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会津の高野山と謀叛人の系譜 [会津]

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会津の高野山と呼ばれる八葉寺。(河東町)
山間ではなく平地にあり、隣に田んぼ、畑、住宅地もあり、寺の境内も整備されているとも言い難いが、樹木に囲まれ鬱蒼としており、観光地化されていないのがいい。
住職はいないようです。荒れ寺?とまで言わないが、寺のHPもあるし、町が管理しているのでしょうか。
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この寺が開かれたのは康保元年(964年)、平安時代だから1000年以上前です。空也上人という高僧、エラい人。平安時代もこの頃になると律令制が崩れてきている。空也上人は律令政の最後の天皇、醍醐天皇のご落胤ともいふが、在世中に40人も子供を儲けた天皇だから。
私はこの時代の知識に疎いのですが、口から針金でつないだ6体の小さい阿弥陀仏を吐き出すような像が空也上人さんですといえば見たことある人いるでしょ。
寺の名前は、上人様が独鈷杵でこの地を突いて湧き出た泉の池に、八葉の白蓮が生じたからといふ。
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私はこの頃の知識に疎いのですが、寺を紹介するサイトによると上人が訪れた頃この地は荒廃しており、疫病か飢饉か、磐梯山の噴火の影響か、寺の周囲や村々に打ち捨てられてろくに供養されていない遺骸や遺骨が散らばっていたとあります。
上人はそれらを集めて境内に供養された。
まだ蘆名氏の祖となる佐原一族は来ていません。寺社勢力が強くなっていく頃です。
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中世になると寺は会津守護、蘆名氏の庇護下に入るが、境内の端、丘の麓に、その蘆名家中の内紛、内乱に破れし者の供養塔があった。
『猪苗代勢武将等の供養碑群
中世会津の戦国時代は内乱を繰り返していた。
蘆名十五代の当主盛舜の代に起きた大永元年(1521)6月16日の猪苗代盛光の反乱は、盛舜の家臣松本新蔵人、宇門、塩田刑部らの猪苗代方への内応によるものであったが、盛舜の軍勢に反撃されて敗走し、この八葉寺まで逃げ自害、あるいは討たれて謀叛側の失敗に終わった。・・・』
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猪苗代氏は会津を恩賞として与えられた佐原一族の長男だった系譜なので、四男の系譜の蘆名氏より上席だという自負が長年あるのでおもしろくない。それはわからないでもないが、松本一族は蘆名家中で、金上氏を除いて蘆名四天と称される富田、佐瀬、平田と並ぶ一族です。
彼らは蘆名家に何を含んでいるのか。松本氏は一族揃って謀叛、反乱の記録がやたらと多い。
明応元年(1492年)、松本藤右衛門輔忠が謀叛。
明応4年(1495年)、松本備前守輔豊が謀叛。
明応7年(1498年)、松本豊前守行輔、松本大学頭輔治、松本小四郎輔任、松本右馬允らが誅殺。
明応9年(1500年)、松本対馬守輔政が誅殺される。綱取城の松本勘解由は降伏。(後述します)
永正2年(1506年)、蘆名家中の四天同士の諍いでまた松本氏が謀叛。
大永元年(1521年)、松本大学、松本藤左衛門が打たれる。同年の猪苗代氏の謀叛に松本一族(松本新倉人、松本宇門他)が与している。八葉寺境内にある供養塔はこの時のものだが、松本一族の反乱はこれに懲りずにまだ続く。
弘治元年(1555年)、松本与右衛門輔敦が謀叛。
天正12年(1584年)、松本太郎行輔が謀叛。黒川城を占拠するも鎮圧される。
天正13年(1585年)、関柴の地頭、松本備中守輔弘が伊達政宗に内通。伊達軍を先導するも敗死。
松本・松本・松本・・・松本だらけ。
謀叛・謀叛・謀叛・謀叛ばっかり。
何故こんなに謀叛したがるのか。懲りない松本氏のことを知らなくても日常生活に全く不自由しませんが、それにしても謀叛の好きな一族である。何度も同じこことを繰り返している。
それでいて蘆名家中で上位に据え置かれてもいるから不思議である。根絶やしにされていない。
大河ともいえない今年のドラマはまるで中小企業の女社長にしか見えないが、あれは家の男どもが誅されても一族は親会社に従っている。それと同じようなものなのだろうか。

天正17年(1589年)、蘆名最後の当主、義広が磐梯山麓の摺上原で伊達政宗に大敗。この決勝戦と前後して松本一族の大半は伊達側に付いたようです。蘆名家は名門とはいえ末期の頃なので屋台骨グラグラ。新興勢力の伊達政宗の方が器量が上だったのかね。
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伊達軍は河東町辺りでロクなことをしていない。
「会津若松史3」から。有名な恵日寺が伊達軍の兵火で灰燼になり、湯川村の勝常寺の徳一坐像の眉間に刀で切りつけ、罰当たり三昧の伊達軍がここ八葉寺にもやってきた。
この時の八葉寺住職は蘆名の宿老、富田一族から誰かを迎え入れていて(富田美作の一族?)、寺に隣接した丘の墓地の辺りから東一帯の雑木林辺りが、寺と一体化した館、防塞になっており、僧兵どもが伊達軍に刃向ったのでこの寺も焼かれたそうです。
こんな屈強な僧兵がいたのかな。
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だが、境内にはその辺りの解説はない。
寺の東側には往時の防塁関連が草木に埋もれているらしい。途中まで歩いてみたのですが。
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ジャン妻を境内にひとり残すのも気の毒なのですぐに引き返しました。
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おまけです。(※)で松本勘解由が叛乱して立て籠もった綱取城は桧原から459号線を走って大塩・喜多方方面へ下ってきた時に偶然通りかかりました。
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2014年の秋頃にできた「会津一望の丘」を過ぎた辺りにこんな標柱があったので、北塩原村立第一中学校の脇スペースに停め、草だらけなので奥まで入れなかったですが、解説板には松本勘解由が立て籠もったと書いてありましたね。
「奥まで入らないよね」(ジャン妻)
「今からの時期は草ぼうぼうだからシーズンオフ」
「シーズンオフ?」
「晩秋から冬にかけてだな。さっき手前にあった柏木城とセットで」
「・・・」
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だが狭い会津盆地内で謀叛しても、蘆名本家のいる会津若松(往時は黒川)から近過ぎるのだ。用意周到に準備したのかどうか。1日か2日あれば鎮圧体制が整うような気がする。
謀叛は謀叛、叛乱は叛乱でしかない。
血の気だけ多くても成就しないのである。
現代にも通じるものがあるのではないか。社内で意に反することがあっても、いっときの激情で早まった行動を起こさない方がいいという戒めだろうか。
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会津辺境のローカルヒーロー [会津]

ヘアピンの連続、磐梯山ゴールドラインを走って桧原湖畔に来たところ。
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裏磐梯には大小様々な湖や沼があってその数が300あまり。その中で最も大きいのが桧原湖。
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「これってダム湖?」
「いや、噴火で堰き止められた湖」
何回も説明してるんですけどね。ジャン妻はそういうの覚えない。桧原湖湖は明治21年(1888年)7月15日の磐梯山噴火の崩落でできた堰き止め湖。当時の桧原村は湖底に水没しています。
「深さどれくらいなのかな?」(ジャン妻)
詳しくは知らないが、30mくらいらしい。
渇水時には沈んだ村の鳥居とかが顔を出したりするそうです。
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桧原湖を見てると安らぐ。
猪苗代湖もいいけど、桧原湖は手漕ぎボートはあっても遊覧船とかが皆無なので、静かで落ち着いた湖に見える。
国道459号線の五色沼入口や裏磐梯ロイヤルの辺り(裏磐梯剣ヶ峰交差点)は観光客がうじゃうじゃいる時がありますが、ここは桧原湖の北端なので静かなものです。
時折静寂を破るかのようにライダーの走行音が響いたりするけど。

桧原、この辺り一帯は、冬場の積雪が平均2m以上になる。MAXじゃなくて平均ですよ。
湖も凍結します。
過去の3月末の写真ですが、磐梯山ゴールドラインは通行止め。湖は凍結しており、氷上にワカサギ釣り客がいた。
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標高が高くて稲作には適さない。何処にも田んぼが見当たらない。記録に残る取れ高は僅か40石、無高と記された記録もあるとか。
ワカサギ、イワナ、ヤマメといった川魚や、高原野菜、キュウリ、アスパラガス、ナメコ、ジュンサイ(酢の物は苦手)、蕎麦、そして会津山塩、目立たないけど隠れた名産あり。
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夏場には登山客、ライダー、釣り人、冬にはスキー客、氷上の釣り人たちが訪れます。
私は山道の運転が苦手なので、途中で脇に除けて3組のラーダーに道を譲りました。
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半島みたいなのは堂場山といって、穴澤氏の城塞跡。私の会津ローカルヒーロー。
会津北の防人と呼ばれる穴澤一族がこの地に住み、北方から狙ってくる伊達軍3回、単独で撃退したネタをUpしたことがある。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-22
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-23
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-24
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-24-1

http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-11-22
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-11-23-1
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-11-24
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-11-25
こんなに書いたかね。簡単に述べますが、穴澤氏は中世の頃、現在湖底に沈む桧原村に在住した一族ですが、最初からこの地にいたのではない。
中世の頃、会津守護・蘆名氏に頼まれ、この地の西にある蘭峠に出没する山賊退治の為にやってきた。
退治後も桧原にいて防人をして欲しいと懇願され、不承不承滞在したら代々住むうちに桧原が気に入って住めば何とやら。
桧原は寒冷高地で米は取れないけど、大塩の方で替え地を貰ったみたいだし、おそらくこの地で砂金が取れること、後で述べますが塩が採れること、番所と宿場町をこしらえて税を課した、そういう役得があったのではないか。
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だが、一族の裏切り者が伊達軍を手引きし、当時の娯楽施設だった風呂屋で惨殺された。
後年、蒲生氏の時代に再出仕し、桧原の関守に還り、その子孫は会津藩に幕末まで仕えたようです。
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穴澤一族が滅んだ堂場山は現在ハイキングコースになっているようです。革靴なので、路肩にくるまを停めてコース入口だけ覗いてみたところ。
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掘割か。自然の沢か。
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コースは1.7km程度だけど、この入口には駐車スペースがないので、何処か他の場所に停めて、コース入口まで歩かなきゃならないようです。
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堂場山へ移転する前の城塞だったところ。
3戦して2戦目、この城で攻防戦があった。伊達軍は1000人、穴澤一族の守兵は最初20人足らずで、麓から駆け付けた援軍も80人足らずだった。
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停めてあるくるまの所有者は100%間違いなく城内を散策されてるな。この辺りの山は熊が出るそうなので気を付けないと。

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穴澤一族の五輪塔。
これらは湖の渇水時に湖底から引き揚げたものだそうです。
また会いに来たよ。
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数が減ってる。2011年に来た時は五輪塔の数がもっとあったんですがね。
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「で、何を食べるんだっけ?」
「塩ラーメンだよ」
この時点で私はこれから食べる会津の塩ラーメンが海水の塩ではなく山から摂れる塩であることを知らなかった。
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会津蜂蜜とスケコマシ野郎 [会津]

蕎麦宿をチェックアウトして湯野上温泉駅チカの酒屋さんに行く途中のガッタンゴー。
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踏切を渡ってすぐにW酒店があって、いつも取り寄せています。この酒屋さん、支払にのんびりしたところがあって、支払を忘れても督促がきたこと一度もない。
「ツケが溜まってるんじゃないか?」
「今は溜まっていない」
年に1回くらいツケがたまる時があります。
立ち寄って一升瓶を6本ほど購入しました。

