想像に難くない。
水牢3.jpg
信政の子供たちもいろいろあって後継者候補から外され、六男の幸道が松代藩を継ぐのですが、これに真田伊賀守信利は遠く離れた沼田藩からブツクサ異議を申したてている。信吉系の次男である自分が相続に相応しいと。そうだろうか?ちょっと無理があるような気がするが。でもますます信利の胸中に、松代藩へのライバル意識、格差意識が強くなる。

要は松代藩、沼田藩、この2家体制が「噂の現場」の元凶なのですが、この伊賀守信利のエゴをモロに喰らったのが沼田藩の領民たち。水牢はその副産物といっていい。
伊賀守信利は松代藩に対抗して領内の検地を断行し、公称3万石の小藩のクセに5倍近い石高14万4000石という予算を弾き出して幕府に報告した。牛丼でいうメガ盛りだが、牛丼は実際に盛ってあるからいい。14万4000石は全くの虚構である。
無い袖なのに公の石高をカサ上げした以上、相応の家格にしなくてはならない。例えば参勤交代の人数とか、江戸藩邸の改装とか。
現在、ツマんない公園になっている沼田城には五層の天守閣があったといいます。それも人民の膏血を搾り取ったものから築いたといっていい。あの時代、江戸城以外に関東にそんな高層天守閣がある城って他にあっただろうか。

そして重税に苦しんだ領民の代表者が江戸幕閣に直訴、上毛カルタにある「天下の義人茂左衛門」がこれですが、それは伊賀守の意趣とは別に時の幕閣が松代、沼田、両真田家の財政に目をつけて困窮させようといろいろお手伝い(普請)を命じたせいでもある。延宝8年(1680年)、伊賀守信利は江戸両国橋改修の為の木材調達を命ぜられたが、台風で利根川、片品川が氾濫して用材が流出、翌天和元年(1681年)10月の納入期日に間に合わなかった。
この一件と前述の上毛カルタ「天下の義人茂左衛門」が訴えたので同年11月、沼田藩は取り潰される。伊賀守は改易された。理由は材木の納期遅滞と治世不良です。伊賀守信利は山形藩奥平家の預かりになり、奥平家が宇都宮に転封になってからそこで死去した。
沼田藩取り潰しの挿話は元禄繚乱第一話で取り上げられた。伊賀守を演じたのは草薙良一さん。
徳川綱吉の苛烈さと、伊豆守の嫡男信音が播州赤穂藩に預けられたから取り上げられたのだろう。
丘の上から見下ろす1.jpg
伊賀守信利が1656年~1680年まで24年も治世したからには、その間に何かいいこともしたかもしれないが、こういう水牢なんて禍々しいものを見てしまうと暴君としか思えない。やらなきゃいいことをやらかしたから恨まれたのだ。
水牢2.jpg
往時の年貢は個人で納めるのではなく、その村、あるいは組の連帯責任で納めさせた筈。未納だった農民を水牢に放り込む前に、村長(ムラオサ)が責任を取らされるのではないかな。
水牢跡は東吾妻に9ヶ所あるそうです。そんなにあるのか。知られているのはここ池廼薬師堂の水牢と、中之条にある「桃瀬の水牢」だそうです。

で、伊賀守がいた沼田城へ。
沼田城は公園化されていて旧形態がどのようだったかわからなくなっていた。
下山で美しい蕎麦を喰らってから県道を南下してナビに従ってきたら、六連銭の赤い幟がパタパタはためいていて、そこにある広大な公園がそうだったのである。
六文銭の幟1.jpg
公園一帯の案内板表題には沼田公園(城跡)城をカッコ書きで示してあり、沼田城を買い取った元藩士久米民之助像、歌碑、寿楽園碑、生方たつゑ歌碑、旧生方家住宅、記念資料館、武道場、体育館、天狗堂、村上鬼城句碑、真田昌幸の謀略で註された沼田平八郎首石、御殿桜、鐘楼、金子刀句碑、沼田の歌歌碑、英霊殿、テニスコート、野球場、遊園地、ゲートボール場といった壊変後に作られたものばかりで、城の縄張りや遺構を示す案内は殆ど無いといっていい。
ぺったんこで低い土塁のようなもの??
ぺったんこの土塁跡1.jpg
ぺったんこの土塁跡2.jpg
ぺったんこの土塁跡3.jpg
ぺったんこの土塁跡4.jpg
これなんかまだいい方です。
まぁまぁの土塁跡.jpg
本丸堀、幅10m、長さ20m分ほどで、これの脇にもテニスコートやグランドができている。
本丸堀跡1.jpg
本丸堀跡2.jpg
本丸堀跡3.jpg
本丸堀跡5.jpg
要の本丸にしたってこの程度です。それでいて往時の全体図を大雑把に掲示してあり、他は花壇、広場、木々、花壇、ミニ動物園、退屈このうえない。
本丸跡.jpg
絵図.jpg
天守跡は見つからなかった。あくまで推定だそうである。例の伊賀守が造った五層の天守なので、それを写真に収めて完結したかったのだが。
無駄に歩いて汗だくになったが、沼田城といえば必ず載っている西櫓台石垣がこれ。
西櫓台石垣2.jpg
西櫓台石垣3.jpg
西櫓台石垣4.jpg
西櫓台石垣6.jpg
西櫓台石垣7.jpg
西櫓台石垣8.jpg
こっちの方が往時に近いような。
西櫓台石垣9自然の打ち込みか?1.jpg
西櫓台石垣10自然の打ち込みか?2.jpg
西櫓台石垣11自然の打ち込みか?3.jpg
発掘して修復した感がアリアリだが、こっちの方が見て安心したりする。
西櫓台石垣12こっちの方が自然に見える.jpg
西櫓台石垣13.jpg
捨曲輪とあるが、捨てる曲輪にしては広いな。敵を誘い込んで捨てて、周囲が反撃、殲滅できる縄張りになっていたのかどうか。
捨曲輪.jpg
小田原北条氏と豊家が手切れになった名胡桃城方面を望む。目と鼻の先です。
名胡桃方面.jpg
捨曲輪には平八石というのがあって、真田昌幸から「お前を必ず城主にしてやるからな」と騙されて討ち取られた沼田平八景義の首実検の石だが、首は胴体のある場所までピューッと飛んでいった??

ボヤけて輪郭がわからないので、沼田城を見に来た城者は必然的にアイフォン、スマホで自分が今いる位置を確認しながら、沼田城本丸跡(Googleマップだと2か所表示される)、西櫓台跡石垣、大手門沓石、捨曲輪跡、真田信之と小松姫の石像、天守跡推定地、それらを探し回るしかないのです。
実際、公園内でアイフォンで位置を確認しながら首を傾げている人が2人か3人いて、ぐるぐる回って歩き回っていたら何回も再会する始末である。そのカオに、表情に「よっくわかんない城跡ねぇ」と如実に出ているのだ。
沼田城1.jpg
有名だが、退屈極まりない城跡だが、かろうじて、この辺りは堂々と沼田城を掲げている。(沼田市観光協会、案内所の辺り)
沼田城2.jpg
沼田城3.jpg
開設版に真田伊賀守が改易され、城は幕府の命によって破却された旨が記載してあるぞ。
だが伊豆守が何をやらかして改易になったかは書いてなかった。
五代城主伊賀守.jpg
領地を没収され.jpg
朽ちかけた三の丸土塁は選挙ポスターの土台になっているし。
三の丸土塁2.jpg
くるまはこのMAPでいうところの沼田公園桜まつり側のパーキングに停めましたが、そこから歩くと、ホントにここは沼田城なのか?疑念にかられ、延々と莫大な距離を歩かないと見れません。
道がややこしいですが、公園の中央を突き抜けている道に沿って、観光協会側のパーキングに停めた方が散策効率がいいです。
沼田城.jpg
六文銭の幟2.jpg
沼田市が「真田の里」を謳うのもいいし、真田丸に便乗してか、関連する史跡の整備が進められたのも頷ける。でもその陰には目立たないけどああいう水牢とか、石高のカサ上げとか、詳しく書きませんでしたが上毛カルタ「天下の義人茂左衛門」とか、施政者が領民を苦しめた時代があったのです。それでも沼田城には真田六連銭の幟がパタパタはためいているのに違和感を覚えてしまった。
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羽根尾城 羽尾氏の末路 [隠れ郷土史]

羽根尾マップ.jpg
鎌原城で述べた吾妻三国志、鎌原氏、羽尾氏、斎藤氏の中で羽尾氏のその後です。羽尾氏の羽根尾城に取りついたところです。
羽尾駅の少し先、406号線の道路沿いに「羽根尾城、海野長門守墓」案内する標柱があったのですが、そこからの道が狭くて断念、北側の西吾妻福祉病院からアクセスしてきたところ。
羽根尾マップ2.jpg
羽根尾マップ3.jpg
羽根尾マップ4.jpg
406号線から草津温泉に向かう292号線に入ってしばらくすると、西吾妻病院入り口の大看板が見えます。その下に申し訳なさそうに羽根尾城への案内矢印がある。
病院は高台にある。羽尾城より高所にある。坂を登って病院内の敷地に入り、申し訳ないけど駐車場に停めさせていただいた。
南端に調剤薬局があって次の案内板は薬局の右手を歩いてすぐ先にある。
薬局の裏手にある山城ともいえる。
矢印1.jpg
矢印2.jpg
そこから農道、作業道で、軽自動車なら入れそうだが。
やばいぞ。雨脚がやや強まってきたか。
いや、そうではないな。木々の葉っぱに雨が当たる音と、風が吹いて葉っぱから葉っぱに伝う雨雫の音が重なっているんだ。
作業道1.jpg
作業道2.jpg
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羽根尾城の案内表示は農道か作業道の途中に複数個所あるので、それに従って歩いて行けば迷わないのですが。
自分に迷いが生じた。雨が降っている。傘はあるが濡れる。ただでさえ訪城には向いていない青々した梅雨の時期なので、足元が滑る。
いざとなれば引き返すべきだな。
矢印3.jpg
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作業道4道が悪くなってきた1.jpg
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堀切.jpg
堀切があった。その前に若干駐車スペースがある。
ここに停車できなくもないが.jpg
軽か小型車ならこの場所までアクセスできるのがわかった。でもくるまで来なくてよかった。雨と木々で薄暗く、小型車切り返す際に脱輪でもしたらタイヘン。
雨に濡れながら.jpg
矢印4登れってか.jpg
まだ矢印がある。弱そうなラバーの階段を上がったらそこは鉄塔が立っていて、そこからの矢印の先は草で埋もれているた。
ジャン妻のカオが浮かんだ。
「引き返しなさいっ!!」
撤退しました。そういう決断も必要です。
鉄塔を見上げる.jpg
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進めない.jpg
下山するとこ.jpg
弱々しい階段だな.jpg
途中で引き返す勇気を出して撤退したので、後日、余湖先生の鳥観図を見ると、
羽根尾城余湖先生鳥観図.jpg
小さい也にも吾妻の三雄、羽尾氏の本拠、羽根尾城に期待したのですが本拠に見えない。小さいです。小さ過ぎて烽火台か物見、監視場程度の小城だった。

城主と伝わる人で、羽尾幸全(ユキマサ)という人。
鎌原城で登場、万座温泉で湯治中に本拠を奪われたそそっかしい羽尾道雲とはどういう関係なのかわからない。
羽尾氏は滋野一族、海野氏の末裔なので、真田氏が自称するのと同族だったといっていい。だいたい真田幸隆が武田信虎&村上義清連合軍に敗れて小県郡を追われ、昔の同族の誼を頼って羽尾幸全の許に落ちてきた説があるのだ。いきなり箕輪城の長野業政まで頼れないと思う。誰かが中継ぎした筈だ。
でもドラマだとその辺は省略、割愛されても本筋に影響は無いじゃないですか。だから地方の(失礼)小豪族が登場しないのだ。
でもそうだとすると、真田幸隆は一緒に落ちてきた海野棟綱と袂を分かって武田家臣になる。後年、恩あった羽尾氏を追い落としたことになるのだ。

羽尾氏は吾妻川対岸の鎌原氏と境界を巡って小さい争いを継続していた。これを書いてて気がついたのですが、岩櫃の斎藤氏はともかく、真田氏も羽尾氏も鎌原氏ももとは同じ滋野一族、海野氏の子孫だというのだよ。
真田幸隆は武田信玄の意向もあって、鎌原幸重を庇護、吾妻郡攻略の尖兵となるのですが、かつて落ち延びて世話になった羽尾幸全が岩櫃の斎藤憲広側に付いたと知りどう思ったか。
羽尾、斎藤が鎌原城を攻め、鎌原幸重はいったんは信濃小県郡にへ逃れ、後日、真田幸隆の支援を得て鎌原城を奪回したのは述べた。真田幸隆は鎌原城の先、羽尾氏の領域にも侵攻する。この小さい羽根尾城、その先にある長野原城、吾妻川沿いの反武田の要衝を奪っていく。
幸隆は世話になった羽尾幸全を調略しなかったのだろうか。そうなる前に、長野原城に入れた真田幸隆の弟、常田隆永が、旧領を奪回しようと逆襲してきた斎藤憲広の軍に敗れ、長野原城が落城した際に討死にしている。
常田隆永(トキタ タカナガ)は橋本じゅんさんが演じていたな。
じゅんさん.jpg
真田は岩櫃城へ本気で攻めかかり、羽尾幸全の舎弟、海野幸光、輝幸の兄弟を内応させ、岩櫃城を手中に収めた。
まだその先がある。真田幸隆は沼田まで視野に入れている。内応した海野幸光、輝幸の兄弟は、真田幸隆と昌幸、2代に従って吾妻郡侵攻に合力している。
「豆を煎るには豆殻を持ってすべし」である。

長篠で武田軍が大敗したのが天正3年(1575年)、上の兄2人も戦死したので、武藤家に養子にいっていた喜平治、昌幸が真田本家を継ぐのだが。
武田家が滅ぶ天正10年(1582年)の前々年、1580年に昌幸は沼田城を手中に収める。羽尾の生き残り海野幸光は岩櫃城代、弟の海野輝幸は沼田城代に。
後日譚がある。通町のBAR、マスターに、沼田に行かれるならあの生蕎麦屋さんに是非とススメられたのでナビを頼りにやってきたのですが、途中の上発知材木町線という街道沿いにこんなものが。
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判読し難いですが、海野輝幸、幸貞の墓とある。
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解説板に書いてあるとおりです。真田家中に海野兄弟を妬む者がいて「海野は北条と通ずる」の讒言を信じた真田昌幸が、弟の真田信伊に命じて先ず幸光を急襲して討ち、輝幸は真田勢に追撃され、嫡男幸貞と刺し違えて自刃した。
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鎌原村、資料館の前にあった鎌原城、
ついでに寄った羽根尾城、
斎藤氏がいた岩櫃城は前に行ったし、
マトモな観光客はまず行かない点と点を繋いできましたが、羽根尾城、羽尾氏からの系譜である海野兄弟はここで終わった。
羽尾を妬んで讒言した者は誰か。滅んで得した者がいる筈だ。
斎藤氏はもういない。残る一族といえば?

私は昌幸は讒言を信じたというよりは、粛清か将来の禍根を断つ為、敢えてその讒言に乗ったと思っています。
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天明3年7月8日(旧暦) [隠れ郷土史]

自分が思うに、興味が無いのに中学高校で日本の歴史なんぞを学ぶのって意味あるのかなと。
学ぶのなら近代史からでいいと思うのだ。
むしろ、数学、英語、工学、商業過程とか。そういうのを学んだ方がいいと思った。
歴史や古文は趣味の世界でいい。好きなら覚えられるのだから。
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鎌原城で靴裏が泥だらけになったので、その辺りの濡れた草で靴裏を拭いてから妻恋村資料館に入った。
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館内は天明3年(1783年)の浅間山噴火で発生した吾妻土石流による鎌原村の埋没と、そこから出土したもの、そういう世界でした。
私は出土品ってあまり興味ないのね。そこで何が起こったのかを知るだけでいい。
受付、事務室に職員さんが3人か4人いて暇そう(失礼)に見えた。人件費多くね?って。
「2階でビデオ上映されているのでご覧になってくださいね~」
ビデオ観ました。都会にいたらまず知り得ない内容だった。
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日本史に興味が無くても、江戸時代の天明の大飢饉という災害を何となく覚えている方はいるでしょう。
それは飢餓民衆が喰うものなくて餓死者の人肉まで喰らった凄まじいイメージが残っているからだと思う。
この飢饉の説明の中では必ずといっていいほど浅間山が噴火したと記されている。浅間山の噴火のせいで火山灰が降灰して農作物が全滅したとか、火山ガスのせいで太陽の照りが少なくなり、農作物が少なくなったとか、そういうイメージを抱きがちだが。
実際はそう単純に浅間山の噴火だけが天明の飢饉の直接的な原因とは言い切れない。同年のの岩木山(青森県弘前市)が噴火、アイスランドのラキ、グリムスヴォント、並んだ2つの火山が長期噴火、火山ガスが成層圏まで達して粉塵が地球の北半分を覆った為ともいう。
浅間山が噴火ししたから天明の大飢饉に突入したというのではなく、浅間山の噴火は起こっていた飢饉に拍車をかけ事態を更に悪化させたのである。

天明年間、農作物が不作になり、東北では餓死者の肉を喰らい、疫病が流行り、農民が農村から逃げだして江戸や地方城下町に流れて治安が悪化、米価が高騰して江戸や大阪では米屋の打ち壊しに発展、米経済に依存していた幕府の屋台骨が揺らいでいく。時の老中、田沼意次が打ち出した商業主義改革の中に、温暖な地域で成長するイネを寒冷地に作付けしたので、上手く育たなかった失敗があったとも。

では天明3年、浅間山が噴火した時に現地で何が起きたのか。
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史料を基にかいつまんで述べます。私が今いる鎌原村は浅間山火口から北12kmにある。大噴火した日は旧暦で7月8日、噴火して押し寄せた土石流が時速100km(どうやって弾き出したのかこの数値?)で押し寄せて村全体が壊滅する。吾妻土石流といいます。
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土石流は吾妻川に流れ込み、その辺りで吾妻川を堰き止めて天然ダムになってから決壊、下流に大洪水を起こし、吾妻川沿いの村々を押し流し、その被害は利根川沿いから江戸川、銚子、江戸湾まで及んだのだがこの項では鎌原村の記載に留めます。村全体は5m~6mの土砂で埋まり、唯一この観音堂だけが残った。
外の掲示物1.jpg
たまたま村外にいた者と観音堂に上って助かった者で生存者僅か93人、犠牲者は477人、477人の中には石段を駆け上がってくる途中で間に合わずに犠牲になった2名が含まれる。
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現在の鎌原観音堂には赤い太鼓橋が架かっていて、僅か15段の石段を登るだけで観音堂の前へ行けるが、登る前に太鼓橋の前で立ち止ってみる。
後年の発掘調査で石段は50段あった。現在現れている石段は下から数えて35~50段目なので、往時の入り口は35段下にあった。
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埋没石段.jpg
埋まっている11段目で前述の2名の遺体が発見された。折り重なっていた。足腰弱い母を背負って逃げた女性、母と娘と伝わる。
太鼓橋下を除いてみる。
太鼓橋.jpg
あと少しだったのに。
助かったかも知れないのに。
太鼓橋下.jpg
石段を登ってみた。往時の階段なのでひとつひとつが小さいです。
観音堂の右隣に会館があって座敷の上にテーブルが置いてあり、爺さん2人婆さん2人がお茶を囲んで談笑しておった。集会場を兼ねているらしい。
観音堂周辺には廃れた売店跡が幾軒もあった。土産物を売る観光地にはなり損ねた感がある。
観音堂石段見上げる.jpg
鎌原村は火山灰で壊滅したので東洋のポンペイ、群馬のポンペイなどと呼ばれる。郷土資料館には当時の様子や絵図、発掘された出土品が展示してある。(撮影禁止です。)
がだがポンペイと決定的に違うのは、現在のポンペイは遺跡で居住者はいないそうだが、鎌原村は生存者が避難先で新生活を始めたのではなく、生き残った93人の住民が鎌原村にまた戻ってきて村を再建したことです。
その再建の仕方が凄い!!
観音堂石段見下ろす.jpg
でかける前にジャン母がこんなことを言っていた。
「また群馬に行くの?ホントに群馬でも会津でも山梨でも同じとこばかり行くのね。」
いいじゃねぇかよ。
「どこに行くの?」
嬬恋村へこれこれこういうのを見に行くと言ったら、
「お母さんが生まれる前だから明治の頃かしら。(実際はもっともっと前)栃木県のどっかで火山が噴火して、村が埋まって、そこの生き残った住民同士で夫婦をやり直したって聞いたわ」
栃木県と大きく勘違いしているが実はそれが鎌原村です。生き残った住民同士で血縁を築きなおしたといふのだ。
現地の史料にもビデオの紹介にもあったが、生存者たちが前途を悲観して離散しかかったところへ近隣村の有力者たち、大笹村の黒岩、千俣村の千川、大戸村の加部、3名の名主たちが世話役になり、廃墟になった鎌原村にまず2棟の小屋を設け、生存者を仮に住まわせた。
往時は武士階級は当然だが農民たちにも家筋や氏素性に拘り挨拶等でも差別があったのだが、前述の3名の名主たちは鎌原村の生存者93名に対して、「これだけの大災厄に見舞われても生き残ったのだから、互いに新しい一族、家族である」と諭し、農民内での身分、格差、血筋を取り払って互いに親族の宣誓をさせた。要は婚姻、養子縁組をして新たに纏めたのです。
夫を亡くした妻と妻を亡くした夫で再縁させる。
子を亡くした老人に親を亡くした子を養子にする。
大災害の数か月後の10月24日には早くも7組、12月23日には3組の祝言をあげているというから凄い。
幕府は10月に普請を開始している。田畑29町歩の再開発と、4287間(7800m)の道路普請、草津村からの普請従事、幕府の負担金850両、被災しなかった田畑4町5反や、その後の再開発田畑は93名に均等配分された。
幕閣の救済が早かったのは鎌原村は天領だったからではないだろうか。そこらの貧乏大名ではそうはいかないだろう。

現在の鎌原村です。住宅は天明の大噴火の頃から5m~6m高い筈。浅間山から押し出された土石の上に建っています。
現在の鎌原村1.jpg
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天明三年浅間やけ碑.jpg
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ウチの群馬の社員たちはこのネタを知らない子ばかりだった。
幾人か聞いてみたのですが「??」だった。
加えて地震や災害への緊迫度が薄い。群馬では地震が起きないと思っている。確かに少ないが。
雷銀座で大雨降って水位が上がっても川が氾濫した話はあまり聞かない。
もうすぐ各支店に配布した備蓄品、非常用食料の賞味期限切れが迫っている。これで2回めです。それらは廃棄稟議を上げて認可されたうえで、自家消費されていいことになっているのだが。
「東京と同じに考えられて配布されても。群馬って災害無いですよ」(笑ふ女)
「群馬は地震はないが、浅間山が噴火したらどーするっ」
「それっていつ噴火するんですか?ぶふふっ(笑)」
噴火.jpg

このネタのタイミングで噴火??
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鎌原城 [隠れ郷土史]

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2014年、呟きⅡ後半で、上州岩櫃城の辺りをほっつき歩いたことがあります。
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-22
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-23
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-25
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-26
このどれかの本文中で、
『斎藤憲広が同じ吾妻郡内の豪族である羽根尾氏と鎌原氏の領地争いに介入したことで、両家の仲介に入っていた真田氏、武田氏の介入を招き、すったもんだの末に真田氏に攻められ、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。斎藤氏の勢力は駆逐された。』
この中に登場する鎌原氏、カンバラと読みます。
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この作業路へ.jpg
鎌原城は嬬恋村強度資料館の向かいに案内表示があって、薄暗い作業路を谷戸に下りてまた上がって行きます。更に案内表示があって、矢印に従ってターンするのですが、
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舗装されているのに泥だらけの細い農道でした。連日の雨で畑から泥水が溢れて道そのものが川になった感がある。流れの痕があるのです。
下りて写真撮ったら数歩歩くだけで靴裏が泥だらけに。
そこから先は農道が延々続きます。嬬恋名物のキャベツ畑、そしてトウモロコシ畑を見ながら。
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追手口に駐車場があった。そこから本丸へは歩いてくださいとある。
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駐車場にある解説板。
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辺り一帯広大な畑になっている。ほぼ平坦な地形ですね。
では二の丸、本丸を目指して歩きます。
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二の丸と三の丸を区切る箱型の堀切があった。
後世キレイで見やすい形に法面を直したのかもしれない。
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本丸が見えてきた。鉄塔が立っている。
歩いて気付いたのですが、三の丸からゆるい坂を下っている。三の丸の方が高い感がする。
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本丸の解説板他、振り返って二の丸、三の丸を遠望すると、やっぱり向こうの方が高い気がする。
城域内で本郭が最も高所にあるという定石に立つと妙な違和感を感じた。
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領土拡張に貪欲な甲斐の武田晴信は、豊穣な上州も席捲せんと信州小県郡の真田幸隆に命じて上州に調略を伸ばすのですが、それ以前の吾妻郡は嬬恋の鎌原氏、羽根尾の羽尾氏、岩櫃の斎藤氏、他、国人たちが跋扈しており、狭い領土を奪われまいと小競り合いを繰り返していた。
大雑把に言って3人いた
鎌原氏、鎌原幸重、真田家の一族ともいう。
羽尾氏、羽尾道雲、もとは滋野一族の出らしい。
斎藤氏、斎藤憲広、
羽根尾の領主、羽尾道雲は吾妻川を挟んで境界を接しているので仲が悪い。岩櫃の斉藤憲広と組んで鎌原氏と争っていた。
鎌原父子は真田幸綱に仲介を依頼して武田信玄の騎下になったのが永禄3年(1560年)のこと。信玄は後ろ盾を受け入れる代わりに、羽尾と斎藤を討って吾妻郡から沼田方面に向けて進出しようとする。
それまで羽尾と組んで鎌原の追い落としを狙っていた斎藤憲広は、鎌原の背後に強国、甲斐武田氏が付いたのに危機感を募らせた。羽尾道雲他と連動して鎌原城に押し寄せたのだが。
実は私が立っている平場からは木々に隠れて見えないのですが、城域の北側は吾妻川に垂直の断崖になっていて、正面からだと相当な難攻だという。ここにいてもそう見えないだけです。
だけど隣村からいつ攻めてくるかわからない日常にいたわけで、毎日毎日緊張感に囚われておちおち寛げないですよね。気が抜けない。
一旦、その場しのぎの和睦になるが、信玄は真田、重臣格の甘利他に斎藤の岩櫃城を攻撃させ、一旦は斎藤氏は甲斐軍に下ったともいう。
真田は信玄の威光を傘に検知を行い、鎌原、羽尾、斎藤、3家の領地割(検知)を新たに定めたが、領土境界の定め方が羽尾にとって不利、鎌原に有利な内容だった。わざと揉めさせたのかもしれない。いずれ真田を先頭に総力を挙げて岩櫃、名胡桃、沼田あたりまで抜こうと目論んでいたからだろう。

羽尾は含んだ。斎藤も心から服していない。永禄5年(1562年)、斎藤憲広は羽尾道雲他、鎌原一族の内応者も含めて再び鎌原城に押し寄せる。
この時、鎌原幸重は信州佐久郡へ退去したそうです。信玄は小県郡に替地を与えたそうだが、その地に長く留まることなく鎌原へ還ろうとする。同年に羽尾道雲が何を思ったか、万座の湯に湯治に出かけたので、真田幸隆はその隙を窺って鎌原か羽根尾の館に攻め込んだ。内通者がいたに違いない。
羽尾道雲は同年9月にも羽根尾を奪還せんとしたが敗れ、鎌原幸重は武田、真田両氏の庇護のもと、鎌原城に帰還できたのである。

残る岩櫃の斎藤憲広は上杉を後盾にしようとする。永禄6年から真田、斎藤両軍の戦いが始まる。真田は岩櫃城に調略の手を伸ばして陥落させ、吾妻郡の反武田勢力は一掃された。
鎌原幸重は岩櫃城代にもなった。

信玄が死んだ後、長篠の戦いで、真田信綱、弟昌輝、鎌原幸重の嫡男重澄も戦死しているが、鎌原氏は沼田真田家の重臣として仕える。後でUPする暴君、真田伊賀守が改易になってからは、松代藩の真田氏に出仕する者と、嬬恋村大笹の関守として存続したという。
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吾妻三国志ともいえる鎌原、羽尾、斎藤、彼らはまず映像の世界では描かれないし登場しないと思う。
上州で甲斐武田に対して描かれるのはいいとこ箕輪城の長野業政ぐらい。
真田が先導して、吾妻衆を屈服させたナレーションだけで終わってしまうだろう。
振り返る.jpg
本丸へ歩いて気付いたこと。
くるまでここまで来れます。
ただし、農道なので、農耕者がいないことや、農耕者のくるまが止まってないことが条件です。
鎌原城は寄り道です。本命見学場所の目の前に案内板があったので立ち寄りましたが、今回のメインは・・・
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天明3年7月8日(旧暦)・・・!!
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伊勢崎市曲輪町 [隠れ郷土史]

私が1回か2回、コメントを書き込んださるBlogで、伊勢崎駅から徒歩数分のところにある日本酒BARを見つけて気になっていた。
そのBARの番地が伊勢崎市曲輪町(クルワチョウ)だったのです。
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クルワ?
曲輪?
郭とも言います。
遊郭?伊勢崎に遊郭が?
そういうのがあってもおかしくなさそうなのでいつか調べてみたい。伊勢崎の曲輪町は城の内外を堀、石垣、土塁、石塁などで区画した域の名称が町名になったのです。

曲輪、郭の意味を簡単に。
主郭が総司令部で城主や城代が詰めます。それ以外の曲輪には、兵糧や武器を備蓄する蔵や守備する兵たちの屯所とかが設けられる。

荒れた時代は軍事施設なので、立て籠もって防御する側が敵を撃退するのに有利になる様に曲輪が配置されるわけです。
主郭を囲む輪郭式や円郭式、主郭と二郭を並列にする連郭式、それを別曲輪が取り巻く並郭式、山城に設け易い階郭式とかがあります。

防御を強化する為に帯曲輪、腰曲輪、捨曲輪(捨てて主郭から攻撃できる)それらは弱い部分を強化したり物見の為に設けられる出丸や、射撃陣地になったりする。城門を強化する為に設けられる馬出とかもそう。
捨て曲輪になる場合もある。わざとそこに誘い込んで殲滅するのです。
総構、総曲輪は城下町を囲んだものです。

自分で書いて思ったのですが、曲輪と郭の字が混在していますね。

平穏な時代は政治庁舎としての位置づけになる。伊勢崎の曲輪町は伊勢崎藩2万石の陣屋があったそうです。
その前、荒れた時代は赤石城という要害があった。
赤石が何で伊勢崎になったのか?

