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体温超過日の散策 [隠れ郷土史&ラーメン]

きそば1.jpg
上野東京ライン宇都宮行で小山駅まで来たところ。
腰が痛い。横浜駅で座れた時は「ラッキー」と思ったが、延々2時間弱のJRシート着座は腰がキツくなる。
日中の東京~小山停車の新幹線は本数が少ない。検索してみたら東京駅で新幹線に乗り換えた方が20分ほど早く着くのだが、その差20分程度だとお得感が少ないので、座れたのをいいことに乗り換えないでそのまま来てしまった。
途中2回ほど寝落ちして、間々田駅を出てから小山駅に着く車内アナウンス。「間もなく小山、小山です。乗り換えのご案内です。新幹線・・・、水戸線・・・、両毛線・・・」
水戸線はまだしも両毛線は高崎行が1時間待ちだったな。
下車しようと立ち上がった。立ち上がる前、前回のように書類を忘れてないかカバンの中を見た。大丈夫。書類があるある。
今頃確認してもどうかと思うが。
前回は大宮駅で反転してジャン妻に改札まで書類を持って来て貰ったからね。今日は大丈夫です。
ホームに下りるべくドアの前に立った。そしたら、「ドアはボタンを押してお開けください」の車内アナウンスが流れたもんだからまたぞろ、「お前はまだグンマを知らない」、のを思い出したよ。「グンマに向かうJR高崎線は籠原駅以降ドアが開かなくなる」のあれです。
だけど小山はグンマじゃないぞ。この先、小金井、自治医大、石橋、宇都宮と、ドアは自動で開かなくなるけどここから栃木県です。
小山駅は籠原駅と違って15両編成を10両に切り離したりしないけど。
ドアボタンの「開」が光ったら、すかさずボタンを押してホームに下りた。
自動で開くのと乗客がボタンを押す、そのボーダーライン(線引き)は何だろう。
栃木県だって小山から先はボタン開閉だよ。グンマだけじゃないんだ。プンプン。
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階段を駆け上がる。
東側にある上り12番線ホームへ下りる。
改札へ向かわないのは冒頭写真にあるように、小山駅の有名な立ち食いスタンド「きそば」に寄るのです。
JR東日本お抱え子会社のお定まりの味とは違います。
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ベチャベチャのかき揚げ。
濃~いお汁。
黒っぽいお蕎麦。
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今日、オバちゃんは2人いた。
ひとりは大柄でお声が太い。背丈がスタンドギリギリ。
相方の女性はミニサイズで甲高い声。早口。何を喋ってんのかワカラン。
この狭いスタンドに2人要らないよ。
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そしてレンタカーをチャーターして小山市内の某行政へ向かった。
「13時~14時にお伺いします」と伝えてありますが、12時~13時は窓口がお休みで、30分ほど時間があるのでちょっと寄り道した。
公用目的の行政を通りすぎて東へ走ると、南北に走る4号線のバイパスがあります。それに入ろうとして偶然発見したもの。
しっかり案内版も立っている。
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この案内版の裏に土塁と物見台があって、水戸線の方に伸びている。
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城域は東西に走る水戸線に分断されており、実際の主郭は線路の向こう側なのです。
でも向こう側へは渡れない。線路を越えて向こう側に行っても入れるのかどうか。
何処かに南北を結ぶ踏切があるという情報もあったが何処にあるのか見つからなかった。
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4月にもここへ来てるので、写真は春のものと夏場の草青々のものとごっちゃになっています。。
こんな平坦な微高地に何で城があるのか。天正年間、小山駅の西方にある有名な祇園城にいた小山秀綱と、秀綱の実弟で、ここから西にあった結城城にいた結城晴朝という人。
この兄弟は仲が悪かった。
性格の不一致で不仲とかではなく、それぞれの家の存続を賭けた結果そうなってしまった。小田原北条氏、反北条勢力(佐竹、宇都宮、那須)、越後から長尾景虎、いろいろ絡んでいますがややこしいので割愛します。要は実家の小山氏VS、実弟が養子に入った結城氏の抗争です。
この2人は長年に渡って不和で、常陸の佐竹氏が仲裁しようとして兄弟がカタチの上で和解したこともあったらしい。4号線バイパスに向かう左手の田んぼのあたりにその標柱が立っていたが走行中だったので撮れず。