会津に行く前月、ジャン母に言われた。
「今度いつ会津に行くの?」
「予定では来月の〇〇辺り」
「だったらとちの実のジャムか蜂蜜を買ってきてよ」
何だそれ?
また難儀なものを。
今までは「また会津に行くの?」だったのが、自分が欲しいものがあると「いつ行くの?」かい。
「それってどんなのさ?」
「これ」
残り少ない瓶詰めの蜂蜜を見せられた。
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でかける前に調べるハメになった。ヒットしたのがこれ。
http://www.buna-ki.co.jp/buna/
松本養蜂総道場といふ。
会津若松市柳原町というところにあった。町外れです。
「お味噌がなくなりそうなの。それもお願い・・・」
それは場所がわかっている。満田家か山鹿家にするとして、まずはその蜂蜜を求めてくるまを走らせ、目的地に着いたら工場(養蜂場)と個人宅兼商店が並んでいた。
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引戸を開けたら、ブッちらかった事務所内に申し訳程度にハツミツ商品が最小限の在庫で陳列している。
個人宅なので撮影は遠慮して手に取って眺めていたら、奥に繋がった母屋から老婦人がいそいそ出てきて売る気満々の接客TALKが始まった。「蜂蜜でございますか?」
もちろんこっちも買う気だが、サイズが大きいのである。
「デカいな。これより小さいのはない?」
ないという。まぁいい。これにする。買って振り切ってすぐ出ようとしたが、老婦人(社長さんかな?)が私たに蜂蜜の試食をすすめてきた。そんなん頂いたら世間話になるに決まっている。
「どちらからおいでになりましたか?」
「神奈川だけど・・・」
「会津は初めてですか?」
「いや・・・」
私が会津に関わったのをいつの頃から遡って説明せにゃならんのがうっとおしい。
その表情を汲み取ったジャン妻が、
「年に何回か来るんですよ」
しまいに住所まで聞かれ、年2回のセールの時にはDMをくれると。
購入したものはこれ。
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パッケージから出したところ。
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購入して出たら、養蜂場に面してこんなのが建っていた。
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帽子沼?
何処にも沼はないぞ。
解説板を呼んでみたら、
「・・・文治元年(1185)、京を追われた源義経は藤原秀衡を頼って奥州平泉へと逃げ延びていました。義経と恋仲にあった皆鶴姫もまた義経との間に授かった幼子の帽子丸を抱いて後を追い、会津まで辿りつきました。
しかしこの柳原の地で敵に会い帽子丸はこの沼に沈められて殺されてしまいます。
それ以来、ここは帽子沼と呼ばれるようになりました。
その後、皆鶴姫は現在の河東町に身を寄せますが、長旅の疲れに我が子を失った心労も加わり病に臥せってしまいます。
ついには難波の地に出かけた際に水面に映る自分のやつれた姿を見て悲しみのあまり池に身を投じ、十八年の生涯を閉じました。
帽子丸の墓はここから南にすぐ・・・」
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皆鶴姫?
何処かで聞いたような。

名古屋の熱田神宮で元服した源義経が承安4年(1174年)に京都へ上り、栄華を極めた平氏の動向を探っていた時のこと。
「新編会津風土記」から。義経は吉岡鬼一法眼という兵法家が所有する兵法書(六韜)を手に入れようとしたが、その手段として吉岡の娘、皆鶴姫に近づいて懇ろになり、姫の手引きで兵法書を書写した・・・のだが。
下世話に言えば手を出したに決まっている。
皆鶴姫との間に生まれたのが帽子丸という男児。その後で義経は平氏のに探索にひっかかって京を脱出。おそらくその書写した兵法書を持っていたに違いないが、皆鶴姫は驚いて義経の後を追ったということは。。。
姫を置き去りにしたのでしょう。
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あ、思い出した。ここから北東、日本初の4年生コンピューター専門大学である会津大学の北、600m辺りの農耕地に藤倉という地があって、そこに会津守護、蘆名氏の祖、佐原義連~盛連~6人の息子たちの三男、盛義がいたネタのついでに、皆鶴姫の記事を書いてました。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-04-27
皆鶴姫のお墓.jpg
これが源義経が奥州へ逃げた後を追って来た女性、皆鶴姫の墓です。

義経は手を出した女性が多過ぎ。
私が知っているのだけでも、正妻の河越太郎重頼の娘、愛妾の静御前、佐藤継信、忠信兄弟の妹、皆鶴姫、平時忠の娘、浄瑠璃姫、唐橋大納言の娘、鳥養中納言の娘、白拍子たち。。。
井伊家のファミリー大河で柴崎コウさんと貫貴谷しほりさんが2人して泉下の井伊直親のことをスケコマシと絶叫していたね。(昨夜の回送シーンでもありましたね。)
何て品がないことかと呆れたが、時代と境遇が違うとはいえ、直親もやってることは同じようなものではないか。
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ジャン妻は2年前の過去記事で藤倉の義経伝説を見て烈火の如く怒ったが、今回の蜂蜜購入で偶然見つけた裏付け訪問には興味を示さなかった。すっかり忘れているのか。
2年前は凄かった。
「何これ!!」
「・・・」
「これって結局利用されて捨てられただけじゃない!!」
「まぁそうだよな」
「ヒドい男。。。」
「・・・」
私を睨めつけたものだが今回はつまらなそうに見ていた。
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次に向かった場所は。。。
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アルバム [会津]

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末永くこのまま続いて欲しい。。。
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アルバム [会津]

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アルバム [会津]

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どうなる蕎麦宿 [会津]

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変わらざるこそ人心を安ずるもの
このまま続いて欲しい蕎麦宿。
でも異変が起きているのです。
どうなる蕎麦宿??
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蕎麦宿の夜 [会津]

つい10分前まで爆睡していたジャン妻が夕餉の膳を待っているところ。
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廊下にドスドス歩く地響き。
大旦那が運んで来た膳を見ると??
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何で白身の刺身が載ってるんだ?
これまで何も言わなくても俺らは馬刺とお決まりなのに。
怪訝に思ってたら大旦那が馬刺を後から持って来たのです。
何か間違ったかな。
今日、初めて見る新しい男性スタッフと伝達事項が上手きいってなかったのかな~。
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山国会津では海の幸がいちばんの御馳走とも言うが。
山間の会津で、白身のヒラメ、ホタテ、甘えびを喰らうのはちと違和感あるな。
せっかくだから馬刺と、平目、ホタテ、甘海老を並べてみた。海の幸山の幸盛り合わせである。
「止めなさいっ」(ジャン妻)
「・・・」
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いつもの小鉢の数々。文字の羅列の居酒屋みたいだ。
タコ切りにした大根の漬物が美味しい。
「タコじゃなくて雪を形作ったんじゃないの?」(ジャン妻)
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変わらぬ定番が続く。
蕎麦粥。
蕎麦サラダ。
イワナ。
揚げ蕎麦。
蕎麦稲荷。
締めのざる蕎麦。
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蕎麦サラにはビール。
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イワナには燗酒。
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揚げ蕎麦はお洒落になってきた。
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蕎麦稲荷はヒンヤリ。
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もり蕎麦の時に、囲炉裏端で酌む寝酒を追加。
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廊下に膳を出したら軽く二次会。
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そして夜の湯へ。
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酒が入っているので、首に湯をかけてから入ります。
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外に出てみたりもする。
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突然、前方にライトが眩しく光る。
レールの継ぎの音があまりしない。ガッタンンゴトンではなく、ストンストンのような音を奏でている。静かに走っている。雪が音を吸収するせいだと思う。
滑るように闇に消えていった。
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闇を滑るガッタンゴー。

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身体が冷えたので湯に入りなおす。
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向こう側の客室でジャン妻は既に寝ています。
身体の不安を考えてなるべく40℃くらいにします。少しだけ窓を開けておくと外部からの冷気で丁度良い湯加減になるのですが、20年以上通っているのに私は温度調整が下手でして。
単純泉で刺激は全くないけど湯加減がいい。ついつい長湯してしまう。
私も後は寝るだけです。
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白銀の会津へ [会津]

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東武特急きぬスペーシア個室。
酒肴の数々は崎陽軒&マリーズ。
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宿への15:00チェックインから逆算すると浅草発11:00がベストなのですが、1ヶ月前に浅草駅に行ったら満室だったので1本早めました。10:00発。
でもそれだと浅草駅に隣接する地下食品売り場開店と同時刻なので、崎陽軒は地元の某最寄駅で、ポテサラとマカロニ(マリーズ)、カップ酒は前日に購入しといたのですよ。
JR某駅の崎陽軒スタンドは7時から開いている。前日に、「明日の弁当って予約できるのか?」、聞いたら予約できるそうです。
朝寄ったら値上した定番シウマイ弁当はあったが、幕ノ内とポケットは入荷していなかった。JR上野駅で銀座線に乗り換える時、スタンドを見たらそこには幕ノ内があったのですよ。
でも定番を購入済みなのでポケットだけ追加。
かつて浅草駅構内にあった売店は今はないようです。それと、最近は家でちっとも揚げ物をしてくれないクセに珍しくジャン妻が揚げ物が食べたいというので、浅草駅向いのデイリーヤマザキでコロッケとマッシュポテトと缶ビールを購入。
東武特急の普通座席シート車両は鬼怒川温泉へ行く行楽客、特にオバちゃんオバァちゃん軍団恐るべしといった感がある。
そういう連中は人数多けりゃ強いというか、周囲を気にしなくてもいいと思ってるのか、耳が遠いからか、くっ喋る声がデカいのだ。「ギャァハハハハハァ」の大合唱ってなもんです。
ではスペーシアの個室は静かなのかというとそうでもないのね。部屋と部屋の壁が薄く、隣で、「ジャァンケェンポォン」、「勝ったぁ~、ウワァ~ィ」、嬌声や子供の泣き声が凄まじい時がある。
個室だから騒いでも大丈夫だろうと勘違いしてるんだな。親も気にしないようです。

春日部辺りであらかた喰い終えたが、酒がまだ残っている。
昼酒は効く。私は昼酒は基本しない人なのです。
ツマミ、奥の手を出した。
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「ちょっと何これっ!!
「・・・」
見りゃぁわかるだろうがよ。ポテチだよ。
「いつ買ったのっ!!あ、もしかしてお正月用に買ったヤツ?もう半分以上食べてるし。ひとりで隠れてコソコソ食べてたんでしょうっ!!」
「よいではないか」
「・・・」
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鬼怒川温泉駅。少しの待ちで、東武日光発の会津マウントエクスプレス会津若松行が来た。会津若松と日光方面まで直通運転するようになったのか。
「浅草から来たの?」
私自身も始発駅が何処なのかわかってないので。
「今市じゃないかなぁ」
東武日光らしい。
「浅草から直接行けないの?」
「会津鉄道に架線が張られない限りね」
「でも春に新しい特急がデビューするって聞いたけど」
東武鉄道は2017年今年の春、266年ぶりに新型特急車両500系、Revaty、がデビューします。これだと浅草から会津田島まで直通で行くらしいのだ。
「それって個室あるのかな」
「あるんじゃないの?ただ、今の電車より個室は値上するかもね」
では来年の冬は新型車両で会津へ赴くことになるかも知れない。
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マウントエクスプレスは会津田島での乗り換えがない直行列車です。途中駅通過が多く、何処に高原があるのかわからない秘境駅の男鹿高原、この時期は誰も登山客が下りない七ヶ岳登山口、何をする道場なのかわからない会津山村道場、海はないけど会津荒海、中荒井は通過します。
長いトンネルを抜けて南会津に入ったら一面の銀世界になった。
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何処にも人っ子ひとりいない。
家の中でじーっと暮しているのでしょうか。
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そのまま会津鉄道へ。福島県知事を2期務めた佐藤雄平さんの母校がある田島高校前、会津だけど会津長野、おそらく蕎麦宿の岩魚もここから仕入れている養鱒公園、誰の故郷なのかふるさと公園、島がないけど弥五島は通過します。
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会津鉄道の駅チカを知らせる音楽、ポンポコポンポコポンポコポコポン♪、このメロディは、私が蕎麦宿で怪我して運び込まれた病院のある会津下郷、雪でも観光客誘致するしかない塔のへつり、そして湯野上温泉にゆ~っくり進入した時、3回流れただけ。
このポンポコメロディ、最近知ったのですがJR相模線でも流れます。電子音が若干違いますが。
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いつもより早いけど、湯野上温泉駅の改札に、蕎麦宿の大旦那が立っていた。
駅に長年詰めている女性2人も変わらないねぇ。
メガネの女性は私らが初めて蕎麦宿に来た頃、20年前?からずーっといますよ。
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明日以降、数日は写真の大放出というか在庫処理のようなもので、記事ともいえぬ内容で本文は少ないです。殆ど無いかもです。
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獅子の時代と弾正ヶ原 [会津]

