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天明3年7月8日(旧暦) [隠れ郷土史]

自分が思うに、興味が無いのに中学高校で日本の歴史なんぞを学ぶのって意味あるのかなと。
学ぶのなら近代史からでいいと思うのだ。
むしろ、数学、英語、工学、商業過程とか。そういうのを学んだ方がいいと思った。
歴史や古文は趣味の世界でいい。好きなら覚えられるのだから。
資料館1.jpg
鎌原城で靴裏が泥だらけになったので、その辺りの濡れた草で靴裏を拭いてから妻恋村資料館に入った。
資料館2.jpg
資料館3.jpg
館内は天明3年(1783年)の浅間山噴火で発生した吾妻土石流による鎌原村の埋没と、そこから出土したもの、そういう世界でした。
私は出土品ってあまり興味ないのね。そこで何が起こったのかを知るだけでいい。
受付、事務室に職員さんが3人か4人いて暇そう(失礼)に見えた。人件費多くね?って。
「2階でビデオ上映されているのでご覧になってくださいね~」
ビデオ観ました。都会にいたらまず知り得ない内容だった。
噴火2.jpg
日本史に興味が無くても、江戸時代の天明の大飢饉という災害を何となく覚えている方はいるでしょう。
それは飢餓民衆が喰うものなくて餓死者の人肉まで喰らった凄まじいイメージが残っているからだと思う。
この飢饉の説明の中では必ずといっていいほど浅間山が噴火したと記されている。浅間山の噴火のせいで火山灰が降灰して農作物が全滅したとか、火山ガスのせいで太陽の照りが少なくなり、農作物が少なくなったとか、そういうイメージを抱きがちだが。
実際はそう単純に浅間山の噴火だけが天明の飢饉の直接的な原因とは言い切れない。同年のの岩木山(青森県弘前市)が噴火、アイスランドのラキ、グリムスヴォント、並んだ2つの火山が長期噴火、火山ガスが成層圏まで達して粉塵が地球の北半分を覆った為ともいう。
浅間山が噴火ししたから天明の大飢饉に突入したというのではなく、浅間山の噴火は起こっていた飢饉に拍車をかけ事態を更に悪化させたのである。

天明年間、農作物が不作になり、東北では餓死者の肉を喰らい、疫病が流行り、農民が農村から逃げだして江戸や地方城下町に流れて治安が悪化、米価が高騰して江戸や大阪では米屋の打ち壊しに発展、米経済に依存していた幕府の屋台骨が揺らいでいく。時の老中、田沼意次が打ち出した商業主義改革の中に、温暖な地域で成長するイネを寒冷地に作付けしたので、上手く育たなかった失敗があったとも。

