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穴澤一族 会津北の防人へ還る? [会津]

檜原を落ち延びた穴澤一族に転機がやってくる。
天正17年(1589年)6月5日、磐梯山麓摺上原で蘆名は伊達に大敗北する。常陸の佐竹家から養子に来ていた最後の蘆名家当主・義広は実家の佐竹家に逃げ帰り、400年に渡った蘆名氏の会津支配は終わる。
摺上原1.jpg
摺上原2.jpg
穴澤一族は摺上原には参戦していないらしい。そんな余力も無かっただろう。
蘆名氏は会津から逃げ出し、諸将が政宗のもとへ膝を屈する中で穴澤一族は大塩村から退去し、会津盆地南にある旧寺入村・道地窪(ドウジクボ)の山中に隠れ潜んだ。
道地窪は会津美里町から南へ4kmほど下った辺りです。
史料3.jpg
会津図書館稽古堂の史料によると「ここが穴沢一族の隠れ里!」とあって、穴澤氏が文明18年(1486年)から寺入村や道地窪を支配しており、そこには金銀の鉱山もあったという。
yahoo地図見ると今でも道地窪という地名はあるようです。
道地窪.jpg
伊達政宗は蘆名家中を黒川城(現在の会津鶴ヶ城)に参集させる。多くは屈服したが、いち早く寝返った猪苗代氏、長沼氏(会津田島)以外に南会津の雄で伊南の河原田氏と伊北の山ノ内氏が従わない。穴澤一族は山ノ内氏の庇護下にあったとも。河原田氏と山之内氏は徹底抗戦する。

だが伊達政宗の会津支配は長くない。
摺上原合戦後、蘆名義広が逃げた後の黒川城(会津若松)に入城したのが天正17年6月11日。
政宗が若松市本町の小館で実母に毒殺されかけ、危うく一命を取り留めたのが翌18年4月5日。
相州小田原城を囲む秀吉への謁見にギリギリ間に合って首は繋がったのが同年6月5日。
太閤秀吉が背炙り峠を越えて会津に入ったのが8月9日。
政宗の会津支配は僅か1年足らずで終わる。奥州仕置でせっかく手中に収めた会津は取り上げられた。蒲生氏郷が入った。
大邦を得た蒲生氏郷は家臣を募集する。この時に穴澤助十郎以下一族も蒲生家に出仕して檜原へ帰ったようです。
蒲生氏郷が会津に置かれたのは伊達政宗への警戒、備えの為だが、穴澤一族を檜原に戻したのは、一族が帰りたがってたのもあり、檜原が雪深いこともあり、伊達を信用しない秀吉政権の意に適うものでもあった。
故郷の檜原に帰った彼らがどのような役職に就いたか記載が無いのですが、おそらく前と同じような役目、関守や国境警備の役人ではないかと思う。関所(口留番所)の役人を勤め、横目付や徒歩目付や番士を置いたのではないか。
有名な箱根関は小田原藩士が1ヶ月交替で勤務したらしいが、穴澤氏を置いておけば交替の必要はない。常勤で据え置かれたのでしょう。
檜原宿.jpg
檜原は自分たちが支配されていた頃より大きくなっていた。政宗が旧檜原や米沢から移住させた者たちで更に拡張したのです。会津稽古堂の史料では「新編会津風土記」(文化6年、1809年)に59軒あった。
蒲生氏郷は検地をする。いつの時代も納税者は過少申告するものだが太閤検地はそれを許さず全国統一の単位で測りなおした。この検地は納税者たる農民には当然厳しく、土地によっては兵役を割り当てられる収税者の武士にも厳しい結果になるのだが、檜原の取れ高もこの頃、明らかになる。どれくらいだったか?
文禄3年(1594年)に調べた「領内高目録帳」という帳面には檜原の石高は僅か40石でしかない。大塩村の1030石と比べてかなり少ない。
寛政元年(1789年)の「会津鑑」には無高と記されているそうです。
そういう地だけに穴澤一族は会津の支配が蒲生氏、上杉景勝、加藤氏と変わってもそのまま檜原に居住する。彼ら施政者にしてみたら極寒豪雪の地にいてくれる存在だから願ったりだったのかも知れない。「そこに居たいんだったら居れば?」と思ったのだろう。
でもまぁメデタシメデタシである。