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兄貴の小山秀綱は祇園城を北条氏照に明け渡す。北条氏に従属する条件で返還されたが、それには北条家の家臣が目付の如く滞在していた。
おそらく高橋一生さんが演じる小野但馬守のような者がベッタリ監視していたのではないか。
だけどそのおかげで秀吉の小田原征伐の時にはしっかり北条家の被官だったので改易された。
弟の結城晴朝はしっかり秀吉の下へ参陣している。小山氏の所領は結城晴朝に安堵され、兄貴の秀綱は不仲だった晴朝を頼ったかどうかわからない。
晴朝は結城家を残そうと頑張る。結城家に徳川家康の次男、秀康が迎えられる。秀康の長男・忠直は御乱行で取り潰されるが、晴朝は秀康の五男の直基に結城家を継承させることに成功している。越前大野藩から始まる松平家である。
晴朝はこの中久喜城で隠居生活に入ったか。この地を去って越前に行ったか。2説あるようです。実家の小山家より結城家の方に愛着、執着があったようです。
小山氏と結城氏がどれだけ長い間不仲だったのか、詳しくは知らないが、この2人の兄弟喧嘩の境目が、私が今いる中久喜で、今は長閑な風景だが、祇園(北条)VS中久喜(結城)の最前線だった。
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青々した稲穂。田んぼは沼だったのかも知れない。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-07-31でUpした伊勢崎の毒島(ぶすしま)城のような浮き城だったのかな。
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この線路を強行突破して向こう側の主郭に行ってみたいよ。
でも本数少ないとはいえ、線路に無断で立ち入る訳にはいかない。踏切、何処にあんのかな。

余湖先生作成の縄張り図です。
中久喜縄張り.jpg
http://yogokun.my.coocan.jp/totigi/gionoyama.htm#nakakuki

12時44分にくるまに戻り、公務先に向かった。くるまの中の温度計を見たら外気温は36度。。。
暑いったらありゃしねぇ。台風5号が去った後で今年一番の猛暑だったこの日、群馬県館林市で38.8度を観測、体温を超過して発熱したに等しい。
他、埼玉県の越谷で38.1度、東京都府中市で37.6度、山梨県甲府市で37.5度、茨城県古河市でも37.5度、栃木県佐野市で37.2度、都心で37.1度、書いててイヤになる。
今年最高気温のこんな日に城域散策などしないように。
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本庄は群馬ではない [隠れ郷土史&ラーメン]

籠原駅を過ぎたらドア開閉がボタン式になった。
「お前はまだグンマを知らない」にあるネタのひとつですね。
だけど籠原はグンマじゃないぞ。埼玉県だぜ。グンマを揶揄してるが、籠原、深谷、岡部、本城、神保原だって該当するのにさ。埼玉県は何とも思わないのかな。
栃木県だって小山から先はボタン開閉だよ。グンマだけじゃないんだ。プンプン。
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さてJR本庄駅南口です。これから徒歩15分の行政へ出向く。
来て最初の頃は本庄って群馬県の端っこかと思ったものです。前橋の県庁近くの某所へ本庄市のブツを持ってったら「これは埼玉県ですよ」と指摘されて大笑いされたことがある。
でも街並みは何処となく上州に似ている。
高温多湿な空気の中をトボトボ歩いたら赤い看板、暖簾があった。
タクシーの運ちゃんに聞いたら、本庄駅南口界隈ではちょっと知られた店だそうです。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-10-24
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だがお世辞にもキレイじゃない。カウンター端には生活用具が散乱しているし、要らないものが沢山ありそう。ちったぁ片付ければいいのに。
薄暗い店内は昼酒でもできそうな雰囲気だが、お店の子供らが2人騒いでいた。バタバタしているのも相変わらずの光景である。
カウンター5席、4人テーブル1つ、6人テーブルが3つ、奥に小上がり、座敷があって、4人テーブルか6人テーブルが3卓で、小上がり座敷はお店の子供の遊び場になっているのだ。
お座敷もテーブルもカウンターもいた客の皿が出しっ放しになっている。