では天明3年、浅間山が噴火した時に現地で何が起きたのか。
外の掲示物3.jpg
史料を基にかいつまんで述べます。私が今いる鎌原村は浅間山火口から北12kmにある。大噴火した日は旧暦で7月8日、噴火して押し寄せた土石流が時速100km(どうやって弾き出したのかこの数値?)で押し寄せて村全体が壊滅する。吾妻土石流といいます。
外の掲示物2.jpg
土石流は吾妻川に流れ込み、その辺りで吾妻川を堰き止めて天然ダムになってから決壊、下流に大洪水を起こし、吾妻川沿いの村々を押し流し、その被害は利根川沿いから江戸川、銚子、江戸湾まで及んだのだがこの項では鎌原村の記載に留めます。村全体は5m~6mの土砂で埋まり、唯一この観音堂だけが残った。
外の掲示物1.jpg
たまたま村外にいた者と観音堂に上って助かった者で生存者僅か93人、犠牲者は477人、477人の中には石段を駆け上がってくる途中で間に合わずに犠牲になった2名が含まれる。
観音堂.jpg
現在の鎌原観音堂には赤い太鼓橋が架かっていて、僅か15段の石段を登るだけで観音堂の前へ行けるが、登る前に太鼓橋の前で立ち止ってみる。
後年の発掘調査で石段は50段あった。現在現れている石段は下から数えて35~50段目なので、往時の入り口は35段下にあった。
観音堂で発掘されたもの.jpg
埋没石段.jpg
埋まっている11段目で前述の2名の遺体が発見された。折り重なっていた。足腰弱い母を背負って逃げた女性、母と娘と伝わる。
太鼓橋下を除いてみる。
太鼓橋.jpg
あと少しだったのに。
助かったかも知れないのに。
太鼓橋下.jpg
石段を登ってみた。往時の階段なのでひとつひとつが小さいです。
観音堂の右隣に会館があって座敷の上にテーブルが置いてあり、爺さん2人婆さん2人がお茶を囲んで談笑しておった。集会場を兼ねているらしい。
観音堂周辺には廃れた売店跡が幾軒もあった。土産物を売る観光地にはなり損ねた感がある。
観音堂石段見上げる.jpg
鎌原村は火山灰で壊滅したので東洋のポンペイ、群馬のポンペイなどと呼ばれる。郷土資料館には当時の様子や絵図、発掘された出土品が展示してある。(撮影禁止です。)
がだがポンペイと決定的に違うのは、現在のポンペイは遺跡で居住者はいないそうだが、鎌原村は生存者が避難先で新生活を始めたのではなく、生き残った93人の住民が鎌原村にまた戻ってきて村を再建したことです。
その再建の仕方が凄い!!
観音堂石段見下ろす.jpg
でかける前にジャン母がこんなことを言っていた。
「また群馬に行くの?ホントに群馬でも会津でも山梨でも同じとこばかり行くのね。」
いいじゃねぇかよ。
「どこに行くの?」
嬬恋村へこれこれこういうのを見に行くと言ったら、
「お母さんが生まれる前だから明治の頃かしら。(実際はもっともっと前)栃木県のどっかで火山が噴火して、村が埋まって、そこの生き残った住民同士で夫婦をやり直したって聞いたわ」
栃木県と大きく勘違いしているが実はそれが鎌原村です。生き残った住民同士で血縁を築きなおしたといふのだ。
現地の史料にもビデオの紹介にもあったが、生存者たちが前途を悲観して離散しかかったところへ近隣村の有力者たち、大笹村の黒岩、千俣村の千川、大戸村の加部、3名の名主たちが世話役になり、廃墟になった鎌原村にまず2棟の小屋を設け、生存者を仮に住まわせた。
往時は武士階級は当然だが農民たちにも家筋や氏素性に拘り挨拶等でも差別があったのだが、前述の3名の名主たちは鎌原村の生存者93名に対して、「これだけの大災厄に見舞われても生き残ったのだから、互いに新しい一族、家族である」と諭し、農民内での身分、格差、血筋を取り払って互いに親族の宣誓をさせた。要は婚姻、養子縁組をして新たに纏めたのです。
夫を亡くした妻と妻を亡くした夫で再縁させる。
子を亡くした老人に親を亡くした子を養子にする。
大災害の数か月後の10月24日には早くも7組、12月23日には3組の祝言をあげているというから凄い。
幕府は10月に普請を開始している。田畑29町歩の再開発と、4287間(7800m)の道路普請、草津村からの普請従事、幕府の負担金850両、被災しなかった田畑4町5反や、その後の再開発田畑は93名に均等配分された。
幕閣の救済が早かったのは鎌原村は天領だったからではないだろうか。そこらの貧乏大名ではそうはいかないだろう。

現在の鎌原村です。住宅は天明の大噴火の頃から5m~6m高い筈。浅間山から押し出された土石の上に建っています。
現在の鎌原村1.jpg
現在の鎌原村4.jpg
天明三年浅間やけ碑.jpg
パンフ.jpg
ウチの群馬の社員たちはこのネタを知らない子ばかりだった。
幾人か聞いてみたのですが「??」だった。
加えて地震や災害への緊迫度が薄い。群馬では地震が起きないと思っている。確かに少ないが。
雷銀座で大雨降って水位が上がっても川が氾濫した話はあまり聞かない。
もうすぐ各支店に配布した備蓄品、非常用食料の賞味期限切れが迫っている。これで2回めです。それらは廃棄稟議を上げて認可されたうえで、自家消費されていいことになっているのだが。
「東京と同じに考えられて配布されても。群馬って災害無いですよ」(笑ふ女)
「群馬は地震はないが、浅間山が噴火したらどーするっ」
「それっていつ噴火するんですか?ぶふふっ(笑)」
噴火.jpg

このネタのタイミングで噴火??
コメント(9) 