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買っちゃいました。
昭和55年(1980年)のドラマだから35年振りですね。
これを購入したおかげで、最終章に突入した戦国コメディ真田丸、並行して専門チャンネルで放送されていた真田太平記も完全に無視。晩夏~初秋にかけて週末の夜はこのDVDを一気に観ました。
私は感情移入して一話一話見入ってたが、私に付き合わされたジャン妻の最初の感想は、
「大河っぽくないねぇ」
英雄不在の任侠路線と思ったようです。
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冒頭~前半のパリ遍はつまらなそうに見ていたが、会津戦争~斗南遍の後、東京での汚職事件遍あたりからグイグイ引き込まれてきたようで。
一話観終わったら、「次っ!!」
また観終わると、「次っ!!!」
「この後、どうなるの?」
「これで終わり?もう出ないの?」
時折、興奮しながら、西南戦争遍、樺戸集治監遍、脱走して自由自治元年遍まで喰いつくように見ていた。
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主人公、平沼銑次(演:菅原文太さん)のことを、
「優しくて可愛いキャラ」
「妹に甘いね」
「元気だねぇ。いつも走ってるし。あ、また走ってるし」
「また怪我してる」
「またこんなヒドい目にあって・・・」
「これよりもっともっとヒドい目にあうの?」
私の記憶に間違いなければ銑次は肩の銃創2回、足に1回、肩か背中を斬られたのが1回、拷問が2回か3回あったが、自己免疫力が異常に強いのか、すぐに完全治癒して立ち上がる。
「もう怪我治ったの?」
怪我って寝てたらストーリーが進まないからね。
刈谷嘉顕(演:加藤剛さん)の理想主義やクソマジメぶりもやや呆れながら見ていた。
西南戦争で政府軍として故郷に赴き、田原坂で父(演:千明実さん)と対峙。
「あぁ~・・・出逢っちゃった・・・」
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銑次は死なないが、刈谷が非業の死を遂げた時は、
「え??刈谷死んじゃうの?何でここで刈谷が死ななきゃならないの?」
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大久保利通(演:鶴田浩二さん)に僅かに共感していたのにはちょっと驚いた。
「力で引っ張っていかなきゃならない時ってあるのよ」
他社を吸収合併した時はそこの従業員の声を聴くのも必要だが、こちらが必要としている事案については最初は力で指導、牽引していくしかないと。

刈谷の同僚だが、汚職に手を染めた尾関平吉(演:岡本信人さん)が大嫌いで。
「尾関嫌い。何コイツ。出てくんな」
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「弥太郎かわいい」
斗南から銑次にくっついてきた弟分です。演じたのは金田憲一さん。
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だけど同じ弟役でも、もん(演:大原麗子さん)の弟、恭平(演:市村正親さん)は嫌いで、
「恭平!!このバカっキャラ!!」って罵ってた。
「コイツのせいで姉さんが身売りしたんじゃないかっ」
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要所要所で感情移入していたジャン妻が、銑次と並べて、悪ガキコンビと称したもうひとりの相棒がいます。
水戸藩士の伊河泉太郎(演:村井国夫さん)というキャラ。
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伊河はパリ遍で徳川昭武公に付いて登場する。
最初は銑次を敵視するが、2人で薩摩藩の万博陳列物をブッ壊した辺りから意気投合する。
函館戦争の後はしばらく登場しないのだが、ドラマ後半、もんを看病しながら静かに暮らす銑次の前にいきなり現れ、会津自由党への参加を呼び掛ける。
でも銑次はもんをひとり残していけないので、この時は断っている。
「高松凌雲先生(演:七代目尾上菊五郎さん)から、銑さんは誘うなって言われてんだ。悪かった」(伊河)
サッパリした気性の漢なので勧誘を諦めた。
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伊河が会津自由党に参加した辺りのDVDナレーションは、
『明治15年11月。会津では福島県令三島道庸の通達による強制労働に対し、農民たちの不満が急速に高まっていた。
それを反対運動までに組織していったのは会津自由党の人々であった。
会津の村々では道路工事を始めとする過酷な労働に応じない農民たちの数が増え、三島道庸は彼ら不平農民に対して厳しい弾圧の姿勢で臨んだのである。
しかし農民たちは自分たちの中からリーダーを次々と生み、自由党と結束して抵抗を止めなかった。
伊河もそれを支える一人であった。』
何で伊河がここで出てくるのかわからないが、伊河は明治新政府の世の中で居場所が無かったのかも知れない。このドラマはいタイミングというか、何でここでこの人がタイミングよく登場するのか?と思わせる唐突な場面が少なくないが、そこは登場人物が少ないのを逆手に取った構成、ご愛嬌としておこう。
で、この場所ですが。
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新宮城を出て向かったのは福島県耶麻郡塩川町。
塩川町は戊辰戦後、会津藩士が謹慎させられた地でもある。
国道121号線を喜多方方面へ北上して、左手に並行して走る磐越西線塩川駅を過ぎた辺り、左手に工場のある交差点を長床方向へ左折します。
姥堂川を渡って右は田んぼ。その向こうに、弾 正 ヶ 原 ・・・白い板に太い黒文字でデッカく印してあるから遠目でもすぐにわかる。
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自由民権運動がどういうものか私も詳しく知らないのですが。
征韓論に破れて新政府から野に下った土佐の板垣退助の自由党に端を発する。
薩長藩閥政府に対して憲法の制定、議会の開設、不平等条約問題、言論や集会の自由等の要求を掲げ、この運動は明治23m年(1890年)の帝国議会開設まで続く。
弾正ヶ原は「獅子の時代」でも描かれた喜多方事件にまつわる場所です。往時の福島県知事に三島道庸という人がいる。
後世から見れば、会津に来る前の山形県令時代に県内のインフラ整備に成果を上げた人。
この人は道路を造るのが好きだったのか、米沢~福島を結ぶ万世大路、栗子隧道(現在の国道13号、栗子トンネル)、山形~仙台を結ぶ関山隧道(現在の関山トンネル、国道48号)他を作った。いや、作らせた。それらは現在の道に受けつがれている。
http://www.pref.yamagata.jp/ou/shokokanko/110001/him/him_special-edition01.html
同じことを会津でもやろうとした。福島県令に赴任して越後街道、山形街道(米沢街道、穴澤一族のいた桧原峠を越えるもの)、下野街道(日光街道)の会津三方道路建設を推進する。会津若松を起点として、栃木県に達する30km、山形県境に45km、新潟県境60kmを結ぶ巨大土木工事。現在の国道49号と121号がこれで、後世に道路の付替や線形の改良はあっても概ね踏襲しているそうです。
私が会津にくるまで赴く時も、三島が建設推進した道路を走っているし。
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若松市内の図書館、稽古堂の史料『』内にいう。
『喜多方事件の発端は三方道路の開墾を契機とするものであったが、留意しなければならないのは、道路の開墾そのものには反対ではなく、地方産業の振興や商品流通の発展の為には望んでいたことであった。』
喜多方でも、米沢街道の開発は明治7年に計画申請があったという。
『だが、三島県令の着工方法や、工事の代夫賃、徴収、服役方法があまりにも不当なものであったことに喜多方事件発生の原因があった』
『三方道路は国道であるのに、三島県令は会津六郡の人民の夫役によって建設しようと重い条件を押し付けた』
(会津六郡とはどれを指すのかよくわからないのだが、喜多方事件決起の農民は耶麻郡、河沼郡とある。)
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三島3.jpg三島4.jpg
三島は工事費用負担を男女貧富を問わず人民に強要する。
向こう2年間、年齢15歳~60歳の者をひと月に1日、道路工事に従事させ、従事しない者は男で1日分金15銭、女は10銭の負担を課せられた。
だが会津は雪国でもあるので工事は夏と秋の農繁期に限定される。遠隔地に赴く者は工事が1日でも工事現場へ往復するのに2日、計3日かかる。農民はこの工事賦役に反対した。
各地で反道路工事、反三島の演説が開かれるようになり、そこへ会津自由党員が絡む。会津自由党はこれら農民の反対運動を組織して指導、活動する。福島の自由党本部からも党員が応援に駆け付ける。
対する三島も県令着任と同時に郡長と警察署長に大量の薩摩閥出身者を呼び押せており、田村郡長、三春警察署長、会津耶麻郡長、喜多方警察署長他、県警部定員25人の大半は薩摩人をもってし、殆どが20代後半の青年だった。若いだけに、『彼らは三島県令の私兵でもあるかの如く忠誠心を見せようと勇んで弾圧に手を貸した』
三島はついに賦役に応じない人民から財産や家財道具を差し押さえて競売に出した。これに喜多方周辺の農民は激昂し、明治15年11月28日、農民千余名が弾正ヶ原に集結。その足で喜多方警察署に押し寄せた。
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現在、弾正ヶ原の敷地はこんな感じです。
草は刈ってあったが、あまり公園化整備もされていないようである。
1本のケヤキの木がある。終結時、党員のリーダーが演説をするため上ったとも。
くるまに戻ったらちょうど、2両編成の会津マウントエクスプレス(喜多方直通)が駆け抜けていった。弾正ヶ原は磐越西線の軌道敷地内でもある。
弾正ヶ原公園に至る道は舗装されていません。拡張された田んぼの畦道です。駐車スペースもありますが、車幅1台分の土橋で農業用水を渡ります。切り返しに注意してください。
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「この場所を覚えておいてくれ」
「???」
観ていたDVDが後半に突入し、この旅行から戻ったら喜多方事件に突入する第48回、「生まれ来る者」だった。
帰宅してDVDを再生させたら、伊河泉太郎他、農民たちがが弾正ヶ原に集結し、松明を掲げて喜多方警察所へ向かう場面。
ナレーション続く。
『11月28日、千数百人の農民が喜多方の南、弾正ヶ原に集結した。 夕刻、彼らは、宇田成一らの釈放を要求し、およそ5Km離れた喜多方警察署に向かって歩き始めた。』
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『武力を用いず法の許す範囲で抗議するというのがそれまでの自由党の方針であった。
農民たちも大半はそれに従った。蓆旗ひとつ、竹槍1本なかったと言われる。
しかし警察署の窓ガラスに向かって石を投げたものがあった。』
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それは農民ではなく警察側の廻し者の仕業ではないかという説もある。
後にいう福島事件である。この事件と前後して自由党も急速に民衆の支持を失うことになるのである。』
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福島事件=喜多方事件ともいう。
会津や喜多方は、福島という大枠に入れられるのを好まないように思うので、ここでは喜多方事件で統一する。
この騒乱で、伊河は丸腰のまま素手で警察に抵抗するが、形成危ういところへ銑次がまたまたタイミングよく現れ、素手で複数の警察官を殴りつけ、手刀で叩き、伊河を救出した。
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農民支援に失敗してうなだれる伊河に、銑次2人が出逢った巴里を思い出させて力づける。
「そうだ。巴里ぃ以来だ。2人で薩摩の陳列をブッ壊したなぁ」
2人は秩父の松本栄吉(演:丹波哲郎さん)のもとへ向かい、秩父事件の秩父困民党蜂起に参加することになる。
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一致部事件と、もう一人の主人公で苅谷嘉顕が関わる大日本帝国憲法制定の過程、刈谷の挫折と並行して、終盤が展開される。
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新宮城 [会津]