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伊勢崎駅前は開発途中で、ロータリーを抜けてすぐに武家門通りとあった。
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通りの名は後から命名したとしか思えないですが。そこに武家門がある。
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あるにはあるのですが。門の前がゴミ出し場になっているぞ。カラスとかが生ごみを喰い荒らしに来ないのかな。
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寺の境内から。
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解説板には「伊勢崎藩初代藩主である稲垣長茂の屋敷門であった」とあります。
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稲垣氏の前、中世の頃の伊勢崎陣屋は赤石城と呼ばれた。赤石城は伊勢崎陣屋の前身なのですが、ここからほど近くの那波氏の旗下で赤石氏が築いたというのです。
赤石城は以前は前橋市内にあったのですが、赤石氏がこの地に移ってから同じ名前にしたらしい。伊勢崎は前は赤石だったのです。
何で赤石が伊勢崎になったのかは最後に述べます。騒乱の時代に在城した城主・城代・城将は、赤石、那並、由良、荻田、林といった地侍たちが入れ替わった。

関東一円が徳川家康の所領となってから武家門の解説にある初代藩主、稲垣長茂という人がやってくる。
稲垣氏は家康の家臣である牧野氏について転戦する。なので牧野氏の寄力で、家康の家臣のまた家臣という位置づけだから最初は直臣ではなかったようです。転戦の過程でここ上州大胡城(行ったことあるよ)の守備を任されるまでになった。

家康が関東に移ると牧野氏を離れて直参になる。家康は家臣に高禄を与えない人だが、稲垣も3000石で大名以下だった。ここ伊勢崎藩で大名になって諸侯に列したのが慶長5年(1600年)だから関ヶ原の軍功でしょうか。それでもたった10000石ですよ。家康公がケチだってのはホントなんですね。でも関八州って広い感がしますが、家康の直臣たち全部に禄を振る舞ったら、意外と一人辺りの知行地は少ないらしい。
長男の重綱という人が藩主を継いだのですが、元和2年(1616年)大坂の陣の戦功で越後に2万石で移封され、前橋藩主だった酒井氏の支藩のような位置づけで酒井氏が代々治めて幕末まで続いた。
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現在は遺構は無いようです。一帯は市立北小学校と、隣の図書館のある場所らしい。
らしい、というのは遺構が無いからです。
武家門通り4.jpg
その先へ歩きます。
やはり市街地なので区画整理されて門以外に遺構はないようだ。「遺構が無ければ寺や神社を見ろ」と言いますが、伊勢崎藩主誰々の墓というものがあるぐらい。
陣屋があったとハッキリ書いてあるものは先ほどの門と、学校の側にあるこの案内版ぐらい。
陣屋内藩校3.jpg
陣屋内藩校1.jpg
「伊勢崎藩陣屋内・・・」
「赤石学校・・・」
近世の伊勢崎、旧時代の赤石、ハッキリ書いてあります。
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広瀬川1.jpg広瀬川2.jpg広瀬川3.jpg
JR両毛線が伊勢崎駅に入る前に広瀬川を渡ります。延々歩いて西に折れ、広瀬川を渡ってみた。
渡って対岸から陣屋、城域を眺めるとこんな感じ。
広瀬川4.jpg
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茶色の建物が陣屋のあった辺りです。広瀬川に臨んでいるのでなるほど平城とはいえ要害である。
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この建物と隣接する小学校が陣屋跡です。さっきの解説板のある小学校の西側です。学校そのものを撮影するのは止めた。
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城郭鳥瞰図の第一人者、余湖氏のHPから。
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これはその筋で有名な先生の描いたもの。
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陣屋とはいえこの縄張りを見るとさながら城郭じゃないですか。平城といっていい。外郭の城塁が、折れながら取り巻いているし。
戻ってきました。
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では何故赤石が伊勢崎になったのだろうか?
藩祖の稲垣氏は三河の地侍の出だが、家系を遡ると伊勢国の出だそうで、だからこの地に来たからには伊勢崎にした?
じゃないらしい。興味深い話を拾ってきました。
赤石城の時代、越相同盟(長尾景虎、北条氏康)が破棄され、改めて甲相同盟(武田信玄、北条氏政)が締結されてから、越後長尾氏の上州での支配力が劣勢になった頃の話ですが。
天正元年(1576年)、赤石城は北条方の由良氏の勢力圏で西の拠点だった。越後長尾勢の赤石城攻囲戦でこんな事件が起きている。
「今夜伊勢前へ神のかけより火矢を射、力丸安芸屋敷、安俣方屋敷射付候。番衆見合消候へ共、大風と云、一所ならず候間、悉く焼け候。是非無き次第に候。去りながら各火にも取り合わず、役所堅固に用心し候間、別条の儀無く候。先ず以てご安心候・・・」
これは当時の伊勢崎一帯を支配していた由良成繁という人が、重臣藤生紀伊守に充てた書簡(由良文書)でその内容は、攻囲していた越後勢の何者かが火矢を射かけ、折からの強風で火が城内に燃え広がり城が丸焼けになってしまったと。
でも火災だけで、城は落ちず敵に占拠されなかったので大事に至らずというもの。
神のかけとは、城内にあった神宮の崖か、神宮側の崖を指していると思われます。そこには既にこの時代、伊勢宮に繋がる社があったらしいのだ。

もうひとつある。寛政年間に伊勢崎藩家老が記した「伊勢崎風土記」には、
「古昔は赤石城と云えり。永禄中より元亀に至るまで数々火し(シバシバ焼けし)かば、以為(おもえらく)地名火気に応ぜりと、是に於て伊勢大神宮を城中に建て、之を祀りて伊勢崎と号せり・・・」
度々出火があったようです。その原因が地名だと。赤石なんて地名では、赤は燃える火を思い起こさせるから火災が頻発するのである、なので伊勢宮を城内に移して赤石を伊勢崎に変えたと。
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赤だと燃える火を連想されるからアブないとは。そこだけだと微笑ましくもある。昔の人はそれだけ真剣だったのだろうね。
でも前述の由良氏の書簡ではその時代で既に「伊勢前」伊勢崎ではなく伊勢前です。
他、筆まめで沢山ある小田原北条氏関連の書簡には、伊勢前、伊勢先、伊勢崎といろいろ混合されているそうです。読みはいずれもイセザキですが、自分は現地の人の口から「イッサキ」と発音されたのを聞いたことが何回かあります。タクシーの運ちゃんが「イッサキエキ?」って言ったの。
伊勢崎になってから陣屋が火災に遭ったという話は発見できなかったが、年がら年中強い風が吹き付ける地だから、火の許に警戒する厳しいお触れが出てたのでしょう。

この日の歩測計は27000歩に達しました。
椿町の椿食堂で「群馬でそんなに歩く人はいません」と言われた。呆れられるだけで自慢話にもならなかったのです。
冒頭に出た日本酒BARには結局は行っていません。伊勢崎で飲んで帰るのはちと距離が厳しいようだ。
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サムライマラソンの真実 [隠れ郷土史]

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今年も安政遠足が無事に開催されたそうです。
遠足はえんそくではないです。とおあしと読みます。
今年で第45回、昭和50年(1975年)から毎年第2日曜日に開催されます。
スタートは私が平成24年に小学生に坊さん呼ばわりされた安中小学校。関所・坂本宿コースのゴールは碓氷峠の森公園くつろぎの郷、峠コースゴールは熊野神社であります。熊野神社までの高低差は1050mだったかな。

毎年走っている方がいます。高崎の酒場放浪記で知られる旅人の惑星ショウ氏は酒豪であり、スーパーアスリートでもあらせられる。
昨年は峠コース28kmを2時間35分15秒で走破され、総合順位12位というスバラしい記録であった。
今年は・・・
不本意な記録だったらしい。私なんかから見れば凄いけど。
沿道には氏が通い詰めている酒場の店主やママ、その関係者が応援にかけつけるというが、
「あっという間に走り去っちゃいました」
そう私に言ったのは群馬八幡の託児酒場のママです。
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「走ってみたら如何ですか?」(現地のママ社員)
「冗談じゃねぇ。俺を殺す気かっつーの」
「ですよねぇ」
だったらススメんなよ。私はスポーツ嫌いで身体に悪いと思ってるぐらいだからね。アキレス腱でも切ったらタイヘンだ。私に冗談ですすめた女性社員も私がスポーツ嫌いなのを知っていて、話の興味の対象は、どんな仮装が似合うかな?ですよ。いつの頃からか参加者が仮装して走るのでも知られる大会です。

安中市や松井田に公用があるので、コースを途中まで走ったことは数えきれないぐらいあるよ。
くるまでね!!
市や主催者側のHPを見たらスタートしてすぐ、旧中山道を走っているみたいですね。中山道、原市の杉並木がこれです。左手にルートイン安中が見えます。
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この旧道はくるまで走り難くなった。減速させる為にラバーのポールが車道に出っ張ってるのがわかりますか?
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そのポールは左、右、左、右、適当な間隔で交互に出っ張ってニョキニョキ設けられている。対向車が来たらポールがある側がポールの前で停車してやり過ごさなきゃならない。
私が転勤してた平成24年はこんなポールはなくてスイスイ走れたんですがね。ウチのある女性社員がスピード出し過ぎるからだという社内都市伝説があるが、本人は否定した。
「アタシですかぁ?アタシは高崎市民ですよぉ」
そう言ってムクレたのは聖なる酔っ払いオンナ32歳だが、軽井沢の帰りに渋滞を避けようとこの旧道を走ってたら、前を走るトラックがラバーポールに接触して踏み倒したが、すぐポールが「ニョキッと立ち上がりました。あのポールはくるまで接触してもボディに傷つかないですね」
「前のトラックじゃなくて、アナタの運転で踏みつけたんじゃないのかい?」
「違いますっ」
杉並木3.jpg
各方面から転載ですが。この杉並木、江戸時代中頃には峠に向かって右側に213本、左側に131本、合計341本の杉の木があったそうです。
昭和8年(1933年)には国指定天然記念物にも指定されたのに、くるま社会になり排ガスや寄生虫などで多くの杉の木が枯れ、現在は数本しか残っていない。国指定も解除されてしまった。若い杉の木を植樹するたって長い年月がかかるだろう。
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右手の給水タンクに走る侍のマンガが描いてある。このマンガ、安中駅にもあるし、市内のところどころで見かけますね。
二本差しで峠まで走ったのか。重たそうだ。
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幟もはためいている。「映画サムライマラソンゆかりの地」
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帰りは戦って何だ??

映画は見てません。多分見ないと思う。
でも原作の書籍は読みました。これです。
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土橋章宏さん「超高速参勤交代」同じく「リターンズ」「引っ越し大名」を書いた人だけに、まぁオモシロかったですよ。
文庫本に帯巻いて写メしたの。
「へぇ。これが映画になるとはねぇ」(聖なる酔っ払いオンナ今年32歳?)
でも酔っ払いオンナは高崎市民だった。安中市民じゃなかった。
「これって安中でロケしたんですかね。そういう話は聞いてないなぁ」
思い出した。前にASLIで山県県鶴岡市内にある時代劇のオープンセットを持つ日本映画他、プロデュース企業の方とお会いした事がある。そこじゃないかな。
http://s-sedic.jp/

群馬八幡の託児酒場でも見せたの。旅人の惑星さんの話題になって「今年もどんだけ走るんですかね~」のような会話になって、そこで取り出したのだ。
「本読んだんですか?」(託児酒場のママ)
「まだ読んでない」
軽そうなのですぐ読み切れるだろうとナメてかかり、半年も放置しておいて危うく捨てるとこだった。
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今日のテーマは大会そのものよりもこのしょーもない映画と言ったら失礼だが、実際のところ予告編を観ただけでガッカリしたのだ。ガッカリを通り過ぎて呆れちゃったというか。
それは後述するとして、まずこの安政遠足の時代背景ですが、自分とこの藩士を熊野権現まで走らせた殿様は板倉勝明という人。
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この殿様は転封3回めで安中藩にやって来た。幕閣では寺社奉行、若年寄、将軍の側用人(9代家重か10代家冶だと思います)西の丸老中格まで務めた。
この勝明公が安中藩士の鍛錬の為に安中城から碓氷峠の熊野権現まで徒競走させたのが日本国内でのマラソンの発祥だといいます。(神戸も発祥地だというが。)
勝明公は幕閣に携わっていたので、それまで鎖国で泰平だった日本の沿岸に諸外国の脅威が迫ってきて、江戸幕閣が危機感を持ち、狼狽したのを目の当たりにした。そして考えたのが「だったらウチの藩士たちを緊急時に備えよう。藩士の鍛錬をさせよう。足腰を鍛えさせよう」
???
藩士たちにしてみれば唐突で「ウチの殿様、何を考えてるんだ?」ってなるじゃないですか。
原作の勝明公はこのイベントを利用して藩内を蠢く隠密を焙り出したりしてます。
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他サイトからも転載します。安政遠足だから安政2年(1855年)5月19日~6月29日に開催された。
この日付だとおよそ1ヶ月以上の期間が設けられているでしょう。近代の競技のように参加者全員が1日の競技で一斉に「ヨーイドン」でスタートしたのではないです。走らされたのは50歳以下の家臣で、1ヶ月に渡って1班から16班に分けて街道を走ったという。おそらく組頭の組下か、奉行の下役、与力と同心とか、寄子同士で走ったのではないだろうか。
途中で下りて振り返ったところ。
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バイパスに合流したところ。くるまだと楽だね。
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公用の都合でここで引き返しました。目指す熊野権現はまだまだずっと先です。
完走した藩士は96人、単純計算だと1班につき6人ですが、足軽や下士と違って上士や高禄の家臣はひとりで走らなかったと思う。必ずお供の者(家士や家人)が随従した筈だ。
なのでこういうスターティングはありえない。
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こんな集団で走ったらそれこそ大規模な軍事演習と見なされ幕閣から睨まれる。だから小集団に分割して走らせたのだろ。
だけど安中城の背後にある高い山は何だい?ロケ地のロケーションとはいえずいぶん高い山だな。
安中市と高崎市に編入された里見や榛名の境界には安中アルプスがあって数々の峠道がありますが、ここまで高い山はないぞ。

明け六つ(午前6時)の太鼓を合図に安中城をスタートした藩士たちは、中山道をひたすら走り、原市、郷原、五科、松井田関所、ゴールの碓氷峠の熊野権現までの坂道7里(約29km)あまりを3時間~4時間かけて走った。あるいは途中で歩いて完走した。
何故かわからないが、完走者96人の中で、2人が2度走っている記載があるそうです。作者の土橋章宏氏もこれを取り上げて笑える創作に盛り込んでいます。ゴールで完走者に札を渡す熊野権現の神官が、木戸が閉じた松井田宿で女狐の進める酒とイロにヤラれ、2人の初回ゴールインに間に合わなかったというオチだった。だから記録できないのでもう1回走りなさいと再走させられるハメになったのです。
5編の短編で一話完結でもあり、5編でひとつの長編ともいえる。登場人物は被っています。

遠足は速度を競う競技ではなく家臣の鍛錬ですが、サボったり、ズルしたり(馬とか籠とか)は厳罰でしょう。松井田には関所もあるので、そこは関所役人が厳重に見張った。
熊野権現には班毎に初穂料(お金?)が奉納され、完走者には餅、切干大根、上州ならではのキュウリ、お茶といった昼食が与えられ、小休止した後に安中城に帰還した。
その他の藩でこういうことをやった藩は無いと思いますね。
毎年開催したかはわからないです。
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映画では帰途に戦になったってか?
板倉勝明公が藩主を鍛えるために山道を走らせたのが何故か幕府への反逆とみなされ、藩士不在の城に藩の取り潰しを狙う刺客が送り込まれた?
それを知った者が阻止する為に行動を起こす。そういうSTORYらしいがこれが原因で戦になった事実なんかありませんよ。安中藩が幕末に兵を出した領内の軍事行動は、碓氷峠を越えようとした偽官軍(官軍という呼び名は嫌い)赤報隊の捕縛と、小栗上野介を捕縛に倉渕方面へ向かった時です。
原作にもラストで斬り合いはあったけど。映画のこれじゃぁ中世の野武士(野伏・ノブセリ)じゃないか。
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映画の監督は外人さんです。外人さんが監督する日本時代劇って所詮はこの程度の考証なんだね。
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原作は軽いけど涙と笑いで面白かったですよ。原作そのまんまの脚本や演出だと映画化にするのは難しいかも知れないが、かつての金曜時代劇(現在なら土曜時代劇)のレベルはクリアしていたと思います。むしろ原作のとおりに映像化すれば良かったのにな。
実際は「安政2年に遠足が行われた」これだけが真実です。
安中城内にある碑です。
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余談ですが、安中遠足から54年後の明治42年(1909年)3月21日、兵庫県神戸市の湊川から、大阪の西成大橋まで約32キロのマラソン大競走が行われています。
日本でマラソンという名称を使ったのはこの大会が初めてと言われている。私は10何年か前に関西担当だった時期があるので、神戸市役所敷地内でその碑を見たことがあります。
でも私は安中が最初だよと言いたいですね。
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佐野にあるもの [隠れ郷土史]

2015年の冬にUpしたこの記事ですが。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-02-20
上信電鉄の佐野わたし駅、佐野と謳ってるのはこの辺りの地名が佐野で、昔は烏川を渡る渡し船があったらしいこと、鎌倉時代に一族に所領を横領されて貧しい暮らしをしていた御家人、佐野源左衛門常世の家に諸国を巡礼していた鎌倉幕府第七代執権・西明寺北条時頼が一夜の宿を乞うたお話でした。
この時は新駅の紹介と「鉢の木」の舞台候補地のひとつがここ上州佐野というのはホントかなぁ?と疑問符を呈した程度にとどめましたが、最近この佐野源左衛門常世の屋敷跡というか、常世を祀った社があるのを知ったのです。
新幹線が高崎駅に向かって減速する辺り、車窓から上信電鉄の烏川鉄橋と、それに並ぶ人道橋が見えます。そこに至る手前に木々の下に神社と解説板があるのが一瞬目に入った。
私は標柱や解説板を目ざとく見つけるとすぐさま駆け寄ってイワレを見るクセがあります。でも走り寄って見たら町内会の掲示板やゴミ出し場の注意書きだったり、山林保護や不法投棄厳禁の表示だったりしてガッカリすることの方が多いけど。
新幹線の車窓から一瞬見える社の境内がそれではないかと思い込んでしまった。

佐野わたし駅を出て、踏切を渡り、
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坂を上ります。新幹線の車窓から見えたので高架に沿って上がります。
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裏道になっているのか意外とくるまの走行数があり、人道橋を渡ってくる高校生や、新興住宅地でマンションもあるので、地元住民が歩いてたりします。
それっぽい境内、公園、木々が見えてきた。
車窓から見えたのはあの辺りかなと。当たりをつけて行ったのですが。
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全然違ってました。
佐野の字も無いです。祀ってあったのは平安時代末期から鎌倉時代の歌人、藤原定家(テイカ)でした。最終官位は正二位権中納言、京極中納言とも。新古今和歌集他、幾つか書を残した人ですよ。
治承4年(1180年)から嘉禎(カテイ)元年(1235年)56年間も日記を書いた人でもある。(明月記)
歌人にはあまり興味が無いのですが、この藤原定家という人は歌人とは別にいろいろと癖のある難しい人物だったようです。宮中で喧嘩するわ、上役に逆らうわ、同僚の歌を否定したりとかも。
その藤原定家を祀る神社が何でここにあるかというと、定家が東国行脚の折に、ここ佐野松原に草庵を結びしばらく住んだと。村人に所持していた観音菩薩を授けて京へ帰った。
村人達は定家が住まわっていた草庵を堂として観音像を安置して信仰したと。
藤原定家がこの地で読んだ歌「駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ」
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古墳1.jpg
あ、境内に古墳があるぞ。
古墳は佐野村第32号古墳というそうです。さして高くない。
32号墳というからにはこの地に最低でも31個あったということか。
古墳2.jpg
古墳3.jpg
では佐野源左衛門常世の屋敷跡は何処にあるのかな。境内にこの辺りのMAPがあったので見たら、新幹線高架と反対側にあるらしい。
この辺り.jpg

そしたらまた古墳があったのです。
古墳12.jpg
古墳13.jpg
漆山古墳といいます。この辺り一帯にかつて佐野古墳群が80基ほどあったそうで、その中で最も大きい前方後円墳だそうです。
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解説12.jpg
解説13.jpg
墳丘の長さは70mだったのだが、前方部が削られて61m、赤さ7.5m、
先端が削られています。
古墳16崩れてる1.jpg
振り返るとデカい土の塊にしか見えないね。
古墳17崩れてる2.jpg
凝灰岩を積み上げた長さ8メートルの横穴式石室があるけど侵入禁止です。
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古墳14.jpg
古墳15石室.jpg
誰が葬られたのか。大和王朝の直轄地である佐野屯倉(サノノミヤケ)の管理者、施政者だった豪族が葬られていたと考えらるとか。
上野三碑の2つ「山上碑」「金井沢碑」を建てた一族の祖先だともいうが、その2碑(私は山上碑しか見てませんが)は悠々流れる大河、烏川の向こう側の山中にあるのでちょっと距離があるのだが。
古墳19.jpg
「佐野村27号墳」ともいうこの古墳石室からは人骨9体が出土したとありました。そういうのは掘り出したその後はどうするのだろうね。
他、大刀、金銅製馬具、鉄鏃、金環、工具類などが出土。
漆山古墳の後円部上部から石室への侵入を試みた盗掘溝が発見されたそうです。不届き者がいて掘ったものの、石室まで届かず途中で断念した形跡があるとか。何を盗もうとしたのだろうか。
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古墳22.jpg
古墳20学者さんかな.jpg
何処かのオジさんが見学に来てた。
会話は交わしていません。まだ佐野源左衛門常世さんの屋敷跡に行かなきゃ。それは古墳から高架に沿って歩いた先にあった。常世神社とある。
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佐野源左衛門常世遺跡と彫ってある。
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常世2.jpg
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解説板には、
『謡曲「鉢木」と常世神社
一族の不正のために領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人佐野源佐衛門常世が、大雪の日に宿を頼んだ修行者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)のために、秘蔵の盆栽”鉢の木”を焚いてもてなしたのが縁で、表彰されたという謡曲「鉢木」の物語は有名で、戦前は学校の教材になっていました。
これは出家して、最明寺と名乗った時頼の廻国伝説に基づいてつくられたものであるが、常世神社は、常世が佐野の領地を横領せられてのち、住み着いた所といわれる「常世屋敷跡」で、墓は別に栃木県佐野市葛生町の成願寺境内にあります。』
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御堂の扉を開くと「鉢木の絵」があるそうですが、開けませんでした。
見学料と思って僅かばかりの小銭を落としました。
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雪の夜、佐野源左衛門常世という貧しい御家人の家に諸国を遍歴している旅僧が一夜の宿を求めた。常世は旅僧が難渋されるだろうと家の中に招き入れる。
囲炉裏にくべる薪が無くなったので、大事に育てて来た盆栽、松、梅、桜の鉢の木を切って囲炉裏にくべたというあれです。
これは駅のマンガ。
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旅僧は家の中を見廻し、貧しい暮らしぶりなので、何か訳がありそうだと思い聞いてみたら、
「一族に所領を押領されかくの如き身相成り申し候。だが落ちぶれたりとはいえども幕府に一大事あらば千切れた具足を着け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り鎌倉殿に馳せ参じる所存」
実は旅僧の正体は鎌倉幕府第七代執権・西明寺北条時頼なのだが、この時は身の上を明かさず、翌朝旅立っていく。
雪解けの春に鎌倉から動員令が発令され、駆け付けた御家人衆の中に佐野源左衛門もいた。大勢いる御家人どもの中から佐野は召し出される。上席で迎えたのはあの雪の夜に泊めた旅僧だった。
佐野は旅僧の正体が執権だたのを知って驚愕するが、時頼はあの夜の佐野の言葉に偽り無きことを賞し、問注所を通して佐野庄の一件も調査済みで、横領された佐野庄三十余郷を佐野に返し与え、あの夜に薪にされた三鉢の盆栽、梅・桜・松にちなんで、加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の三つの庄園を与えたという。
2001年のドラマでは渡辺謙さん演ずる時頼が佐野の家を訪れている。
常世は宇崎竜童さんが静かに静かに演じていた。大根でもなかったが殆ど、素のままだったような。
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常世が一族に横領された領地はここ佐野ではなく、下野国(栃木県)の佐野ではないかな。その地を横領されてから、ここ上野国、佐野に住みついたのだろうか。
オカシイことがある。佐野氏は宝治合戦で三浦方に付いて一旦は零落するのですよ。後年の関東の名族佐野氏は、東北自動車道の岩舟JCTで北関東自動車道に入って最初の長大トンネル上にある唐沢山城、そこにいて、佐野信吉という人は、関ヶ原で東軍に付いた。関ヶ原戦後の諸侯配置一覧に本領安堵下野佐野3.9(万石)とある。
だが慶長19年(1614年)、佐野信吉は唐沢山城から江戸の火事を発見しって早馬で江戸に駆け参じたら、無断出府並びに「お前は江戸を見下ろせる山城に住んでるのか」と難癖を付けられて改易されます。
江戸からそう遠くない関東近郊に外様がいるのは目障りだったのだろう。
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屋敷跡を公道から見たところ。
屋敷跡とありましたが、ホントにあったとしても貧乏御家人だから、庵程度のものであっただろう。堀や土居で囲まれた館跡とは思えない。
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駅周辺1.jpg
佐野わたし駅に戻ります。
駅周辺の風景ですが、駅前にはまだ農地、更地があって、それを越えて新興住宅地、マンションが建っている。
駅周辺2.jpg
駅ホームを見る.jpg
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キタ4.jpg
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高崎方面の電車がきた。ゼブラ模様の群馬サファリパーク号です。
この日は何処でも飲まずに帰ったんじゃなかったかなぁ。
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桃井城・ビフォーアフター [隠れ郷土史]