厨房にいつも紋々のシャツを着ている強面の店主。サイドにいるのは調理補助の息子さん。
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だけど息子さん今日はやる気が無さそう。冷水を持って来ないのだ。
店主が息子さんに、「タマネギとってきてくれる?」
息子さんは外へ出てった。何とこの店、外に、入口脇に冷蔵庫があるのです。そこからタマネギを取ってきて厨房に入った。
持って来たタマネギは私の焼肉定食に使う炒めもの用と見た。店主がトントン刻んでいる。
どうも息子さんは指示されないとやらないタイプのようだね。
子供のママと目が合ったので、
「水くれ~」
「笑」
そしたらママがテーブル席に置きっ放しの空いた皿を片付け始めた。
「あの、水」
「あ、ハイ」
どうもノンビリしてるな。2杯目からはセルフで汲んだよ。立ち上がってフロアを歩いて冷水器に歩み寄ったら、靴の裏が店の土間、床にベリッと付着して剥離する感覚が凄いのだ。床に相当な年季、油が浸みこんでいる。
カウンター向こうの調理場では紋々を来た店主が複数の調理を同時進行でやっていた。さほど待たずに供されたこの店のメニュー筆頭、焼肉定食です。店頭の幟も、ラーメン、焼肉定食でしたね。
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皿の端にキャベツの千切り。豚バラ肉がタマネギと一緒にタレにまみれていた。
これです。これぞ中華屋の焼肉定食。肉野菜炒めじゃない、生姜焼きでもない、タマネギと豚バラ肉のシンプルな炒め焼き。
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味はややピリ辛、甘さ、醬油系のタレでご飯がススム。ただ、ご飯は街角中華によくあるモソモソしたご飯で、すぐ炒飯に転用できるタイプのご飯です。なので水分多めの炊き立て感を期待しないこと。
だけどスープがおっそろしくしょっぱくて。
塩っ気、胡椒っ気が凄いのだ。焼肉のタレよりも、添えられたお新香よりしょっぱい。このスープがそのまんまメニューにあるタンメンや塩ラーメンに化けるのなら相当な塩分摂取になる。
夏場だしこれから15分歩くから、多少は汗で代謝されるだろうけどさ。
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塩気に負けてまた水を汲みに行った。これで3杯め。歩くと足裏にベリッとする感触が残る。もう床を磨いてもダメでしょうね。磨いたら磨いたで薬品のニオいが残ってしまうだろう。
3杯めの水を汲みにいった際に座敷を除いたら、息子さんが賄いを喰らっておった。私への接客よりも自分の腹の虫を優先しやがったな。
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本庄駅南口には私が確認しただけで4件の街角中華があったが、この店、万龍が筆頭といっていい。出されるのも遅くないし、駅に近いし、手早く済ませたい時にいいです。
ここから徒歩15分の行政に出向き、申請を済ませ、駅に戻って来たらランチタイムが終わり、暖簾が下げられ、店の中から紋々店主が外に出てきた。
目礼したら、店主も頷いた。微かに笑った。
誰が見てもテキヤのオヤジさんだったぞ。

さてこれから坂東大橋を渡って伊勢崎市に向かうのだが、伊勢崎市のアポは16時30分なのでまだ余裕がある。
途中で寄り道。長松寺というお寺。駐車場に停めて境内へ。
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オジさんたちが数人いて作業着を着て手ぬぐいアタマに閉めて樹木の手入れか何かの作業中だった。
こういう作業の経費、修繕費とかは御布施代で賄うのかな。私も地元のお寺に故・ジャン父の墓があり、毎年毎年安くない供養料の請求がまわってくるよ。浄土真宗は高いね。
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寺の入り口に解説板があって、寺の開祖や由緒が簡単に書かれていた。
『本堂の西側、および北側の山林の中に土塁、空堀が残っている。
これは館跡の遺構で、武蔵武士の一つ、丹党の一族小島氏の居館跡と伝えられている。』
丹党?
武蔵国、入間郡、秩父郡、児玉群にいた武蔵七党の武士団だが私はよく知らない。知らなくても日常に支障は無さそう。でも七党というからには七つの党派に分れていたんだろう。
では中にある土塁と空堀を見に行こうと境内に入る際に、作業服を着たオジさんとすれ違い様に「こんにちは。いつもお世話になってます」と言われたものだよ。
「???」
私は呆気にとられた。
私は地元の人ではないし、他所から来た者だし、アナタを知らないよ。
誰かと間違えてないか?