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治承4年(1180年)、平家打倒の源頼朝挙兵時、三浦半島の衣笠で戦死した三浦の豪族、三浦義明の七男に佐原義連という人がいる。
義連の子、盛連に6人の子がいて、会津のどっかしらに所領を持っていた。
長男・経連、猪苗代湖から磐梯山麓一帯の猪苗代氏。
次男・広盛、会津盆地の中心で湯川村北田の北田氏。
三男・盛義、若松市郊外の河東町藤倉に藤倉氏。
四男・光盛、黒川、すなわち現在の会津若松で蘆名氏の祖になる。
五男・盛時、会津最北端の地である叶荘、現在の熱塩加納村を与えられ加納氏。
六男時連、新宮荘(喜多方市)を与えられ新宮氏。
(芦名=蘆名だが、ここでは蘆名で統一させていただきます。)
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-04-25
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-04-26-1
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-04-27
長男の猪苗代氏を差し置いて四男・光盛が蘆名氏を称し、その系譜が黒川、現在の会津若松城の基になっているのを長年疑問に思っていた。
最近、会津柄若松駅前の書店で新書を購入して気付いたのは、盛連の長男、次男、三男と、四男、五男、六男の母が違うそうです。
長男、次男、三男を産んだ最初の夫人の名前はわからない。死別したのか離縁したのかもわからない。
若かった?盛連は再婚する。お相手は三浦一族の策謀家、三浦義村の娘で矢部禅尼という女性。
(三浦義村は30年前の大河で藤岡弘、さんが演じた。)
矢部禅尼、この女性は三代執権の北条泰時に嫁して嫡男の時氏を産んでいるが、その後に何があったのか、北条泰時と離縁して佐原盛連と再婚したのだそうです。再婚同士ですね。
そして生まれたのが四男、五男、六男。
初婚で産んだ北条時氏は27歳で亡くなったので執権にはなっていないが、時氏と盛連の四男、五男、六男とは異父兄弟にあたる。だから兄弟にとって時氏の嫡男で四代執権になった経時は甥にあたる。
なので三代執権北条泰時のお下がり?なのかどうか・・・矢部禅尼が産んだ盛連の下の子3人は先に生まれた3人より鎌倉中央府、執権北条家にずっと近いのです。この辺りが四男の光盛の系譜が蘆名本家となり会津守護職を称した理由ではないだろうか。6人兄弟のなかでは四男だが、後の3人の中で先に生まれたからです。
この6人兄弟同士の系譜は三男を除いて不和になる。遡れば同じところへ行きつくのだが、かなり長いこと同族で相争っていた。
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熊野神社の受付のジイさんが言う。
「新宮城はね。そこの前の道をずーっとあっち(北の方角を指す)に行くとバスが停められる駐車場があるから」
バスが停められる?
新宮城はそんなに賑わうのだろうか。
意地悪く聞いてみた。
「何も残ってないんでしょ?」
「いろいろ出てきたみたいだよ」
いろいろ出てきたとは発掘した出土品のことか。
口の重たい会津人にしてはよく喋る爺さんだった。同じ会津盆地でも喜多方だからかも知れない。
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爺さんの説明が心許なかったので、境内入口にある新宮集落のMAPを見る。
新宮城の駐車場が右下隅に表示してある。
あまり大々的にアピールしていないようだが。その駐車場にあった遺構MAPがこれ。
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熊野神社を出て地元の狭い生活道をそろそろ走る。
途中で橋を渡ったら、橋の左右が如何にも堀っぽかった。
堀①です。
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その先は耕地で視界が開ける。角を右折したらジイさんバアさん数人が耕地の草刈りをしている。
その辺りに方形の堀跡が歴然としていた。堀②です。
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東側を南北に伸びる県道道路脇に新宮城の幟がはためいている。
「あれじゃない?」
標柱があった。
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これだけかよ。
ジャン妻をくるまに残し郭内に入って見たら、耕地か遊休地になっている。私有地のようである。
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その先に、新宮熊野神社の受付のジジイが言っていた大型バス駐車場があった。
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誰も止めてない.jpg
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そこに滑り込んだがバスはおろか誰も停まってないじゃないか。私のくるまだけである。
駐車場のいちばん奥に解説板があった。
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駐車場脇にある残存土塁。後世の工事による土盛りにも見えるが。
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その先、堀③です。
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若松駅前の書店の史料に言う。
新宮城の新宮氏は先に書いた佐原6兄弟の六男・時連が祖だが、末っ子の家系なのに六家の館の中では最も大きい館で、主郭は東西100~120m、南北120~130m、外堀の外郭を併せると東西400m、南北360mの広大な館だった。
熊野神社を背景に自分らの所領と寺社領を管理する。金持ちだったらしく、長床の受付ジイさんが言うところの「いろいろ出てきたよ」の出土品は、青白磁、白磁、象眼青磁、古瀬戸天目茶碗、大量のかわらけ(武士の宴に使われた食器)、すり鉢、おろし皿など。近くを流れる阿賀野川の水運を利用して交易をしていたのだろうか。
かわらけがたくさん出てきたのは城内で度々宴が催されその数も多かった証です。近隣の武士との主従の宴や、婚姻の宴が盛んに行われていたのだろうと。
すり鉢やおろし皿は麦などの粉を根って焼いたり麺にして食べていたのではないかと。素麺でも食べていたのだろうか。
新宮氏は他の佐原兄弟の系譜と争う。康暦元年(1379年)次男の系譜・北田氏を攻めて撃退され、応永9年(1402年)には当時の新宮家当主・盛俊が五男の系譜・加納氏を滅亡させたが、応永10年(1403年)に本家(四男だが・・・)の蘆名氏に攻められて落城した。
一旦は許されるが、応永16年(1409年)に北田氏が蘆名本家に攻め込まれて滅亡すると、蘆名氏は会津平野に残った新宮氏が目障りでならない。
(三男の系譜・藤倉氏は黒川に近く、早くから蘆名氏の被官になっていた)
新宮・蘆名、幾多の抗争の後、応永27年(1420年)6月、蘆名9代当主・盛政が大軍を率いて新宮城の背後にある詰の城を先に陥落させ、平城の新宮城は支えられず、新宮盛俊他186人が戦死。新宮氏は越後へ逃亡する。
新宮氏は越後に埋伏して抵抗するが13年後の永享5年(1433年)、麒麟山温泉の津川城を攻撃した時に蘆名方の四天の1家、金上盛勝に破れて完全に滅んだ。
皮肉なことに「其後会津豊穣也」・・・新宮氏の滅亡後に会津は豊穣になったという記載があるそうである。新宮・蘆名双方の争いで会津盆地が荒れていたのだろう。
下の写真、右上端に四角い窪みで囲まれた辺りを散策しました。
航空写真.jpg
一家残っています。長男の系譜・猪苗代氏が収まらない。
「本来なら黒川と同列」、「こっちが長男の系譜」という鬱屈した思いが代々続き、その後も蘆名本家にちょいちょい叛く。叛いては鎮圧されの繰り返しになる。
だが場所が猪苗代なので完全に殲滅するには至らず。懐柔しながら東の押さえとし猪苗代に置いておきたかったのだろう。それが仇となって米沢から豊穣な会津を虎視眈々と狙う伊達政宗の手引きをすることになる。

ジャン妻はとうとうくるまから降りなかった。
周辺では田んぼを焼いている。この時、あちこちで焼き田(野焼き)をしていて、喜多方や会津盆地全体が煙っていた。くるまの窓を開けただけで、「煙臭い」という始末。
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「何で焼くのかな?」
「焼くと土に養分が残るのよ」
アルカリ肥料になる。他にも理由があって、虫や菌の駆除と雑草のタネの除去。藁が残っていると翌年の田植でジャマになること。
田を焼くのは条例が絡むらしい。
まだ昼までに時間がある。蕎麦宿の朝飯は意外にズシッと腹持ちするのである。
「もう1箇所付き合ってくれ」
「いいけど。またこんな場所?」
「・・・」
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新宮長床と近くにあるもの [会津]

蕎麦宿と青空.jpg
一連の蕎麦宿記事(写真だけですが)は10月後半のものです。
せっかく遠い会津まで来ていながら、この時は蕎麦宿に1泊だけして帰京しています。
会津若松市内のビジホが何処も満室だったのです。
「何かお祭りでもあるのかな~?」(ジャン妻)
「藩公行列はもう済んだぞ。あかべぇさんとこで見たし」
「何だろう?喜多方まで満室なんだよね」
「喜多方まで?何か大きいイベントでもあるのか?」
チェックアウト.jpg
湯神の大旦那に聞いたら、「若松市ホテル取れないですか?今の時期だと何だろ?」
ちょっと考え込んでた。
「長床かなぁ?」
長床?新宮の?
「銀杏の時期になるとライトアップしたりするんですよね」
新宮熊野神社の長床は周辺は大型観光バスが停車するスペースはある筈だが、若松市内のホテルが埋まるほど混むだろうかね。
「ごご(湯野上)にいっドと他で何やっでっかわがらないんですが・・・」
大旦那も怪訝そうだった。
長床が主目的ではないが、今日はそっち方面に行く予定なのです。
その途中、若松市内で味噌を買いに寄る。前にUPした材木町の山賀家さんが(土)(日)しっかり休むようになたので、七日町の満田屋さんで買った。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-06-26
満田屋さんは観光客向けの味噌屋ですね。
若松の街ん中を走っててもそれほど人がいない。
くるまも多くない。観光バスも走っていない。
何でホテルが取れなかったんだろ?
「もしかしてこれじゃない?」
これが原因?.jpg

会津縦貫道を北へ快走。塩川ICで下りて、県道と広域農道を西へ走ります。途中、一時停止無視を監視するパトカーが待機していたりする。
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熊野神社1.jpg
ポケモンGOが配信されてから、新宮熊野神社境内でも夜間にポケモンを楽しむ輩が集まって来たそうです。
「ポケモンGOでの入社の人はお断りします」とある。
入社・・・会社に入るんじゃないです。社イコールやしろ(社)ですよ。境内敷地内に入らないでくれということ。
5時以降の侵入は警察に通報するとも書いてあった。
地域住民の長床保存会は、拝観が終了する午後5時以降は立ち入らないよう呼び掛けている。
これぞ長床です。
長床1.jpg
長床2.jpg
これは何に使ったのだろうか。拝殿か舞台か。
靴を脱いで上がってみる。
長方形の床にブッ太い柱が等間隔で並んでいる。数えてみたら44本だった。
四方の隅から見たところ。どこから見ても同じに見えますね。
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柱と柱の間は吹き抜けで壁がない。
風が吹いたら寒かろうな。
雨が降ったら濡れるだろうな。
風雪の時期は寒いだろうな。
ジャン妻は上がって来ない。興味無さげにボケーッとしている。
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「上がらんのか?」
「いい。前に見たし」
「じゃぁ靴の番でもしてろ」
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本殿に上がる階段です。結局は上らなかった。
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上がる気なし.jpg
「ここ前に来たね」
「7~8年くらい前かな」
「そんなになる?」
あの頃は師匠・番頭さんの掲示板時代だった。
番頭さんとは私に船山温泉とこの世界に導いてくれた人です。ご実家がここ、喜多方市の何処かだったと思う。
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しっかり拝観料を支払っています。
受付にはヒマそうな爺さんが2人いて、「宝物殿とセットだからね。見でっで」
敢えて不謹慎に書いちゃいますが、私ら以外にマトモに支払ってる人はあまりいなかったな。
拝観料大人300円は長床の見学というより、そこへ至る参道の右にある宝物殿内に展示してある文化財の拝観料といっていいです。
長床だけなら参道脇の小道を通って見に行けます。
私らの旅行は旅館直行直帰スタイルで、観光というものを殆どしないのですが、この長床訪問は久々にマトモな観光だったと思います。ですが私の主目的はここ長床ではないのです。
受付に聞いた。
「新宮城って何処?」
「ああ、新宮城はね・・・」
新宮部落案内板.jpg
案内版の左下に.jpg
新宮城1.jpg
(続く。。。)
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未来永劫変わらぬ朝飯 [会津]

朝餉1.jpg
朝餉2.jpg
具がゴロゴロ.jpg
ブロッコリー.jpg
煮物.jpg
鱒.jpg
果物.jpg

「ほらそっちの膳載せてっ!」
ジャン妻1.jpg
お茶をグビリ!
ジャン妻2.jpg
どっこらせっと!
ジャン妻3.jpg
軽やかに回転するジャン妻!
ジャン妻4.jpg
ズシッ!ズシッ!
ジャン妻5.jpg
狭かったらしく体当たりで襖を開けるジャン妻
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廊下に出る!廊下の床が鳴る!
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再び、よっこらせっと!
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腰が入っているジャン妻!
ジャン妻9.jpg
ガッシャン!
ジャン妻10.jpg
まさに立ち会いの姿勢!
ジャン妻11.jpg
ズオッ!
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再び軽やかに回転!
ジャン妻13.jpg
床が鳴る鳴る!
ジャン妻14.jpg
他の部屋のお客さま。お騒がせしました。
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麦とろ~山賀家 [会津]