たいして遺構が残ってないのに、たまたま通りかかって『あ、あの地形はもしかして・・・』と思って立ち寄ったらビンゴだった吉岡町の桃井城その後です。
こないだ見たらこうなっていました。
桃1パーキングから.jpg
城塞は半島形で陽当たりが良く、風光明美なところや街道を睨む場所に築かれるので、宅地や学校、施設になりやすいのですが。
もうすっかり自然の丘陵地でなくなり、緩傾斜に均され芝が植生された桃井城です。
桃2登城口は何処だ?.jpg

桃3呼ばれて振り返る.jpg
東側の整備途中の駐車場に停めて、緩い坂を登りかけたら背後から声がかかった。
「あのぉ~すみませぇ~ん・・・」
なんだよ?と振り向いたら吉岡町の職員が私を呼んでいる。彼らは作業を終えて引き上げたいのだが、私のくるまが駐車場内に停車しているので出して欲しいらしい。
「バリケードをしなきゃならないんですけどぉ~」
「自分がやっておきましょうか」
「お願いできますかぁ~」
桃4大分壊変されたな.jpg
桃8芝養生中1.jpg
坂を登って途中から階段を登る。芝が養生中で、まだ踏み入ってはいけないようです。
桃5階段を登る.jpg
本郭を見上げる。
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本郭には数人の作業員がいて、地べたに座った状態で一服していた。私を胡乱な侵入者という目で見ることもなく自分たちの話題に没頭していた。
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前回はこうでしたから。草ぼうぼうで。
主郭も草ぼうぼう1.jpg
主郭も草ぼうぼう2.jpg

昨年9月、吉岡町役場にあの跡地を今後どうするのか聞いたら、来年3月(今年)を目処に完成させ、その暁には桃井城跡の解説板も設置されると言っていたが。まだ工事未完のようだね。
二の郭には北から東にかけて土塁が辛うじて残っているが・・・
桃12右手に土塁跡2.jpg
桃15土塁が見えるが嵩上げしてないか?1.jpg
何だかキレイな曲線を描いているな。前はこんな感じでした。
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アスファルトの遊歩道に沿って土塁が続いていた。道路を整備した際に土を盛って固めてそれに芝を植えたようだが、前に見たのより嵩上げされてる感がするね。
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桃17土塁1.jpg
桃19土塁3.jpg
桃20土塁4.jpg
桃21土塁5.jpg

桃22主郭を遠望す.jpg
渋川市郊外の吉岡町や榛東村は人口が増えているそうです。この辺りに嫁いだウチの子(社員)がいて30代前で家を建てたからね。
それも注文住宅ですよ。建売じゃない。
昨年になってそういう子がもうひとりいてやはりこっち方面に引っ越すというんです。「家でも建てるのか?」って冗談で聞いたら「建てます」っていうからさ。
でも浮かぬ顔をしている。
「2世帯なんですよ」
「向こう(旦那)のご両親?」
「そうです。自分の実家(甘楽郡だったかな)とかなり離れてしまうんで」
「そりゃ遠いな」
そう言って来たのはhttps://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-18に登場したNという女性です。あの頃は小娘で「相手がいませんっ」と絶叫されたものですが、この子に限らずあの頃独身だった小娘たちは殆ど嫁ぎました。そんでもって家を買うなら、建てるなら、吉岡町や榛東村に選択肢が行くそうです。
彼女たちが桃井城を知るまいて。この公園整備は、家々が増えて人口が増えて、インフラや道路を整備して、防災拠点としての避難施設も置かなくてはならないというまちづくり構想の一環で、南下城山防災公園といいます。歴史性や優れた眺望を活かしつつ、防災機能も有する公園としての整備を図るというもので、その防災公園の場所に桃井城跡が選ばれ、南下城山防災公園整備事業というそうですが、総事業費は7億円以上を見込んでいる。
吉岡町が示した公園化計画を再度述べます。
「広場北側には現在ある雑木林を生かした自然エリアとする」
活かしてないぞ。
「前方後円墳跡も避難広場の1つとする予定」
あ、そう。どれよ?
「広場や雑木林エリア以外の大部分は敷芝される」
はい。芝生が養生中でした。お花見にいいかもね。
「東部、中央部、西部とそれぞれ高低差があるため、東部と中央部間で約50m、中央部と西部で約20mの階段を設置する」
それも施工されてました。
「平常時には桃井城址や古墳などを散策する歴史性を有した公園となる」
有してないです。というか、そういうのがわかる表示が無いじゃないかぁ!!
私は何が何でも「遺構を残す派」ではないです。現状維持イコール自然のままイコール、空堀がゴミ捨て場になったりするよりは公園整備した方がいいと思っています。ただ、そこに何があったかを示すものが無いと。前はこういうものがあったんだからさ。
そこにかつてあった標柱や解説板は撤去されたままなのだ。
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解説板2.jpg
解説板3.jpg
その先の北側、晴れてれば榛名山が望める一帯もまだ工事中でした。
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二の郭から東側に下りれば何となく城壁であったことが分かります。
桃23土塁下へ降りてみる.jpg
桃24それ也の傾斜1.jpg
その先でまた養生中の芝生の斜面に出て、
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振りむとさっきの土塁の先端が。大蛇のような土塁です。
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桃32広大である1.jpg
桃33広大である2.jpg
桃34芝養生中3.jpg
吉岡町にこれ以上は求むまいて。さて、くるまを渋川駅前のレンタカーに返さなきゃならない刻限になってきた。くるまを駐車場から出して、さっき職員さんから依頼された通りにちゃんとバリケードもしました。
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バリケード4.jpg
バリケード5.jpg
乗り込もうとしたら上空にヘリの音がする。
見上げたら自衛隊のヘリが2機飛んでいた。
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ヘリの音で浜田省吾さんの「A NEW STYLE WAR」を誘発されたよ。イントロにヘリや戦場の音がするあれです。
『愛は時に あまりに脆く
自由はシステムに組み込まれ
正義はバランスで計られ Its‘A NEW STYLE WAR・・・』
私の頭上を旋回してるかのようなヘリは向きを変えて南へ去っていった。
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振り返る2.jpg
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この道をそのまま下っていくと桃井直常夫妻の墓、供養塔があります。そこで振り返ると直線上に桃井城が見えるのです。
桃井直常はNHK大河「太平記」で高橋悦史さん(故人)が演じていた。
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大室城 [隠れ郷土史]

朝と日中は晴れてたのですが、午後になって東毛を廻ってたらいつの間にか鉛色の雲空になったのだ。
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伊勢崎市内から前橋市に向かう途中でナビに城マークが表示されたので、誘われるようにくるまを滑らせたら、神社、社務所、地元公民館が混在していた。
平城でよかった。
広い駐車場の片隅に停めた。そこは二の曲輪だという。平城で城域に停められるのは楽チンである。
本曲輪2大室神社2.jpg
神社の境内になっている本郭は20m×50mほど。標柱だけで解説板が無いぞ。
誰がいてどういう勢力の圏内だったのだろうか。
本曲輪3標柱.jpg
あまり時間が無いので早足に散策する。一旦くるまで入って来た道を引き返し、道路になっている虎口?堀切を見たところ。
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そのまま右手(南方向)に歩いて神社のある正面本曲輪の西側下にある土塁と横堀。
土塁1.jpg
土塁2.jpg
土塁3.jpg
城域にある道路は堀底に敷かれる場合が多いが、ここは堀の外側にある土塁の外に生活道路を通しているた。もしかしたら二重堀だったのかも知れない
堀と土塁の西側は普通に住宅地になっている。
二重堀か?1.jpg
二重堀か?2.jpg
城内に戻って振り返ると、右手にあるのが本曲輪の北に配置された小曲輪。20m四方の小さい曲輪。
虎口か堀か2二の曲輪に入ったところ.jpg
本曲輪北の馬出し1.jpg
本曲輪北の馬出し2.jpg
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水音がする。この小曲輪の東側の切崖下から水が湧き出ていたのです。
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湧き出た水は公民館のある広くて四角い第二曲輪を廻っていた。湧き出し口は少ない水量だったが、二の曲輪を廻る方に歩いたら結構な水量を蓄えていたのです。
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水源は何処だろう。
他の河川から水を引いているようにも見えないし。赤城山麓に湧き出る自然の水だろうか。
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二の曲輪を曲がるコーナーの部分。
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城内を突っ切り、橋を渡って東側に出たところ。高崎城ほどではないがいい水堀です。
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水堀3.jpg
堀脇に案内板、解説があったぞ。
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往時の城域はもっと南北に長かったらしいな。他はこのような記載が。
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『大室城は東神沢川と西神沢川の合流地点を自然要害として築造された平城です。
本丸は北寄りに造られ、その北には櫓台や北曲輪があります。本丸の東には水濠に囲まれた二の丸、北東部に列郭式の形跡も見受けられ、南側には南曲輪の地名が残っています。
大室城の築城年代は明らかではないが、室町時代中頃(十五世紀後半期)に勢力を増した白井城主(現渋川市白井)長尾氏の支城となりました・・・(途中省略)・・・天正十三年(1585年)、大室城代の牧弾正に叛意ありと知った長尾政景は、小田原から鷹狩りにことよせ大室城に立ち寄り、弾正父子を誅したという言い伝えがあります・・・』
長尾政景?
上田坂戸荘の長尾家で、長尾景虎の従兄弟?
いやいやいや、そんなことない同名異人でしょう。
この政景という人の政の字は小田原の北条氏政から貰った一字だそうです。おそらく幼少時に小田原に人質に出されていたのでしょう。
後年それを逆手にとって大室城を掌握しようとした北条氏政派の長尾家臣団と、越後長尾派だった兄の長尾輝景という人の家臣団に大室城内が二分され、その渦中で城代の牧弾正粛清事件が起きたらしい。
でもこの兄弟は後年に和解したのか、先に上杉景勝に仕えていた兄の輝景に実子が無かったのか、後から景勝に仕えた弟の政景を後継者としたとも。

輝景、政景兄弟の父を憲景というそうです。憲の字はあの関東管領上杉憲政から貰ったのだろう。
父輝景は上杉憲政から一字を貰い、兄輝景は長尾景虎(輝虎)から一字を貰い、弟政景は北条氏政から一字を貰った。
そこまで気を遣わなきゃならないのかね。一時を貰ったのか押し付けられたのか。そのようにして大室城の長尾一家は生き残る為に関東管領家、越後長尾家、小田原北条家、その時の状況に応じて就くしかなかったのである。家臣団たちも。
政景は後年に名を景広と改めた。小田原北条氏が滅んだ後のことである。景勝の景だけ残したんだな。
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地元のご隠居とスレ違った。
軽く会釈だけした。ご隠居は手に鋸を持っていた。
堀脇の道路にせり出した枯木をギコギコ切っていた。バサバサバキバキ音を立てて倒れて来た朽木はこの地を護れず去った大室・長尾家のようでもある。
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二の曲輪に戻ったところ。
こうして見ると広い。60m×80mぐらいか。
公民館が目立つ。平屋だけど大きい。ウチの町内会館よりぜんぜん大きい。この広い二の曲輪で夏場に納涼祭でも開催されるのだろうか。
私も2年前から地元町内会のイベントに関わっていて、家にそれ関係の婆さんが来訪して「アナタ委員やってよ」と勧誘されたことがある。固辞したけど。
最近は地元のイベントに参加していません。公務も私事も多忙なのもありますが、もとからいる連中で和気藹々と運営しているのが私のような新参者とイマイチ距離感が感じられるようになった。それでいて人が足りないと「お手伝いお願いします」と連絡が来るのですが、その時点でもう所用が入ってるんですよね。
でも自分があと数年後に会社を引退して、空いた時間を地元イベントに充てるのなら公民館に顔を出す回数が増えるかもしれない。この地のように公民館が中世の城域にあったらそこにいるだけで気分がいいし、日がな一日をそこでボーッとして過ごせるかもしれない。
時折、敷地内を掃除しながら。残された時間を数えるように。ああジジくせぇ。
解説板4縄張り2.jpg
二の曲輪から本曲輪を遠望する.jpg
時間にして15分か20分の寒々しい散策ではあった。誰もいないし。公民館にも人影は無かったし。全体に小規模だけにすぐ終わった。雰囲気もいいです。
それにしてもあの水濠の水の源流は何処なのだろうか。
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三日月堀と大熊朝秀 [隠れ郷土史]

あの天守は往時のものなだろうか。それとも模擬かな。
模擬天守か?.jpg
実は展望台なのだが、あれに登る時間は無さそうだ。
見たいものだけ見よう。三重堀を目指そう。
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三重堀?.jpg
途中にある寺の境内にあった解説板。
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大熊備前守??
大熊殿の名前が.jpg
そうだったのか。ここにあの人がいたんだ。
越後から亡命した人です。

今年は今川義元公生誕500年記念だそうですが、桶狭間の戦いで首級を取られた義元公の後を継いだ氏真の代になってから甲駿相の三国同盟を反故にした甲斐の武田信玄は、三河の松平元康と大井川を挟んで武田が東、松平が西を領有せんと約定して駿河に攻め込んだ。
だがそんな約定を信玄が守る訳がない。氏真を敗走させた勢いを維持して永禄11年(1568年)12月、武田軍は大井川を越えて「山崎の砦」を手中に納める。この砦が小山城の前身だという。
武田軍が甲斐に引き上げた後一旦は松平家の手中に落ちるが、元亀二年(1571年)武田軍は奪い返して大改築した。
信玄はここ、小山城に据え置いた城将は、大熊備前守朝秀(長秀)・・・。
あの大熊さんがねぇ。
こんな急な階段を上るのはイヤだ.jpg
こんな急な階段を上るのかよ。
気が萎えかけたが、右手に緩い坂、階段があった。
坂を上る.jpg
あの階段を上らなくてよかった。見下ろしてもこんなですよ。転がり落ちそうだ。
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公園内に入ってすぐ、模擬天守の脇にある堀ですが、狭くて浅いです。
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公園内に入る.jpg
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この三日月堀は復元です。法面が崩壊しないようにネットのようなものが被さっていた。
解説板には「三日月型をしていたので三日月堀と呼ばれる」とありますが、そんなん誰が見てもわかりますよね。私が見たいのはこの「如何にも復元しました」の三日月堀ではないです。もっと凄いのが後で出てきます。
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これも如何にも復元したという感じの土塁です。工事現場の残土にしか見えないけど。
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堀というか、水を抜いた池のような。浅い堀です。なくてもいいような。
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この辺りはそれっぽくなってきました。
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三重堀1.jpg
その先の西側は茶畑の台地に繋がるのですが。そこに三重の三日月堀があってこれが最大の見どころです。さっきのように復元でなく土そのもので緩くない。他にあまり例がないそうです。
2本でも3本でも真っ直ぐに断ち切らず、わざわざ曲げています。
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ここ小山城の城将だった大熊朝秀は越後の人ですが、最初から長尾景虎の家臣ではなくもとは越後守護・上杉氏の被官を努めていた。
最後の越後守護だった上杉定実という人が死没、男子がいなかったので長尾景虎が実質的に越後国主になるのですが、定実は越後国内の叛乱を鎮圧した実績のある景虎と兄晴景の争いも調停して景虎を守護代理に擁立したので、おそらく大熊氏はそのまま景虎の家臣にスライドしたと思われます。
ただ、越後の者だが、長尾家の譜代ではなかった。

越後統治がイヤになった長尾景虎が春日山城を出奔した事件がありましたよね。大熊朝秀はこの景虎出奔と家臣団に懇願されて守護に復権する騒動の要因、そこで必ず登場する人ですよ。
あの出奔事件は、弘治2年(1556年)に、現在の魚沼郡にいた上野と下平という2人の国人の領地境界の争いが発端で、この調停に譜代長尾家中の本庄実乃(栃尾城主で景虎の幼少期の補佐役)ともと上杉家中の大熊朝秀が関わり、本庄が上野、大熊が下平に付いたことで家中の諍いが深刻になったというもの。本庄対大熊重臣同士の構図になってしまった。拡大して景虎の譜代家臣団と旧上杉家家臣団の争いにまで広がったかもしれない。
そこで甲斐の武田信玄が大熊に内通の手を伸ばすのです。のせられた朝秀は信玄と内通し反乱を起こすが計画が稚拙で失敗した。この騒動の原因である領地争いの片方、上野家成に敗れ、居城(箕冠城、現在の上越市板倉区、妙高の東です。)を捨てて越中に逃れた。
さすがに信玄も自分が持ちかけて内通させたのだから、後日大熊朝秀を正式に武田家中に受け入れています。でも直接の家臣ではなく赤備えの飯富三郎兵衛昌景、後の山県昌景の寄力にした。越後では城主だったのが信玄の家臣の家来に格下げしたのである。
でも大熊朝秀は腐らなかったらしい。永禄4年(1561年)の川中島では昌景の配下として越後軍と戦うのですが、昭和63年(1988年)の大河では信玄の本陣にいて、後半、戦場へ押し出していた。(演:勝野洋さん)
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平成19年(2007年)の大河では、守護代上杉家のもと家臣である大熊朝秀本人が領地の争いの張本人のように描かれ、対する譜代の長尾家直臣(直江、本庄、柿崎)の系図になり、直臣たちから「もう無い上杉家にいつまでこだわっているんだ。関東管領ですら今は長尾家の庇護のもとにある。大熊殿とて長尾家の家臣に取りたてて貰った身ではないか」と現実を突き付けられていた。(演:大橋五郎さん)
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大熊朝秀は永禄9年(1566年)に飯富改め山県昌景の組下に属して、我が第二の故郷上州にも来ています。信玄に勝てないまでも負けなかった上州一揆衆の盟主、長野業政が死去したので、後を継いだ長野業盛が守る箕輪城攻撃に加わった。
朝秀は箕輪城を単身よじ登って城兵を斬り倒し、内側から大手口を開けて武田軍を城内に導き、後年に新陰流の祖となる上泉伊勢守信綱と切り結んだ。この功で朝秀は足軽大将に抜擢して騎馬30騎、足軽75人を預かる身になり、武田譜代家中の娘と縁組み、受領名・備前守を名乗るようになる。

武田軍の駿河侵攻に朝秀は従軍し、元亀二年(1571年)の遠州攻めで小山城をの城将に任ぜられた。
だがその後、勝頼の代になった武田家での朝秀の動向はよくわからない。天正10年(1582年)に高天神城と諏訪原城が相次いで陥落、大熊朝秀の嫡男である長秀という人が三日月堀の小山城に敗兵を収容したが、小山城単独での抗戦を諦め、城内の食糧を分配して甲斐府中に撤退した。天正10年(1582年)武田氏が滅ぶ前に小山城は落ちたのです。
大熊朝秀、長秀とも、武田家を離反した記録は無いようである。
大手門.jpg
城西側に掘られたトンネル(県道230号線)は備前守隧道といいます。
3層5階の模擬天守には登っていません。どうも犬山城を模擬したらしい。400年前には無かった形状だと思いますよ。
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戦国史上で最も失敗して挽回した男で有名な仙石権兵衛秀久(センゴク)や、関ヶ原で西軍について改易後、大名として旧領に復帰した立花宗茂には及ばないが。大熊朝秀は越後出奔以来15年の歳月を経て城将クラスに返り咲いた人です。
武田24将クラスには及びませんが。
長秀とは別の子の系譜が信州松代藩、真田家家臣に高録で仕えてそのまま続いたようです。
(大熊靭負という人がいて、寛永14年に千弐百石の知行高とある。)
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長浜城 [隠れ郷土史]

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長浜城の駐車場から城域へ楽に登れるように階段が作ってあった。足場も良さそうです。
でもジャン妻は訪城、登城に難色を示した。
「アナタひとりで行ってくれば?」
こんな日陰の寂しい駐車場にひとり残していくわけにはいかないよ。
「付き合えよ」
「・・・」
いきなり足腰に負担をかけるのではなく、まず駐車場のWCの隣にたくさんある解説板を見せて興味を持たせます。
解説がたくさん.jpg
城域にはたくさん掲示物があって全って写真に収めたのですが、載せると膨大になるので周知されている内容、例えば北条五代系図とか、長浜城の位置、周辺地形や道路、略歴は割愛します。
縄張り、遺構図も省略、この鳥瞰図を見れば充分です。
鳥瞰図.jpg
小さい城なのが一目瞭然です。

長浜城は小さいながらも北条水軍の停泊地、根拠地。現代の航空写真で見る長浜城は、ヨットや漁船が北条水軍の船が停泊しているかのように見える。
解説13というか航空写真.jpg
海岸線にせり出した小山で標高40m程度。曲輪(クルワ)が第1~第4と段々の腰曲輪が4つ、見学路も整備されて足場もいい小城なのにジャン妻はまだ見学に渋っている。
ジャン妻は山城嫌いで、過去に向羽黒山城、鴫山城、久川城(3つとも会津)、伊豆では韮山城、狩野城を連続して音を上げ「何かの苦行なのこれ?」
上州安中の後閑城では「付き合ってあげるから後で珈琲おごれ」と言う始末。
ここに来るまでに神池散策で疲れたのかあまり登りたくないみたいだ。後姿にそれが現れているもの。
登りたく無さそうなジャン妻.jpg
だけどこの地に来るなんて早々ない。今日この日訪城しないと次はない。
「何か後でお楽しみがあるならつきあってあげる」
ときたものですよ。
登城口.jpg

階段1.jpg
いざ登城します。階段の途中に三つ鱗の旗、幟があります。
階段2三つ鱗1.jpg
幟の竿はプラスチックだからドラッグストアの店頭に立ててある幟みたいだな。
階段3三つ鱗2.jpg
階段4三つ鱗3.jpg
各曲輪の学術的な解説は割愛します。上がって来た道は堀切道になり、左手にまずは第四曲輪。
堀切1.jpg
標柱.jpg
第四曲輪へ.jpg
小さい曲輪です。10数人ぐらいしか入れないでしょう。
第四曲輪解説.jpg
堀切1を見下ろす1.jpg
そこから見た湾内です。
海が見える1.jpg
海が見える2.jpg
海が見える3.jpg
次に第二曲輪と第四曲輪の間にある虎口(出入り口)と堀切を兼ねた道へ上がります。
第三曲輪へ向かうジャン妻1.jpg
第四曲輪を振り返ったところ。
第三曲輪に向かう途中堀切を振り返る.jpg
第三曲輪に上るジャン妻の後姿。
第三曲輪へ向かうジャン妻2.jpg
虎口と跳ね橋の解説に見入るジャン妻です。ジャン妻は寅年です。虎が虎口にいるぜ。
堀切2で虎口の解説に見入る1.jpg
解説板のある虎口に上がる角っこにアヤしい石垣があった。往時のものかどうか。それにしてはキレイに積んであるように見える。
アヤしい石垣1.jpg

堀切と虎口と跳ね橋の解説.jpg
堀切でもあり小口の断面です。丸い柱は門か櫓の支柱の跡。
堀切2の断面.jpg
広々とした第二曲輪に入ってサッサと見学を終えようとするジャン妻を第三曲輪に呼び戻した。
第三曲輪.jpg
第三曲輪の解説.jpg
ここにもアヤしい石垣がある。往時のものだろうか。
ここにもアヤしい石垣3.jpg
だが水軍の根拠地に石垣まで必要かな。
これから行くいちばん面積が広い第二曲輪には櫓が復元されてるぞ。
第二曲輪を望む.jpg
第二曲輪に入って堀切、虎口を振り返ったところ。
堀切2を振り返る.jpg

第二曲輪2.jpg
第二曲輪1土塁に立つジャン妻.jpg
第二曲輪解説.jpg
第二曲輪遺構配置図.jpg
広々とした第二曲輪、解説板も多く、建物(食糧倉庫か武器庫)があった場所には支柱の位置が表示されている。
もっとも兵が多くいた場所だと思います。それでも数十人ぐらいしか立て籠もれないでしょう。
各曲輪は小さいので、普段居住する長屋は麓にあったと思う。
第二曲輪3.jpg
第二曲輪5.jpg
第二曲輪4.jpg
第二曲輪6掘立柱1.jpg
第二曲輪7掘立柱2.jpg
建物のイメージ図。
掘立柱建物イメージ.jpg
第二曲輪掘立柱解説.jpg

堀解説.jpg
堀写真.jpg
障子で遮られた堀の跡。固めてあるのは法面を損なわせない為のもの。
堀復元.jpg

櫓.jpg
櫓解説.jpg
櫓に上るかい?階段が狭く急です。
「アタシが先に上るから後から付いてきなさいよ」(ジャン妻)
ギシギシ1.jpgギシギシ2.jpg
ギシギシ3.jpgギシギシ4.jpg
階段をギシギシ軋ませて上るジャン妻の後姿。
そのうちバキッていかないだろうな。こっちに落ちてきたらケツが私の頭部に当って首の骨が折れるは必定である。
私も後から櫓に登った。第二曲輪を見下ろしたところ。
櫓から第二曲輪を見下ろす.jpg
櫓から湾を一望1.jpg
内浦湾がよう見えますね。どの曲輪からも見えるのです。
櫓から湾を一望2.jpg
櫓から湾を一望3.jpg
この先に行く腰曲輪が見えます。この木で造った歩道は櫓から伸びているのですが、第一曲輪と腰曲輪にもそのまま通じている。
櫓から腰曲輪を見下ろす.jpg
櫓から第二曲輪を見下ろす.jpg
櫓から湾を一望1.jpg
長浜城が現在の姿かたちになったのは天正7年(1579年)甲州の武田勝頼が沼津に三枚橋城を作って伊豆の北条支配に匕首を突きつけてからです。
北条氏はその前、房相一和(天正5年、1577年)の締結により、これまで長年に渡って喧嘩ばかりしていた安房里見氏と休戦に入った。その協定により東京湾の脅威が静まったことで三浦半島の三崎に停泊して安房を睨んでいた北条水軍主力をここ西伊豆に持って来た。北条水軍提督は北条氏規(ウジノリ・氏政の弟)と言う人で、韮山城主も兼務していたので伊豆に詳しい。
(城主の兼務なんてできるのだろうか。)
対する敵、武田家は武田勝頼の時代になっています。長篠で大敗した勝頼は遠州高天神城への糧秣・武器弾薬補給路として駿河湾を安全確保したいので、武田と北条、水軍同士が制海権を争って対峙することになる。
氏規の配下に梶原備前景宗という船大将がいた。この人は紀州出身で、森林だらけの紀伊国で大きい船を建造する技に長けていた。
ここ伊豆も豊富な森林に恵まれている。ここ長浜の重須港で巨船を建造した。それが後で出てくる安宅船です。
櫓から湾を一望2.jpg
櫓から湾を一望3.jpg
ではこの小さい小さい長浜城の存在意義ですが。
長浜城は奥駿河湾のもっと奥、内浦湾に面しています。西側には長井崎、北側には淡島、風と波が遮られ海面は穏やか。
どの曲輪からも見晴がいい。
水深がすぐ深くなるので船の停泊に適している。
なので長浜城は駿河湾の軍港として最適で、水軍の重要な拠点として設けられたのですが、今の城域の形になる前の頃からこの地には船掛場といって、軍船を繋留する施設が普請されていたようです。
それが天正年間に対武田との駿河湾の制海権を争う基地になった。武田の伊豆最前線はさっき述べた沼津の三枚橋ですが、そこから陸路を南下しようにも韮山城から長浜城に至る防衛ラインに遮られる。
だから駿河湾を船で攻めて来るわけですが、当時の海戦とはどういうものだったかを知る必要があります。
天正年間の海戦は海上で軍船同士がドカンドカン撃ち合って船舶を撃沈させるのは極めて稀で、船を沈めるよりも拿捕、鹵獲するのが主目的です。
敵の軍船が港に逃げ込んだら追いかけて焼き払って壊滅させるのです。陸地や浜辺に追い込み、予めそこに配した陸兵が討ち取るか捕虜にすることもある。
制海権を掌握するには敵船さえ焼けばいいともいえる。港に追い込み、勢い余って上陸してその辺り一帯を焼き払い、火事場泥棒のように乱捕り(略奪)しても、勢いで上陸したのでその地に長く留まる準備はしていない。いずれ陸伝いに敵の援軍が来るので長く留まっているわけにはいかない。
だから長浜城は小さくていいのです。敵は諦めて引き上げるのだから。
小さくていいけれども、敵が上陸してきた場合に備え、コンパクトながらそれ也に防御できる縄張り、曲輪の配置が必要というわけですよ。
櫓を下りる.jpg
櫓をそろりそろりと下ります。上るより下りる方が身が引き締まりますね。
第一曲輪柱は塀の跡.jpg
第一曲輪解説.jpg
第一曲輪へ。そこには建物が無いかわりに塀の跡が見つかったという。城代か指揮官がいた場所ではないかと書いてあった。
何処の曲輪からも内浦湾が見えます。海賊城だからです。
第一曲輪から沼津方面を望む1.jpg
沼津の三枚橋城が見えますとありますが、ジャン妻は疑ってかかった。
「遠いじゃない。どの辺りよ」
現代の開発が進んだ風景だよ。往時は近代的な高層建築物がないから、遠目にも鮮明に見えたのではないかな。
第一曲輪から湾を見る1.jpg
第一曲輪から湾を見る2.jpg