でも詳しく答えず頷くようにアタマを下げた。挨拶されたら挨拶すりゃいいだけのこと。
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あったあった。辛うじてL字型に見える。高さは50cm程度。
写真だと埋まって浅くなっているが、堀跡に何やら野菜?が植えてある。
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その辺りをじーっと見つめていたら、本堂の裏からまた作業服を着たオジさんが歩いてきて「こんにちは。お世話になります」と言うのである。
私は頷くだけでなく「あ、どーも。お世話になります」って言っちゃったのね。こういう知らない者同士の挨拶はドライな横浜ではまず見られない。人が多過ぎるからである。私も前は知らない人へ挨拶なんかしなかったものだが、群馬を知ったおかげて最低限の会釈くらいはするようになった。
だが、どうもこの寺の境内にいる作業員さんたち、何やらトンデもない勘違いをしているような気がする。
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裏手に廻った。そこにも低い土塁の残片があった。
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楽チンな散策である。
平野部、起伏無し、お寺の境内、駐車場あり。小島氏?知らんけど。
もう険峻な山城に登る気は全く無い私は僅かの道草を楽しんだ。

では伊勢崎市に向かおうと境内を出て、駐車場に停めてあるくるまに戻ろうと踵を返したら、また別の作業員さんと鉢合わせして「あ、どーもこんにちは」と言われたのである。
私は内心で「またか」と思いながら、「ハイ、お世話になります」って返した。目で頷く程度にアタマを下げた。
そしてくるまに乗り込み、中山道から463号に入って利根川を渡ったが、ハンドル握りながら走行中に考えた。
「さっきの連中は何でいちいち私に挨拶したんだ?」
疑問が消えない。
!!!
途中で閃いた。
もしかして私を住職だと思ったのではないか!!

今から数年前、安中市内で安中小学校のガキ・・・失礼、子供らにお坊さんに間違えられたことがあるからね私。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-01
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「こないだ本庄市のお寺に行ったハナシしたっけ?」
「いや、聞いてない。何しに。何を見にいったんだか・・・」(ジャン妻)
「境内に入ったら、中で作業していた人に、1人2人3人連続して挨拶されてさぁ・・・」
・・・皆まで言わせず
「お寺の坊主と間違えられたんでしょ」
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ラーメンスクエアニューフェイス [隠れ郷土史&ラーメン]

私がよく出向く立川市の公用先が移転することになった。建て替え工事らしい。
建て替える必要あるのかな。現状でもまだまだ充分営っていけそうだが。工事は平成32年の春までかかるそうで、その間の最寄駅は南武線の西国立駅になる。
先日、現庁舎に最後に出向いたら、担当官の窓口に移転先の地図があった。
「次回はこっち(仮庁舎)ですね」
「ハイ。2月の〇日までこちら(現庁舎)で受付ます。それ以降はこちら(移転先)で」
「西国立駅から歩けるんですか?」
「歩いて・・・10分ほどです」
ってことは15分だな。それくらいなら立川駅から現庁舎までとさほど変わらない。歩いて行けますか?の質問の裏には、西国立駅界隈って飲食店あんのかな?
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そうか。立川駅界隈ともしばしお別れか。
東京からでも横浜からでも立川だとちょうどランチ時になるのです。数軒行きました。
真っ暗な店内で真っ白い麺「鏡花」
醬油スープが絶品「とと本店」
初めて食べた油そば「宝花」
愛想の無いオバちゃんだが味はいい「丸幸」
大正元年創業「福来軒」
ワンコインランチ、これで営っていけるの?「得得屋」
クローズ前の一期一会だった「HARUPIN」
大好きだった街角中華「みよし」
みよしは「Kishi」になった。
そしてラーメンスクエア。。。
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仮庁舎移転先は南武線ひと駅の西国立駅。なのでまた来ようと思えば立川に来れますが、しばしのお別れ?に、ラーメンスクエアに寄ってみた。
私が好んでいた「絆」は出てってしまったが、タレント店主たちの顔触れが若干変わってる。
「いちや」、「萬燈行」は長いね。「恵比寿」も。このフロアが居心地良くなっちゃったんだろうか。
重たそうなのは避けて醬油系か塩系統を探したら。
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「醤道」(ジャンドウと読むらしい)
券売機の前に立ったらすぐさま「いらっしゃいませ」が店内からトンできた。
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何だこれはぁ!!