神秘の湖、沼沢湖を見て若松市内へ向かいます。
「馬刺でご飯食べたい」」
「それは合わないよ」(ジャン妻)
「合うと思う。赤身だモン」
「そうかなぁ・・・」
向かった先は。。。
麦とろはビル.jpg
会津若松鐘突き通り(栄町、甲賀町口門跡の裏手)にある「麦とろ」を駐車場から見上げたとこ。
昼に珍しく先客さんがいた。カウンターに3人。
麦とろ1.jpg
麦とろ3.jpg
「あっりゃぁ~。どうして連絡くれないのよぉぉぉ」(婆ちゃん)
連絡無しでいきなり訪れて、ご主人と婆ちゃんの驚かせるのが楽しみでもあるのだ。
「どっちが運転?」(ご主人)
「こっち」(私を指すジャン妻)
「じゃぁ奥さん飲めんべ?」
別に飲んでもいいけど。ジャン妻は固辞した。
「昼飯を。お任せします。鰊と卵焼きと。。。」
「じゃぁ麦とろ定食でいい?」
看板メニューである。自家製味噌の味噌汁と、季節の惣菜が付く。
「それと馬刺ある?」
「あるよぉぉぉ」
ランチが並ぶ.jpg
とろろ。
「これご飯にかけるのもったいないくらいだね」
私はそのまま半分飲み干し、残り半分を飯にブッかけた。
とろろ.jpg
ウドの煮物。
ウド.jpg
卵を10個くらい使って一度に焼き、切り分けた厚焼き玉子。
卵焼き.jpg
鰊の山椒漬け。
鰊山椒浸.jpg
自家製味噌の味噌汁。・
会津味噌汁.jpg
キュウリと蕪の漬物。
漬物.jpg
会津坂下の馬刺。
「三大馬刺っていうんだけど。熊本、長野、そんで会津なんだよ。他はサシが入ってたり、タテガミとかと組み合わせて出すんだけど、会津は赤身なの」
馬刺赤身.jpg
飯に載せる.jpg
その馬刺をご飯に載せたとこ。
「馬刺ってご飯に合うね」
「合う合う。ビールや酒ばっかじゃないの。子供の頃、晩飯のおかずに今夜は刺身だぁって喜んで席に着いたら、また蹴飛ばしかぁって」
会津では馬刺のことを「蹴飛ばし」という店もある。
「湯野上さんでも馬刺食べたろうけど、やっぱウチの方が美味いべ?」
答えに窮するような質問をされた。
「そうだね」って言っておいた。
昼間のカウンター.jpg
カウンターの先客さん3人との会話を聞いてると、
「太田さんは3回見えられたんだ」
太田和彦氏のこと。1度目、2度目と掲載を固辞したという。
「ウチなんかより、もっと若くって個人で頑張ってる店があるんだからそっちをアピールしてくなんしょって最初は断ったのよ。そしたら翌日、山菜採りから戻ってきたらまたいてそん時も断ったんだけど、3日目にまたお見えになって。そこで根負けしたの」
太田氏の著書には若松市内のもうひとつの有名店、「籠太」も掲載されている。1日2日3日と来て掲載を申し入れる辺りは取材する側の強気、強引なとこであろう。
でもそのお蔭で、2000年に刊行された「のれんの本」を元に訪れて10数年。
食べ終わる.jpg
麦とろ2.jpg

その麦とろがおススメする会津味噌屋、山賀家、いつもネット注文してる店。
若松市内には1軒有名な味噌屋があるが、そこより美味いって。
アタマっからくるまを突っ込んだら暖簾が締ってる。
山賀家1.jpg
山賀家2.jpg
「休みじゃないの?」
「休みぃ?」
もう家に味噌が無いのである。蕎麦宿に来る直前にちょうど味噌が無くなった。近所のスーパーで買うより会津へ行く時に買えばいいと思ってさ。いつもは通販なのです。
そしたら中から女性店主が出てきた。店は休みだが中で何か事務してたみたい。
実家の分の併せて4袋買った。店が休みだから、
「レジ起ち上げるの?」
「ウチ、レジ無いんです」と言う。
手計算と手書きの伝票だった。
山賀家4.jpg
「思い出した。市内のどなたかがウチを紹介してくれたんでしたっけ?」
「そう。甲賀町の居酒屋のオヤジがね。〇〇屋よりこっちの方が美味いって」
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303495580-1
山賀家5.jpg
山賀家3.jpg
「土日休みにしたみたい」
「何でだろ。観光客来ないのかな」
「観光客向けの店じゃないのかもね」
地元の味噌屋らしい。会津若松市材木町1-8-13、最寄駅は西若松駅。コの字に曲がった日光街道沿いです。
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沼沢湖 [会津]

ジャン妻は湖が大好き。
「何で海より湖が好きなのさ?」
「静かだから」
「海はうるさいかい?」
「海も嫌いじゃないけど。どっちかって言ったら滝と湖」
「でも湖って閉ざされてるじゃないか」
「それがいいのよ」
果てしなき海より対岸の見える湖がいいそうで。そこに山々が映えれば尚いいとか。ダム湖より自然の湖がいいそうである。
会津の湖は猪苗代湖、裏磐梯の桧原湖他、それらは観光地やレジャーのイロあいが濃厚。
でも会津に未だ行ってない湖がひとつある。
沼沢湖。。。
沼沢湖1.jpg
沼沢湖2.jpg
この湖に行くには会津田島から西へ走って大川を渡ってすぐ左折、国道400号線(田島バイパス)を北上する。
左折してすぐに福島県南会津病院があって、門前に大手の調剤薬局さんが2軒あった。医師や薬剤師の確保がタイヘンそうである。
弊社も地方都市への派遣、赴任で候補社員との派遣条件を整備するのがタイヘンそう。行くのがイヤな為に理由にならない理由で断って来る者もいるからね。
「会津田島だったら転勤してもいい?」
「いいね。しばらく住んでみたいもの」
住むからには鴫山城、長沼氏、祇園祭り、天領だった頃の騒動、山の向こうにいた河原田氏、鶴ヶ城開城後も戦火が続いたこと、いろいろネタに事欠かなそうである。まぁこっち方面への転勤はまずないと思うけど。そんな妄想しなあら運転して気付いたのは、今走ってる田島バイパスが私のナビに表示されない。
田島バイパスになるまでは、自動車が行き違いできないくらいの狭い区間があったり、冬場にはクローズされるので病院まで搬送されるのに会津下郷町方面へ迂回せざるを得ず、搬送に1時間~90分かかっていたそうである。他に田島ダム建設もあって現在のバイパスに付け替えられたとか。
右手に田島ダムを過ぎてから大沼郡昭和村に入り、辛うじてセンターラインが引かれた1車線舗装道路を快走する。信号もない。
「猿でも出そうだな」
ジャン妻はイヤな顔をした。
前に南会津の伊南へ走った時、国道352号線の路肩に数匹の猿を見たことがある。
給油したスタンドで聞いたらその辺りは猿が多く、日常的に猿に出くわす、猿が畑を荒しに来る、出逢ったら威嚇されるはしょっちゅうだそうで。
伊南は猿もいたが人もいた。今、私が走っている昭和村は伊南より人が少ないうように見受けられる。伊南、伊北には只見川に注ぐ伊南川が悠々と流れ、護岸工事関係の作業車や作業者が多いからかも知れない。
新しい道を快走してたら突然、細くなったりする。
「これでも国道だよ」
「ホントだ」
「農道を拡張したようにしか見えないな」
「でも何かで見たけど、国道なのに階段ってのがあったよ」(階段国道のことか?)
大沼郡は三島町、金山町、昭和村、会津美里町とあって、昭和村や金山町は高齢化率が54.8%に達し、イヤな表現だが限界自治体となっている。私も行ったことのない群馬県南牧村に次いで全国2位の数値。
「若者がいないな」
「・・・」
田んぼや路傍で農作業に従事しているのは高齢者ばかりである。
「コンビニもないな」
「・・・」
営ってるのか営っていないのかわからない雑貨店があったりする。でも私の知ってる群馬の田舎の比じゃないです。
ジャン妻はナビに表示された目的地までの距離を見て、
「まだ30kmもあるの?遠いね」
蕎麦宿から70kmぐらいだったから半分は過ぎたことになる。一般道の70kmは都心だと遠いが、何しろ田舎だし、信号もないし。すれ違うくるまも少ない。
後ろから走って来た1台のバイクを先に行かせたのだが、道の駅昭和を過ぎたらまた同じバイクが後ろから追いついてきて、1度ならず2度も同じライダーに、「先に行けよ」になったりした。
文章ばかりで沿道の写真が無いのは快走運転が続いたのと、あまりポイントになるものが散見されず同じような長閑な緑の景色が続いたからです。途中、昭和温泉、玉梨八町温泉といったプライベートリゾート地とは程遠い温泉地があったので、玉梨八町温泉の恵比寿屋をリンク。
http://www.ebis-ya.com/meal.php
鰊山椒浸、山の刺身(蒟蒻、湯葉、玉梨豆腐)、揚げ蕎麦の野菜あんかけ、塩クジラ(すいとん汁)、金鮎、
黒豆、黒米、ヒジキ、ジュウネン、シシ茸、殆どブツ切の馬刺。。。
こういう料理にソソるようになったのは、「普段、都会で美味いモンばっか喰ってるからだんべ」(明日UPする居酒屋の店主)
さっきからダラダラ文章が続いていますが。まだ走るんです。国道400号(何だかキリのいいナンバー)は酷道でも何でもないが、この先のフェアリーランド金山スキー場(今シーズンは奥会津と思えないほどの雪不足で、3月末にはクローズしてしまったとか)の辺りを右折、県道237号線小栗山宮下線に入る。
県道は険道ではないがヘアピンの連続なので、くるまに酔う人は止めた方がいい。
フェアリーランド金山スキー場を右手に見て、幾つものヘアピンを過ぎて、湖畔からちょっと離れた内陸を通る1本道を走行。キャンプ地方面へ入る。
そこに集落があった。
ここに来るまであまり賑やかな集落や人を見なかったので多少は安堵したりもする。
前にクール宅配便がいて、私らを先にやり過ごしたのだが、
「ここまで来て不在だったらどうするんだろ?」
「近所の誰かに預けるんじゃないの?親戚も少なくないだろうし」
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長閑なものである。
「アナタ、沼はどうなの?」
「沼はイヤ」
何か出てきそうだと。でもこの沼沢湖は沼沢沼と称されたものもあったぞ。
「だって大きいよね」
大きい。最深部は90mほどもある。この沼沢湖、実は火山地形でカルデラ湖なのだ。外輪山がある。
今から約4万5千年前と、5400年前に大規模な噴火があってこの湖ができた。その程度の年代でも新しいカルデラ湖だという。沼沢火山とも。
湖水面高約475m、面積約3.1km2、水深約96mである。カルデラは直径2km×1.5kmあって、2003年の活火山見直しで新たに活火山として認定された??
活火山なのか??
沼沢湖4.jpg
釣り人がいる。
湖といえばヒメマス。あの東電福島第一原発事故の影響が少なからずあって獲っちゃダメだったそうだが、食品衛生法上の基準値が下回り、ので平成28年4月9日から解禁した。
刺身で喰ってみたいですね。でもそんなに長く禁漁だったせいか、キャンプ場の売店2階にある食堂もクローズしていたぞ。
「シラサギでも釣ってるのかな?」(ジャン妻)
「シラサギ??」
「違ったっけ?」
「シラサギ(白鷺)ではなくワカサギだろ。鳥を釣ってどーする」
「・・・」
沼沢湖5.jpg
沼沢湖のすぐ北、外輪山を越えたらそこには只見川が悠々流れている。あまりに近いので湖面と只見川との落差を利用した揚水発電所がある。その取水口の跡があった。
取水口跡2.jpg
取水口跡3.jpg

沼沢湖6.jpg
沼沢湖はそこへ至るに遠く、道も狭く、急なヘアピンの連続が功を奏してか、ミーハー客が訪れるレジャー観光地としての色合いはゼロといっていい。
かろうじて妖精美術館・・・だったかな?伊豆高原辺りに散見されるアヤしい施設があるようだが、湖畔の道にその美術館を示す道標も朽ちて落ちていた。
「まだ先へ行く?」
「もういい。満足した。戻ろ」
「あの山を背景に撮りたい」
「・・・」
沼沢湖9.jpg
ジャン妻は無言だが、私がその山を収めたい理由は通じたらしい。
何だか岩櫃山に似ている気がしたから。
その山を写真に収めたら。。。
沼沢湖11.jpg
???