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ちょっと脱線します。長浜城に関係ないネタです。
目の前に浮かぶ島は淡島です。2008年に休止され、撤去されるまでは海上ロープウェーが運行されていた。
淡島ホテルにあるマリンパークとホテルは今でも営業していますが、従業員がいても居住しているわけではないので無人島扱いになっているそうです。
「住民票が無いから?」(ジャン妻)
「だと思うが・・・」
マリンパークの入園料(往復乗船料)は大人・中学生以上1800円、小学生以下が900円だそうです。駐車場料金は別です。
何で淡島を取り上げたか。今は廃止されてない海上ロープウェイに昭和のウルトラQ第2話「ゴローと五郎」の冒頭で巨大猿がブラ下がってたのを御記憶の方いませんか。あのロープゥエイと駅舎が淡島なのですよ。
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ウルトラQ3.jpg
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こらエテ公、ブラ下がって懸垂して遊んでるんじゃない。
こんなデカいエテ公がブラ下がったらケーブルが切れちゃうじゃないか。
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このゴロー君は東宝「キングコング対ゴジラ」の使いまわしらしいですね。中に人が入っていた着ぐるみの良き時代。怪獣たちも人間臭かった。
長浜城や北条水軍にぜんぜん関係無いネタですみません。本題に戻ります。
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淡島の向こうにある山上には鷲津山砦という小塞があったというが、そこに登ったサイトを見たら、苦労して登った割には遺構が明確でなく自然そのまま。でも誰も登城したがらない場所へ来れたという倒錯した達成感はあるみたい。
伊豆の中核・韮山城までに小塞や烽火台規模の砦が山の尾根に点在しているらしい。だから沼津三枚橋の武田軍は陸路で長浜まで来るのは至難だと思うのです。

さっきからところどころにあるこれは何だろうねこの石垣は。これは新しそうだぞ。土手の土崩れを防ぐ為のもので往時の石垣ではなさそうだ。
またもアヤしい石垣4.jpg

腰曲輪へ.jpg
腰曲輪へ。もう見学の体力的な山場は越えました。
腰曲輪は段々になっていた。さっき述べたような敵の上陸を許したら、ここで最初に迎撃することになるのかも知れない。
腰曲輪を見下ろす.jpg
腰曲輪へ下りるジャン妻である.jpg
山の斜面を削って平らにして段々にして敵を誘って高所から狙い撃ちする曲輪です。
もっとも私はさっき述べたように、往時の海戦は船を拿捕、鹵獲、穴をあけて沈める、焼き払う、なので、ここまで攻め入って来る前に引き上げていると思いますけどね。
腰曲輪1.jpg
腰曲輪解説.jpg
腰曲輪を見下ろすジャン妻である.jpg
駿河湾では実際に海戦が行われた。天正8年(年)の船戦(フナイクサ)が有名で、北条五代記では武田水軍が長浜めがけて攻め入ろうとしたと。甲陽軍鑑では北条水軍が出撃してきたとあるそうですが、ここは伊豆だから北条五代記から想像します。
駿河湾海戦.jpg
北条・武田両軍は駿河湾海上で衝突、合いまみえて互いに遠くから飛び道具で弓矢(火矢)鉄砲、あれば大筒などを放ったが、北条水軍の安宅船は船のボディが当時としてはブ厚いので、武田水軍は敵わじと引き上げたら後半は追っかけっこになった。
北条水軍は追い打ちに転じたが、安宅船は大きいので船足が遅い。早足で引き上げた武田水軍は逃走過程で北条水軍を引き離した。
こうなるとどっちが勝者かわからない。海上で船が沈んだり炎上しないと戦果がわかり難い。
巨船で小船を圧倒し跳ね返したから北条水軍の勝ちか、当たって逃げて引き離した辺りは武田水軍の逃げ勝ちにも見えるだろう。陸上から遠目に見ればどっちが勝ったかわからないと思う。

重須へ廻る1.jpg
重須へ廻る2.jpg
重須へ廻る3.jpg
腰曲輪から第一曲輪の下まで上がって裏手へ迂回します。
長浜城は別名を「重須の城」というのですが、裏手の重須には北条水軍の巨大船、安宅船が係留されていたという。
それは県道17号に面しています。往路で神池へ行く際も長浜城の前を走っていますが、駐車場があるかどうかがネックになっていた。
県道17号をそれほど飛ばさないで走ると「あ、長浜城だ」とすぐにわかるのですが、城山から下りてくる細い道(これから下る道)が見えて麓に広い場所があって公園のようになっている。でもくるまは侵入できないようになっている。
私はその広場が駐車場ならいいのにと思ったのですが、そこにあったものは何か上から見るとわかります。
巨大なゾウリムシ?1.jpg
巨大なゾウリムシ??
巨大なゾウリムシ?2.jpg
あの大きさが安宅船の船底か甲板らしい。
巨大ゾウリムシの寸法.jpg
竪堀解説.jpg
そこへ降りる前に竪堀跡の解説があったが、竪堀は埋まってしまい草に覆われて判別できませんでした。
これが最後の石垣ですが、これは後世のものでしょうね。
アヤしい石垣5.jpgアヤしい石垣6.jpg

巨大なゾウリムシ?3.jpg
では安宅船に向かって下山します。ジャン妻の脚が急に軽くなったような。
下りる1.jpg下りる2.jpg
下りる3.jpg下りる4.jpg
下りる5.jpg下りる6.jpg
パタパタはためく三つ鱗の幟の脇をサッサと下りていく。もうちょっと歩く速度を落としてくれないかな。
「あしもとに気を付けてね」と言いながら自分だけ下りていった。
下りる7.jpg
下りて来た道.jpg
重須ガイダンス.jpg
下りたら公園になっていました。解説板がたくさんあって北条水軍と安宅船に関するものでした。なのでここは写真全部載せます。
安宅ガイダンス解説.jpg
安宅船解説1.jpg
安宅船解説2構造.jpg
安宅船解説3.jpg
安宅船図解1.jpg
安宅船図解2.jpg
安宅船図解3.jpg
安宅船図解4.jpg
安宅船図解5.jpg
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安宅船の船底1.jpg
巨大なゾウリムシは安宅船の原寸大で、船底か甲板を模擬していた。
歩いてみた。トントン音がする。
安宅船の船底2.jpg
安宅船の船底3.jpg
駐車場脇の湾側から登り始めたのでそっちを表とするとこの広場は裏手になります。ここで安宅船が10艘も建造され停泊していたという。
船着き場の跡か?2.jpg
船着き場の跡か?1.jpg
船大将は梶原備前景宗、梶原兵部大輔、清水、富永、山角、松下、山本といった面々だとか。彼らもこの重須浦一体に居住していたと。昨日の神の池を護っていた鈴木もいたかも知れない。
ここまで見てわかるように長浜城は小さいので居住には全く適していません。井戸曲輪のようなものもなかったし。この規模の小山では掘っても井戸水は出ないだろう。
梶原景宗とは何者か?.jpg
天正10年(1582年)の武田家滅亡により、駿河湾の緊張状態は静まったが、その後、梶原氏たちはどうなったのだろうか。
太閤秀吉の小田原征伐(天正18年、1590年)には上方からの大軍勢が山中城、韮山城、下田城をターゲットに取り囲み、この小さい長浜城は無視されたに等しい。
梶原氏は上方から来た水軍と当たって敵わず、小田原開城後は高野山に配流された北条氏直に付いていったというから故郷の紀伊に還ったのかも知れない。

では戻りましょう。その前に最後に振り返ります。コンパクトでよくまとまり見学し易かった。
振り返る.jpg
バスもあります。は1時間に1本か2本で充分かもです。
駐車場に戻る.jpg
県道の歩道を歩いて駐車場に戻ります。
これが目印です。釣り堀、漁業関係者、そして長浜城見学者だけが利用できます。
釣り堀&見学者駐車場1.jpg
釣り堀&見学者駐車場2.jpg
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平日なので私らは泊まらずに帰っています。私らは普段から観光しないで宿へ直行直帰ばかりしてるので、今日みたいな日帰り観光?を全くしないので、何だか今日はいつもより疲れた。
訪城前にジャン妻が言ったひとこと。「何か後でお楽しみがあるならつきあってあげる」
これは私の財布から出して1回飲みに行った・・・と思います。多分。
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古墳 [隠れ郷土史]

今日から数日は食べ物の記事、写真は無いです。1月4日の記事で新年最初のランチを駅前熱烈中華・日高屋で済ませ、上州前橋へ月イチの大事大事な届出を不備無く受理され、まだ時間があるので他に2箇所のブツ(申請書類)を持参していました。
ひとつは渋川、もうひとつは富岡(上州一ノ宮)です。どちらに向かうかルートを検索してたら、けやき通りのバス亭手前で、渋川行のバスがちょうど私の目の前を走り去ってしまった。
前橋~新前橋で乗り換えればいいのだが、私は例え短い距離でも一旦戻るのがイヤな性分なのです。新前橋まで戻ってそこから北に向かうのがどうもオモシロくない。たいした距離でもないのに。
よし今日はこの後で富岡にしよう。
(東海道新幹線でもそう。静岡へ向かうのに、新横浜まで戻るのがイヤでイヤで、迂遠でも東海道線で西に向かい、小田原か熱海で乗り換えてます。)
ボックス席.jpg
前橋から上州一ノ宮まで1時間半かかった。久々に乗った上信電鉄の車両は新車で何とBOXシートもあったぞ。
上州一ノ宮駅.jpg
一ノ宮駅構内.jpg
一之宮駅に駅職員がひとりいた。駅で下りたのは私以外に3人。この時はまだ初詣の時期だったので、下り宮で有名な一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)へ向かう参拝客がホームから遠望できた。観光バスが1台重たそうに上がっていったね。
下り宮なので、せっかく上がってもまた下らなきゃならないのだけどね。
私は貫前神社まで上がったことはありますが参拝はしていません。こんなものを見に行っただけです。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-03-11-2
庁舎1.jpg
近年こっち方面の業務は草の者6号に任せていたのだが、年明けてから家庭の事情で上京、転勤しているので、私自ら久々2年振りに上州一ノ宮の某庁舎に行ったらまだ前の担当官がいてよかった。
その庁舎内、建物に囲まれた中庭にこんな土饅頭があります。平べったいけど。
古墳です。一ノ宮4号墳といふ。
庁舎内1.jpg
庁舎の建設に伴い平成10年~11年にかけて発掘調査が行われ、調査時には墳丘の殆どは削られていてこんな風に平べったくなっていたそうです。
古墳の長さは48m、幅6m~8mの周濠が廻っていた。埋葬施設は無袖型横穴式石室でこっち側から見えない向こう側にある入口の幅は1m、奥行きは12mほどあった。
こうして書くと自分で調べたようですが他からの転筆です。私は考古学に疎く、古墳なんてあまり興味が無かったのですが、リンクしているヒロ旦那の世界でデッカい古墳を見て、そういえば上州は古墳だらけだったなと思い直した。
縄文弥生の世界はさっぱりアタマに入らない。漢字が難し過ぎる。私が在住している神奈川県内には古墳なんて殆ど残ってないですよ。
庁舎内2.jpg
庁舎内3.jpg
窓越に写すと光が反射してしまう。中庭への入り口は普段は施錠されているが、1箇所だけ施錠されてなかったので、中庭に出てみたの。
庁舎内4.jpg
周囲から職員さんが「アイツ何をしてるんだ?勝手に鍵開けて中庭に出たのか?」のような視線を感じたよ。でも別に悪いことしてるわけじゃないぞ。
庁舎内5.jpg
こういうのがあるが為に、庁舎のカタチを凹型にせざるを得なかったのか。

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庁舎内にある出土した埋蔵品の数々。お役所ですがちょっとした考古学博物館の側面もある。
展示物2解説.jpg
庁舎が出来る前の発掘現場の様子。中央右にあるこんもりした丘が現在庁舎の中庭、凹に囲われているもの。
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これは線路脇の発掘現場。石が積んである。
展示物4線路脇に.jpg

展示物5初めて見た史跡指定書.jpg
こういうのを初めて見ました。史跡指定証明書かな。営業許可証に似ている。
ウチの業界は6年で許認可更新ですが、史跡も更新するのだろうか。
認定と発行は県ではなく富岡市です。教育委員会?さっきの過去記事で一ノ宮氏の館跡を問い合わせたことがある。
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そして庁舎を出てダダっ広い駐車場の向こう、上信電鉄踏切脇にもこんもりした丘が見えます。
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堂山稲荷古墳(庁舎内は4号古墳で、これは一ノ宮第3号古墳といふ)全長約48m、後円部の径35m、高さ7m~6m、これも全体的に風化してやや崩れた形をしてますが、何となくそれっぽいのがわかる。
これも2度発掘調査が行なわれ、二重の堀を持っていた。堀の内側には葺石が積まれ、盾持人、埴輪、馬、形埴輪、他、埴輪片が出土した。
3号も4号もこの地を納めた首長の墓と考えられている。
以上は転載です。ホント考古学は苦手なので、こういう土盛りに萌えるだけです。
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登ってみたら小さい御堂がある。これが稲荷堂?
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丘一帯は公園化していた。草木が植えられ、埃や落ち葉だらけのベンチも。お墓を足でズカズカ踏んづけていいものなのか。そういいながら自分もしっかり歩いてますが。
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近隣の人家や踏切一旦停止車両から視線を感じた。でも古墳を理解するには数多く訪れて、できたらこうして登ってみて、埋蔵物も見て覚えるしかないそうです。
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一ノ宮駅ホームで30分に1本程度の上り電車を待つところ。
見てくださいこの古めかしいキップを。職員さんがパンチでプチッて切ってましたから。
昔ながらのキップ.jpg
私は上信電鉄で駅員が常駐している吉井駅で「上信電鉄はいつまで経ってもSUICAに対応しねぇんだなぁ」と難癖をつけたことがあります。
駅員が常勤する駅は限られている。一之宮駅を見る限り全駅がSUICAに対応する必要は無さそうである。
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ここの駅ホームでで2年前、突如として防災ヘリ「はるな」がアクション映画のように急浮上したことがあるが「はるな」はもう無い。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-08-26
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10
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高崎方面上り電車がキタ。さっき自分が乗った車両が下仁田で折り返してきたようだ。
これに乗って次に向かった先は。。。
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6年振り再訪した小城たち [隠れ郷土史]

我が第二の故郷、群馬ネタ2018年も間もなく終わります。
その次は会津紀行にするか、年末の飲みネタにするか。忘年会に繋がる人間ドラマを新年に持ち越しすのも何だしなぁ。
やはりBlogの記事も旬とうものがあるのですよ。
今日は在庫の吐き出しですが。
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-04
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-28
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-26-1

平成24年4月に群馬に飛ばされ都落ち気分だった私の心境が「いいところだ。この地に何年いられるだろうか・・・」に化学変化し始めた最初の頃に訪問した3つの小城たち。
6年振りに訪れたら、そのひとつには白くて新しい解説板が立っていた。
奥4解説板と城域遠望2.jpg
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あの頃は訪城口にある判読し難い解説板だけだったのに。
奥平氏は三河に移ったと書いてあるが、その後の奥平氏が長篠城に籠ったことは記載されていない。あくまで発祥地とだけ。
奥に踏み込んでもこれといったものが無いそうである。
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この方面の第一人者、余湖先生の鳥瞰図です。
奥平城鳥瞰図.jpg
この辺りの道は県道171号線というのですが、何回も何回も何回も走ったですよ。
初回は道に迷った。迷ったといっても高崎市内だからドン詰まりにならずいずれは何処かに出れるのですが、いつの間にか家々が見えなくなり、田んぼから山中に入り、ところどころで道幅が狭くなり、昼なお暗く、ゆっくり走行していると前方から地元の軽トラが慌ててブレーキ踏んだり、産廃不法放棄を戒める看板、廃屋があり、台風や大雨の翌日は木々の枝や竹が倒れてたりした。それでいて「こんな場所に人家が?」驚くようなところに人家も散見される高崎市内にある山中なのです。
そのうちその狭いくて暗い道が気に入ってしまい、広い国道を走ればいいのものを敢えて自然と隣り合わせの県道171号、203号、繋ぎの49号を何回も走ったのだ。

群馬で知り合い今は都内におられるBlogger、T女史のBlogを見たら、北海道の旅で四稜郭が取り上げられていた。
そこに植えられていた芝生で思い出したのがこれ。高崎市郊外にある。
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巨大な麻雀卓みたいである。
だけど素人目に見ても防御性が低い。土居は低いし。
敵が攻めて来て籠城したら負けるだけである。
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館か?あるいは非常時に民衆が逃げて来た避難所か?
立て籠もってもアブなそう。逃げて来てもアブないだけだろう。
近所に住まわれているのか?ヤンママが子供たちを遊ばせていた。寝転がってる子もいたね。
無邪気なものだ。芝生のもっともっと下の地中には、450年前の血塗られた遺物が眠ってるかも知れないのに。
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次に安中市内へ。
安中市内、碓氷川を望む段丘上にある。
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城主は不明で記録にも残っていないそうです。東に安中城、西に松井田城、その間に位置するので、上州を蹂躙しに来た甲斐軍に対して護らんとする地元一揆衆が繋ぎの為に設けたか、甲斐軍が安中城と松井田城を分断する為に設けたかである。
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今ある遺構は主郭だけでコンパクトなものだが、周囲に立ち並ぶ住宅の場所も、往時は主郭を取り巻く郭だったに違いない。
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またまたこの方面の第一人者、余湖先生の鳥瞰図です。
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この城域が印象に残っているのは遺構でも謂れでも何でもなく、人に挨拶すること、それを教えてくれたから。
今回もそうだったのだが、主郭の城山稲荷前でゲートボールをプレイしているお年寄りや、散歩している人、土塁の向こう側に建つ住宅地の人から、見ず知らずの私に対して「こんにちは」と声掛けしてくれた。
「こんにちは」
「どうも」
「こんにちは」
「ああどうも」
ぐらいだが、知らない人に「こんにちは」って言っても別にオカシくも何ともないんだなと気付かせてくれたのがここなのです。
何故、アヤしまれなかったのかわからない。面はゆい気分である。
これが帰京するとそうでなくなる。だって東京の大都会では人がうじゃうじゃいる。すれ違うだけでも数えきれないぐらいだし、数えているバカはいないだろう。いちいち挨拶してたらヘンに見られるし、人が多過ぎてそんなことやってられないもん。
簗8堀2.jpg
2018年が終わろうとしていますが。私ら今年の大河見なかったです。戊辰の新政府軍ものは嫌いです。会津攻は描かれたのかな。
週末の夕食時はこれを見てました。
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大河2.jpg
完全版買っちゃったんですよ。ジャン妻のたっての希望で。
全編的に暗いストーリーですね。昨夜が第34回「上州攻め」だったのですが、そのタイトル見て「ついに故郷に攻めてくるのか」と思ったよ。飯富兵部と武田家嫡男・義信の謀反事件の後、信玄が諏訪勝頼を伴って西上野の箕輪城へ出兵したお話だった。
箕輪城攻めが勝頼の初陣だなんて知らなかったな。
箕輪城は陥落、城主の長野業盛(業政の子)は自刃する結末は存じていましたが、ドラマの構成上いきなり箕輪城攻めに入っている。でもその前哨戦がここ簗瀬や松井田、安中アルプス、里見川流域でもあった筈です。
甲斐に戻ってしばらくしたら義信は自害、暗い内容だったな。
裏では駿相の甲斐塩止めが始まっている。
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砦の解体 [隠れ郷土史]

渋川市合同庁舎から北へ。
吾妻川に沿う国道356号線を中之条町方面へ走り、小野上温泉駅を過ぎて、岩井堂を過ぎてすぐ、右手の山斜面に市城砦という小さい砦があった。
この砦は土地所有者の方が、丸太を組んで櫓や柵を再現してある筈だったのですが。
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どのくるまも60kmか70km出しているので、速度を落とさないと見過ごしてしまう。
川沿いに駐車スペースがある。
交通量が多いので渡るのは慎重に。
あれ?丸木で造られた柵や門が無いぞ。
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群馬B級スポット・もぎ氏や、城郭鳥瞰図の第一人者・余湖氏の項には、登城口に当時を意識して作られた柵や櫓が存在していたのだが。
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丸木で固定された階段を慎重に登ります。登りながら思ったのは、もしかして曲輪にあった柵や櫓も撤去されて更地になってるのではないかと。
登る2下を見る.jpg
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こうして上がって見ると伝令になった気分だ。「申し上げます。真田幸隆の軍勢騎馬100、兵300が吾妻街道を押し寄せて参ります」とでも叫んでみるか。
上がってみたらやはり柵も櫓も無い。そこらに纏めて横たわっている丸木がそうらしい。
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ここは単郭かなぁ。
傾斜した平場、自然地形にしか見えないぞ。
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丸木はそこらに纏めてある。土留めになったりしている。
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転がしてある丸木の束に、こんな注意喚起を促す但し書きがあった。
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『見学者の方へ。
当櫓は木製であり、材木も腐食がすすんでおります。
いつ、損傷、番線切れ、折木するか分りません。
危険ですので登らないでください。
本警告を無視して登櫓した場合、責任の一切を負いません。
平成弐七年六月参日 所有者 敬白』
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番線切れ?番線とは何だ?
太い針金のことか。もぎ氏や余湖氏の記事写真を見たら櫓を組んだ丸木は太い針金のようなもので縛られて固定されていたからそれのことか。
何で解体されたんだろう。誰かが登って丸木を踏み抜いて怪我でもしたか。そうなる前に所有者の方が撤去したようですね。
解体された丸木5.jpg
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訪問者に記入を促すノートが。まだ再整備するお気持ちがあるのかな。
今後も復元するのかな.jpg
眼下をゆっくり走る吾妻線。
吾妻線は岩櫃城に行った時に乗ったな。
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遠望してみる。いい青空だ。上州の澄んだ青空が眩い。
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仕方がない。やや気が抜けたが風景を見て満足。
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登るより下りる方が危うい。慎重に下りた。
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下山して改めて説明板を見てみた。小規模な砦の割には説明が詳細過ぎるほどである。
私が登ったのは南曲輪の出丸でしかない。北曲輪と南曲輪の2つの城域から構成されているようです。北は整備されていない雑木林か荒れ地らしい。
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解説板2.jpg
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街道筋は甲斐武田の旗下で上州へ侵攻する真田軍の通り道だった。名胡桃城や沼田城の辺りで北条軍とぶつかり、向こう(北条)が岩櫃に攻めて来たこともあった。
この辺りの小豪族たちも、どちらに就くかを迫られただろう。
ではありし日の砦の様子を下記サイトでどうぞ。
もぎ氏http://www.b-gunma.com/itijoutoride.php
余湖氏http://milky.geocities.jp/yogototigi/gunma/onogamimura.htm
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下馬将軍の菩提寺 [隠れ郷土史]

けやき通り1.jpg
けやき通り2.jpg
前橋駅のけやき通り、平成24年の群馬赴任から来ています。この通りにある県の窓口の担当官もずーっと同じ人(女性)です。
通りは閑散としていますが、駅前に建設中のドーミインもカタチになってきた。
自分が高崎でなくて前橋に住んだとしたらどうなっていただろう。
やはり高崎まで出て遊んだかな。
ドーミイン前橋.jpg
さて、この地にあと何年来れるか。もう数年でしょう。そう考えたら、前橋駅から徒歩10分か15分の場所にあるお寺に行っておこうと突然思い立ったのは、けやき通りにあるこの和菓子屋です。
和菓子屋さん1.jpg
下馬将軍?.jpg
下馬将軍・・・
酒井忠清公か。
厩橋(前橋)藩の4代藩主ですが、俗に言う下馬将軍と呼ばれた人。大老として幕閣の中枢で威勢を振るった人。
だけど後世の読み物ではまずいいキャラに描かれないね。伊達騒動(寛文事件、伊達政宗の10男、宗勝(陸奥一関藩主)俗に言う伊達兵部(官途名兵部大輔)が大老酒井忠清と密約を結んで仙台藩を乗っ取りを謀ったというあれ。)では悪役だし、越後高田藩の騒動にも関わっているし、他でも専横の限りに描かれがちだが、権勢を奮ったのだから実際そうだったのだろう。
酒井家の上屋敷が江戸城大手門下馬札付近にあって、そこから内側へは下馬の礼を取らなければならないから大老時代の忠清の権勢と併せて下馬将軍と呼ばれた。そこはメトロ大手町駅のC5出口辺りだったと思います。
徳川家4代将軍家綱の死去後、家綱の異母弟である綱吉が将軍宣下を受けるのだが、家綱が危篤になった時、鎌倉時代の先例にならって宮様を将軍に擁立しようとして、徳川光圀、堀田正俊等の猛反対に遭い実現しなかったという。それを知った綱吉に疎まれたか、専横を憎まれたか、すぐ大老職を解任され隠居、58歳で死去。葬られたのが今から歩いて向かう龍海院というお寺。
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酒井氏は松平家の初代、親氏にいきつくのですが、途中で雅楽頭家と左衛門尉家に分れる。織田信長に睨まれた徳川信康を弁護できなかった酒井忠次は左衛門尉家系統で、下馬将軍は雅楽頭家の系統になります。
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お寺の説明1.jpg
お寺の説明2.jpg
お寺だから浄財入れました。
そこから先の墓地入口にも浄財と書かれた柱が立っていた。墓地管理の為にお金がかかるのでしょう。
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入ったら歴代藩主、歴代当主、14人の墓が並んでいた。
これは維持管理が大変だろう。
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入って右奥に、初代、酒井重忠公のお墓がある。
下馬将軍のお墓はその初代の手前にある、2代忠世公、3代忠行公の隣にあった。
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薄くかすれた文字で簡単に解説板がある。
「承応2年(1653年)30歳で老中、寛文6年(1666年)には大老となり15年間在職して幕政に独裁的な権力を奮ったので世に下馬将軍と言われた」
「藩政でもこの代に城郭の拡張整備や領内の総検地などが行われその体制が強化され・・・」
「晩年、将軍家綱の継嗣問題で失脚した。」とある。

下馬将軍は隠居した後、1年あまりで死去、埋葬されたので、自分への面当てで切腹したと激怒した将軍綱吉が、忠清の娘を正室に迎えていた伊勢津藩主藤堂高久に墓を暴くように「死因を確かめろ」と検死を命令したとか、子供の頃に見た学研の歴史漫画には江戸市民が、荼毘に付された酒井の骨を「粉々に踏み砕けと命令したそうだぜ」と噂話をしていたのを覚えているよ。

下馬将軍は幕閣で多忙過ぎたから、お国入りして自ら藩政を見ることがあったのかどうか。総検地というからには農民を圧迫する厳しい内容だったと想像されます。
厩橋を前橋と改めたのが次の5代藩主・酒井忠挙(タダタカ)という人だが、厩橋藩は後年、前橋城が度重なる利根川の浸食、氾濫で、本丸の櫓まで倒壊。その後も度々水害に見舞われ藩は疲弊しまくり、城を修理する費用も無いからとうとう松平朝矩という殿様は前橋を放棄して川越藩に移転、前橋は川越藩の飛び地になってしまうのだ。
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青い空、青過ぎるくらいである。
でもこれが上州の空なんだ。西毛にいれば妙義に沈む燃える夕焼けが見えただろう。
でも今日も帰らなきゃならないのだ。
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前橋駅に戻ったら、駅構内の客のいない売店にこんなお菓子があった。
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この目つきの悪い雅楽頭が下馬将軍なのか。
他、松平大和、牧野駿河、秋元越中、彼らが北関東前橋を築いた人たちです。
秋元氏は過去に別のお寺で見たぞ。
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15
この日は何処にも寄らずに帰りました。そして11月、やっとやっと1泊出張許可が下りたのです。
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古墳 [隠れ郷土史]