ここで一つの挿話を。
穴澤新右衛門俊光の長男・俊次(広次)という人が善九郎=善右衛門と混同されていることは記載しました。この穴澤善右衛門の挿話で嘘かホントかわからないがちょっと隅に置けない話がある。
現地の学者さんのHPでは、「穴澤善右衛門という人は伊達政宗の檜原侵攻の時は小田原に視察に行って不在だったので、後年蒲生氏郷の時代に檜原に戻った武勇に優れた人物です」とある。穴澤一族が蒲生氏支配の時に檜原に戻ったとはっきり記載されているのはこのHPからに依ります。
その善右衛門が磐梯山の西にある温泉へ妻子を連れて湯治に来ていた時、そこに棲む魔物で黒猫を退治した伝説がある。
昔語りの伝説なので物語は省略しますが、穴澤善右衛門が魔猫を斬った刀は、穴澤氏初代俊家が当時の蘆名家当主・盛高から「盗賊退治に行ってくれないか」と懇願されて檜原に赴任し、この記事にも登場する旧米沢街道沿いの物見岩、中ノ七里で退治した兇賊を斬った(捕えた)際に蘆名盛高から賜った名刀で、後に猫切丸と名づけられた。
魔物の黒猫が切られた岩を猫石(1335m)、それは猫魔ヶ岳(1404m)に繋がる。現在の磐梯山西にある雄国沼の外輪山ですね。近隣にあるスキー場名でも名高い。
裏磐梯猫魔スキー場の猫魔の名前は穴澤善右衛門が魔猫を退治した伝説に基づくのだろうか?
善右衛門が湯治した温泉は磐梯ゴールドライン途中から登山路を往くと辿りつく中ノ湯温泉らしい。現在は中ノ湯温泉跡、廃業しています。
猫魔.jpg
化け猫退治の伝説はさておき、後年、寛永20年(1643年)に保科正之が会津に入封してからは穴澤助十郎広次の子、光茂という人に禄が与えられ、穴澤一族は幕末まで会津藩士として生きる。なので幕末に詳しい人なら横須賀浦賀に穴澤氏の墓があるのに違和感はないでしょう。幕末の海防政策で相州横須賀にやって来たのです。
そこへ行くには京急で横須賀市浦賀駅(京急浦賀線終着駅)から久里浜行バスに乗車して、浦賀警察前、ドック前、3つめのバス停紺屋町で下車すると右に小高い丘がある。
麓から見上げる.jpg
麓に叶神社、延命山東福寺と2つの神社仏閣があって、東福寺の境内を上った丘の頂上に、鹿目家、橋本家、そして穴澤家の墓がある。この墓所へ行くには麓から平場も含めて数えてみたら243段もの階段を上がらなくてはならない。結構コタエます。
東福寺の参道に入り右手に駐車場を見ながら境内の階段を上がり、本堂の左手にある階段を上がって墓所の中を歩きます。
階段を上り切って頂上のお寺の墓域を出ると住宅街に出るのですが、最も崖に近い側の住宅沿いに右手の細い未舗装の道を緑色のフェンスに沿って行くと、どういう人かわからないが「文覚上人庵跡」の石柱があって、そこが会津藩士墓地になっていた。
フェンスの先に.jpg
文覚上人庵跡.jpg
穴澤家の墓碑.jpg
私は原則、供養塔以外のお墓は撮らないのですが、穴澤氏が存続したこと、私自身がこの地に来て確認したという証の為にお墓全体ではなくお名前だけ撮影しました。掌も合わせましたよ。アナタの祖先が檜原で戦った故事に興味があります檜原にも行って来ましたってね。
墓の裏を見たら明治だった。穴澤與十郎という人で会津藩林砲兵隊寄合組だそうです。寄合だから中士。戊辰戦後は他の藩士とともに高田に幽閉され、斗南にも行っているようです。
明治の墓だけではなく背後の海側に小さいながらも近年建立した新しいお墓もありました。それは撮っていません。
他にも2家の墓があっていずれも旧会津藩士です。幕末の海防政策でこの地にやって来たものです。