ジャン妻はここまで走って来たあのカーブ続きの道をまた戻るのか?という表情である。
沼沢湖jは湖畔を1周する道はない。そのまま行ったら会津水沼方面へ抜けると思われるが、県道237に戻り、来た道を戻るのではなく北へ。
まぁ言語に絶する物凄い急坂のヘアピンを下るんですよ。前述のように沼沢湖は火山湖なので、只見川との比高差がかなりあるのです。只見川流域から見上げた山の上にある湖と言ってもいい。
只見川と並行する辺りの道は狭く、宮下ダム辺りの1本道に出たら右手に只見線の路盤がある。今はここまで1日に何本走っているのだろうか。
三島中の辺りで国道252号(何故か沼田街道ともいう)に合流。そこでようやく道幅が広く路面がキレイになり、会津坂下方面から若松市街へ向かった。
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変わらぬ素晴らしさ [会津]

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朝の散歩の続きですが、蕎麦宿と同じ通りの民宿すずき屋さんの前、斜面に架けられている古いガーダー橋にちときになる箇所を見つけた。
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プレートガーダー橋がかなりくたびれてきてないか。
中間補強材(縦板)とカバープレート(下部)の結合部分や、ソールプレート(桁端の縦板)とシュー(橋脚との結合部分)がサビサビ。枕木の一部も腐って割れてるじゃん。
大丈夫だろうか。
大丈夫かこの枕木.jpg
そんなことを考えてたら、会津田島方面から湯野上温泉6:46着の会津鉄道が来た。
キタ1.jpg
キタ2.jpg
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まぁ首都圏の在来線と違って運行本数が極少で、編成も短いから、橋梁、橋脚にかかる負担が少なく、一瞬で済むのかも知れないけど。何かあって、只見線のようにならないか心配である。
会津鉄道も野岩線も何処か牧歌的でユルい。ちゃんと保線、点検、交換、メンテナンンスしてくださいね。
この後、昨日発見したインクラインを見て、対岸を走る会津鉄道を撮って、宿に戻って朝餉の前に朝湯。
朝湯.jpg

ジャン妻が、旅館の朝餉の理想、とベタ誉めの朝餉。
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朝餉2.jpg
根菜たくさん。蕎麦がきの味噌汁。
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鮭ではないです。鱒の塩焼き。このブ厚さ。
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「この煮物は夜がいいなぁ」(ジャン妻)
前は夜に出されてたのですが、全体量が多く食べ切れないお客の方が多かったようなことを聞いたことがあります。
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朝餉6.jpg
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ゴテゴテしたデザートはノーサンキューな私ですが、この宿のフルーツは大好き。
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チェックアウト前、宿裏を走る最後の会津鉄道。
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MTEX1.jpg

朝の蕎麦宿2.jpg
今年の夏でまる20年のお付き合いになった。
過去には大雪で帰り道に難渋したり。
宿で怪我して女将さんの運転で会津下郷の病院に搬送されたり。3針縫った。その晩だけ囲炉裏に火が炊かれ、鴨の焼肉を喰ったり。(造血剤か?)
初めて2泊を申し入れした時、若干困ったような口調で、
「同じもの(食事)でもいいですか?」(大旦那)
「同じものでも飽きないけどね」(ジャン妻)
私らは変化を好む方ではないので、「いつもそこに行けば必ずある」、これが大事なのです。
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謎のインクライン [会津]

翌朝目覚めたの5時半ですよ。
宿裏手を走る会津鉄道始発の踏切音の前、若松方面の始発が5:53に湯野上に着くのですが、宿裏の踏切がカンカン鳴る前に目覚めてしまった。
我ながらジジィになったモンだ。
前夜の酒が足りなかったのかな。
目覚めたとこ.jpg
傍らでジャン妻は爆睡している。
朝餉まで時間があるし。ウトウトしてもすぐ目覚めてしまう。こういうのうを断続睡眠というのだろうか。
これが平日だったら日中の公用外出途中で居眠りして取り戻せるのだが、今日はある湖を見に行って、昼は若松市内の居酒屋で済ませ、会津味噌を買って、その日のうちに帰京するから寝ておきたいのだが。
結局あまり寝なおすことができず。
7:00過ぎに宿を出て散策へ。
外に大旦那がいた。
「散歩ですか?」
「うん。すぐ戻ります・・・」
民宿街を歩いて会津鉄道を撮影するビューポイントを探してみた。
なかなかいいポイントが見つからない。
たんぼのあぜ道を突っ切れば恰好のポイントがあるかも知れないが、田んぼだって私有地だし、今は田植えの時期だし、そこをズイズイ行くのも躊躇われる。
モラルを優先して断念。民宿街を抜けたら湯野上ホテルの先に下郷町営住宅へ下り道があった。
対岸が遠いな。
対岸を行く1.jpg
対岸を行く2.jpg
大川の谷合にヒョーッと響く。
桟道のような路盤を、湯野上7:35発の会津田島行がゆっくり走って行く。
対岸を行く3.jpg
朝日の逆光もあって、あまりいいフォトではないな。で、その撮影ポイントに、簡易的な軌道があるのを発見した。
インクライン.jpg
何だろう?
小さいながらもしっかりしたレール、路盤が斜面の角度、法面にピッタリ敷設されている。
見下ろす1.jpg
見下ろす2.jpg
軽便鉄道762mmのナローゲージではないだろうか。
軌道幅(ゲージ)は狭い。レール規格も小さい。この場所だけで完結しているので、軌間は何でもいいともいえるが、規格を合せるのは汎用品を使えるからでしょう。
小さい軌道.jpg
ケーブルカー?
いや、違いますね。これはケーブルカーではなくインクラインですな。Incline(傾斜)です。山岳地帯での材木の輸送、ダム工事現場での資材、機材の輸送などに用いられる。急斜面で工作物や資材を上げ下ろしする貨車、台車のようなもの。
台車にはケーブルが装着されていた。そのケーブルは車止めの先にある物置小屋をこじ開けて、切り開いた四角い穴から出ていた。
中で巻き取っているに違いない。巻き上げて運転する鋼索鉄道ですな。これで引っ張らないと急斜面を一気に滑り落ちて滑落してしまうだろう。
小屋から.jpg
小屋には作業実施前の注意書きがあって、
始業点検の実施。
制限荷重1000kg
運転市からの離脱禁止
所定場所に格納
係員以外は運転禁止
管理所持は湯野上発電所とある。
作業時の注意書.jpg
湯野上発電所?
それはここより西の大川上流、会津下郷駅すぐ近くに大川を堰き止めて水がたまっている場所があって(旭ダム)その辺りではなかったかな。
そこの発電方式は水流の落差で発電する水力方式の筈。この辺りも大川まで相当な傾斜があるのでミニ発電所があるのかな。
台車1.jpg
これを見ると台車そのものには動力はなく、小屋に電気を引いて、その動力ケーブルで上げ下げする台車なのは一目瞭然である。
台車は進行方向前部に丸棒の手すりがくっついているだけでサイドや後方には何もない。
よくある旅客用ケーブルカー車内は斜面に合わせて階段状になっているか、この台車は平たいままなので走行中は傾斜に対して床が水平にならないのだ。
畳2/3ほどのベタッとした底板だけ。何を載せるのだろう?
台車が置かれている辺りはもちろん平坦部である。私もそこで立って観察している。この場所で積荷を載積しても、稼働して斜面に至ったら斜めってしまい、積載物がズリ落ちてしまうのではないだろうか?
積荷はロープで縛るのだと思う。幌が畳んであるし、台車脇には幌を引っ掻けるフックもある。
台車2.jpg

黒い鉄柵.jpg
立ち入り禁止.jpg
その先、斜面に至る辺りは黒い鉄柵で侵入を拒んでいる。
傾斜角度はわからない。20度くらいか?
下に何かの施設.jpg
下流の彼方に何かの施設がある。そこは大川の水面か河原と同じ高さだろう。そこまでの落差は70mほどありそうである。
その施設に下りる道が無いのでこういうものを作ったに違いない。
鉄柵越しに1.jpg
レールもそれほどサビていないので、時折稼働しているのではないか。
鉄柵越しに2.jpg
そういえばこの鋼索ケーブルは遥か下流まで延びていない。この台車の尻尾で完結している。なので一般のケーブルカーのようにケーブルの両端に車輌が付いていて、井戸の釣瓶みたいに一方の車両を巻き上げてもう一方を下ろすヤツ、交互に稼働するものではない。それだったら上流から下流までケーブルを通し、途中の中間地点で複線にして行き違い交換施設を設けなくてはならない。単線2両交走式という。
鉄道事業法の免許は受けているのかな。遊園地の遊具や旅館内のエレベーターとも違う。あくまでこの場での作業用に敷設されたもの。
台車3.jpg
果たしてこれは何を運ぶものなのか。
旅客用ではない。何か発電所か河川管理の資材を運ぶもの。
人は乗れるか?乗るとしたら工事関係者に限られるが、手すりにしがみつけば乗れなくもないが、軌道脇に階段が併設されているから下りる時は階段で下りて、上って来る際に乗るのかも。
でもあくまで台車は荷物を積載するもので人は乗らないと思うな。荷物を台車に載せ、安全上、作業員は脇の階段で昇降するに違いない。
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蕎麦宿 [会津]

蕎麦宿の夕餉TIMEは宿入りした際、「食事は6時に・・・」と言われますが。
そのサインは各部屋のコール音が鳴るのでもなく、伊豆高原のように湯が突然途切れる荒業でもなく、そろそろ夕餉だな・・・の雰囲気が醸し出される。
廊下に突然ドスドス足音がして慌ただしくなるのは最初にお膳を運ぶ大旦那の足音。
もう幾度となく載せ、同じような写真ばかりですが。
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夕餉2.jpg
おそらく会津坂下の馬刺??
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蕎麦豆腐にかかっているソースは、キュウリをすり潰したもの??
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最初の膳の後はひとつひとつ運ばれる。
今宵はもよ教職の女将さんが運んできた。
蕎麦粥に鶏肉が載っかってたが、これは要らないなぁ。
臭みが出ちゃうんだよね。
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そして蕎麦宿名物、蕎麦サラダ。
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グチャグチャに混ぜてみる。
「汁、全部飲んでいい?」
「ダメ」(ジャン妻)
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「生ビール飲んでいい?」
「いいけど」(ジャン妻)
既に日本酒に移行してるんだけど。
「え、生ビール?」(女将さん)
蕎麦サラダには生ビールが合うのだよ。
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養鱒公園の岩魚??
腹に味噌がマブしてある。
昔はアタマっからガブッといったものだが、今はアタマだけ残して他をタイラげます。
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定番、蕎麦稲荷。。。
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最初は「巣篭り」といった揚げ蕎麦は、蕎麦が少なくなり海苔で束ねられた代わりに、里芋を潰して蕎麦実をまぶして揚げたもの(定番)、蓮根に蕎麦粉を詰めた揚げ物(これは素籠りとは別物だった)、そして、海老!!
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〆のざる蕎麦。
この斜めってる雑な置き方したのは女将さん。(笑)
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囲炉裏で少し寝酒を含んで、眠りに落ちる前、
「女将さんて料理すんのかな?」
「さぁ。宿の料理は旦那さんと若でしょ」(ジャン妻)
「洗い物くらいはするよな」
「するよ。見たことあるもん」
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こうやって並べるといつも同じようなものばかりですがそれがいいのです。
ここへ来ればあれが喰える、それでいいの。
それでも消えてった幻の料理があって。
蕎麦の実の酢の物。旦那さんが砂糖を入れ忘れてから出ていない。酸っぱいのは苦手だからいいけど。
蕎麦ぜんざい。甘いの苦手だからいいけど。
蕎麦を海苔で巻いて軍艦巻きにして揚げたヤツ。確かウニが載っていたような。
鯉の洗い、岩魚の刺身、鱒の刺身。。。
煮物は朝餉に廻ったし。。。
揚げ蕎麦を大盛りで喰ってみたいなぁ。
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蕎麦宿 [会津]

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私らが入籍・挙式した平成3年の2年後、蕎麦宿はOPENしています。平成5年です。
初訪は平成8年の夏だった。現在のようにネットが無い時代だったので東北の民宿ガイド本に載っていたのです。その内容を見て、「この宿は自分を呼んでいる」って思った。
大旦那が前職を辞めて宿を開く、これは女将さんに何の事前相談もなかったそうで。
「いきなりですよ。辞めたから、民宿やるからって。」
「宿の敷地は畑だったの。宿の図面も自分で引いてましたね。この辺の民宿は部屋に風呂がついてないから各部屋につけちゃえって」
「大内さん(大内宿)の親戚のとこへ料理習いに行ったのも辞めてからですよ」
教職にあった女将さんもいつの日からか渋々?宿に立つようになった。やや諦めたような口調で、「自分の伴侶が宿を営るって決めたことですから・・・」って言っていた。
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囲炉裏.jpg
最初の頃は3部屋だった。当時の宿泊費は1万円しなかったですね。
大旦那1人できりもりしていたので、各部屋に内湯を引いて、部屋に布団敷きっ放し(現在、4部屋中、3部屋はベッド)、部屋入りしたら食事まで全く構わず、喰い終わったお膳は「廊下に出しといてください」、下げたら母屋に引き上げて後は朝まで放ったらかし、この「客を構わない気を遣わないスタイル」は大旦那がひとりで宿をきりもりする為の苦肉の策、逆説の発想から生まれたのである。
宿2.jpg
4部屋にする前は、「まだまだ借金も返さなきゃならないし。もう一部屋作ろうかと」
「銀行が金を貸す場合、後継者がいるかどうかが重要なんです」と言ったのは甲斐南部のT館長だが、後継者はいます。宿を開いた当時は子供だった若が宿に立つようになった。
私の知る限りで大旦那は過去に2回ほど怪我をしているのだが、①雪かきで屋根から落ちた、②鶏舎へ向かう途中で転倒した・・・、その事件の時に若が堂々と厨房に立っていたのは、いつも同じ蕎麦懐石なので見て覚えたとか。
震災の風評でいっとき客数が減ったらしいがまた盛り返してきた。
今日も満室である。
室外機.jpg
「またエアコン変えたね」
「年中稼働してるから故障したんじゃないか?エアコン入れる?」
「要らない。扇風機でいい」
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会津の山々から滑り落ちる自然の風が更級庵を吹き抜けていった。
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5月後半ですが、会津湯野上の温度差は大きく、日中は暖かくても夜朝は意外と冷えるのである。
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最初は熱いけど、部屋の窓を開け放しにしておくと外気温で冷えてちょうどいい湯加減になってくる。
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時折、宿の裏手を会津線が走る。
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赤べこ号.jpg