って思うでしょ?思いません?
知らない人が見るとスープを吸って伸びたラーメンみたいでしょ。そうではなくてスープが少な過ぎなのですよ。

麺はメチャメチャ美味い。決して太い麺ではないが噛み応えがあり、麺に既に味が付いているように思った。でも醬油マイスターとまで豪語するほどでもないよ。
ラーメンを喰ってる感じはしなかった。器は小さいしスープも麺も半分ほどのボリュームしかないんだモン。
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次に「麺肴ひづき湯きりや」
この店は黒醤油拉麺と醤油麺コクにごりがウリだが、私がオーダーしたのは丸鶏清湯麺という中途半端なシロモノであった。
スープはまぁ無難ですが、麺に噛み応えが全く無かった。むしろ黒々としたメンマの方が味も浸みて噛み応えがあったね。
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やはりこの店のウリ、黒々した醬油系にすれば良かったかも。
では立川を去る前に、お蔵入りしていた曇空天下の小散策記を。
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立川市の行政から南、中央本線が残堀川を渡る脇にある普済寺。
立川氏(立河氏)という豪族がいた。立河宮内少輔宗恒という人。
ここへは立川駅~行政~徒歩でトコトコ歩いて来たのですが、途中で29号線の旧動(旧奥多摩街道)で西に向かうのを新道(新奥多摩街道)まで出てしまい、多摩川の支流、残堀川が多摩川に合流するところまで出てしまった。行き過ぎたのです。仕方がないので残堀川に沿った散歩道を歩いた。
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しばらくしたら目指す寺が見えるのだが、そこからすぐに寺に入れない。
中央本線まで歩くハメになり、そこの坂を上がって川を見下ろしたらかなり比高差があった。南に残堀川が流れる河岸上にあったのです。
上ったら場所は寺の裏手の墓地で、ぐるっと迂回して寺の正門に廻るアルファ運動をするハメになってしまった。行き過ぎ迂回して倍の距離を歩いたのである。
歩きくたびれて辿りついたら100m方形の館で遺構はこの程度。
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土塁跡1.jpg
土塁跡2.jpg
達成感が殆ど無く立川駅まで歩いて帰る気力が失せた。歩いても立川駅より近い多摩モノレールの柴崎体育館駅方向へ足を向けたら、小公園にタクシーが停まっていた。
公園のタクシー1.jpg公園のタクシー2.jpg
運転手がいないんです。
さては公園のWCで用を足しているな。
このタクシーで立川駅まで帰ろうと決めた。運ちゃんがWCから出てくるのを待ったがなかなか出て来ないのだ。
しばし待つこと10分ほど。ようやく水を流す音がして運ちゃんが出て来た。タクシーの傍らに立つ私を見てギョッ
としてた。
「いい?」
「あ、いいですよ」
「立川駅まで」
運ちゃんもバツが悪かったようで。終日外を走り回ってるんだから何処にWCがあるか把握してるんでしょう。
私は運ちゃんが〇〇をしてたのをじーっと待ってたというしょーもないオチですよ。
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大将と台場跡 [隠れ郷土史&ラーメン]

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大将のある本牧マリンハウス1号館と2号館の間の工事がまだ終わらない。
いつまでやってんだろ。くるまが停められないじゃないか。このスペースはMAX4台停められる。大将の売上4台減は小さくないぞ。
停められないので最近は中区の公用後、磯子区へ移動する途中でバスで立ち寄ることが多い。本牧通りのバス停、本牧宮原から徒歩5分程度です。
ワカメラーメン、プラス、キムチ皿150円の券を渡しながら、
「キムチ少な目にしてくれ」
大将のラーメンスープはノーマルスープにキムチを加えると劇的に変化する。全く違う味のコクが加味される。2段階、2種類のスープが楽しめるのです。
ところが大将のスタッフは盛り付けに頓着せずド真ん中にキムチをゴソッと力任せに投入するもんだから、2段階のスープが楽しめないことがある。最初っから赤い。
キムチは皿に分けて私自身の意志でちょっとずつ追加投入するようにしている。辛いのが好きな方はいいけど私はキムチは多過ぎてはいけない、少しでいいのです。
キムチラーメンだとプラス100円、キムチ皿だと150円、50円の差がある。そしたら若いのが、「キムチ皿でなくて載せますよ。50円返金します」と言うので結局はこうなった。
キムチワカメ.jpg
スープの色が違うのがわかりますか?