コメント 9

熊猫

ジャンさん。
これは興味深いですね。鎌原村のこの話は知りませんでした。

そして、このタイミングに浅間山の噴火。
ちょっと怖いですね。
by 熊猫 (2019-08-08 13:47) 

くまねこ

こんにちは。

自分が生きて来た世界の歴史を知ることは、
意味があることだと思います。
どういう考え方、事情を経て今の社会になったのか。
でも、細かい年や人の名前までは覚えなくても、と。
おっしゃるとおり、興味が出れば自分で調べて覚えるでしょう。
大まかな流れを教えればいいのに、細かく覚えさせようとして、
かえって覚えられなくしている気がします。
by くまねこ (2019-08-08 17:19) 

佐奈田堂

人間ってのは、つくづくズ太い生き物ですよね、なんというか逞しい・・
どん底からでも、気力があれば何度でも何度でも這い上がります
by 佐奈田堂 (2019-08-08 19:06) 

船山史家

熊猫さんこんにちは。
現地の現代っ子は全く知りませんでした。嬬恋?キャベツの里でしょ?程度でしたね。自県の史話に目を向けないみたいです。
自分よくあるんです。Upのタイミングで何かが起こることが。今回の噴火もそうですが、人間ドラマなんかでもUpした途端に主人公が辞表出したり、ネタを取り置いてたらその店がクローズしちゃったり。
今日Upするネタも、昨夜「えっ??」って思うことが起きました。
by 船山史家 (2019-08-09 06:08) 

船山史家

くまねこさんこんにちは。
初コメですかね。訪問ありがとうございます。
現状から前へ進むことが大事ですが、自分が今いる場所の経緯を知ることは意味、意義があることです。こういうことが前にあった、今はこうである、では自分はこれからどうする?です。な~んてエラそうに言いますが、自分は年号が苦手で史学の成績よくなかったのですよ。自分が興味を持ったネタだけ着眼するので成績に繋がりませんでした。
流れ、ポイント、だけでいいと思います。興味があれば掘り下げればいいの。
古代史や中世史は学者さんの世界でいいと思いますが、近代史は今の子に覚えさせた方がいいように思いますね。
by 船山史家 (2019-08-09 06:15) 

船山史家

佐奈田堂さんこんにちは。
今回は嬬恋~沼田も回ったので、信州から入った真田さんのネタも入りますよ。真田の里の幟があちこちにありましたが。
今回の件は逞しいネタでした。衝撃を受けました。行ってよかったと思います。そこで起きたことを見て、出土品には目もくれませんでしたけど。
「二度と立てぬ痛手さえも 受け入れてく 不思議だ人は」(浜田省吾 Pain)
by 船山史家 (2019-08-09 06:20) 

お名前(必須)

私はポンペイには行ったことが有りまして、たった1日のオプショナルツアーだけでは到底廻りきれない大規模な遺跡でしたよ♪
日本とは違って古代ローマはローマンコンクリートを駆使した建物ですから、火山灰や憤石や溶岩がドームの役割を果たして見事に文明を保存してくれてましたからね(^o^)/
ポンペイの発掘によって古代ローマの生活の全容が、飛躍的に判明したと言われてます。
特に当時の暮らしを如実に伝えてくれたのが、ローマ独特のモザイク画だそうです。
by お名前(必須) (2019-08-09 16:44) 

モノノフ

あれ、モノノフって名前も書いた筈なのにまた消えてますわ、ポンペイのコメントは私が書きましたよ~♪
by モノノフ (2019-08-09 16:47) 

船山史家

モノノフさんこんにちは。
ポンペイ行かれたんですか。あそこは規模がデカそうですね。(とうとう海外に一度も行かず。)
石段の下で発見された2人の遺骨は女性、背負われていた方は推定年齢45~65歳、背負っていた方は推定30~35歳、血縁関係はわかりません。
途中で転んだ人を助けたのか。
あと少しで助かったのに。一掬の涙無きを得ないです。

まぁ文体を見ればどなた様かだいたいわかります。リンクしてるBBBさんとこでも「あ、これモノノフさんだ」わかりました。ソネブロ同士だと名前が入ったまま固定されるのですが、他Blogからだとお名前入れなきゃならないようですね。

連日の猛暑でバテ気味でこの私が日本酒飲んでません。飲みたい気にならないのです。体調と影響を考慮して焼酎オンザロックか水割りですよ。
by 船山史家 (2019-08-10 07:13) 

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