桃井城公園が夏草ぼうぼうで消化不良の散策だったので、そこから東へ。
この不格好な丘は??
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日本で有名な古墳は大阪や奈良に点在する誰かの巨大な陵が挙げられるが、上州でも大中小様々な古墳が点在しているのだよ。
群馬県内で町中を走っていると「〇〇古墳」のような案内や標柱をよく見かけるし、公園や施設の敷地内や民家の庭、田畑の中にポツンと土饅頭があったりする。素人目に見ても「あの丘は何だ?」と気付くものです。
駆け寄ってみたら建設現場の残土だったりしたこともあったけどね。残土に草が生えてたんですよ。そりゃ古墳に見えます。

上州で有名な古墳は太田市の太田天神山古墳(太田駅から東武小泉線に沿って歩くとすぐ)、高崎市の保渡田古墳群(高崎を出た新幹線が上越方面と長野方面に分岐した先にある。)、石室が広くて大きくてしっかりしている綿貫観音山古墳(高崎玉村スマートIC近く)、高崎駅にある石碑のレプリカのひとつ、山上古墳(山名城~根小屋城の散策ルートの最初にある)が有名らしいが、これまで取り上げて来なかったのは、私が古代史に疎いのと、縄文弥生の世界は日常で使用しない漢字だらけで読めない漢字が多く、キーボードで変換入力するのがめんどいから。
でも古代史に疎くても、こういうものがあるよ、墳丘のカタチはこうだよと。そのレベルで取り上げます。自分は学者さんじゃないので。土の高まり、形状を見て楽しむ、癒されるものなのですよ。
桃井城から東にある吉岡町南下古墳公園という。そこに6つのコンパクトで全容を掴みやすい古墳たちがいた。
駐車場も完備されていて、バンが2台停まっていた。見学者ではなく近隣で作業している業者のくるまか、たまたま通りかかった人が車内で仮眠、休憩している。
見学者は私だけか。あ、作業服着たおっさんが車の陰で草むらに放尿してやがる。少し歩けば公園内にWCあるのに。そういうことをするからグンマー人などと小馬鹿にされるんだよっ。
解説板1.jpg
解説板を読んでもやっぱりわからない。
ここ吉岡町に400もの古墳があったと。古墳だらけだったんだ。
A号古墳~E号古墳の配置図を撮った。平野部だが、全部を見るとなるとそこそこ歩kぅのです。
位置関係.jpg
駐車場前にそびえている小丘はC号古墳ですが、その前に注意書きを。
登らないで下さい.jpg
「古墳には登らないでください。」とあるぞ。
「石室内を落書き等で損傷しないでください」誰が狭い石室内に入るかよ。
「古墳公園及び墳丘或いは石室内での事故は自己責任となりますのでご注意ください。」
「古墳公園内の草木を持ち帰らないでください。」
「火器の使用及び喫煙をしないでください。」
・・・心得てるよそんなことはと反発したくなる内容ばかりだが。古墳に登らないでくださいってか?C号古墳の途中斜面に解説板があるようだが「登らないでください」とあっちゃぁ、解説板を見に行けないじゃないかよ。
C号古墳2.jpg
C号古墳3.jpg
まぁ見ても内容わかんないけど。
登るなと書いてあるからには遵守したよ。遠目に撮影するにとどめた。墳丘途中に開いている石室の穴が東を向いていた。
C号古墳4.jpg
芝生というか草むら、蛇でも出てきそうだが。原っぱを歩いてF号古墳へ。
石室が無いから土饅頭か首塚にしか見えないぞ。
F号古墳.jpg
道を挟んで「この先にもありますよ」という案内シルシです。
場所を指し示す.jpg

A号古墳1.jpg
A号古墳2.jpg
道路を渡ってA号古墳へ。
これも土饅頭にしか見えない。標柱や解説板は何処にあるんだ?と探したら、坂(というか獣道)を下って民家の脇にあった。
A号古墳.jpg
A号古墳は石室に入れないよう柵が設けられてあった。赤字で「キケン」とある。
それでも中に入ろうとする人はいるみたいだ。私は入らないよ。
石室内をフラッシュ炊いて撮影するマニアさんも多いようだが、内部に興味の無い私はそういうこともしません。
戻ってその先、斜面を下りていくと墓地があて、墓地と併設してB号古墳があった。
B号古墳3.jpg
墓地と併設されているんです。古墳配置図を見るとB号古墳に並んで丸い丘があるが、その丘は古墳と表示されていなかったが。
B号の隣の丸いのは?.jpg
B号古墳4.jpg
来た道を戻って、手前左がA号古墳で、右向こうにC号古墳が見える。
A号古墳前でC号古墳が向こう.jpg

E号古墳とA号古墳.jpg
鉄塔の下にあるこれも古墳なんだ。E号古墳。
E号古墳2.jpg
E号古墳1.jpg
ペッタンコじゃないか?
はて?もとはどんな形状だったのか。こうして見ると船を引っくり返したようにしか見えないな。

駐車場に戻ると、さっきの解説板に隠れてD号古墳があった。
これも壊れててもとの形状がわからない。デカくて目立つC号古墳の脇にあるから破壊されずに残ったのかも。
D号古墳.jpg
学術的なことはどうもわからない。青い夏空の下で緑の草いきれを嗅ぎながら、古墳の形状を見て癒されただけである。
あまりデカ過ぎても全体像を捉えにくいだろう。このクラスなら古代史の知識がなくても楽しめるとは思う。
学者さんに言わせると、古墳の旅を楽しむには見学数を増やすしかないそうです。最初はわからなくても形状を観察して解説板を読むことで自然と知識がついてくるとか。

最後にこれは転載ですが、最初に述べた高崎市内にある保渡田八幡塚古墳がこれ。
八幡塚.jpg
紹介した古墳と雰囲気が違うのは、調査結果に基づいて築いた往時の姿に復元したそうです。石に覆われている。
草や木々が生えて森みたいになった現在とは違うでしょう。
これだったら見に行ってもいいかな。
http://www.b-gunma.com/haniwanosato.php

ジャン妻は古墳には興味を示さない。
「古墳ってお墓でしょ?」(ジャン妻)
「そう。昔の人の」
「そんなん見てどーすんの?」
学術的価値のあるものなのだが。お墓はお墓でしかないというのである。
数年前、静岡県函南市にある柏谷古墳群(柏谷の百穴)を見に行った時に、
http://www.town.kannami.shizuoka.jp/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/shiseki-kunishitei_1.html
「お墓なんか撮ってもしょーがないじゃん」(ジャン妻)
柏谷古墳は墳丘ではなく横穴群ですが、全く興味を示さなかったね。今回もこの写真を見て、
「また革靴でこんな草ぼうぼうのところを歩いて」
「・・・」
そういえば。桃井城公園も、古墳公園も、歩いてて蚊に刺されなかったのは何故だ?
あまりに暑過ぎたからだろうか。
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吉岡町は桃井城をどうしたいのか? [隠れ郷土史]

渋川市のお隣にある吉岡町と榛東村(シントウムラ)との境目、大藪という交差点の西の丘陵に、南北朝時代に活躍した桃井直常という人の城館跡がある。桃井城という。
桃井直常はNHK大河「太平記」で高橋悦史さん(故人)が演じていた。
この人です.jpg
昨年行った時は丘陵の斜面に重機が3機いて工事中だった。
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桃井城を取り上げた各方面のサイトには、訪問されたその時々によっては農地だったり、耕作放棄された荒地や藪だったりでした。それが公園化に踏み切ったのは、もとの所有者に後継者がいないか、後継者がいても相続税や固定資産税が重くのしかかり吉岡町に売っちゃったのかも。
それでも最上部に標注と解説板、縄張り図があったんですよ。
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桃1.jpg
解説板1.jpg
解説板2.jpg
解説板3.jpg
渋川市郊外で独立している吉岡町や榛東村は人口が増えているという。そこへ移住して来るのは我々から見て第2世代らしいです。
900人/1年で移住してきた年もあったとか。
人口が増えたらインフラや道路を整備するのはもちろんだが、防災拠点としての避難施設も置かなくてはならない。吉岡町のまちづくり構想に「南下城山防災公園」という項があって「歴史性や優れた眺望を活かしつつ、防災機能も有する公園としての整備を図ります」とある。
この防災公園の場所に桃井城跡が選ばれた。南下城山防災公園(仮称)整備事業という。総事業費は7億円+αを見込んでいる。整備箇所は主要地方道高崎渋川線バイパスの東、十日市貯水池と大藪貯水池に挟まれ桃井城址を中心に・・・
その工事現場を見たらなるほど農地ではなくなり、分譲地でもなく、公園化するのが素人目にもわかった。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-03-16
農地を防災公園化するにあたり、地下埋設型の耐震貯水槽10ton、臨時ヘリポート2カ所(上州一ノ宮上空をうるさく飛んでいたのを見たが、墜落してしまった。)防災備蓄倉庫、災害時のテントを取り付ける休憩所、常設WC、非常用WC、他を建設し、公園中央部に災害時の避難場所となる広場、公園全体には遊歩道が作られるそうである。
麓にあったぐんまちゃんの工事看板には94、000、000円となっていた。殆ど1億円である。
工期は昨年でいうところの3月半ばまでとあった。
工事中のぐんまちゃん.jpg

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皮肉なことに公園整備の工事中まっただ中のお蔭で法面が見やすくなった感がする。
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いずれ公園になる2郭の三日月形に囲む土塁も明瞭に見えた。
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吉岡町が示した公園化計画から。
「広場北側には現在ある雑木林を生かした自然エリアとする」
「前方後円墳跡も避難広場の1つとする予定」
「広場や雑木林エリア以外の大部分は敷芝される」
「東部、中央部、西部とそれぞれ高低差があるため、東部と中央部間で約50m、中央部と西部で約20mの階段を設置する」
「平常時には桃井城址や古墳などを散策する歴史性を有した公園となる」
桃9.jpg
で、今回の出張でどんな風に変貌したか行ってみたのですが。
何やら様子がオカシイぞ。
終わったのかな.jpg
西側から立ち寄りました。行ったら整備されてうた駐車場にロープがかかっていて・・・かかってるっていうか、ダラ~ンと1径間でユルユルに垂れ下がっているだけ。
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撮らなかったけどバスケットゴールが立っていた。でもその辺りが草だらけなんですよ。
階段を昇ってみよう。
昇る2.jpg
昇ったら草ぼうぼうでさ。地面だけ均して草だけ生え放題なんだよ。
でも舗装されてるんだよね。
舗装はされているが.jpg
整地してこれかよ.jpg
昇ったら草ぼうぼうじゃないか.jpg
主郭はどうなってるんだ?
主郭はどうなってる?.jpg
主郭へ昇る.jpg
主郭の階段も草だらけでしたね。新しく造成した地に新たに草が生えまくっていた。
主郭と言えるのかどうかわからないが、最高所はこんな感じ。草ぼうぼうです。
主郭も草ぼうぼう1.jpg
主郭も草ぼうぼう2.jpg
私は身長高くないですが、脇腹から肩の下ぐらいに草が延びていた。なんなんだこれは。
薮ではないので、歩くには歩けますが。
主郭も草ぼうぼう3榛名山を望む.jpg
前にあった解説板と縄張り図は無くなっていた。

舗装された道路は遊歩道らしいが、それに沿って土塁が残っている・・・ようだが、前に見たのより嵩上げされてる感がするね。
土塁?1.jpg
土塁?2.jpg
土塁?3.jpg
土塁?4.jpg
東側の斜面も草だらけ。
東側も草ぼうぼう1.jpg
東側も草ぼうぼう2.jpg
東側も草ぼうぼう3.jpg
東側も草ぼうぼう4.jpg
赤城方面を望む.jpg
私は「遺構を残す派」でもないのだ。現状維持イコール空堀がゴミ捨て場になったりするよりは公園整備した方がいいとも思っている。そこに何があったかを示すものさえあればいいのね。だけど解説板を撤去したことで歴史性を有した公園と謳うのが空々しい感がするじゃないか。
何処が防災拠点だよ。こんな雑草だらけの丘に誰が避難するのか。
公園整備を謳って城跡を潰したのに、防災拠点はおろか、人工の手を加えておいて自然に還した感があるぞ。
工事中止か?予算が無くなっちゃったのかな。
吉岡町はここをどうしたいのだろうか。
赤城方面を望む2.jpg
中途半端な整備.jpg

桃井塚1.jpg
城の丘を下りてきて、交差点近くにある桃井さんのお墓、供養塔へ。
桃井塚2.jpg
桃井塚3.jpg
この角度で、くるまの向こうに草ぼうぼう桃井城が見えるのです。
かつての主は変わり果てた城館を見て、泉下でどう思ってるだろうか。
後日、吉岡町役場に聞いてみたら、来年3月を目処に完成させ、その暁には桃井城跡の解説板も設置されると言っていた。めんどくさそうに答えてくれました。
現在は草ぼうぼう、中途半端な整備事業で放置してあるが、その頃にまた再々訪してみよう。
C号古墳1.jpg
何だか中途半端な散策だったので、次に向かったのは・・・
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古墳 [隠れ郷土史]

リンクしているヒロさんの記事で古墳のネタを見ました。
この夏に2回お会いしたら真っ黒に日焼けしておられたので、農作業と古墳散策でお焼けになったに違いない。
ヒロさんが訪問されたのは巨大な古墳だった。仁徳天皇、応神天皇、履中天皇、それらは陵と呼ばれている。人間ひとりを埋葬するにはバカでかい大きさ、規模である。
重機の無い時代、工事に駆り出された人たちは迷惑千万に思わなかったのだろうか。今と違って昔の人は素朴だったのかな。

上州もやたらと古墳があるところですが、あそこまでの巨大なものではないです。その差は中央集権と地方分権の施政者の格差かも知れないね。
でも、郊外をくるまで走っていると突然、土饅頭があったりするんです。
田んぼの中にあったり。畑の中にあったり。
キッチン104近くの家の庭とかにもあった。何かの祠が祀ってあった。
学校や病院の敷地内にあったり。
富岡市の某行政には建物の中にありましたよ。踏切の脇にもあった。
神社の裏だったり。上った後で調べたら古墳だったり。
墳丘が無くなって石室だけ残ってたり、ムキ出しになってたりとかもあるようです。

もちろん有名どころもあります。毛野はにわの里公園とか。
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013122401080/
でも私のカテゴリでは取り上げてこなかった。古代史が苦手なのです。難しい漢字だらけだし。
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古墳じゃないけど安中市に首塚があってそれを取り上げたことがあります。
頭蓋骨が150体分出て来たというからね。上州を蹂躙した武田軍と地元上州一揆衆の戦死者か、一般大衆が埋葬されていた。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-08-13
首塚2.jpg
その首塚の前に、西毛最大の古墳があります。
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私が来た平成24年の頃は竹林だったと思うがいつの頃か竹が伐採され、こんもりした丘が姿を現し、今は公園化された。
首塚と古墳はセットになっていない。古墳は明るいが首塚は禍々しく感じるのは仕方がない。古墳があるのを知ってて後から隣に首級を埋葬したのだろうか。
墳丘も首塚もそうだが、すぐ隣に新興住宅地があってフツーに暮らしているようです。
古墳1.jpg
古墳2.jpg
古墳3解説板.jpg
それはさておいて市のHPから。
「簗瀬二子塚古墳 前方後円墳 全長約80m、後円部径50m、高さ約8m、前方部巾52m、高さ7m 簗瀬字八幡平 丘陵 石製模造品、銀製垂飾付耳飾、勾玉、管玉、切子玉、算盤玉、棗玉、丸玉、小玉、金箔入り3連ガラス玉、金銅製三輪玉、馬具、直刀、鉄鏃、挂甲小札、須恵器、土師器、円筒埴輪、形象埴輪 」
何のこっちゃかワカラン。
旧い時代であればあるほど希少価値のあるものなのでしょうか。
出て来たものは何がなんなのかようワカランものだらけ。では登ってみましょうか。
古墳4.jpg
古墳5.jpg
前方後円墳だから、墳丘が前と後とあります。
古墳6後円部.jpg
横穴式の石室がありますが入室はできないです。中は暑そうだ。
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芝生が植えられています。
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古墳9後円部に登る1.jpg
古墳10後円部に登る2.jpg
私は古墳の形状よりも、城跡の塁壁や小口(虎口、掘割の方に惹かれるんですけどね。
でもまぁ古墳に惹かれないでもない。盛り上がりが美しいからです。イヤラしい言い方、表現をすると女性の身体のようだし。
前方部と後方部の間に立つと、女性の胸元に立ってるかのようだ。
古墳12前円部へ歩く.jpg
再び市のHPから。
「左が前方部、右が後円部。馬蹄形の内堀、外堤、外周溝が巡り、墓域の全長は約130m 2段築造の墳丘で多量の円筒埴輪の樹立が認められた。6世紀初頭の築造。以前は個人所有の竹林であったが、安中市が買収し2015年7月に史跡公園として公開された。」

後円部に立って安中市街地を望む。
前から疑問に思っていたのですが、安中市には磯部温泉の旅館以外に高い建物、マンションが無い。何か規制があるのだろうか。
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環濠5.jpg
後円部から前方部を見たところ。
妙義山を向いている。山岳信仰だろうか。
古墳11後円部から前円部を望むその先に妙義.jpg
前方部から後円部を見る。
古墳13前円部から後円部を望む.jpg
墳丘の周囲は濠か溝があったようだ。
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私が登っているこの古墳は碓氷川の中流から上流域では唯一の前方後円墳で、当時の時代としては群馬県で最大規模だそうです。
サイズを述べます。またまた市のHP他から。
墳丘の長さ、約80m
後円部は2段築成。
直径約50m
高さは約8m
前方部も2段築成。
幅は約60m
高さは約7m
外周溝も含めた古墳全域は、長さ125m以上、幅110m
出てきた出土品は、安中市の指定重要文化財に指定され、現在は安中市学習の森ふるさと学習館で保管されているそうです。
ふるさと学習館?ああ、あれか。
妙義山の蜃気楼を展示してあるあれね。大雪の日に行ったなぁ。
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-03-02

ダンボールに乗って斜面を滑ってみたいですね。子供のころやりませんでしたか?
場所によっては急斜面だから、途中で転がりそうだ。
芝滑り禁止.jpg

資料館.jpg
公園東側に小さい資料館があった。パネルが展示してある。
見てもようワカラン。ホントにわからないのです私。
パネル1.jpg
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あまりデカい古墳は空から見て「ああ、こういうカタチなんだ」とわかるものだか、外周を歩いても退屈な散歩でしかないかも知れないね。
大きい古墳ほど水濠と木々を眺めてるだけだが、この程度の規模なら空から見なくても形状がなんとなく捉えられますね。
もうひとつ行ってみます。後閑3号墳。
市街地から県道48号を妙義山に向かって走り、九十九川を渡って県道216号を直進すると左手に見えてくる。
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後閑3号墳は円墳です。12.6m、高さ2.2mとコンパクトサイズ。
土饅頭のようだ。
そこから出て来たものは、円筒埴輪、形象埴輪、鈴鏡、玉、鉄鏃、刀子、馬具、紡錘車・・・
やっぱり何だかわかんない。
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3号墳とあるからにはかつては1号墳、2号古墳分は耕地整理された田んぼの中にポツンと復元されてある。
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3号墳とあるからにはかつては1号墳、2号墳もあったのだろうか。
想像ですが、これら古墳が潰された背景は今と違って米増産が望まれた時代だと思う。遺跡保存という考えはなかったのでしょう。
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どっから見ても同じやん!!
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まぁ見てもツマンないね。
古墳の敷地内に碑があるんです。
この辺りを開墾整備した功績を讃える碑がデカくエラそうに建立している。
この古墳が残されたのはそのお陰かもしれない。
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渋川方面で古墳群を見たので後日取り上げます。土饅頭がボコボコそこらじゅうにあったのだ。
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炎天下37℃の散策・五十子陣 [隠れ郷土史]

埼玉県本庄市史から。
『五十子陣は本庄市東五十子・西五十子を中心とした地域にある。
本庄台地の最東端にあり、東は身馴川(小山川)西は女堀川に挟まれている。
その台地の先端あたる東五十子小字城跡を地元では五十子城と呼んでおり、一般に五十子陣というとこの付近を指している。』
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伊東潤氏の著書「叛鬼」が私の自室に埃を被って置いてあります。
主人公は長尾景春という人。下剋上の黎明期に関東を荒らしまわった人で、文明8年(1476年)に駿河今川家で内紛が起きる前の頃に名前が現れるのだが、永正8年(1511年)頃までの30年、関東で叛乱に明け暮れてばかりいた。
長尾家は幾つかあるのですが、上州渋川の白井長尾家を出たこの人は、生涯の殆どを戦争と叛乱に明け暮れ、畳の上で枕を高くして寝たことが無いのではないかと思わせるくらい波乱な生涯を送った。
同じ時代に起きた駿河今川家の内紛調停の為に伊勢新九郎(北条早雲)が下向し、東国から太田道灌もやってきたが、道灌は後顧の憂いがあった。その憂いはが長尾景春と景春のせいで?ダラダラ続いている関東の騒乱や内紛をいう。
伊勢新九郎、太田道灌、その前後に名前が出てくる人である。

私は読んだが共感できなかった。何がしたいのかわからない。上手く説明できないのは読んだ私が理解できていないからである。
小説の中で自分も言っているが「己の生涯は私怨で支えられてきた。私怨が無ければ生きる宛所はなかった」
大望が無いのである。感情移入できなかった。

私は主人公の景春が何をやりたいのかさっぱりわからなかった。読み終えた印象は関東を蹂躙した人、引っ掻き回した人という印象でしかない。
登場人物が山内、扇谷、関東公方他、初めて知るような人物ばかりで新鮮だったが、どういう相関関係かよく勉強しないとわからない世界である。
再読はないだろう。では何で読まないで埃が被ったままこの書籍を取り置きしてあるかというと、小説の舞台に奇妙な名前、あまり聞かない名前で、おそらく振り仮名でも振ってなければまず読めない地名、陣場があって、そこを探訪する為だけに取って置いたのです。
五十子陣!!
といいます。
読めます?「いかっこじん」というそうです。「いかこのじん」とも。

氏の小説、本文中から、五十子陣の箇所だけ転載させていただきます。

「山内上杉家の家督を継承し、第二十四代関東管領の座に就くべく、越後上杉家から養子入りしてきた少年の名は上杉顕貞といった。時は応仁元年(1467)三月、場所は武蔵国の五十子陣である。」
「顕貞の新管領就任式は本来であれば山内家の本拠・平井城で行われるべきだったが、古河公方との対立が緊迫の度合いを深めており、上杉方諸将が防陣を固める最前線の五十公人で挙行された。」

何故、五十子陣が作られたのか。
「室町幕府の東国統治を担う関東公方と、その政務執行機関である関東管領とは反目し合い、幾多の政治的軋轢と武力衝突の結果、関東公方は古河に移り、利根川を隔て上杉方勢力と対峙するようになっていたからである。」
「上杉方は防御拠点として武蔵国の本庄台地に五十子陣を築き、古河公方勢力の侵攻を阻んできた。この地は鎌倉街道とその分岐線に近い上、利根川の渡河拠点を押さえる役割を果たしており、攻撃と防御双方の面で理想的な位置にあった。」

どのようなスケールだったのか。
「五十子陣は陣と呼ばれることから分るとおり、複雑な縄張りを持つ城や要害の類ではなく、単郭の上、その広さも南北二百メートル、東西百五十メートルで、外周に幅十メートルの空堀と高さ三メートルの土塁が一重めぐっているだけである。」
「本陣代わりの主殿や櫓などの建造物も質素な上に、必要最小限のものが建てられているだけで、前線の駐屯地と呼ぶに相応しかった。」
「その五十子陣に、関東各地から国人や一揆の祝賀使が引きもきらずやってきた」

いかっこ、いかっこ、かっこかっこかっこ・・・(笑)五十子陣が度々出てくるのです。
この変わった名は氏の小説で初めて知った。場所は埼玉県本庄市の何処かにあったことは間違いないらしいが、現在は農地化してしまい後世の壊変が激しく「ここにありました」というものは殆ど立っていない。
それでも三か所に「五十子陣があった」程度の解説板と、地元でその地名が残っている箇所を発見しましたが、五十子陣そのものの説明はなかった。「そこにかつてあった」だけです。

ではそこを探訪する前に、五十子陣があった頃の難しくややこしい時代背景についてざっくり言うと、古河公方(もと鎌倉公方)の足利家と、関東管領上杉家が双方で暗殺も含めたドロドロした抗争を続けるのです。これが20年近く続いていた。
五十子陣が最初に構築されたのは長禄3年(1459年)頃だそうです。(本庄市内の史料から)この頃、古河公方側と関東管領側、双方勢力の境目でもあった利根川は現在のように東西ではなくやや南北に流れていて、武州では東が古河公方側、西が関東管領側といっていい。それでも管領側の封土は利根川に沿って西へ細長くなっている。分断されやすい。

その頃の関東管領だった上杉房顕という人が、古河公方軍への最前線でもあり、緩衝地帯でもあった本庄台地に楔(クサビ)として築いたのです。関東管領側にとって大事なポイントだった。川中島の海津城のようなものか。
まっさらな台地に造ったのではなく、もともとそこに環濠のような集落があったと推定される。
最前線にあった五十子陣はあくまで城でも政庁でもはなく陣地だという。それも平城の広大な陣場だったらしい。行ってみるとわかるが要害ともいえない。飛び抜けた高地は無いようだし、台地の比高も6mほどしかないようです。その辺りを走っていても急坂や段差が少ないのだ。

古河公方軍は五十子陣を攻撃しようとして同年10月に熊谷、館林、板倉で野戦になっている。
その後、陣の立地条件と性格上、五十子陣は上杉軍の拠点となり古河公方側と睨みあいの長期戦になり、その間に度々小競り合いはあったらしいが、籠城戦になる前に野戦になったと推定されます。

文正元年(1466年)2月に上杉房顕が五十子陣内で死去し、急遽養子になったのが冒頭の小説、叛鬼・長尾景春の生涯の天敵となる上杉顕定という人。
関東管領上杉家は2つあり、管領職が山内上杉家で、もうひとつ扇谷上杉家は分家のようなものだが、扇谷上杉家の家宰に太田資清、道灌父子がいるので何とか持っている。
では山内上杉家の家宰は誰かというと、幾つかある長尾家の持ち回り制によって任命されていたらしいのだが、「叛鬼」の主人公である長尾景春の父景信(白井長尾家)が家宰職だった。この人も文明5年(1473年)に五十子陣内で死去し、嫡男の景春は白井長尾家の家督は継いだが、山内上杉家の家宰職は与えられなかったという。上杉顕定が別の長尾家当主を家宰職に据えたのです。惣社長尾家の長尾忠景(景春の叔父)という人に与えた。
この人事を景春が恨んだ。私怨です。深く深く恨んで叛乱を起こす。後年30年も暴れまわるところを見るとかなり根に持ったようです。顕貞を骨の髄まで恨んだといっていい。
もっとも調べてみたら、山内上杉家の家宰職は、景春の祖父景仲、父景信と2代続けて白井長尾家から出たので、一族内のバランスと景春の年齢等を鑑みてそうしたか、白井家の力が強くなることを避けた節がある。持ち回り制っだったのかも知れない。
長尾景春はこの人事を深く恨んだが、山内上杉家傘下の武士団には、家宰職がこのまま白井家のままであれば利権を失わずに済む者もいて、そこ危惧して景春の乱に同調した者も少なからずいた。

叛鬼・景春は太田道灌が今川氏の内紛に介入して駿河に滞在していた文明8年(1476年)6月に最初の叛乱を起こすのだが、翌文明9年(1477年)正月に景春は2500騎の兵で五十子陣を急襲して僅か1日で陥落させてしまった。五十子の戦いとはそれまでの関東管領軍VS古河公方軍ではなく、関東管領側に叛乱を起こしたこの戦いを指すらしい。五十子陣は敵国だった古河公方軍ではなく、それまで身内だった筈の長尾景春の「人事逆恨み」が原因で陥落、炎上した。景春は五十子陣の内部を当然知っているので、攻めるに易かったということでしょう。

