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ラーメンスクエアニューフェイス [隠れ郷土史&ラーメン]

私がよく出向く立川市の公用先が移転することになった。建て替え工事らしい。
建て替える必要あるのかな。現状でもまだまだ充分営っていけそうだが。工事は平成32年の春までかかるそうで、その間の最寄駅は南武線の西国立駅になる。
先日、現庁舎に最後に出向いたら、担当官の窓口に移転先の地図があった。
「次回はこっち(仮庁舎)ですね」
「ハイ。2月の〇日までこちら(現庁舎)で受付ます。それ以降はこちら(移転先)で」
「西国立駅から歩けるんですか?」
「歩いて・・・10分ほどです」
ってことは15分だな。それくらいなら立川駅から現庁舎までとさほど変わらない。歩いて行けますか?の質問の裏には、西国立駅界隈って飲食店あんのかな?
さらば立川.jpg
そうか。立川駅界隈ともしばしお別れか。
東京からでも横浜からでも立川だとちょうどランチ時になるのです。数軒行きました。
真っ暗な店内で真っ白い麺「鏡花」
醬油スープが絶品「とと本店」
初めて食べた油そば「宝花」
愛想の無いオバちゃんだが味はいい「丸幸」
大正元年創業「福来軒」
ワンコインランチ、これで営っていけるの?「得得屋」
クローズ前の一期一会だった「HARUPIN」
大好きだった街角中華「みよし」
みよしは「Kishi」になった。
そしてラーメンスクエア。。。
フロア入口.jpg
タレントたち.jpg
仮庁舎移転先は南武線ひと駅の西国立駅。なのでまた来ようと思えば立川に来れますが、しばしのお別れ?に、ラーメンスクエアに寄ってみた。
私が好んでいた「絆」は出てってしまったが、タレント店主たちの顔触れが若干変わってる。
「いちや」、「萬燈行」は長いね。「恵比寿」も。このフロアが居心地良くなっちゃったんだろうか。
重たそうなのは避けて醬油系か塩系統を探したら。
ジャンドウ1.jpg
マイスター.jpg
スタジアム.jpg
「醤道」(ジャンドウと読むらしい)
券売機の前に立ったらすぐさま「いらっしゃいませ」が店内からトンできた。
なんだいこれは.jpg
何だこれはぁ!!
って思うでしょ?思いません?
知らない人が見るとスープを吸って伸びたラーメンみたいでしょ。そうではなくてスープが少な過ぎなのですよ。

麺はメチャメチャ美味い。決して太い麺ではないが噛み応えがあり、麺に既に味が付いているように思った。でも醬油マイスターとまで豪語するほどでもないよ。
ラーメンを喰ってる感じはしなかった。器は小さいしスープも麺も半分ほどのボリュームしかないんだモン。
スープが少な過ぎる.jpg

湯きりや1.jpg
湯きりや2.jpg
次に「麺肴ひづき湯きりや」
この店は黒醤油拉麺と醤油麺コクにごりがウリだが、私がオーダーしたのは丸鶏清湯麺という中途半端なシロモノであった。
スープはまぁ無難ですが、麺に噛み応えが全く無かった。むしろ黒々としたメンマの方が味も浸みて噛み応えがあったね。
ルックス.jpg
スープ.jpg
チャーシュー.jpg
メンマ.jpg
やはりこの店のウリ、黒々した醬油系にすれば良かったかも。
では立川を去る前に、お蔵入りしていた曇空天下の小散策記を。
普済寺.jpg
立川市の行政から南、中央本線が残堀川を渡る脇にある普済寺。
立川氏(立河氏)という豪族がいた。立河宮内少輔宗恒という人。
ここへは立川駅~行政~徒歩でトコトコ歩いて来たのですが、途中で29号線の旧動(旧奥多摩街道)で西に向かうのを新道(新奥多摩街道)まで出てしまい、多摩川の支流、残堀川が多摩川に合流するところまで出てしまった。行き過ぎたのです。仕方がないので残堀川に沿った散歩道を歩いた。
散策路.jpg
しばらくしたら目指す寺が見えるのだが、そこからすぐに寺に入れない。
中央本線まで歩くハメになり、そこの坂を上がって川を見下ろしたらかなり比高差があった。南に残堀川が流れる河岸上にあったのです。
上ったら場所は寺の裏手の墓地で、ぐるっと迂回して寺の正門に廻るアルファ運動をするハメになってしまった。行き過ぎ迂回して倍の距離を歩いたのである。
歩きくたびれて辿りついたら100m方形の館で遺構はこの程度。
館跡を示すもの.jpg
土塁跡1.jpg
土塁跡2.jpg
達成感が殆ど無く立川駅まで歩いて帰る気力が失せた。歩いても立川駅より近い多摩モノレールの柴崎体育館駅方向へ足を向けたら、小公園にタクシーが停まっていた。
公園のタクシー1.jpg公園のタクシー2.jpg
運転手がいないんです。
さては公園のWCで用を足しているな。
このタクシーで立川駅まで帰ろうと決めた。運ちゃんがWCから出てくるのを待ったがなかなか出て来ないのだ。
しばし待つこと10分ほど。ようやく水を流す音がして運ちゃんが出て来た。タクシーの傍らに立つ私を見てギョッ
としてた。
「いい?」
「あ、いいですよ」
「立川駅まで」
運ちゃんもバツが悪かったようで。終日外を走り回ってるんだから何処にWCがあるか把握してるんでしょう。
私は運ちゃんが〇〇をしてたのをじーっと待ってたというしょーもないオチですよ。
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大将と台場跡 [隠れ郷土史&ラーメン]