私がこの地に来たのは穴澤一族が幕末明治まで存続したのをこの目で確かめる為に来ただけなのですが、山岳戦闘集団だった穴澤氏の墓が海の見える丘にあるのは違和感とまで言わないが、意外な気がする。青い海を初めて見た時彼らはどう思っただろうか。もっとも彼らが海を初めて見たのは相州の海ではなく、会津藩が幕命で文化4年(1807年)に北方警備を命ぜられた時かもしれない。
浦賀港2.jpg
穴澤家の家紋.jpg

でもやはり彼らの故郷はここ檜原(桧原)です。かつての村は湖底に沈んでいますが。
桧原湖1.jpg
桧原湖2.jpg
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桧原湖5.jpg
桧原湖4.jpg
穴澤一族はメディアで取り上げられることはまずない。肖像画も無いし、現代の戦国ゲームにもないようです。
檜原に行けば簡単な記述はあるが、彼らが会津北の国境に長年据え置かれ、雪深い山郷で耐えながら3度に渡って外敵から会津を護ったようにアピールしていない。
彼らが檜原に帰ろうとした執念、想いは最後には叶うのです。檜原は彼らにとって最初は意に沿わぬ極寒の地だったが、歳月を重ねて馴染んで自分たちの故郷にした。
穴澤氏の五輪塔(現在の集落から).jpg
穴澤一族は何を護ろうとしたのか。
檜原で産出される金か。それもあっただろうけど、彼らが金を手にして豪奢な暮らしをした訳ではないです。
蘆名家に義理立てしたとも思えない。檜原にいると蘆名家中での競争とも無縁だったような気がする。
そこで彼らが護ろうとしたものは単に自分たちの故郷とささやかな暮らしです。「そんなの当たり前だろ」って泉下で笑うでしょう。
最後に1枚の写真を。
ご子孫でしょうか.jpg
ご子孫でしょうか。小田山の麓の道路沿いで偶然見つけました。(この項おわり)
コメント(10) 

コメント 10

某

とても勉強になりました。
近しい親戚に檜原の出の穴沢がおり、
自分のルーツの一端を知ることが出来ました。
by 某 (2017-09-12 12:33) 

船山史家

某さんおはようございます。
少しでもお役に立てましたでしょうか。ご親戚の方によろしくお伝えください。自分の足でも歩きましたが、内容は他からの転用が多いので、何か細かい差異があったらご容赦願いますね。
今年も行ったんですよ。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-06-06
会津山塩ラーメンの塩は穴澤一族も摂取していたと思います。私は日本一高いところ(高所)にある日本一高い(高価格)塩ラーメンだと思ってますが(笑)化学調味料ゼロで優しい味でした。
by 船山史家 (2017-09-13 07:20) 

もみじ

今晩は。よく調べてくださってあり、感謝です。私も北塩原の塩の効いた温泉で育った穴澤です。先祖にとても興味があるので、あなた様の記事は有り難いです。なぜ、あなた様は穴澤家に興味をもたれたのですか?
by もみじ (2018-11-16 20:52) 