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それからの叛旗・景春の経歴は省略します。後年時代が代わって永正10年(1513年)頃に景春は闘い疲れたのか、武装解除されたの如く駿河に亡命するのですが、それまで30年以上も関東各地で抵抗を続ける。ここまで逆恨みできるものだろうか。

現在の五十子陣の辺りです。あくまで現地名に残る東五十子、西五十子地区からそれらしき風景を取り上げます。全く面影ないです。
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五十子陣の現在は国道17号線(中山道)が北西から南東方向にかけて縦断し、沿線には工場、店舗、宅地が立ち並んでいて確認が難しい。
現在も地名が残る東五十子、西五十子地区、鵜の森交差点から西田交差点辺りと推定される。その辺りの台地は比高差が3mから4m程度しかないが、利根川に注ぐ支流の小山川、女堀川、もうひとつの河川は現在は調整工事の行き届いた小河川だが往時は自然の外堀を形成していたと想像するしかない。
これらの河川は兵員や物資の輸送にも利用されたに違いない。
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五十子には本庄市清掃センター、水処理場、市営清掃センター、変電所、高圧線鉄塔、想像できない光景が広がる。笑ったのが市営のスーパー銭湯「湯かっこ」、東北弁で温泉を「湯っ子」と言うのと、ここの地名の「五十子」をひっかけたものに決まっている。
自然地形でそれらしいものを撮るしかないんですよ。平城だし。恒久的に作られた城ではないから。
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それでも断片的に幾つかあたってみた。本庄市内を東西に貫く国道17号線、鵜殿交差点。ここを左折すると・・・。
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汚い水田の向こうに小さい浅間神社を祀った丘がある。本庄市史ではこれが五十子陣の土塁の残存だと言っていた。あくまで推定地として載せておきます。
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神社のいわれを記した解説板には「この地が五十子(いかっこ)城砦の要害の地であることから・・・」とある。
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もう1箇所ある。
西五十子の交差点手前右手にある若電神社、ここも境内に小山(古墳か?)があるのですが。。。
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そこの御由緒にも「東五十子は南を小山川、北を女堀に挟まれた地域で集落は台地上にある。中世には五十子のうちに含まれ、長禄三年(1459年)頃、関東管領山内上杉房顕が当地に砦を築いて自ら滞在して陣頭指揮を執ったので、これを五十子陣と呼ぶ。」
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他にもうひとつあった。西五十子にある本庄総合公園脇にある大寄諏訪神社にも五十子陣について僅かに触れている。
でもその記述は今回取り上げる関東騒乱のものではなく、もっともっと前の平安時代に誰かが五十子に陣を構えた記述だった。
五十子にある幾つかの社も、五十子陣の消滅に前後して移設されたか廃されたのを後世に再興して、そのいわれを記す過程で「ここに五十子陣があった」とおまけのように記されているだけなのです。
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これは本庄総合公園近くの五十子の風景。ここも推定地らしい。そこかしこに段差があるのは後世の壊変でしょう。
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この日も車外温度37度の散策だった。
ここへ来る前、本庄駅前にある破れたテントののラーメン屋の寡黙な店主が呟くように「35℃だからな」ニヤッと笑ってたが、レンタカーの温度計はそれを上回った。ボンネットにタマゴを落としたら目玉焼きができるのではないか。
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暑さにめげずに本庄市で史料を漁った。五十子陣についてはかなりの頁数を割いていたが、記録されているものの場所が現在の何処にあたるのかおぼろげで掴みようがない。あくまで記録の為に残したもで、現在の地形で考察するのは難しい。川を渡りながら段差や窪みを探して推定、想像するしかないのですよ。
解説板を拾うなら、①鵜の森の浅間神社、②西五十子の若電神社、③西五十子の大寄諏訪神社がポイントです。
今回は発見できなかったのですが何処かに「本庄かるた」の「く」があって、そこには「桑茂る 五十子合戦 古戦場」とあるとか。
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五十宇子陣は恒久的なものではない。あくまで陣城です。
陣城というのは政庁ではないので、戦線が移動したり、そこを制圧して滞陣する目的が失せたら放棄されて廃れていくものです。残しておいたって維持管理費がかかるしその意味が無い。だから無くなって自然に還るのは仕方がないが、具体的遺構が存在しなくとも20年以上の騒乱の在陣地なので、場所が正確でなくても現地解説版や標柱があればいいのになと思いました。

この後、坂東大橋を渡って伊勢崎市に向かう途中にヘンなものを見つけて見物したのですが、それは項を改めます。
レンタカーを返して本庄駅に戻ります。あの破れテントのラーメン屋が見える。
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高崎駅2.jpg
高崎駅へ着いたらこの女性に責めるように迎えられた。
「何で来ないのよ」
「早く来なさいよ」
るせぇなこのオンナは。
生意気言ってるこの女性は群馬県某所の出身なのだ。
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炎天下37℃の散策・結城城 [隠れ郷土史]

昨日の「ふるさと」ランチの後。レンタカーで栃木県内を南北に貫く4号バイパスを快走。小山~某所を2往復して、さぁ返却する前・・・。
小山方面と逆の東、結城市内へ。
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結城城は緑の水田に囲まれていた。
青い夏空の下はそこらじゅうグリーンの色彩だらけで見てると目が痛い。
草いきれと土の匂いと水田の匂いが凄いです。暑さで何かの微生物でも発生しているのだろうか。
結城城を攻める側から見る2.jpg
結城城を攻める側から見る3.jpg
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城の比高は10mもない。6m~8mぐらいだろうか。
水田、低湿地、鬼怒川水系の支流に囲まれた微高地である。
この程度の平城を10万もの攻城軍が包囲して1年も落せなかったのが不思議だ。一気に攻められないものなのだろうか。
攻める側も守る側も兵糧はどうしたのかな。
結城城を攻める側から見る5.jpg

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結城城はナビに表示される城跡公園を目指せばいいのですが、この水田写真は走り過ぎました。くるまを結城小学校方面へ戻し、市内の東側から細い道を走って、本町浄水場側から公園へ向かって走ったら、右手に広大な堀跡があった。
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結城城堀の解説.jpg
実城と西館との間の堀跡で、現在は埋まって浅くなり、深さは2m未満しかないが、幅は20m近くあった。
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堀の解説には城域の縄張りが表示されていた。平たい城域を堀で区画して5つほどの郭で形成されていた。それぞれの1郭1郭は大きいだけで、横矢もキルゾーンも無い大雑把な造りである。
結城合戦で関東公方側が籠城した時にはこれほど大きくなかったかもしれない。合戦後、復活した結城氏の誰かがここ本拠地に返り咲いて戦国末期まで続いて、小田原北条氏の滅亡後、結城氏は徳川家の次男秀康を養子に迎え、秀康の居城ともなった。近世城郭として整備された部分もある筈。江戸期には結城藩が置かれたし。
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公園入口にくるまを停めて解説板を読む。
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その周辺の地図.jpg
これはこの辺りの地図。緊急時の避難マップかも知れない。
P(駐車場)が2つありますがいずれも舗装されていません。特に私がいる現在地から左手のWC側のPへ至る道は砂利道でバカ穴が空いた凄い悪路です。車高が低い車やくるまを大事大事にしている人は入らない方が無難です。公園整備の途中なのかも知れないがガクガク揺れます。
公園に人は誰もいなかった。ときおり宅急便の軽ワンボックスとすれ違う程度。このクソ暑さでは誰も外に出たがらないだろう。

結城合戦は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」で剣士(犬士)たちの主君である里見義実が父親と結城城に籠城し、父と別れて落城前の結城城から落ち延びるところからスタートするあれですよ。
それに至る過程は説明がめんどいのですが、簡単に述べると、関東公方・足利持氏VS関東管領・上杉憲実&室町幕府の対立が要因です。関東に支配権を延ばそうとする足利将軍家と、それに抗して独自に支配しようとする関東公方(鎌倉、古河、後年になると堀越)の構図。

室町幕府は関東を統治する為に鎌倉府を置き、足利氏出身者を鎌倉公方に、補佐役に関東管領・上杉家を置いたのだが、諸般の裏事情で関東管領は幕府の意向に沿う存在だった。管領任命権、補佐権、分家の越後守護・上杉家の守護任命権や所領安堵権等、運営させる側で権限を掌握していた。
幕府に叛乱を起こして敗北した足利持氏という人の遺児3人を庇護して挙兵したのが結城氏朝という人で、父と子(結城持朝)で蜂起した。

その頃の室町幕府将軍はくじ引きで将軍を引き当てた足利義教という人で(6代)、上杉憲実に征討を命じた。関東管領軍、扇谷上杉軍、武蔵、上野、信濃の諸将が結城城を包囲したのが永享12年(1440年)4月、追討軍の数が10万!!
多過ぎないか。
もっともここ結城城と、結城軍に呼応した古河城と関宿城も併せて包囲したのだが。
結城城の兵も1万いたという。兵糧がそんなにたくさんあったのだろうか。

援軍の無い籠城戦に変化が起きたのがまず9月、結城に呼応して蜂起した古河城と関宿城が陥落する。
12月に結城氏朝の弟、山内氏義が単独投降するが、それでも籠城軍は年を越した。嘉吉元年(1441年)になった。
4月に間者が城内に放火。攻城軍が一斉攻撃に懸り、氏朝は持氏の上の子(春王丸)、下の子(安王丸)を逃がそうと画策したが果たせず城外で捕らえられる。
氏朝・持朝父子は残兵700を率いて城外で奮戦後に自刃。
結城城が陥落する時、氏朝の末子・七郎が多賀谷という家老に護られて脱出、常陸の佐竹氏に庇護されて後年、結城城に返り咲くことになるのだが。

捕えられた持氏の遺児3人は京に護送され、上の兄弟(春王丸・安王丸)は美濃垂井で斬られたが、末弟の沙汰を待つ間に変事が起きる。
6月にくじ引き将軍・足利義教が宴の最中に赤松一族に殺害される事件が起こった。この宴は結城合戦に参加した諸将の慰労も兼ねていたという。
末弟を護送途中に暗殺の報が飛び込み、その末弟はうやむやのまま生き長らえて、後年、足利成氏となって南総里見八犬伝にも登場する。滝沢秀明さんが犬塚信乃を演じた2009年のドラマでは京本政樹さんが演じていた。
成氏は結城城陥落時に脱出に成功して佐竹氏の庇護を受けていた結城七郎を結城中務大輔成朝として結城城主に復活させる計らいをしたのだが、皮肉にも後年、自分を城外に脱出させた多賀谷一族の誰かに暗殺される。
そこから先は氏朝、政朝(中興の祖)、政勝、晴朝(無節操大名)と続く。
その間、関東公方(鎌倉、古河、堀越)VS関東管領家、上杉家のいろいろ、被官だった長尾家が暴れ、太田道灌や小田原北条氏の台頭、関東の諸将が存続の為に戦闘を繰り返し、落ち着くのは秀吉の登場まで待たねばならない。
公園を背後に1.jpg
公園を背後に2.jpg
公園を背にして結城城の台地を見たところ。
白域は広大で静かな公園部と住宅地になっている。民家の合間に何か残ってないか見て廻った。
アヤしい三日月橋を真っ直ぐ南下すると橋が合って、左右に竹藪があった。
その薮が郭を分断する堀だった。
堀11.jpg
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渡った橋は当時の土橋だったのである。この橋は郭と郭を繋ぐ土橋の上に敷設された。
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左右の薮は堀跡。実城と中城の間にある堀。よ~く目を凝らして薮を見ると堀であることがわかる。深さは6mぐらい。幅は広いところで8mほど。
民家の塀脇から撮ったところ。
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遺構はこれぐらいである。後は周囲の水田側に立って攻囲陣のつもりで眺めれば、往時の雰囲気が何となく察せられるだけです。
しかし探索しづらく見学し難い城域ではある。公園となっている部分以外の宅地化が進んでいて、ところどころ竹藪の中に僅かに遺構が散見されるのだが、そこを見ようとすると民家の敷地内に入り込みかねない。
「不審者を見たら通報」なんて注意喚起するボードもあるからね。痴漢に注意とか。
山城の方が体力的にキツいが人家に気を遣うことがないから楽だね。

城内から攻囲陣側を見たところ。
包囲された側の心境は如何だったか。開放のあて無い籠城戦は1年続いたのだ。
水田を見下ろす.jpg

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くるまの外気温系は37度を表示していた。体温を超えている。
こりゃ熱中症になるな。市内で救急車を見た。熱中症に倒れた人を搬送しているに違いない。
ガソリン喰ってもいいからクーラーを効かせるしかない。
「この炎天下に・・・」(ジャン妻)
「くるまの中だよ」
今の日本は何処へ行っても暑いので、暑い暑い言ってたら何処にもいけないぞ~。
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山門前捕虜収容所物故者諸精霊 [隠れ郷土史]

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この映画をご覧になった方いますか?
日本公開前にいろいろ物議を醸したらしいですね。
私は見たんですよ。内容は1936年に開催されたベルリンオリンピックのアメリカ代表選手で5000m走で8位になったルイス・ザンペリーニという人が主役(演:ジャック・オコンネル)彼が太平洋戦争中に日本軍の捕虜になり、1944年9月に東京都の大森捕虜収容所他へ送られ、渡邊睦裕伍長に厳しく扱われるというドラマ。
見た後味はいいとはいえないね。映画、ドラマというものは、そこに登場する人物の誰かを心中で応援することで感情移入するものだが、誰を応援すればいいのか戸惑いながら、そこで起きたこととして受け入れるしかなかった。
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だが展開の都合か映画で描かれなかった、省かれた箇所がある。
ザンペリーニは飛行機のエンジンが故障して海上に不時着、47日間も漂流して日本海軍の捕虜になり、すぐに大森捕虜収容所に送り込まれていたが、実際は大森の前に収容された場所がある。
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太平洋戦争中の1942年5月から終戦の1945年8月にかけて、当時の鎌倉郡大船町植木(現在は鎌倉市植木)に置かれた「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」通称「大船収容所」です。ザンペリーニ氏はそこに送られた。
1943年9月13日、ザンペリーニ氏は最初は大船に収容されたのです。うちから遠くない。昨日の記事、岡本家からすぐ近くでした。
収容所開設以降、海軍が捕獲した捕虜たちの一部が大船収容所に送られたが、大船収容所には秘密があった。
他でいうところの正規の捕虜収容所ではなく、あくまで米国の情報を収集する為の尋問を行う施設だったという。
捕虜収容所ではなく尋問所だから国際赤十字に知らせる必要がない、条約にのっとらなくてもよいという意味合い、位置づけだったのである。
そこで何が行われていたか。国際法上認められなかった尋問を行ったということにすぐ繋がるでしょう。
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映画でMIYAVIさんが演じた渡邊睦裕伍長は大船には関与していないが、平成8年まで存命だったBC級戦犯で実松譲(終戦後は大佐)という人がいて、戦後に大船収容所事件の罪を問われ、重労働40年(38年9ヶ月に減刑)の判決を受けている。
実松は実際の巣鴨プリズンで収監生活を11年半送り、昭和33年(1958年)に釈放されている。
他、大船収容所からは30名ほどのBC級戦犯を出すことになった。

この収容所は、小田原北条氏2代当主氏綱の娘婿だった北条綱成(旧姓福島)が開基である龍寶寺(龍宝寺)の門前に開設された。龍宝寺の境内に亡くなった捕虜たち6名の供養塔があるという情報を得たので探しに来たのですが・・・。

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寺の山門です。
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境内奥へ。本堂が見えてきた。
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本堂の脇には小田原北条五代供養塔がありますが、今回は本題ではないので触れません。

捕虜たちの供養塔がみつからない。お墓の一群は寺の本堂左にある山の斜面にあったが、そこを縦横に歩いて探したがみつからないのだ。墓地には新しい墓石が多く「〇〇家代々の墓」ばかりである。
本堂裏手に立ち入りを阻む雰囲気があったので、敢えて近づいてみたら寺歴代のご住職のお墓、墓碑だった。
そういう歴史かた埋もれたものはそこに案内版がない限りなかなか見つからないのです。内容的にもことさらに来訪者にアピールする性質のものでもないし。
でも私は探したかった。何故だかわからないけど。
ここですぐ諦めて、後で何かの記事でそれを見つけたら後悔するだそう。それもイヤだし。
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頭頂部や額に汗が流れる。蜘蛛の巣が貼りつく。無いぞ無いぞとウロウロ探してしていたら、隣接する玉縄幼稚園の園児たちが先生に引率されてアヒルの行列よろしくヨチヨチやってきた。過去に安中、本庄で僧侶に間違われた経験があるので隠れるようにやり過ごした。
こういう時に限って寺の関係者にも出逢わない。カメラを持った高齢者がバードウォッチングか植物を見に来たのか、境内を歩いていたが、話しかけるもの憚られた。
ついにはいったん本堂まで戻って「供養塔が見つかりますように」と願をかけるに至る始末。

30分かそこらいましたかね。時間が迫って来たので捜索を諦めかけ幼稚園まで戻ったら、何で設置されてるのか皆目わからない新井白石の碑があって(この辺り、植木を知行していた?)その碑の向こうに足元が整備されているとは言い難い山道があった。
何やら旧い石塔群と細長い卒塔婆が見えるぞ。この写真の左脇です。ここから上がれます。
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これは墓地側から繋がっている獣道で、ぐるっと廻ると先の新井白石の碑側から上る路に合流します。
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その先にはこんな感じです。あまり陽があたらない場所です。雨後には滑るかも知れない。
この山道はこの先何処に繋がるのだろうか。もしかしたらこの先にあった居城・玉縄城内へのつなぎの道かも知れない。
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木陰に卒塔婆があって、山門前捕虜収容所物故者諸精霊・・・
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あったあった。これです。
私は手を合わせた。
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亡くなった捕虜たちは、戦後に連合軍墓地捜索班によって掘り起こされ故国に改葬されたそうです。お寺では毎年お盆に亡くなった捕虜たちの法要を行っているとか。
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ではその施設、収容所はどの辺りにあったのか。
現在はそれを指し示すものは皆無といっていい。寺の門前にあったとだけ。
あくまで推定場所として載せます。
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その後、鎌倉市でも史料を漁ったのだが、大船収容所に纏わるものは殆どなかった。
鎌倉という性質上、鎌倉時代のものが圧倒的に多く、それ以外のものにはあまり頁を割いていない。いいとこ玉縄城ぐらいである。
探しまくったら鎌倉市史に「海軍独自の捕虜収容所が横須賀海軍警備隊植木分遣隊という名称で龍宝寺近くにあり、戦後、大船収容所事件として、アメリカ第八軍の横浜軍事法廷で捕虜虐待の罪を問われることになる」と僅かな頁を割いていた。
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それと、玉縄の歴史散歩という小冊子があってそこから転載させていただくと「植木に捕虜収容所があった!」というタイトルに続いて、
「今では跡形もありませんが、植木にある龍宝寺の山門付近には第二次大戦時、捕虜収容所がありました。
昭和17年4月に当時の海軍大臣が横須賀海軍長官に銘じて設立された尋問所です。当時はその存在を知られない為に横須賀海軍警備隊植木分遣隊と称されていました。
収容所の目的は、その頃日本には無かった「レーダー」に関する情報を収集するための尋問でしたが、担当官は極めて紳士的に対応しました。虐待や脅迫は一切なかったので、捕虜たちは心を開き、両者には信頼関係が醸成されていました。
玉縄小学校の校庭で地元青年団との交流運動会が催され「敵兵の見事な走法に感動した」と団員のひとりは話しています。」
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釈然としない。虐待や脅迫は一切なかったなんて。
捕虜たちは心を開き、両者には信頼関係が醸成されていたというのか。本当にそうなのか。では戦後の実松大佐への判決は何なのだろうか。
玉縄の歴史散歩はフォントが大きく、どうも大人向けの史料には見えない。児童向けではないが中学生向けのものかな。だから敢えてそういう表現にとどめたのかもしれない。
この辺りが「教科書が教えない史実」というものではないか。
ああいう映画を見てしまったからかも知れないが、虐待や脅迫は一切なかったというのは信じ難い。以下も各方面からの転載ですが・・・。
「黙秘する捕虜への殴打や、食事を与えるなと実松大佐から命じられた」(実松大佐の部下)
パンやタバコで捕虜の機嫌を取りながら行われた。
死者が出たのは施設に軍医がいなかったから。
意かつ不法な虐待を命じ米軍将校2名の死に関与したことなどによる極刑の求刑に対し、実松大佐は「ほとんど虚偽である」
(実松大佐の)「弁護人から政治的妥協によって自己の非を認めれば最悪の事態(極刑)を回避できるという提案に従った・・・」
尋問所のため労働はなかったが、警備兵による暴行は日常的におこなわれていた・・・。
等です

現在大船収容所の跡地と推測される一帯は、立ち並ぶ住宅や駐車場となっている。そこに「捕虜収容所があった」ことを示すものはないようです。玉縄城を偲ぶもの、コースに隠れている感がある。
収容所の敷地は7千㎡という大規模な広さだったというが、何故この地に置いたのか。大船が軍司令部にある東京、横浜、横須賀との交通の便が良かったこと。山に囲まれて機密保持がしやすかったことが挙げられる。それほど高い山ではないが、玉縄城塞が広がっていたぐらいだから遠望が利かないのである。現在でも山で遮られ、そこを玉縄トンネルが貫通しています。
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映画の舞台でもあった大森捕虜収容所は現在の平和島の何処かにあったらしいが、私はそこへは行かないと思います。でも大船収容所がカットされていきなり大森捕虜収容所に送られたのは脚本、演出上の都合か、それとも大船、大森、似たような名前の場所だから混同したのだろうか。

何も示すものが無いので、最後に洋画にちょっとだけ戻ります。
MIYAVIさんの常軌を逸したサディストぶりは見てて気の毒になったが、オファーを受けて出演しただけ凄いよね。
でもザンペリーニ、あんなに続けて殴られたら昏倒するか死ぬだろう。
衰弱した身体であんなに角材を持ち上げられる筈がないとも思う。
反日映画とまで言わないが私はこの洋画はおすすめしない。でも敢えてよかったところ(感情移入したところ)を挙げると、
①冒頭で米爆撃機がゼロ戦に襲われる場面。戦闘機に狙われて撃墜される恐怖。
②撃墜されてからの長い漂流場面。海上で生き残った恐怖。
かな。。。
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退魔寺 [隠れ郷土史]

今年になって知った群馬Blogで、伊勢崎駅から程近いところにある日本酒BARが紹介されていたのです。なかなか良さげな店。
私も伊勢崎市内に1箇所公用がありますがこれまで伊勢崎で飲んだことはないですな。高崎から意外と時間がかかるので。
伊勢崎駅前のBHに泊まる機会があれば、そのBARへ行けるかもですが。
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気になったのは、そのBARの所在地が曲輪町というのです。
曲輪という名は城の内外に設けた平場のことです。そこに軍事面や政治面の施設が建てられるのです。そう名が付くのであれば、そこにかつては何かがあったといっていい。
調べてみたらときおり鳥瞰図をお借りする余湖先生のサイトにあった。市内を流れる広瀬川に沿って、今村、伊勢崎陣屋、茂呂、3つの中世軍事施設があった。
伊勢崎陣屋(中世では赤石城)これが前述の日本酒BARのある曲輪町で、そこに酒井家が前後2回に渡って伊勢崎藩を置いたそうだが、私が気になったのは次の茂呂という城。
そこは現在お寺になっていて、退魔寺という魔物退治のファンタジーゲームチックな寺名になっている。
私の公用圏内でもあるし、時間があったのと、平城なのであまり身体に負担がかからないだろうと。それほど期待しないで行ってみた。
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茂呂郵便局の西にある。
その辺りを茂呂という。モロ?茂呂であって、埼玉の毛呂ではないらしい。
なるほど、退魔寺ね。退魔の逆を降魔というが、この寺は魔物は退散しろと言っているのです。
そこに解説板があって、
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「石岡山不動院と号す。
南北朝時代の頃、応安4年(1371)年に時の城主・茂呂勘解由左衛門尉源義輝が城内の光円坊を改めて香華院を創立した。
そして弘法大師作の不動明王を本尊とし、鶏足寺(足利市?)から道照禅師を迎え、開山の師と仰いで帰依したのがこの寺の始まりであった。
後に退魔寺と改称して本寺格となり現在に到っている。
石田光成が伊勢崎を通った時、土橋(現・光円橋)付近に毎夜妖怪が現れ、そのために庶民が難渋しているということを聞いた。
早速、三成は行動を起こし、この騒ぎを解決したといわれる。そのため寺号を改め、また寺紋を石田氏の紋にしたとされる。
その後、寛文3年(1663年)、回禄の災に遭遇したが、寛文10年(1670年)には再建された。さらに延宝5年(1677年)9月には10坪余りある不動堂を建立している・・・」
「茂呂勘解由左衛門尉源義輝が城内の・・・」・・・城域を示すものはこれだけかい?
石田光成がここに来たのですか。妖怪退治をした記述があったが、どうもこれがこの寺の名前の由来らしい。
清正や正則ではなく光成が妖怪退治?
そのおかげで寺紋を石田氏の紋にしたというが、関ヶ原以降の江戸幕府政権下、関東のお膝元でよく許されたものだよね。
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境内を見たら雲一つない晴天の許だが参拝者は誰もいない。ご近所に住んでるとおぼしき婆さんがいた。
婆さんは門柱の脇に立っていて、寺の前に路駐して下りた私をジロリと一瞥してすぐ視線を逸らせやがった。
ひとり、またひとりと婆さんが集まってきたが、
「まだ早くない?」
「まだ鍵が開いてないのよぉ」
青空の許に婆さんのダミ声が響いた。鍵が開いてないって?門は開いているよ。
ジロジロ見られてヤダな~。遠慮のない視線に晒されながら境内に入ったら、何かの木の下にこんな小さい標柱があった。
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これが無ければわからなかったぞ。お寺の好意で辛うじて建てられた感じだ。
誰かいないかな。でも境内には誰もいない。ご住職もいない。磐余も聞けない。
話が聞けたら記事が膨らむのにな。
私はお寺を散策して住職さんのお話を聞けたのは過去に一度しかないのです。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-08
2012年のこの時はご住職が下りてきて、私を不審人物と訝しんで声をかけてきたフシがある。
参拝するんでもなく、墓参でもなく、ただな~んとなく境内をウロついていたからです。
歳月を経てこの記事の時は植木職人に住職と間違われる始末。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-08-09-1
私を「お坊さん」呼ばわりした安中小学校の生徒も今は高校生になった筈だ。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-01
しゃーない。ここまでにしよう。
境内散策を打ち切って公道に出た。
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境内から出たら婆さんたちの数が5人に増えていた。まだまだ増えそうである。
「開いてないのよ」
「鍵は誰が持ってるのかしら?」
ははぁん、町内会の集いだな。私は先月で1年間務めた町内会班長を任期満了してお役御免になったのですが、最後の総会では町内会内に設けられた様々な部署のイベントの1年間の活動報告を知った。
高齢者ばかりの活動クラブが3つもあったのである。
ここ退魔寺に集まってきた婆さんたちもその活動の一環らしい。境内に茂呂町会議所があって、おそらくお寺のご住職が町内会長も兼ねているのだろうかね。
またまたどっかから婆さんが来たゾ。
「まだ鍵が開いてないのよ~」
さっきからそればっかりである。
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広瀬川から見た茂呂城。遠くに見える森ではなく、手前にある木々の辺りです。
退魔寺は広瀬川が蛇行する辺りの河岸段丘の上にある。
余湖先生の鳥瞰図です。
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茂呂城の詳細はわからない。ここから遠くないところにある前にUpした那波氏(群馬県民なのに武田軍を先導してローズベイカントリークラブから榛名に攻めてきた)辺りが絡んでいると聞き及ぶ。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-17
その方面の各サイトにUpされている以上の情報はないようです。
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くるまに戻ったら婆さんたちはいなかった。
鍵は開いたらしいな。
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赤城神社は城館なのか? [隠れ郷土史]