大将1.jpg
いつまで工事してる?.jpg
大将のある本牧マリンハウス1号館と2号館の間の工事がまだ終わらない。
いつまでやってんだろ。くるまが停められないじゃないか。このスペースはMAX4台停められる。大将の売上4台減は小さくないぞ。
停められないので最近は中区の公用後、磯子区へ移動する途中でバスで立ち寄ることが多い。本牧通りのバス停、本牧宮原から徒歩5分程度です。
ワカメラーメン、プラス、キムチ皿150円の券を渡しながら、
「キムチ少な目にしてくれ」
大将のラーメンスープはノーマルスープにキムチを加えると劇的に変化する。全く違う味のコクが加味される。2段階、2種類のスープが楽しめるのです。
ところが大将のスタッフは盛り付けに頓着せずド真ん中にキムチをゴソッと力任せに投入するもんだから、2段階のスープが楽しめないことがある。最初っから赤い。
キムチは皿に分けて私自身の意志でちょっとずつ追加投入するようにしている。辛いのが好きな方はいいけど私はキムチは多過ぎてはいけない、少しでいいのです。
キムチラーメンだとプラス100円、キムチ皿だと150円、50円の差がある。そしたら若いのが、「キムチ皿でなくて載せますよ。50円返金します」と言うので結局はこうなった。
キムチワカメ.jpg
スープの色が違うのがわかりますか?
スープ1.jpg
スープ2.jpg
喰い終わって出て、根岸駅行のバス停時刻を見たらまだ若干の時間があった。では来た時に下りたのバス停、本牧宮原に戻ろうかと踵を返したら、大将向かいにある小丘に異変を発見した。本牧十二天、通称で十二天山、護国山ともいうこの丘の麓が緑地帯と小公園化していたのです。
幾つかパネルが立っていた。
本牧十二天緑地2.jpg
パネルをかいつまんで言うと。。。
本牧十二天の由来は源頼朝が鬼門鎮護の為に本牧神社を置いた。(建久3年、1192年)
鎌倉時代に本牧は「平子の郷」と呼ばれ、小田原北条氏の時代には「本牧郷」、江戸時代になってから「本牧本郷村」と呼ばれた。
人口2000人の漁村で、いりこの生産と廻船湊として賑わった。
本牧本郷村には集落が6つあって、間門、牛込、原、宮原、箕輪、台、十二天社は村の総鎮守であったこと。
江戸後期には名所図(絵)に載るようになった。絵に描かれるくらいだから風光明媚だったと思われます。
護国山砲台建設前.jpg
そして黒船来航と横浜開国に絡んでこうある。
「鳥取藩松平家を中心に2500人もの武士が集められ主に海岸線に数ヶ所の砲台が作られ・・・」
大将の向かいの丘、十二天山には砲台があった。護国山台場です。
護国山1.jpg
護国山2.jpg
台場、砲台は、中世武士団の自領自衛や支配層の政治中心部や権威の象徴ではなく、諸外国に対する自衛、対外的なもので、諸外国船が日本沿岸にちょいちょい現れるのを脅威に感じた江戸幕府が、最初に諸藩へ砲台構築の命を発したのは嘉永2年(1849年)のこと。
江戸湾の防衛ラインは当然、江戸城を詰めの城とするもので、、
房総館山から三浦半島剣ヶ崎を大手。
富津、観音崎、千駄先の浦賀水道を第一防衛ライン。
夏島、野島、金沢、富津を第二防衛ライン。
羽田、大森を第三防衛ライン。
品川沖に海中台場11基。
この時、三浦半島防衛ラインの拠点司令部や基地として大船の玉縄城を再修築しようという建議も出た。
イメージ.jpg
公園のパネルにはそこまで詳しく載ってないが、「嘉永6年(1853年)の黒船来航と、それに続く安政6年(1859年)の横浜開港は本牧にも大きな変化をもたらしました」の後に、「本牧の八王子山と十二天山は沿岸防備の為に熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました・・・」
八王子山は現在の市営バス本牧車庫に隣接した崖の上で現在はマンションが建っています。こっちが先に完成したが、開国を迫るペリーの黒船が再来航して上陸した後、ここ本牧十二天の護国山台場にも建設という流れになる。
台場を守備した鳥取藩の藩主は池田相模守慶徳(ヨシノリ)という人。鳥取藩兵が十二天山から八王子山までの本牧海岸を警護する陣営図も載っていた。
鳥取藩警備中の護国山.jpg
砲台、台場の縄張りはわからない。ジャン家の史料には、周囲を土塁で囲い、石塁の砲座上に銅製の砲を鎮座させたという。
訓練でブッ放したとは思うが実戦闘にはならなかった。
古写真2-1.jpg
十二天山(護国山)は終戦時に米軍占領地になって神社は本牧二丁目へ移転した。現在は本牧和田にあります。
(ジャン家の史料にはそれ以前、砲台建設時に神社社務所が兵営になったとある。)台場跡には米軍住居用に給水タンクが置かれた。
いつか日本に変換され、国有地として立ち入り禁止となった。
護国山3.jpg
拡大してみる.jpg
柵を越えて裏からよじ登ろうとすればできないことも無さそうだがそんなことしてお縄になる訳にもいかない。給水タンクが置かれた際にも砲台遺構は潰れたと思う。
古写真1-1.jpg
現在の様子.jpg
ここ一帯はかつては海だったが現在は埋め立てられて風光明媚だった頃や海中砲台の面影はない。崩れないようにコンクリで固めてある。
大将のスタッフもここが砲台だったことは知らないだろう。
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