現在唯一、畳の上に布団敷きの、更級庵でゴロ寝の目線。
決して近くない会津湯野上で、贅沢なくらい退屈な時間が過ぎて行く。
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18時10分前くらいから厨房、廊下が慌ただしい雰囲気になってくる。
各部屋前の廊下を大旦那がドスドス歩く地響きがしたらそれが夕餉の会津・・・いや、合図。
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エラー [会津]

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アハハハ(笑)。
大笑いしちゃったよ。
でも若松駅も粋なことをする。
いっそ、車内に食堂を設け、ハーフサイズの喜多方ラーメンでも配ったらいいのにね。
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蕎麦宿の朝 [会津]

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目覚めたとこです。
窓際に触れたらそこだけ冷気が漂っている。
外に音がしない。もしかしてと思って障子と窓を開けたら小雪がパラついていた。
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今頃降るなよ。
今日は帰るんだぞ。昨日のウチに雪がシンシンと降ってりゃ気分が高揚したのにさ。
あ、もちろん軽くエアコンが入ってますよ。そういう暖房機器が無かった昔は寒いのがアタリマエだったんだろうな。会津人を含めた東北人の口が重くなる訳である。
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朝イチの内湯は42℃だった。
一晩窓を閉めてたからやや上がっている。でもその状態で42℃か43℃でも冬場は窓をしばらく開けておくとすぐ41℃くらいになる。
20年以上通っているのに未だに私は温度調整が下手で夏場なんか水をジャバジャバ入れたりしてた。ぬるくなってしまい(アタリマエだが)熱くなるのに時間を要するのです。
窓を開ければ外からの冷気で湯が自然に冷め、閉めたら自然に熱くなるのがようやくわかってきた。そういうのを会得するのに20年もかかった訳である。少しだけ開けて上がった。
後から起きて来たジャン妻が朝風呂に入って言うには、
「窓を開けっ放しにして寝たのっ!!」
「???」
「窓が開いてたけどっ」
「ああ、あれは俺が今さっき入って出る時に開けたんだよ」
「ホントっ??」
疑ったなコイツ。ホントだって。ホントだってばっ。
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そのクセ朝餉が運ばれたら、「これぞ宿の朝ごはんだわ」とご満悦である。何しろ甲斐南部の某F温泉で、廊下のセミバイキングにご飯を取りに行かせるのをハンストしたくらいだからね。
お櫃を開けたジャン妻が固まった。
入ってたご飯が多かったのである。
「多いな。2人で2杯分あるよこれ」
2杯喰えばいいだけのことだろうが。
「食べれそう?」
「大丈夫だと思うけど」
あっさり完食である。でもそのおかげで、帰りの車内昼と、ジャン宅に戻ってからの夜飯は寂しいものとなった。
ホントはこの記事、右手に箸、左手の茶碗に山々と白米を盛ったジャン妻の顔ナシ写真を載せて、「モッソウ飯(※)を喰らうジャン妻である」ってやろうとしたのだがどーしても掲載許可が出なかったのだ。「そんなのを載せたら・・・」脅しが入ったのです。
お見せしたかったな。それくらい兎にも角にも飯が多かったのです。
(※)物相に盛った盛り切りの飯。牢獄で囚人に与えた飯のこと。モッソウとはご飯を盛り上げるカタチのこと。
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9:30の上りでアッサリ帰京することに。大旦那に駅まで送って貰った車中で、
「湯神さんに次いで人気のある宿ってどれです?」
後で我ながらなんちゅう質問をしたのかと。
「・・・(やや沈黙の後)・・・紫泉さん、旅行会社と提携したいなりやさん、星乃井さんかなぁ。でもお客さん来ても入ってるように見えないんですよね」
人があまりいるように見えない。それが湯野上温泉街の特徴でもある。
「予算取って温泉開館を開いてぇみたいな話もあるんですが、そういうのを国の補助金で造っても、人を雇ったり、経費や修繕費(維持費?)、復興予算をどうこうって話になるんじゃないかなぁ」
紫泉さんは私の師匠だtった番頭さんが行かれています。近年、一部、リニューアルしたようです。
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私は湯野上温泉駅の中は煙いので外にいた。
風情は否定しないが駅舎の中にいると目が痛いです。皆さんよく平気ですね。あの中で寝泊まりするのを厳禁なんて貼り紙があったのにオドロいたけどね。
「あんなに煙くするんなら、燻製でもすればいいのに」
「???」
「チーズとかタラコとか。会津地鶏の燻製とか。ナッツでもいい」
「あの炭のニオイと煙じゃぁ燻製は無理よ。香のする葉っぱ、チップで燻すんじゃないの」
「???」
「屋根に木組みがあって、その上に竹が渡してあるんだけど、あれが炭の煙を吸って頑丈になるのよ」
「???」
「昔ながらの茅葺屋根ってそういうものじゃないの?」
「何でそんなこと知ってるんだ?」
「駅にいたどっかのオバちゃんがそう喋ってたのが聞こえたの。地元の人じゃないかなぁ。駅の女性が、これって丈夫なんですよって言ってたからさ」
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上着に付いた煙のニオイが消えず、この旅の後、出張先のドーミイン高崎の部屋に常備してあるリセッシュを噴きかけてようやく消しました。
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いつも変わらぬ蕎麦懐石 [会津]

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いつもいつもいつ行っても基本ベースは変わらない偉大なマンネリワンパターンの夕餉である。
私は食に関しては変化を嫌うので、いつも同じものでいい、変わらないからいい、変わらないで欲しいと切に願う頑迷固陋な保守派なのである。
そこに行けば必ずこれがあるというのは大きな武器ともいえる。いつも同じもので飽きが来る人、行く度毎に新しいものを期待する方にはこの宿は向いていない。
(連泊でもしない限り。。。)
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これまでは予約確認時に、「馬刺お願いしますねぇ」とイチイチ言っていたのです。自分で予約したのをいつだったか忘れるのもあって。
20年以上通ってるのにいつも「馬刺ね」と言っていたのですよ。
ところが今回は言うの忘れちゃった。初めてのお客さんや、馬刺はあるのを知ってて言わないと、フツーにマグロの赤身、ホタテ、甘海老なんかが出されます。
馬刺が苦手な人もいるしね。
「シマッタ。今回馬刺を言うの忘れた」
「大丈夫でしょう。いつもそれでとおってるんだから」
「湯神のマグロの刺身って美味しいよ」
「・・・」
「海の無い会津はマグロとかが御馳走なんじゃない?」
「何で今回言わなかったの?」
「・・・」
「黙っても出るかどうか試したでしょ」
「いや、さようなことはないのだが・・・」
でもフツーに馬刺が出ました。
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この宿はイチイチ料理の説明とか無いですからね。
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ホウレンソウの・・・何だこれ?
「軍艦巻か?」
「軍艦巻は上に何かネタが載ってるでしょう。海苔巻よ」
これは途中で食い千切ろうとしても絶対に無理。どんな口の小さい人でも一口で放りこむしかないです。

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大好物な大根の漬物。
塩気が薄く、何ていうのか甘めの漬物です。柚子でもない。
全部平らげずに囲炉裏端二次会にとっておいた。

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「12月に梅が咲いたんです」(大旦那)
「梅が?12月に??」
「もう狂い咲き」
「それって2月にまた咲くんですか?」
「う~ん・・・12月に全部咲いたわけじゃないから。幾つかは咲くでしょうけど」
それだけ言って襖を閉めて廊下へ出て行かれた。
「梅の実生るのかな?」
「2度咲きするだろうか」
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「この細くて白い野菜は何だ?」
「さぁ・・あれだよあれ・・・ええっと・・・カタカナの・・・」(ジャン妻)
「エシャロット??」
「でしょ」
違うと思うな。エシャロット(冬ネギ)はもう少し太いぞ。
大旦那さんが現れたので聞いてみたの。「何ですこの野菜は?」って。
「そ・れ・は・あさつきです」
「あさつき??」
「山菜です」
甲斐南部で出される山菜、野蒜(ノビル)に似ている。
山菜だけど、山の中に生えるとも限らない。人目につくところや人家にも自然に生えるので雑草と間違われやすく、除草剤や農薬でヤラれちゃうことが多いとか。
小さいネギのよう。僅かに辛味があり風味も効いている。香りはネギです。

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蕎麦サラダをグチャグチャに和えて油そばのようになってしまった。
マヨネーズの漂う残り汁をズズズッと飲もうとしたらギロッと睨まれたよ。
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蕎麦粥は熱々。
これを丼とは言わないが、茶碗かお椀でズズズ~ッといってみたいもの。
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岩魚塩焼は10数年前まではアタマっからガブリッといったものだがなぁ。
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揚げ蕎麦は海苔で束ねたバージョン。
ベテランの域になって頭髪が薄くなったけど無理に結った力士の髷みたいである。
「ポン酢が多いな」
「そうね。あっ(ポン酢を)飲んだわねっ」
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ひんやりした蕎麦稲荷は熱燗にアウのだ。
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雪見酒を期待して来たのだが、雪が無い会津湯野上の夜が更けていく。
「会津は雪が無いと寒いだけなんです。雪がある方が(気持ち)暖かいんですよ」
大旦那もそういう台詞を言うんだぁ!!!!!!
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蕎麦宿は只見線応援団 [会津]