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翌朝にレンタカーで田町を通ったところ。

そして前橋市二之宮町の赤城神社にきています。
駐車場がわからないので神社の周辺をぐるぐる回ってたら、西側の生活道路前に長々と伸びる堀を発見したぞ。
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北側にも堀が。埋められて浅くなっていますが。
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ここへ来るにはくるまが不可欠です。私は伊勢崎市方面から来た。上武道路(17号線)二宮赤城神社前交差点を後方に右折するしかない。
駐車場の入口がたいへん分り難い。周囲を2回廻ったが、参拝者専用駐車場は何処にもないので、公民館駐車場に停めるしかなかった。
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境内に入ります。
人がいない。雨上がりの平日で参拝者ゼロ。
神主も巫女も管理人もいない。管理棟はあるから何かの祭事には人が詰めるのだろうか。
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赤城神社はその名のとおり上州三山の赤城山を祀る神社ですが、上州に散在している赤城神社の総本山・本社としては、
①赤城神社(赤城山の大沼湖畔)
②赤城神社(三夜沢町、赤城オートキャンプ場の近く、三夜沢は宮沢の転訛ではないかという説がある。)
③二宮赤城神社(今、私がきているところ。)
これらの3つが挙げられるそうです。

赤城と名の付く神社は他に前橋市に10社、桐生市に7社、伊勢崎市に3社、太田市に7社、みどり市に4社、沼田市に1社、館林市に4社、渋川市に6社、高崎市に3社、藤岡市に1社、安中市に1社、甘楽町に2社、玉村町に1社、あまり知られていない小さいものも加えると100を超えるらしいが、赤城山という位置づけだけに東毛や北毛に多い。
行ったことないですが、赤城山の大沼湖畔にある赤城神社が最も風光明媚なのではないか。山と湖に接しているから。
でもそこへ行かないで交通の便も悪く、寂しい二之宮町の赤城神社に来たのはですね。境内にある本殿のような建物を見に来たんじゃないです。私は建物や文化財には興味ない。冒頭に挙げたように、神社のまわりを囲むように土塁や堀が残っているという情報を得たから。
裏手に廻ってみる。
草木や落ち葉が濡れている。
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堀は埋められて浅くなっているが、土塁と併せてよく残っている方です。堀というより窪みだね。
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さっき外の道路側から見た西側の堀を境内裏から見たところ。
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この遺構を知った余湖先生のサイトから、氏の作成した城郭鳥瞰図を転載します。
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神社の構造としては珍しい。城館のように見える。
だが解説板にはその部分はあまり触れていない。「境内には堀と土塁がめぐらされている。中世における社地の形態をよく伝える環濠遺構であり、市の史跡に指定されている。」とだけ。
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環濠は城館とは違うのか。本来の意味は周囲に堀を廻らせた集落のことで、それには水堀なら環濠、空堀なら環壕か。サンズイとツチヘンの違いですが、周囲を囲んだ。
でもこういうものは防御と拠点を表している。おそらく塁の上には柵を、類の法面には逆茂木を並べてあったのではないか。昔の村々が自ら自衛する為に設けたものらしい。
これは境内でもあり、外郭の南側でもある堀。
境内の堀1.jpg
境内の堀2.jpg
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堀の外側にも土塁が盛られているのがわかります?これも環濠の特徴だそうです。
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後年、これらの村・集落の数が増えて規模が大きくなると、その地の有力な寺社が存在して介入するようになる。
寺社は自衛の為に僧兵を置く。村民と併せて併呑しようとする外敵から守ろうとする。ここ赤城神社の土塁痕は寺院を外的から守る為に設けられたものではないだろうか。
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公民館駐車場に停めたくるまに戻ったら人がいた。自治会の人らしい。
彼らを呼び止めて聞いてもよかったのだが遠慮した。時間が無かったからです。

前に載せた群馬八幡の上野國一社八幡宮には裏手に一条の壕があったが。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-13
この赤城神社境内裏の壕、塁はそれよりも細かい縄張りのようでもある。

ここは何だったのか?
合戦の舞台になったのでは?
武装勢力の寺院だったのか?
戦乱の際は地域住民が駆け込んで避難所になったのでは?
そういう想像を膨らませることができますがあくまで想像でしかない。他を調べてもこれ以上のものはなかったので、くるまを返した後、高崎市へ史料を探しに出向いた。
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受付へ歩み寄って係のねーさんに、
「前橋二之宮の赤城神社の史料はないかな?」
この係員は前にも「柳川町のイロ街の史料が見たい」と申し入れてあっさり探し出してくれたことがある。
2冊持って来てくれた。そのうちのボロボロの前橋市史第1巻、第四編中世の項、768頁辺りに「第四節 二宮赤城神社」が載っていたが、そこには、
「年代記の天正四年の条に、八月八日二宮明神社南方氏政勢打破ルナリ神主ハ無カト云ニ大軍ニテ恐シマ不持出無宮ナラハ可打破ト云シ・・・」
何のことかよくわからない難文だが、南方氏政勢とは相州小田原から攻め上って来た北条氏政(飯に汁をかけて食べる人)の軍勢で「神主ハ無カト」「無宮ナラハ(バ)」とは、神主が不在で荒廃していたということか。
壕と塁に関しても「社域は方約200mで、外側に濠その内に接して土塁をめぐらしている。あたかも中世の館跡をしのばせる形である」
神社そのもののイワレ、詳細は載っていたが、私が知りたい周囲や裏手に残るものについての詳細な説明は無かったのである。

その後、県の教育委員会に問い合わせても用要領を得なかったのだが、代わりに社務所の電話番号を教えてくれたのでそこに問い合わせたの。
「神社の裏にあるものは何です?」
「土塁と堀です」
それはわかっている。
電話に出た方は私の問い合わせに対して「何者だろう?」と最初は思ったようだが、親切に持論?を展開してくれた。
「昔、神社は誰かの城か館だったのですか?」
「いや、そういうんじゃなくって、多分大胡城との関係でしょうね」
大胡城??
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-05-16-1
「あの城が誰の手に渡るかによって、近隣住民がこの神社内に避難してきたんですよ」
オモシロい説だがそこへもうちょっと突っ込んでみた。
「うがった見方ですみませんが、北の方にあるもうひとつの赤城神社さん(大沼湖畔)と仲が悪くて、そっちに対して防御の為にこしらえたとか」
「いえいえそういうんじゃないです。赤城神社は群馬県内に幾つもあるんですが、ウチ(神社)は荒砥川と〇〇川に挟まれていて、それらの川は赤城のお山から流れてくるんです。山の水の神様なんですよ。赤城神社は赤城のお山に繋がるので」
ここでまたわからなくなったのである。
靴を洗う.jpg
泥やぬかるみはなかったが、ニッポンレンタカーへくるまを返却した際、
「悪いな。1箇所だけ駐車場が舗装されてなくて」
運転席の足場をやや汚したのである。
「洗い場の水を貸して欲しいな」
整備場の脇にある洗い場で靴を洗ってるとこ。雑巾も貸してくれた。
これなら帰宅してもジャン妻にバレないだろうと。
写真は機種変したi-Phone10で撮影したのですが、i-Phone10は画面にSuicaのチャージ情報が表示されるのですよ。でも私はi-Phone10のSuicaは使わないで通勤定期も含めてこれまでのSuica1枚ものを駅改札でタッチしています。
ところがi-Phine10を持ち歩いて電車に乗ると「チャージ料金は幾らです」「チャージ料金は発生しませんでした」がイチイチ表示されるのでウザったくなり、ジャン妻にその設定を外してもらおうとi-Phone10を渡したら、めざとくこの一連の写真データをチェックされ、赤城神社裏手の草ぼうぼうの写真と革靴を洗っている写真がバレた。
「何処へ行ってたのっ!!」
「じ、神社へお参りに・・・」
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高崎城天守閣は再建されるか? [隠れ郷土史]

目ん玉を引ん剥いてギャァギャァうるさく吠えるこの子はいずれ上州にやってくる。
でもその頃にはもうおんな城主(もと領主?)はいないのです。
この子が上州にいた時期も長くない。近江へ移封されるまでの数年です。
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それにしてもこの子は口の利き方がなっていない。先代に対して暴言が多過ぎないかと思った。
地味な場面ほど心に残るいいドラマだったが、この子のせいで品下がってる。それとあの品の無いサブタイトルでね。
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家康の関東移封に伴ってこの子も上州にやって来たのだが、最初は箕輪(箕郷町)だった。上州のローカルヒーロー長野業政がいた要塞。
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箕輪を出て高崎を選んだ理由はよくわからないが、中山道と三国街道が交差する交通の要衝だからでしょう。
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厩橋(前橋)城でなくてよかった。あの城は利根川の濁流で削られ、一時期放棄された時期もあるからね。
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高崎城に石垣は殆ど無かったらしい。
現在ある乾櫓の石垣は、補強の為に設けられたもので、往時のものではないそうである。
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明治になって、城内に陸軍(歩兵第15連隊)が駐屯した。兵隊さんは近隣にある柳川町で遊びまくった。
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現在は市街化や公園化が進み、前橋の県庁に対抗してか、超高層21階の市役所が建っている。
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水堀周辺は公園整備され、春の桜(ソメイヨシノ)が満開となる。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-04-06
土塁上を歩く1.jpg
土塁上を歩く2.jpg
土塁上を歩く3.jpg
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城を囲む土塁上の遊歩道を歩いているところ。
時折、桜のネッコに躓いたりする。
「そんなところを歩くから靴がすぐ傷むのよっ」
「山城ではない。公園だよ」
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また土塁を下りる.jpg
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私は白亜の楼閣が残存する(あるいは復元)城に殆ど興味が無い。
国宝の姫路城すら行ったことがないのです。会津鶴ヶ城だけは別ですが。
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家康が関東に入府した時、この子は徳川家臣団で一番高い12万石で封ぜられた。
箕輪から高崎に移り、もともとあった和田城(長野業政の娘婿がいた)を取り込むように築城し始めたが、途中で起きた関ヶ原戦の後に近江に移封させられる。
次に高崎に来て引き継いだのが、あの酒井忠次の嫡男で家次という人。
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酒井は井伊の12万石でなく、前にいた臼井3万石に少しプラスして貰って5万石で入城する。
12万石が5万石に減ってしまったことで家臣数も減った筈。工事を引き継いでからは規模は縮小したと思われる。
それは縄張りを見ると一目瞭然で(この図は右が北です)、西のラインは旧和田城の外郭ライン(鏑川に面している)を活かしてギザギザになっているが、幕府の方角を向いた南と東のラインは横矢(側面射撃)でなく真っ直ぐ一直線になっているのだ。
軍事拠点ではなく統治する行政施設に転じたということではないか。
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忠次は嫡男の家次が臼井3万石、高崎で5万石しかくれないのに不満だったという逸話を良く聞きます。
家康は譜代家臣にはケチであまり大邦を与えなかったが、それでも他の四天王3人(忠勝、康政、直政)は10万石規模なのに。
忠次が洩らした不満に家康はどう応えたか。信康事件を思い出させるように「お前も我が子が可愛いのか」とイヤミを言ったというが、はて、本当だろうか。
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高崎城に天守は無かった。
豊家が滅んだ元和の頃、関東譜代の居城は質素で粗末なもので、外様大名の方がデカくていい城を持っていた。
脅威に思った幕府は法度で新城の建築や改築を禁止するのだが、外様だけでなく譜代たちもその煽りを喰ってしまったのである。
でもそこは江戸の将軍家に近い譜代たちなので、法度の規制に関わらず時の将軍や老中がOKと言えば普請が可能になったのだが、建前の抜け道として天守という大きい名目ではなく、天守のような、でも小さめな、三階建程度の櫓を建てて天守と呼ばず、「三階櫓」とか「三重櫓」と呼ばせた。高崎城もこれで、他、宇都宮、川越、古河、皆、三階クラスだったそうである
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場所は近代的な中央図書館の建物と、ボロい児童相談所の建物の間の路地が、17号線(中山道)とぶつかる手前辺りらしいです。
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天守(三階櫓)建を謳う市民グループもあるようだが市の方は全くその気はないらしい。もともとあった場所は駐車場になっている。再建するだけなら広場はあるが、ただ再建するだけでなくそこにもともとあっての天守なのだから。
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山崎天神山の謎 [隠れ郷土史]

「トランプ大統領は何処に泊まるのかな」
「さぁ」(ジャン妻)
「ルートイン?」
「まさか。何でそんな発想するの?」
「何処でゴルフするのかな?群馬かな?」
「アナタもしかして大統領を見たいんじゃないの?」
「そういう気もするな。公職に就いてあれだけ言いたい放題できてウラヤマしいよ」
(自分だって・・・)
「うん?」

おクラ入りしかけてたネタで2月の取材です。
陽が西に沈みかけてる頃、大船駅から湘南モノレールでひとつめの駅、富士見町に向かった。
モノレールの車窓から小高い山が見えます。
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小高い山の最寄駅、富士見町駅で下車、訳あって懐かしい駅でもあります。懐かしい理由は後述しますが。
ここへ来るまでで唖然としたのは相変わらず湘南モノはSuicaに対応していないんだね。紙のキップなんです。ホームに下りたら駅のきっぷ入れ(ゴミ箱?)にポイ。
モノレールだから当然の如く高架駅なのに、まだエスカレーターやエレベーターが設置されてないのかと。階段のみだったのです。(近年エレベーターが設置されました。)
昭和45年(1970年)操業だから懸垂式(ぶら下がり)モノとしては老舗といっていいのに近年までエレベーターが無かったのです。鎌倉市は文化財保護や登録運動には熱心だが、補助金がなかなか出なかったのだろうか。
行き違いの構造上、上りホームと下りホームは繋がってないません。行き来できないので別個の出口で地表への階段を昇降するのです。無人駅です。

(そういえば11月1日の午後9時半頃、西鎌倉駅近くでモノレール車両が工事車両と接触し、車体の一部が破損(ガラスが割れる?)したそうですね。
道路舗装工事で稼働していた重機が約6メートルの高さまでアームを伸ばしていたら接触したそうです。
乗客は宙ぶらりんになり、クレーン車で救出され、事故ったモノレールはヨタヨタ自走したとか。)
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でも今回のネタはモノレールではないです。駅を降りてその先、天神下交差点を右折します。
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目的地の山の石段です。
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九十九折の石段を上りながら階段の段数を数えた。
いぃち、にぃぃ、さぁん、しぃぃ、ごぉぅ、ろぉくぅ、なぁなぁ、はぁちぃ、くぅぅ、じゅぅ、じゅぅいちぃ、じゅうにぃ、じゅうさぁん、じゅうよん。。。
階段と階段の合間にある平場(踊場)に着くと息を整え、携帯に段数をメモる。
ゼェゼェ息が上がってきた。
頂上までの段数は、38+26+44+34+21+23+18=204段。。。
204段!!
たいしたことないって?
でも私はバテかけた。膝がガクガクになった。
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天神山といふそうです。
頂上に神社があって北野神社といふ。
ビートたけしさんが祀られているのか。そんなこたぁない。北野系は菅原道真公の系譜です・・・よね・・・?自信がない。
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普段は誰もいないようです。
お祭りか何かのイベントの時は地元の方が手入れをするのでしょうけど。
私は今年になって地元の町内会に関わっています。夏祭りで焼き鳥を焼いたせいでその後も有志に引っ張られましたが、総会で会計さんから発表があった予算の内訳の中には、普段は倉庫で埃を被っているお祭りの道具、神輿や太鼓、鳴り物とか。そういうものの保全、修理費用とかも計上されていた。
私がいる町内会には神社は無いが、神社がある地域だと管理費用負担とかあるらしい。神主さんが要職を兼務していて強い発言力を持つケースもあるとか。
清掃がタイヘンそうだ。これも近隣住民を駆り出して掃除するんでしょうね。空き缶拾い、落ち葉を掃いたり。
長い石段を登る途中から鬱蒼とした樹木に囲まれているここは観光地ではないが、鎌倉市の緑化指定地で開発されないようにはなっている。
北野神社のいわれについては割愛します。幾つかのサイトで、この山がここから遠くない有名な玉縄城(ノブ、本多正信の居城でもあった)の出城だったという記述を見て登って来たのですが。
これも土塁痕?.jpg
裏手の土塁1.jpg
時刻が夕暮れ近いので写真がボケボケです。
神社の背後に土塁があるけど往時のものなのかどうか。
裏手の土塁2.jpg
その先は獣道が続いていて社より高所へ続いているが、すぐ藪になった。
藪1.jpg
冬場なのにこれだけの藪。完全装備でないと走破できない。
ヘビでもいそうだ。
藪2.jpg
神社のある一帯は天神山の片隅でしかなく、この先、藪に突っ込んで尾根沿いに歩いてみたら、尾根を断ち切る堀でもあるのだろうか。
社の背後から見下ろしてみた。
裏手の土塁3.jpg
眼下には柏尾川が流れている筈だが木々で見えない。
木々を取っ払ったら見通しがよくなるかも。
木々で見えない.jpg
天神山の麓は、もと鎌倉郡山崎村と洲崎村といいます。湘南モノレールの駅名である「富士見町」なんて町はないのです。富士がよく見えたのだろうか。
昔からの地名を大事にするなら天神下か、湘南山﨑、湘南洲崎でいいのに。
山崎と洲崎は山の東側と南側で、新田義貞が鎌倉に攻めて来た時の激戦地で知られるが、山の西側に柏尾川が流れていて、そこでも激戦があった。
大永6年(1526年)11月に、安房の里見軍が玉縄城を目指して攻め上ってきた。この戦争の背景は複雑でヤヤコシイのですが、簡単に述べると三浦半島を制圧した北条氏が次に武蔵国を席巻せんと北上して勢力を伸ばし、江戸城と3つの河(多摩川、荒川、当時は東京湾に注いでいた利根川)の河口と水運を押さえたことで、東京湾の対岸にいる里見氏との均衡が崩れた。お互い脅威な存在になったのです。
里見軍は海から船団で押し寄せて由比ヶ浜や材木座海岸から上陸、鎌倉に乱入、源氏の系譜なのにあろうことか鶴岡八幡宮を焼いてその他神社仏閣を破壊するという暴挙をやらかしている。失火かも知れないがやることがふるい過ぎてバカとしか言いようがない。
里見軍はその後で大船まで攻め上って来た。アド街でも触れていたが大船=粟船から来ている。もしくは大きい船が入ってこれるほどの大湿地帯か柏尾川の川幅が広かっていたか。入り江だったのだろうか。
里見軍は陸路を来たのか船で来たのかわからないが、天神山の西一帯で玉縄城の北条軍と激戦になった。その首塚が柏尾川に沿った対岸の道沿いにある。大船軒の本社近くの川沿いです。
玉縄首塚.jpg
私が登った天神山に何かの軍事施設が設けられていたら、玉縄本城に向かって里見軍の北上を何かで知らせる役割くらいは担ったに違いない。
天神山は大船方面から望むと、ラーメン二郎の野菜マシのようにそこだけこんもりしているから、物見台か狼煙台か出城があってもオカシクない立地ではあるのです。
下る.jpg
標柱2.jpg
こういう階段って上りはもちろんキツイですが、下りの方がアブないですね。足元がフラついた。
参道入り口3.jpg
振り返ってみる。
参道登り口は両脇が住宅地で、もしかしたら家人が私を「アヤしい人」と見ているかも知れない。視線を感じた。
参道入り口2.jpg
標柱1.jpg
麓に下りてファミレスから振り返る天神山。
薄暮の天神山.jpg
モノが来た。今はALL3両編成なんだね。私がいた頃は2両編成もあった。
え?私がいた頃って?
後述します。
モノが来た.jpg
大船駅のデッキから遠望する天神山。
かつては入り江だったのかも知れない。
天神山1.jpg
天神山2.jpg
天神山に砦があったなんて誰が言ったのかな。
裏付けを探すべく鎌倉市で資料を漁ったのですが文献は見あたらなかった。
大船にある玉縄城(昨年のしょーもないコメディ大河の最終場面の村で、本多正信さんがいたところ。)の史料がたくさんあったが。
ラスト.jpg
いずれこの人も城主に。
ノブ.jpg
天神山の本城である玉縄城そのものに女学校が建り、見学には事前に申し込みが必要で、周辺も開発されて住宅地となり、僅かに残った自然地形も、お城Bloggerがその目で見ないと遺構らしきものが確認できないらしいのだ。
それでも玉縄城の史料に付録みたいなのがくっついていた。この辺り一帯のMAPです。
そこには二伝寺他、天神山も物見のように載っていた。
この辺りに物見、砦があっただろうと、後年になってから決めつけてマジックで塗り潰したんじゃないかと見えますが。
学者さんが塗った地図1.jpg
学者さんが塗った地図2.jpg
でも神社の背後にある土塁が気になる。
小さい砦跡の頂上部に社を造って背後に残土を盛ったか、自然地形を平坦にしてそこに社を造ったら背後に盛り土だけ残ったか。
過去に行った焼津の石脇城や。。。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-12-05
船山温泉で駐車場アクシデントの後に立ち寄った甲駿国境の尾崎狼煙山。。。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-01-06
これらも頂上に社が建っていて、背後は土盛りがあったからね。
天神山の社殿裏にあるこの土塁は往時のものなのだろうか。
裏手の土塁1.jpg
散策は終わりました。消化不良に終わったこの散策過程で見つけたのですが、富士見町駅に戻る途中の狭い路地に、古びたオンボロの街中華があります。
八宝亭4.jpg
如何にも昭和の趣ですが、前からあったかなぁ。
前から?実は私はここに下り立った天空の富士見町駅が通勤最寄駅だった時があるんですよ。
明日から大きめの街角中華編が5~6編続きます。写真中心ですが。
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フェンスの向こうの主郭 [隠れ郷土史]

池を渡る木橋の先に木々が茂った森が見えます。
石神井公園です。
木橋の先には.jpg
正確に言うと石神井池の西隣にある三宝寺池です。2つの池とその周囲をひっくるめて石神井公園。
石神井公園の石神井池は西隣にある三宝池からの水路だったのを1933年頃に堰き止めた人工池だそうで、池に注がれる川はなく地下水や湧水から形成されているそうです。石神井川の源でもある。
西武線石神井駅から徒歩で来た途中の家並みは高級住宅地ばかりだった。こんな豪勢な家に住まわれていいなと思う羨望と、こんなデカい家じゃぁ掃除が大変だと思わせる広いお屋敷が多い。固定資産税も高そうである。

私は練馬区役所の公用後、ここ石神井まで足を延ばしたのは理由があります。
理由というか期日です。今日しかないのです。フェンスが開放されている時間も16時までと限られている。無理してでも今日行かないと。

公園の池の周囲には、池、木々、水鳥、野鳥、それらを撮影しようとカメラを向ける人たちや、散策されている初老のご夫婦、子供連れの若夫婦、ベンチに座って時を流している老人たち。

日がなベンチに座り
替わる時を眺めている老人を探し出そう
残された時間を 聞き出す為
(柳ジョージ&レイニーウッド)
残された時間は。。。???
急ぎ頭で試算してみた。石神井公園駅に下りたのが14時半過ぎ。今日は夕方17時前に川口市内の行政にもうひとつ公用があるので、それに間に合わせるには今向かっている目的地と石神井公園駅との往復に徒歩30分、石神井公園駅からJR蕨駅への乗車時間が約45分、蕨駅から行政へはタクシーで10分、乗り換え時間に約20分。。。
散策時間は40分と見た。それだけあれば充分だが
私は池の風景に見とれることなく、三宝池公園の中心部を目指した。

池にかかる木橋を渡ると、池の畔、丘の裾にあるのは。。。
碑1.jpg
碑2.jpg
解説板2.jpg
石神井城は南側に流れる石神井川と現在の三宝池、当時は湿地帯だった石神井池に守られた台地の上にあった。
室町時代の後期に攻め落とされ、それきり再利用されなかったこの城がマニアに有名なのは、城域の主郭が通常はフェンスで区切られていて中に入ることが出来ないからである。
1年に一度、ある期間だけ公開される。東京文化財ウィーク期間といって、都内23区や区制以外の市、離島である大島、八丈島、三宅島他を含めて通常は公開されていない文化財を公開する期間で、石神井城は今年の特別公開リスト63項目の23番目にあった。
特別公開事業25.jpg
平成29年度は10月28日(土)から11月5日(日)まで。
私が訪れた平日がまさにその後半なのです。
その先に.jpg
解説板5.jpg
解説板1.jpg
縄張り.jpg
解説板3.jpg
解説板4.jpg
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なるほど、普段は閉じているであろうフェンスが開いている。
開放している.jpg
それでも注意書きがあって「フェンスで囲まれた場所は、東京都指定の史跡「石神井城跡」の中でも特に文化財(土塁・空壕)の保存状態が良いところなので、当分の間、養生が必要です。文化財保護のため、許可無しに入ることはできません」とある。
立入できません.jpg
当分の間っていつまで?
養生?現状はほったらかしです。

発掘調査の成果や出土品について、特別に開かれる主郭の内に、写真パネルで紹介しているが、森は薄暗く、当たる陽射しは西に傾き、反射してよう見えん。
パネル1.jpg
パネル2.jpg
主郭を囲む壕だったと推測されますが、埋まって浅くなり、緩い窪みにしか見えない。
浅い堀1.jpg
浅い堀2.jpg
浅い堀3.jpg
上がってみた主郭は周囲より高台かというとそうでもなく、高さは周囲と全く同じだった。塁壁に見えたのは主郭を囲む土塁で、手が入っていないだけ風化してエッジが失われて丸くなっている。
主郭の土塁1.jpg
主郭の土塁2.jpg
主郭の土塁3.jpg
主郭の土塁4.jpg
パネル3.jpg
この城にいた豊嶋泰経、照姫、池に沈んだ金銀財宝伝説等については割愛します。何しろ廃城が早過ぎるし、初めて見た個人的な感想としては「何だつまんないの」である。遺構そのものより、やたらと立っていた解説板や、発掘して何かが出てきましたよの説明パネルの方が多くて目立った感がある。
過去にここへ来て、フェンスの外から向こう側にある主郭を見た人には中に入れて感涙ものだろうが、そういう背景が私には無いので仕方がない。
フェンス越し撮影.jpg
いずれフェンスは閉ざされる。見たいけど見れない、そこに行けないのはここ石神井城以外にもあって、過去に載せた世田谷城の住宅の陰に隠された遺構や、私有地で侵入厳禁の横浜市内にあるE城が挙げられる。
今の時代、下手にウロついて撮影でもしようものなら、近隣住民に不審者扱いされて通報されかねない。
年に1度開放されるが、普段は学者さん、教育委員会や区や都の関係者、土地の所有者だけが見れる聖域になっている。

この後、川口市内の行政にギリギリ間に合い、それで直帰かというとそうではなく、帰社してデスクワークしました。
足が疲れた。平城だから城域散策に疲れたのではなく、駅との徒歩往復で足が疲れた。赤羽駅から軽く熟睡して気力を取り戻した。
今日は週末で冷蔵庫の中にはロクな食材がない。
疲れた週末に.jpg
いつものこの店で、石神井城の写真を見せたらジャン妻の眦が例の如く釣り上がったが、山城でないこと、公園化されていること、靴や裾が汚れてないこと、なにより期間限定で公開され見るのは今日しかなかったこと、それは理解してくれたようである。
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氏政公の首塚? [隠れ郷土史]