スープ1.jpg
スープ2.jpg
喰い終わって出て、根岸駅行のバス停時刻を見たらまだ若干の時間があった。では来た時に下りたのバス停、本牧宮原に戻ろうかと踵を返したら、大将向かいにある小丘に異変を発見した。本牧十二天、通称で十二天山、護国山ともいうこの丘の麓が緑地帯と小公園化していたのです。
幾つかパネルが立っていた。
本牧十二天緑地2.jpg
パネルをかいつまんで言うと。。。
本牧十二天の由来は源頼朝が鬼門鎮護の為に本牧神社を置いた。(建久3年、1192年)
鎌倉時代に本牧は「平子の郷」と呼ばれ、小田原北条氏の時代には「本牧郷」、江戸時代になってから「本牧本郷村」と呼ばれた。
人口2000人の漁村で、いりこの生産と廻船湊として賑わった。
本牧本郷村には集落が6つあって、間門、牛込、原、宮原、箕輪、台、十二天社は村の総鎮守であったこと。
江戸後期には名所図(絵)に載るようになった。絵に描かれるくらいだから風光明媚だったと思われます。
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そして黒船来航と横浜開国に絡んでこうある。
「鳥取藩松平家を中心に2500人もの武士が集められ主に海岸線に数ヶ所の砲台が作られ・・・」
大将の向かいの丘、十二天山には砲台があった。護国山台場です。
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台場、砲台は、中世武士団の自領自衛や支配層の政治中心部や権威の象徴ではなく、諸外国に対する自衛、対外的なもので、諸外国船が日本沿岸にちょいちょい現れるのを脅威に感じた江戸幕府が、最初に諸藩へ砲台構築の命を発したのは嘉永2年(1849年)のこと。
江戸湾の防衛ラインは当然、江戸城を詰めの城とするもので、、
房総館山から三浦半島剣ヶ崎を大手。
富津、観音崎、千駄先の浦賀水道を第一防衛ライン。
夏島、野島、金沢、富津を第二防衛ライン。
羽田、大森を第三防衛ライン。
品川沖に海中台場11基。
この時、三浦半島防衛ラインの拠点司令部や基地として大船の玉縄城を再修築しようという建議も出た。
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公園のパネルにはそこまで詳しく載ってないが、「嘉永6年(1853年)の黒船来航と、それに続く安政6年(1859年)の横浜開港は本牧にも大きな変化をもたらしました」の後に、「本牧の八王子山と十二天山は沿岸防備の為に熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました・・・」
八王子山は現在の市営バス本牧車庫に隣接した崖の上で現在はマンションが建っています。こっちが先に完成したが、開国を迫るペリーの黒船が再来航して上陸した後、ここ本牧十二天の護国山台場にも建設という流れになる。
台場を守備した鳥取藩の藩主は池田相模守慶徳(ヨシノリ)という人。鳥取藩兵が十二天山から八王子山までの本牧海岸を警護する陣営図も載っていた。
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砲台、台場の縄張りはわからない。ジャン家の史料には、周囲を土塁で囲い、石塁の砲座上に銅製の砲を鎮座させたという。
訓練でブッ放したとは思うが実戦闘にはならなかった。
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十二天山(護国山)は終戦時に米軍占領地になって神社は本牧二丁目へ移転した。現在は本牧和田にあります。
(ジャン家の史料にはそれ以前、砲台建設時に神社社務所が兵営になったとある。)台場跡には米軍住居用に給水タンクが置かれた。
いつか日本に変換され、国有地として立ち入り禁止となった。
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柵を越えて裏からよじ登ろうとすればできないことも無さそうだがそんなことしてお縄になる訳にもいかない。給水タンクが置かれた際にも砲台遺構は潰れたと思う。
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ここ一帯はかつては海だったが現在は埋め立てられて風光明媚だった頃や海中砲台の面影はない。崩れないようにコンクリで固めてある。
大将のスタッフもここが砲台だったことは知らないだろう。
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