船山史家

もみじさんこんにちは。
ご訪問ありがとうございます。
会津の書店に行くと郷土史のコーナーがあって戊辰ものが圧倒的に多いのですが、中世・蘆名時代のものが少ない中で、たまたま購入した書籍に穴澤一族が載っていたのです。
彼らが自分たちの故郷を護る為に山岳戦で伊達軍を3回も撃退したのが痛快だったのですが、あまり知られてないし、現地でもそれほどヒーロー扱いされてないし、ネットの世界にはあまりUpされてないので、じゃぁ自分が拾い集めて現地も見に行って取り上げようと思ったらハマってしまいました。
最後まで蘆名渦中を裏切らなかったのと、故郷へ還りたい気持ち、現地の風景(往時は湖は無かったですが)にも心が打たれたのだと思います。
またよろしくお願いします。
by 船山史家 (2018-11-17 09:33) 

もみじ

おはようございます。御返事ありがとうございました。そうでしたか、会津の方かと思いました。私は会津の感性が遺伝子に強く組み込まれてるらしく、子供頃育ちましたが、気になって仕方ないです。防人の思いは、遺伝子的にわかります。
父から昔、穴澤博物館?資料館が、喜多方付近にあったとか、柏木城はうちの土地だったとか聞いたことがあって 昔が気になりますが、なんせ、歴史が全く苦手で時代背景がなかなか頭に入らず、穴澤の戦いの本も10年前から読まずに飾ってあります[冷や汗2]
船山さんのブログは分かりやすく、また私の潜在意識にある、不思議が納得できる感があります。先祖の苦労に心を寄せ、供養したい気持ちが、子供の頃からあり、変な子供でした。会津を出て30年以上たっているのに、福島出身と言ってしまう自分にちょっと笑えます[るんるん]会津の血が流れてることに、誇りを感じるのは、先祖の思いなんですかねー[わーい(嬉しい顔)]
いつか家系図を見たいですね~[わーい(嬉しい顔)]
歴史が苦手だけど、少しずつ、ジグソーパズルをはめて行きたいところです。
なので、船山のお陰で前進したので、パズルを楽しんでやっていきたいと思います。
他の穴澤のブログも拝見させて頂きます[ぴかぴか(新しい)][ほっとした顔][ぴかぴか(新しい)]ありがとうございます。長々すいません〓
by もみじ (2018-11-19 07:54) 

船山史家

もみじさんおはようございます。
はい、自分は神奈川県民です。(1年だけ群馬県民でしたが。)
最初に会津を知ったのは小学生の頃でした。(学研マンガの過去記事)
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-06-29-1
多感な高校時代に「獅子の時代」にハマりました。今はDVD全巻持っています。
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-08-06
そして湯野上温泉の蕎麦宿に20年通い(年3回ペース)、若松市内の「麦とろ」と仲良くさせていただいております。
20年の会津行程で若松駅前にある岩瀬書店で史料を漁っていて、数多くある戊辰戦争資料の中に、蘆名時代のものがちょこっと置いてあったので購入、穴澤一族を知る次第になりました。
彼らがいた頃、まだ檜原に湖は無かったですが、檜原湖を見ると落ち着きます。猪苗代湖は五色沼方面ほど観光客いないし。
国道459号線を下っている時に柏木城、綱取城の前を走りますが、まだ郭内に踏み込んだことはないのです。
>山さんのブログは分かりやすく・・・
ありあとうございます。まぁわかりやすく面白く書いたつもりです。史実はもっと単純な素っ気ない戦闘だったかも知れません。

本稿とは関係ないかもですが。
新潟県魚沼市に鷹持城という山城があって、室町時代初期に穴沢長宗という人が築き、穴沢氏の居城となったとあります。
越後穴沢氏は上田長尾衆の配下のようです。上杉家の家臣として明治まで続いたとか。同族でしょうか。
by 船山史家 (2018-11-20 06:57) 