タイトルはおどろおどろしくカテゴリもそれっぽくなっていますが、10月中に無理くりして出かけた日帰り小旅行記です。
既に完了していますが、期限を切られた業務に追われた10月某日、静岡に日帰り出張に行かなくてはならなくなった。
その静岡業務も期限を切られていたのを失念していたのです。私も忘れつぽくなった。トシかな。一昨日は千葉の某市から「提出期限を過ぎておりますが、辞退されるのですか?」確認と督促の電話が入ったからね。
「静岡へはくるま?」
「いや、電車で」
静岡出張は自家用車を持ち出して出向いてるのですが、それが監査に引っ掛かった。事前に許可を得なくてはならなくなったのです。書式は簡単らしいが。
今回は藤枝や浜松方面まで行かない河東方面だけなので日帰り電車で充分なのだ。
「また東海道線で小田原まで行ってそこで新幹線に乗るんじゃないでしょうねぇ」
「・・・」
「時間の無駄よ。新横浜から乗ればいいのに」
結果的にその方が早くても、今いる場所あら戻るルートを私は好まない。ウチは横浜市郊外にあるので、新横浜まで「戻る」のがイヤなのだ。
いつもは神奈川のジャン家から直行するのですが、今回は静岡に行く前に「本社に行かなきゃならんのだ」
「珍しい。直行じゃないんだ」
「朝に定例の部署会があるのだよ」
私は社内フリーランスで滅多に会議など出ないのですが、部署会とはいっても私と上司と、長年ソリの合わないオンナと、身体の弱い時短の女性職員と、私に対してビクビク・オドオドしている男性社員、計5名だけ。1時間もかからない。
「で、東京から?」
「いや、品川から」
東京~品川は通勤定期に含まれてるから経費を削減した・・・という訳ではないのです。やはり東京駅に「戻る」のがイヤなのだ。
(東京~品川の料金を検索しても東海道新幹線だけ表示されないし。)
品川駅で、現地社員への土産を買った。ポケシウマイ人数分。
品川駅.jpg
「新富士駅まで行きたいのだが・・・ひかりに乗っても・・・意味ないかな」
「新富士駅はこだましか停まらないですからねぇ」
品川駅の職員の言った台詞である。他の駅よりランクが下がるように聞こえたぞ。
先に来たのが10:04発のこだま645号で、次の10:10発のひかり467号に乗っても、熱海でそのこだま645号に乗り換えなきゃならないのか。
こだまはひと駅ひと駅、律儀に低停車していく。
新富士駅.jpg
タク2.jpg
富士市行政.jpg
新富士駅からタクシーで富士市の行政に下り立ったところ。
来る度に思うのですが。
富士市に住んでいる人には悪いが、何かニオいますね富士市って。
隣の富士宮市はニオわないのに、富士市の工業地帯に隣接している辺りは妙なニオいがするのだ。
市のHPにもあります。
「悪臭による影響は感覚的なものであり、個人の感じ方により精神的に影響が現れるものであります。確かに初めて富士市へ来た方はこの臭いにかなり驚くようです。現段階での悪臭防止技術や産業形態から考えると、これらの工場からの臭気が、今以上に改善されるには時間がかかると思われます。市は今後も継続的に快適な環境への改善に向け努力していきますので、皆様のご理解とご協力をお願いいたします。」
http://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1302/fmervo0000001jcw.html
普段はくるまなのであまり気にならないのだが、今回は電車、徒歩なので妙にそのニオいが気になった。
ニオイはさておき、行政への手続き終了。
これから河東方面の支店に行くので、行政から富士市駅へ歩いたら、お寺の入口に、何やら私のような閑人の気を引く高札版があるぞ。
お寺の入口.jpg
北条氏政公の首塚だと!!
何故ここに?
氏政公首塚の解説板.jpg
私も神奈川県民なので興味が無くはない。記載されていた内容は、
『小田原の北条氏は、豊臣秀吉が天下を統一したときに臣下の礼を取らなかったコトを理由に天正18年に攻撃を受けて落城し、悲劇的な末路を辿るコトとなった。北条氏政は7月に切腹し、その首は京都に送られて晒し首にされたものを、家臣の佐野新左衛門がひそかに首を持ち下った。
ところが当地まで来て、富士川の洪水のために足止めされてしまった。暑いさなかであったので首の腐敗も早く、仕方なくこの寺に葬り、新左衛門はここに土着して主君の菩提を弔うコトになったという。
そのため氏政の墓は 「首塚」 と称している。』
氏政公1.jpg
氏政公2.jpg
氏政公3.jpg
墓地からお目当ての墓を探すのは難しい時がある。そこに現代語の解説板があればいいのですが、それが何も無い場合は戒名や和暦による建立年月日で探すしかない。
それも新しい墓石ではなく、旧い石、欠けてたり削られてたり、長年の風雪に耐えて文字が掠れたりしているとタイヘンです。住職や家人を訪うのも憚れるし。
でも幸いにこの寺、源立寺の境内には、氏政公の首塚のある方向を示す表示板が幾つもあるので探すのは楽だった。
首塚へ誘う1.jpg
首塚へ誘う2.jpg
それは奥にあった。敷地もそれほど広大ではないのですぐ見つかりますよ。
首塚の脇にあるもの.jpg
全体を撮影するのは憚られたので、説明の石と、北条氏の家紋、三つ鱗を撮影しました。「それだけ撮らせて下さいね」って。
三鱗.jpg
私は小田原市にある北条氏政と氏照の墓所や、早雲寺にある北条氏五代の墓にも行ったことがないのですが、ここ富士市に氏政公の首塚があるのは意外な気がしたが。
氏政の首が京都に晒された・・・これが本当だとして、その首を氏政の旧臣が関東まで持ち帰る途中で、富士川の洪水に足止めされ、止む無くこの地に埋葬したと。
でも西の京都から持ち帰ったとして、この地、富士市は富士川を渡った東にあるんですけど。
いつもはくるまで来ることが多いのですが、くるまだと通り過ぎて見逃してしまいがちなものが突如として私の前に現れたのである。
駅まで歩いている途中に廃線跡を見つけたりする。
廃線1.jpg
この先、工場内まで引込線があったんだね。
舗装路が膨らんでいるのは上から埋めた名残か。
廃線2.jpg
歩いてるとやはりニオいますね。
富士市内在住の女性社員に聞いたら「富士市が臭いのは製紙工場が多く、パルプを外に積んであったりするからですよ。(>_<)」
寂れたヤード.jpg
富士市構内でウロついてたら、JR東海の身延線に続く特急が来たので撮影。
この電車に乗れば船山温泉まで行けるのだが。。。
これに乗れば船山に行ける.jpg
某所にある支店に着いたらちょうどお昼休憩になる頃合いになった。
その支店は田舎町にある。周囲には外食産業があまりない。コンビニぐらいしかない。スタッフは4人いてALL女性です。4人のうち3人は持参の手弁当だった。
私は駅の売店で買ったサンドイッチと、焼きそばを持参。
その焼きそばを電子レンジで温めてくれてるところ。
処理済~チンしてくれてるところ.jpg
この子はhttp://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-08-14に登場しています。
「〇〇さん(私のこと)電子レンジ使えないですもんね」
「・・・」
使えないんじゃないよ。使い方がわからないだけだよ。
パッケージの封がなかなか開かないのも前回同様なので開けて貰った。
「前もそうでしたよね」
「・・・」
そして私を含めた5人でランチ会の様相になった。左に積まれてるのは連中に配ったポケシウマイです。
処理済~ランチ会.jpg
女性4人対男性は私だけなんですよ。静岡は群馬以上に会社の情報に飢えており、正しい情報が伝わっていない感がある。やはり群馬の方が東京に近いんですね。
社員に聞かれる、質問される、それに対して極力その場で回答するのが大事。ワイワイガヤガヤ1時間ほど歓談した後でお暇したのだが、
「次回いつ来られますか?」
「そ、そうだね・・・」
言われて戸惑った。普通は東京本社から誰か来るとなると、「何しに来るんだろう」と多少の緊張を伴う筈なのだ。アラでも探しに来るかと思われるからですよ。
私も本社の管理職なのですこれでも一応は。でも今いる連中は私に対する緊張感が殆ど無くなったようである。
群馬と違って人間関係構築がかなりスローな東海エリアだが「次回、いつ来られますか?」という気持ちはそうそう得られるものじゃない。本社の管理者「何しに来たんですかね」「何しに来るんですか?」それが普通です。
会話の中で、本社にいる上級管理者が「突然現れて何しに来たのかと思いましたよ」呼んでないのに来るなよというニュアンスで言ってたね。そういう風に煙たがられ警戒されるのが普通です。「何しに来たんだ?」「次回いつ来られます?」この差は大きいと思うのだ。誰も言ってくれないから自分で自賛します。
在来線.jpg
まぁ言われて悪い気はしないよ。
次回はいつ行こうか。群馬と併せて静岡行の算段をしているところです。今度(11月中)はどっちも泊まりますよ。でないとネタができないし。
(Blogに支配される日常ですね。)
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紀尾井さんのルーツ [隠れ郷土史]

紀尾井1.jpg
静岡市内にあるマニアックな酔いどれたちが誇る名(迷)居酒屋、紀尾井の主人が私に言うには、
「横地城って行ったことあります?」
横地城?
「まだ行ってないが。マークはしてありますよ」
「ウチのルーツなんですよ」
やはりそうか。
店主の目が「是非行って来てくださいよ」と訴えている?
傍らでジャン妻は「またヘンな山城を革靴で上って、靴をダメにするんじゃないでしょうねぇ」と不安げだが、調べてみたら城域が舗装された遊歩道になっていた。
紀尾井の店主のルーツにやってきました。

横地城、別名を金寿城(名前だけだと縁起が良さそうだが)に行くには菊川市街地から245線をひたすら南下します。
菊川市立総合病院の辺りを過ぎると緩いカーヴになる。その辺りにこんな看板がある。
大看板.jpg
この看板は私が数えたところ1枚、2枚、3枚あり、いずれの案内も城域へ導くようですが、特に1枚めの看板案内はこの辺り一帯の遺跡群を余さず見て廻る最も長いコースで、舗装されているものの、細くて長い道のようです。
一気に城の中核に行くにはどうすればいいか調べたら、3枚めの看板の案内で左に逸れ、この案内の先に、
看板1.jpg
この説明板の左手にも訪城口があるのですが、ここもスルーして、
解説板1.jpg
この先にも駐車場がありますが.jpg
そこからの登城口3.jpg
そこからの登城口2.jpg
更に先にWCがある駐車場があります。そこの脇に訪城口がある。
更にその先の駐車場.jpg
解説板2.jpg
城域の中心部に一気に上がれます。
登城口いちばん近い.jpg
最初はこうですが.jpg
道が無くなったが.jpg
獣道の先に.jpg
途中に獣道が20mほどありますが、すぐ千畳敷という平場に出て、そこから舗装された尾根の道を東西に歩けば楽チンです。
千畳敷.jpg
この千畳敷には駐車スペースも多少あります。細いながら道も舗装されており、ここまでくるまで上がって来れないこともないようです。
ガードレールもあるから小型車なら可能かも知れない。
平場の碑.jpg
解説板3.jpg
解説板4.jpg
解説板5.jpg
千畳敷の正面に二の郭、横地神社。
横地神社1.jpg
横地神社2.jpg
横地神社3.jpg
土塁壕.jpg
二の郭解説板.jpg
郭を繋ぐ道1.jpg
中の城へ。薮が酷くて中には入っていません。
中城跡.jpg
本郭へ続く道。
尾根を繋ぐ道2.jpg
木戸跡.jpg
本郭へ。
本郭解説板1.jpg
本郭解説板2.jpg
本郭へ1.jpg
本郭へ2.jpg
本郭に到着.jpg
本郭3.jpg
眺望、南を望みます。
見渡す1.jpg
見渡す2.jpg
見渡す3.jpg
最初に作ったのは室町時代初期の頃、に横地太郎家長(家永)という人。
紀尾井さんのルーツである横地一族の当主を並べると、初代家永、2代頼兼、3代長宗、4代長重、5代長直、6代師重、7代師長、8代長国、9代長則、10代家長、11代長豊、12代長泰、13代長秀、14代秀国、15代元国、全部の当主が太郎何々といふそうです。紀尾井店主は数えて何代目だろうか。

この地に駿府の今川氏が攻め込んで来た。往時の駿府太守は今川義忠という人で、義元の祖父の時代です。
今川義忠は駿河の守護だが、お隣の遠江の守護職を斯波氏と争っていた。
相手は斯波義廉という人で、もとは今川氏が遠江の守護職も持っていたのを斯波氏に奪われた形になっていたらしい。
ダラダラ10年以上も続いた戦争、応仁の乱で今川義忠は東軍に属した。不仲の斯波義廉氏が西軍だったからである。

(この乱より前だと思いますが、今川義忠は室町幕府の執事だった伊勢盛時(新九郎)と知り合い、その姉か妹を貰った。北川殿と伝わる女性との間には龍王丸(後の氏親)が生まれている。)

乱の途中で応仁2年(1468年)今川義忠は、東軍総帥細川勝元の指示で斯波義廉の遠江を騒擾させる為に帰国して遠江へ攻め入る。
その過程で齟齬が生まれる。今川義忠と同じ東軍陣営に別の斯波氏、斯波義良という人がいて、幕府がその人を何故か遠江守護に任命してしまった。東軍と西軍がそれぞれ別個に遠江守護職を馬の鼻先にブラ下げたニンジンのように乱発したもんだから、今川義忠は同じ東軍の斯波氏とも敵対構図になる。
更にヤヤコシイことに、斯波義良の家臣で甲斐敏光という人を西軍から東軍に寝返らせる為に、またしても遠江守護職をチラつかせた。甲斐敏光はそれに乗って寝返ったから、遠江守護職が東軍西軍合わせて3人(義廉、義良、敏光)になってしまったのである。
遠江から斯波氏を追い出したい今川義忠は、東軍西軍構わず実力行使に出た。対斯波氏、対甲斐氏、それに連なる国人衆と干戈を交えることになる。
ここで横地城が登場する。横地太郎秀国(14代)は斯波義良に付き、分家の勝間田氏と組んで今川義忠に抗戦する。

文明7年(1475年)と翌8年に今川義忠は横地城に攻めてきた。
今川軍の兵数は500だというが、その単位は500人?500騎?
500騎だったら従者や軽輩を入れたらその分兵数が増えるが、500人でこの城域全体を包囲できるかどうか。
歩いてみてわかったのは、この城は山の峰々に郭を分散して配置しているので、ひとつひとつの郭はそう大きくないのだが、山の峰は裾に広がっているものなので麓でぐるっと全部を包囲するにはかなりの兵数が必要かと思う。
逆に言うと、城域内の山の峰々に郭が点在しているので、全部を守ろうとするにもそれ也の兵数が必要である。守る横地一族がどれぐらいの兵力だったかわからないが、攻める側が1点に多勢を集中すれば突破口は開けるかも知れない。

横地城は7日間の籠城戦に耐えた説、横地秀国が戦死して落城した説とある。
どちらにも共通の結果がある。駿府に引き上げる途中の今川義忠は、地の理に詳しく先回りして伏せていた横地軍の残党に襲撃され、矢を受けてあっけなく戦死した。
尾根を繋ぐ道3.jpg
虎口か?.jpg
見て廻ったのですが旧いタイプの縄張りです。
時間の都合で全部は見れなかったのですが、山の峰々を主に3つの郭に分け、千畳敷のすぐ前に西の城、東に歩いてすぐに中の城、東に本郭(金寿丸)、これらを尾根道で繋いでいる。私の見立てでは、東の本郭より西の城の方が高いようです。
主将、副将1、副将2、3郭を守る将校たちが上手く連携を取らないと、攻め入った敵兵を撃退するのは難しそうである。
戻って千畳敷から西へ。
何だこれは?
谷1.jpg
谷2.jpg
谷3.jpg
横地さんの森.jpg
幽体離脱した紀尾井さんの店主と出逢ったりして。

横地城は攻防戦が有名なのではなく、前述のように落城後に横地や勝間田の残党たちが今川義忠を討ち、それが今川家の後継者問題を引き起こし、伊勢盛時(新九郎、早雲)の登場となるきっかけを作った城で有名なのです。
残党たちが射かけた矢がたまたま命中して戦国時代の扉を押し開けた。その為に存在し、落城した。

マスター.jpg
横地一族には生存者もいて、帰農した者、三河松平氏に仕えた者、甲斐の武田氏に身を寄せた者がいるようです。
四散した一族郎党の中には、時空を遥かに超えて宮ヶ崎町の居酒屋の店主に落ち着いている方もいる。
その店がボロいのは城が落城した名残で?店主の風貌は落ち武者そのモノを表しているのか。
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井伊の井平 [隠れ郷土史]

おんな城主が井伊虎松の後見に就いたのは、小野父子(和泉と但馬)の讒言と、度重なる合戦で井伊家中に男子がいなくなったからだというが。壮年の男が少な過ぎる。
他に誰もいないから尼小僧様を還俗させて、直虎と名乗って井伊虎松の成人までの後見に据えた?小野但馬や今川家の介入を防ぐ為に。
実際そうだとしても、おんな城主誕生の理由付けにしてはちと強引と思わないでもない。そこまで井伊に男がいなかったのだろうか。
男の重臣が少な過ぎである。この凸凹2人と銭の犬、酒ばっかり飲んでる和尚とその寺にいる屈強の兄弟子2人だけでよく家中が保てたものである。
この連中だけ.jpg
と皮肉を言いましたが、井伊家の庶流はいなかったのだろうか。
麓の居館跡1.jpg
井伊谷の北方、井平の郷を治めた井伊に繋がる一族、井平氏のこと。
場所は引佐(イナサ)町伊平、そこにいたのは井平氏だが現在の地名は伊平。井が伊に変わったようです。
井伊谷から井伊谷川に沿って257号線を北上、東名浜松いなさICの表示が見えたら、右手の脇道に逸れて井伊谷川を渡ります。
井平への道は.jpg
民家の敷地脇に解説版があった。
麓の居館跡2.jpg
『この場所は、井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3年(1245)井伊家から分家した井伊直時は此処に居館を構え、この先北方300mの山麓に城を築き、井平氏の祖となりました。
それから330年の間、井平氏は井伊氏を支える有力な家系となり、井伊直虎の曾祖母や祖母(井伊直平の妻や井伊直宗の妻)はこの地で誕生しております』
ああ、この爺さん(20代)の奥さんが井平氏の出なんだ。
おじいちゃん.jpg
おんな城主のお父さん(22代)の前、登場しない21代の奥さんも井平氏の出だそうです。
おとうさん2.jpg
井伊家との関係.jpg
この系図はわかりやすいが井伊家しか書いていないのです。往時の井平氏の事績についてはあまり触れられていない。
次に元亀3年(1572年)、武田軍の遠州侵攻で、当時の井平家当主、井平直成の名前が出て来る。昨日の仏坂で戦死した人です。
「・・・井平城(仏坂)の戦いで当時の当主、井平直成は88名の家臣と共に討死しました。城郭、居館は焼き討ちに遭い、井平氏は一時絶えました。
その後、天正元年(1573年)井伊直平の末子、井平直種が井平氏の当主となり・・・」
爺さんの末子が復活させたようですが。
「・・・天正18年(1590年)、直種の嫡男弥三郎は井伊直政の家臣として小田原攻めに参戦し、18歳の若さで討死、井平家は断絶しました・・・」
ガクッ!!
なんてこったい。
小田原攻めで戦死??あの大軍攻囲戦でか。
小田原征伐での本格的な戦闘は本城小田原よりも山中、韮山、松井田、鉢形、八王子、忍といった支城攻めの方が苛烈ですが、小田原本城の攻囲戦で攻める側がマトモな戦闘を仕掛けたのは、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けたぐらいですよ。
直政が無理したのかも知れないが、勝ち戦で討死するなよ。
駐車場.jpg
この先井平城1.jpg
では北方へ。井平城の駐車場は案内矢印の先にあります。少し上がって、また下りてくると登城口。
だけどこの案内、舗装路と草むらの中の獣道とどっちを指しているのか。
この先井平城2.jpg
「どっちに行けばいいんだ?」
「・・・」
私は草むらに踏み込んだ。ジャン妻は坂を見て断念、下で待機させた。
ジャン妻は断念1.jpg
ジャン妻は断念2.jpg
こんな狭い自然の坂です。
城域へ登る.jpg
これが大手木戸口の跡らしい。
狭い大手.jpg
ところがこの先ですぐ舗装路に出た。井伊家ゆかりの幟がここにもくたびれてはためいていた。
何だ?舗装に出たじゃんか.jpg
なんだ、草むらに入り混まなくても舗装路を上がってくればよかったのか。
3枚の解説板があり右手には駐車場もありました。ここまでくるまで来れます。
説明板三枚.jpg
3枚の説明板の先には1軒の民家があり、この地に至るまでの舗装路はそこにお住まいの方の生活道路だといっていい。
説明板三枚の先に民家が.jpg
説明板1.jpg
説明板2.jpg
説明板3.jpg
一帯は畑などに変わっているが、かつて段曲輪だったような地形がある。

土塁1.jpg
土塁3.jpg
土塁2.jpg
土塁か縦堀か。急場の連絡路か。下りてみたら。。。
土塁8.jpg
マムシ!!
マムシ.jpg
土塁9.jpg
冗談ではない。上に戻りましたよ。
下までおりた訪城プロの方のサイトもあります。探してみてください。
土塁4.jpg
土塁5.jpg
土塁6.jpg
土塁7.jpg
あまり敷地内をウロつくのは憚られますが、見て思ったのは、家がある辺りが主郭でその先の尾根筋の方が高いのです。
この先は尾根筋を断つ堀切も見当たらない。最高所には携帯電話の鉄塔が建っているようだが、北の守りが脆弱のようです。
だから仏坂へ打って出たのだろうか。
搦め手の方が高いのか.jpg
山県三郎右兵衛尉昌景はこの城も難なく落とす。率いる赤備他の兵数が5000人もいたなら充分過ぎる。
旧鳳来寺街道を抑えている要衝にしては心許ない規模である。

遠州国境戦から仏坂、井平城、一連の戦いにおんな城主は出張っていません。
武田軍へ燈籠の斧のように刃向ったのは、あの近藤康用の子の秀用という人(之の字が名前を言っていた)、仏坂でも触れましたが「討死した父にお経をあげてください」と懇願した鈴木重好14歳か15歳(・・・柴崎コウさんは一本町史の台詞よりも、お経を詠む方がキレイで上手ですね・・・)、鈴木の叔父で重俊という人(権蔵とも、出雲守とも)、そして井平城の主である井平直時とその一党です。
一連の戦いは井伊側にとっては退却戦です。山県軍からしたら追撃戦なのでその先にある豊穣な井伊谷の地を目指してやる気満々だったに違いない。
家康は援軍を出せなかったようです。この頃は全く頼るに値しない。
舗装道路でも上がって来れます1.jpg
帰りは舗装路を下りました。
堰堤があった。砂防指定地らしく大水が出た形跡もある。
舗装道路でも上がって来れます3.jpg

井伊の郷.jpg
井の国の散策は終わりました。
奥山や宇利(近藤が前にいたところ)までは足が延ばせなかった。
井の国ではないが、まだUpしていない遠州ネタが。。。
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赤備を迎え撃った井伊の武人たち [隠れ郷土史]

クランクアップ、お疲れさまでした。
クランクアップ.jpg
個人的な感想ですが。
おんな城主がおんな農婦になって、還俗してチンピラ雲龍丸と同居、無理に主役で引っ張ってましたが「炎立つ」や「葵三代」のように第1章と第2章とかに分けても良かったかもね。
第1部は直虎編、城主を下りた第2部では井伊万千代編、だって直虎さんは井伊家の再興を諦めたんだからさ。
井伊谷はモミアゲ近藤が治めているのにおんな農婦が出しゃばって差し出がましくああしてはどうかこうされよと。言われっ放しの近藤もどうかと思うが。
龍雲丸とのラブシーンは現代そのものだし。ちょっと興冷めした。
でもまぁ最後まで観ますよ。要所要所でいいネタや奥深い台詞もあったし。
では描かれなかったネタを掘り起します。
井伊谷城を焼いて隠れ郷へ退避し、瀬戸村、祝田村は焼かれて焦土と化したが、「農民はひとりも死ななかった・・・」
・・・それはよかったですね。逃げるに如かずが成功したと。
では一戦も交えず逃げ出したのかというとそうではなく、例の三人衆が武田軍を喰いとめようとした痕跡はある。
武田軍2.jpg
いきなり武田軍が攻めかかって来るシーンが。
これはおそらく、設楽原のロケだと思うけど。
次にスタジオ撮影、何処かの山の中での戦いが少し描かれた。
合戦シーンが少ないと叩かれていたが、希少なシーンではある。
仏坂1.jpg
仏坂2.jpg
仏坂3.jpg
仏坂4.jpg
ではこれは何処の戦いなのか。

東名浜松いなさICから257に入り、井伊谷に下る途中で、「仏坂十一面観世菩薩、ふろんぼ様」の縦看板がある。
戦闘があった場所へ行くにはこの細い道に入ります。
仏坂への道.jpg
途中の道.jpg
振り返る.jpg
曲がったらいきなり急坂で、その先も緊急車両が入れるかどうか、行き違いが殆どできなさそうな細い道が続きます。この先には人家が1軒と寺院があるのですが、まずすれ違うこたぁないだろうと油断したら、途中で1台の軽トラとすれ違った。
運転してたのはオバさんだった。この道は対向車と行き違いできる場所が決まっていて、待っててくれたようである。また余所者が入って来たと思ったに違いない。
ここに停めた.jpg
ここに停めた。ジャン妻を待たせておいて。
実はこの先もくるまで行けます。寺院があから。
「すぐ戻る」
「無理しないのよ。革靴なんだから・・・」
ここから歩く.jpg
歩く1.jpg
歩いて振り返る.jpg
歩いて見上げたら住居があった。さっきすれ違った軽トラのオバさんはここの住民だったのかも。
このカーヴの先に.jpg
船山温泉の林道、作業道よりガレてない。
ヘアピンカーブを曲がるとその先に、おんな城主の舞台ですよの幟がここにもはためいていた。
その先に何かがある.jpg
仏坂1.jpg
この辺りに旧道があります。旧鳳来寺街道という。幟がはためく坂を仏坂というそうですが、ここで戦いがあった。家康が惨敗した三方ヶ原の前哨戦です。
ドラマでは松平信玄が自ら本体率いて井伊谷に攻め込み、焼き払った後で南渓和尚が直談判していたが、実際に井伊谷を荒らしたのは武田軍の別働隊、率いて来たのは赤備えの山県昌景だった。
山県昌景は遠州に乱入して三人衆の鈴木氏の小城を抜いた。その報を受けた井伊軍(というか、徳川に靡いた国衆連合軍)がこの仏坂で山県軍を迎撃しようとする。
仏坂2.jpg
仏坂3.jpg
仏坂4.jpg
顔触れは例の三人衆他で、井伊家不在の井伊谷城代のモミアゲ男・近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の遺児で重好、井伊に繋がる一族の統領で井平直成という人(井平というのはこの辺り一帯の郷の名でもある)たち。
鈴木重好は直虎に「お経を詠んでください」と言ったあの子ですよ。
鈴木重好15歳.jpg
コウさんは台詞よりもお経の方がキレイで上手ですね。歌手だからね。

井平や鳳来寺街道、仏坂は井伊谷の橋頭堡で、ここを抜かれたら井伊谷は目と鼻の先といっていい。
解説板4.jpg
元亀3年(1572年)10月22日、坂を下って来た山県軍に対して坂を見上げる不利な体勢で、数にも劣る井伊谷三人衆と井平の連合軍は敗れ去る。
井伊直平はこの地で戦死、鈴木の遺児・重好を補佐していた鈴木重俊という人は、「頬当(ほほあて)の下菱縫(ひしぬい)に鉄砲を受けて・・・」、享年僅か22歳で戦死した。2人とも鉄砲の被弾で絶命したそうです。
他、この戦いで亡くなった井伊勢の戦死者88名か、武田兵と併せて88名かがここに眠っている。
四畳半ほどの塚が盛り上がり、自然石が積まれていた。
解説板1.jpg
解説板2.jpg
井伊の残兵は山中に3日間隠れてその後で逃走、井伊谷城を放棄したのです。
山県軍はこの後で取り上げる井平城も抜いた。上州でもそうだったが放火乱捕りが大好きな武田軍は飢狼のように奪う気満々でやって来て、龍潭寺他あちこちを焼いたらしい。武田軍がやたらと荒らすのは上州でもそうだったがクセのようである。
井伊谷城炎上3.jpg
本当にこんなところで合戦があったのか?と思ほど狭い印象。
旧鳳来寺街道1.jpg
現在の舗装された道幅ではなく、こんな細い道で激戦に。。。
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旧鳳来寺街道2.jpg
これが旧鳳来寺街道で、命を狙われた幼い頃の井伊直親が、今村藤七郎と隠れた場所が500m先にあるらしいが、行くのは止めといた。私は直親には共感できない。
行かなかったけど.jpg
逃げる亀.jpg

解説板3.jpg
三人衆(鈴木は遺児)は自ら出張らず援軍を出しただけかも知れないが、井平直成はこの戦いで亡くなっている。
兵力に差があるし、戦場慣れた場数でも圧倒されたに違いないが、逃げずに山県軍に立ち向かった井平直成とは何者なのだろうか?
井伊?井平?紛らわしいですが。
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