あなざわ

最後の写真のクリニックの院長の兄です。私たちの祖父も穴澤一族に興味があり、実際、いろいろ旅して資料を探したそうです。きおくはさだかではありませんが、秋田にアナザワ村?があったとか、もともと北関東の盗賊のような一族が雇われて檜原湖に封印されたとか話を聞きました。また檜原戦記?という本があり、子供の頃に、このぷろぐで書かれていた様に、俺たちの先祖は、酒を飲んで風呂に入っている間に滅ぼされた間抜けな一族だ、などとよく聞かされました。ちなみに、穴澤の本家では江戸時代頃から伝わる、家系図の様なものがあるそうです。古い写真の控えを一度だけ見たことがあります(農民になったのになぜ穴澤が続いているのかは謎です)。
大変、勉強になりました。ありがとうございました。
by あなざわ (2019-05-22 18:22) 

船山史家

あなざわさんこんにちは。
拙Blogにお越しいただきありがとうございます。
出典は檜原軍物語、奥羽永慶軍記、栄町近くにある会津図書館(稽古堂)他です。若松駅前の岩瀬書店に行けばあるかも知れません。どの史料でも「風呂場で討たれた」これは真実のようです。
自分は会津に年に3回、桧原湖には年に1回か2回は訪れております。ただ行って湖畔を走り眺めるだけで、穴澤加賀自刃の地まで歩いたことすらありませんが、現地にある解説板を見ても蘆名家中での北の橋頭堡だった記載はないようで、彼らが極寒の山郷で耐えながら3度に渡って外敵(伊達軍)から会津を護ったようにアピールしていないのがもどかしくて取り上げました。書いてるウチに自分でハマってしまい、私の中で彼らはローカルヒーローなのです。
でも彼らは「俺らは北で会津を、蘆名家を護るんだ」という意識は薄かったかもしれません。自分らの暮らしを護ろうとしただけでしょう。
クリニックのお兄さんでしたか。穴澤で検索したら、博労町通りに穴澤病院、七日町に穴澤工務店、磐越西線のS字カーヴの辺りに穴澤建具、喜多方にも穴澤建設、穴澤果樹園他、幾つか穴澤さんがおられるようです。逆に帰農したからその地で続いたのではないでしょうか。
ご訪問ありがとうございましった。
by 船山史家 (2019-05-23 05:46) 

浦賀のお墓の子孫です。

 初めまして。ブログ楽しく拝見させて頂きました。毎年、掲載されている写真のお墓に墓参りに行っている子孫です。
 浦賀の穴澤家は福島より殿様を連れて移住したと記録として残っているそうです。会津にも親類がいるそうで、戦時中は疎開先として、お世話になっていたそうです。そのような人との繋がりがあると歴史って面白いですよね。ゲームの話になりますが、「信長の野望」の蘆名家に穴沢俊光という武将がいます。ゲームであっても自分の祖先が出てくるので嬉しい気分になります。・・・まぁ、むちゃくちゃ弱いですが(大爆笑)。
 家紋は横須賀に移住した際にバレないように変えたと言われているそうです。「元に戻したいなー」と最近は親類で集まった際に話しています。
 ぜひ、両親にもこのブログ見せたいと思います。素敵な内容ありがとうございました。
by 浦賀のお墓の子孫です。 (2019-06-08 18:00) 

船山史家

浦賀の御子孫さんこんにちは。
拙Blogにお出でいただきありがとうございます。家系に繋がる方からコメントをいただくのは嬉しい限りです。
年に2~3回会津に行きますが桧原湖も必ず行きます。行って何するでもなく湖畔を走るだけですが。静かで観光地化してないところがいいです。道幅も年々広がって走り易くなりましたね。
あの辺りは熊が出るそうで、分け入ったことはありませが。私は集落で猿を見たことがありますが熊に遭遇したことはないです。
信長の野望に穴澤俊光さん登場しましたね。穴澤一党は同じような名前の者が多くてわかり難いのですが、俊光さんは風呂場で散華した新右衛門尉のことです。
家紋を変えたのには何か理由があったのでしょうか。浦賀に移住して初めて食べた海産物は美味しかったかと思いますが「海の塩より会津の山塩の方が旨いぞ」と思ったかも。
ご訪問ありがとうございました。
by 船山史家 (2019-06-09 07:05) 

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