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1月なのに会津下郷、湯野上温泉に雪が無いぞ。これだったら余裕でくるまで来れたじゃないか。
「これじゃぁ会津じゃない」(ジャン妻)
「女将さんが週明け辺りから降るって言ってたけどな」
歩いて行くことにした。
「W酒店にツケは溜まってないだろうな」
「大丈夫。昨年支払ったから」
酒店と7-11に寄ったら歩道ができていた。
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「冬じゃないみたい」(ジャン妻)
「雪が無くって困ってるんですよ~」(大旦那)
雪が無いと大内宿に客が来ないという。大内宿には宿泊できる民宿は3軒。(山形屋、本家扇屋、伊勢屋)
大内宿に行く客が湯野上に泊まるのです。
部屋に案内されながら、「○○さん(私のこと)、只見線応援団ってお願いしましたっけか?」
「只見線応援団?いや、知らないです」
「前にウチに泊まったのいつでしたっけか?」
「8月だったかな」
ジャン妻は忘れてやがる。前回来たのは10月末です。
「8月だったら未だやっていなかったかも。只見線の復旧に絡んだ会員加入と商品券の発行プランなんですよ」
2枚の紙を渡された。2011年7月の新潟福島豪雨で、現在でも会津川口~只見間の27.6kmが不通の只見線応援団「賛同会員」加入申込書と、商品券受領確認書です。
それにはこうあった。
「只見線応援団宣言 私は只見線応援団の一員として、JR只見線の早期全線復旧を応援するため、次のことを宣言いたします。
1.福島県と二院が他県、さらには首都圏を結ぶ只見線が、紅葉や雪景色など美しい景観に恵まれた日本の宝であることを全国に伝えます。
2.只見線を積極的に利用することを心がけ、一日も早い全線復旧を応援します。
3.会員が相互に連携し、全国の皆さんにも幅広く支援を呼びかけます。」
平成23年7月の新潟福島集中豪雨災害で不通になった只見線の復興支援ですね。
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「あれって橋が4つ流されちゃったんでしょ?」
只見川を渡る第5、第6、第7、第8橋梁が流された。
「もう地元だけではダメなんで・・・」
だろうな。只見線の沿線住民は少ないし、地元自治体だけでは負担できないだろう。
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私は只見線に乗ったことは無いに等しく、2008年11月に何故か会津坂下から会津若松まで乗ったことがあるだけです。この世界に入る前なので何しに行ったのか全く覚えてない。
会津坂下から只見川に沿って田子倉まで走ったことがある。途中でガトリング砲の河合継之助記念館に立ち寄った。只見川の水面に川霧が発生していたのを覚えている。
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だが現実は厳しい。不通区間は代行バスが走ってはいるが利用者は減った。
大人の小探検隊、たからった氏が只見線不通区間を調査されえている。それによると代行バスの1日利用客数は40人程度だそうである。
http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/folder/776438.html
(氏から許可を得ました。)
只見線そのものは復旧工事が全く行われていない。鉄路は錆び、雑草が生え、このままだと自然に還っちゃうよ。
この災害は同年3.11の東日本大震災の陰に隠れた感もあるが、いつまで経っても復旧しないのはJR東日本社が黒字経営だから。黒字会社に災害復旧援助は適用されない。
幾らかかるのか。JR東日本は2013年に会津川口~只見間の復旧費用が85億円、着工から復旧までの工期が4年以上と試算している。
黒字だからってJR社単独での復旧工事はしないだろうし、実際やる気はあるのだろうか。このままだとホントに廃止になったりしないだろうか。
復旧は困難だというが困難は不可能ではない。要は金を負担できるかどうかです。復旧費用を福島県や沿線自治体と負担について協議しているらしいが、金山町での住民説明会では福島県と沿線自治体から工事費の1/4負担を提示したという。
85億円の1/4だと20数億円である。県外から人が集まる旅館業界に支援依頼が来るのは当然で、会津で加盟した宿は湯神を含めて90宿。
只見線沿線の只見町9宿、金山町3宿、三島町5宿、昭和村3宿、柳津町9宿、会津坂下町3宿、会津美里町3宿、
会津若松市内16宿、会津下郷町10宿、南会津町23宿、檜枝岐村6宿。
下郷町の加盟旅館はつるや旅館、ホテル大島、有名な星乃井、えびす屋、みやもと屋、白い壁に黒い柱の山県屋、塔泉閣、新湯、そして蕎麦宿湯神、大内宿の山形屋です。
http://okuaizu-ouen.jp/
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「地元でなく、他所の人で観光で行く人、行ったことのある人の方がじゃぁ出そうっていう気になるかもね」
「加入すっことで受けられる商品券は2000円です。2人で4000円・・・」
私らは加入したさ。2人分の4000円を私らが何処でどう使ったと思います?
ご想像にお任せしようかと思ったのですが、まぁ書いてしまいましょう。加盟して得た2000円の商品券2枚=4000円を他で使わず蕎麦宿で使ったという訳ですよ。ハッハッハッ(笑)。
商品券の仕組み.jpg
そしたらここ数年で最も安い宿泊費になった。それを大旦那は復興基金に廻す?それだと宿の儲けが減ってしまったね。(ジャン妻はそうじゃないと言う。)
でも私は20数億円分の4000円を寄付したに過ぎない。
85億円の1/4に届くのはいつだろうか。
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無尽のこと [会津]

もうシーズン過ぎてますが、10月末の会津行、途中の紅葉です。
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夜は若松市内のこの店へ。
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若松市内でも有名な店です。私らとも10数年のお付き合いですな。
おとおしは青菜の白和えと漬物。
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椀ものはけんちん汁。
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けんちん汁2.jpgけんちん汁3.jpg
厚焼き玉子。卵を10個くらい使って豪快に焼き上げ、それをブツ切りに。
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馬刺(赤身)
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会津の代表的な保存強度料理、鰊の山椒漬け。
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ニシンを甘辛く煮たもの。これほどヘルシーな居酒屋って他にないんじゃないか?
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キンピラ
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ヒラタケのバター炒め。
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どこかで採ってきたヒラタケ。
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「今年熊出た?」
「そんなに出なかった。去年はよく熊が出だってニュースでやってたけど」
「猪は?」
「会津に猪はいなかったんだけど郡山の方から逃げて来てるんだよね」
会津に猪はいなかった?
会津若松市は大戸町、湊町、門田町、河東町、磐梯町辺りにツキノワグマが出ており、近年は里山の住宅地に下りてきている。熊の生息域と人間の生活圏が混在している地域で偶発的に出くわす。
でも意外にも猪は平成24年末頃までは生息が確認されなかったという。原発以降福島県の東の方から西へ逃げて来てるというのである。会津若松市では大戸町、湊町、 東山町で確認されている。
「婆ちゃんは熊見たことあるんでしょ?」
「あるある。そこを(指さして)スーッと歩いてって、あっ熊だぁってのはあるよ」
もう婆ちゃんは山での山菜採りは引退したそうです。
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小上がりで数人の客は小宴会をやっていた。そこに店主の弟さんがいる。
「弟さんだよね?お身内の集まり?」
「いや、友達。・・・(しばし間があって)・・・あれはもともと無尽だったんだよな。今は人数減ったな。亡くなったり、体調悪かったりで」
無尽?
無尽ってご存知ですか?(頼母子講ともいう。)
いまどきの若い者は無尽なんて聞いたことないかもしれない。何だかいかがわしく聞こえますが民間のプライベート金融ですね。
今日までカテゴリ会津で触れなかったネタですが、会津って無尽の街でもあるんです。無尽は10人くらいで1つのグループが組まれ、毎月1回、決められた金額を持ち寄って開催されます。10人だったら10カ月開催して一巡します。10人が1人辺り10000円を持ち寄って誰かが落札したら単純計算で10万円になる。その金額を入札者が受け取るのです。入札のやり方はくじ引きか何かのゲームらしい。落札した人は次回からの入札には加われない。
持ち寄り額は3000円だったり5000円だったり10000円だったりで相場はわからないが、そのグループの所得層に寄るのではないか。
それとは別に飲食代が伴う。会津の無尽は飲み食いしながら開催するのが当たり前だそうで、開催される場所は料理店、居酒屋で、誰かの家で開催する場合も飲食が伴う。(飲まない女性だけの無尽はお茶か、食事だけの無人)
私は意識して見てないが「無尽やります」なんて看板を下げた店もあるそうです。開催場所を提供する訳ですよ。
数年前、この店の小上がりのグループ客がいて、その中の1人がまだ宴たけなわなのに1万円札を複数手に持ってるのを見たことがある。今思えばあれは無尽だったんだな。
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無尽のグループには誰もが入れる訳ではなく無尽仲間の紹介制。紹介した側の責任もあるので他県の者、余所者はまず入れないと思う。この辺りが会津の三泣きの一つにつながるともいえる。
相互の信頼がなければ成立しないので良く言えば長年の信頼を表す。何十年も続く無尽グループもあるらしいから相当な信頼関係ではある。

故・藤沢周平の「三屋清左右衛門残日録」の何話だったか、「梅咲くころ」で、清左を江戸表から女性が訪ねて来て、「国許で縁談があって」と挨拶した。だが清左は野田というその縁談相手に何かひっかかりがある。
思い出せないので町奉行の佐伯を訪ねて野田の名前を出したら、「野田は無尽の不正で商人に訴えられ、家が潰れるかどうかの大騒ぎが二年前にあったじゃないか。まさか野田の家を潰す訳にもいかないから示談にして事を収めたが・・・」
野田は諸事倹約のご時世に金使いが荒い家風で、商人を集めてこっそり無尽を始めたが、自分の息のかかった商人を密かに潜り込ませて二度三度自分の手に金を落として無尽を解散してしまったというもの。
女性の持参金目当ての縁談だったのである。寺内という仲人も野田と同じ穴の貉で、結局縁談は女性の方からお断りしている。
野田は武家だから自ら無尽に参加したのではないらしいが、複数の無尽を掛け持ちして自分の手元に金を落として夜逃げしたなんてケースは実際にあるそうです。あまり事件沙汰にならないのは会津人情というか、「あいつ苦しかったんだな、まぁ餞別代わりってことで仕方がないべ」になるんだとさ。
無尽は農村の屋根の葺き替えを村人総出で行うのと、その順番を決める集まりから起こったという説があるから地方の伝統とも言っていいが、「会津若松市の発展を阻害しているのは無尽」とBlogで言い切ったのがこの店とは別の市内で有名な居酒屋の店主。
昔から続く無尽を見てると結局は気心知れた者同士の愚痴酒で、「そこには会津人の誇らしい志が感じられない、会津が時代の変化に対応できてない一因だ」というのです。
ただでさえ閉鎖的な会津若松でよく言い切ったと思うけど、店主が言いたいのは、「本当の会津人はこうではない」という気概なのですな。
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この店の店主は先だって久々に東京に来たそうです。
「姪っ子の結婚式でお台場っていうの?あっちのホテルで披露宴呼ばれたけんど、その後で友達に会いに渋谷を通って〇〇〇まで行った。電車の中で殆ど全員が何かをいじくってる」
「スマホね」
「ⅰ―Phone」
「あれは見てて違和感あるな~。ゲームか何かやってんだべ?」
こちらとしてはその日常風景なのだが、なるほど前述の居酒屋店主の言ってることを裏付けるなとは思ったよ。でもあからさまに批判する訳にもいかないので、
「車内で新聞読んでる方が少ないですよ。新聞って広げるとジャマだし。」
「アタシは電子書籍読んでるけど」
「ふぅ~ん」
「いい大人がマンガ本読んでたりすると逆に目立つんだよね」
ぐらいにしておきました。それでいて諸事雑事にやたらと詳しいのは座敷で開催される無尽から得られるネタかも。そういう場の情報は侮れない。例えば新聞が書けない地元ネタで、観光パンフにも載ってる何処何処の有名店の仕出し弁当で食中毒を出したのは期限切れの材料を使ったからだとか。
ただ、何処何処の会社が倒産したとか、あまり明るいネタは無いらしい。
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翌日の昼にも行きました。
近くに新しくできた図書館、稽古堂で資料漁りをしてから裏磐梯を散策する予定をたてた。
「知らないところでランチに迷うよりは勝手知ったる麦とろで」
蕎麦か素麺でよかったんだけど、「今日の夜は湯野上で美味い蕎麦喰うんだべ?」ということで看板の麦とろ定食。
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カウンターにメニューがあったのである。
「メニューなんてあったの?」
「あるのは知ってたけど」
見たら一般的なものばかりだね。会津の郷土料理は載ってないぞ。
隅っこの方に、麦とろ特製おまかせコース。
「アタシたちはいつもこれだね」
で、その左を見てください。
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「各種宴会、無尽などにもぜひご利用下さいますようお願い申し上げます」
あったあった。
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穴澤一族 会津北の防人へ還る? [会津]

檜原を落ち延びた穴澤一族に転機がやってくる。
天正17年(1589年)6月5日、磐梯山麓摺上原で蘆名は伊達に大敗北する。常陸の佐竹家から養子に来ていた最後の蘆名家当主・義広は実家の佐竹家に逃げ帰り、400年に渡った蘆名氏の会津支配は終わる。
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穴澤一族は摺上原には参戦していないらしい。そんな余力も無かっただろう。
蘆名氏は会津から逃げ出し、諸将が政宗のもとへ膝を屈する中で穴澤一族は大塩村から退去し、会津盆地南にある旧寺入村・道地窪(ドウジクボ)の山中に隠れ潜んだ。
道地窪は会津美里町から南へ4kmほど下った辺りです。
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会津図書館稽古堂の史料によると「ここが穴沢一族の隠れ里!」とあって、穴澤氏が文明18年(1486年)から寺入村や道地窪を支配しており、そこには金銀の鉱山もあったという。
yahoo地図見ると今でも道地窪という地名はあるようです。
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伊達政宗は蘆名家中を黒川城(現在の会津鶴ヶ城)に参集させる。多くは屈服したが、いち早く寝返った猪苗代氏、長沼氏(会津田島)以外に南会津の雄で伊南の河原田氏と伊北の山ノ内氏が従わない。穴澤一族は山ノ内氏の庇護下にあったとも。河原田氏と山之内氏は徹底抗戦する。

だが伊達政宗の会津支配は長くない。
摺上原合戦後、蘆名義広が逃げた後の黒川城(会津若松)に入城したのが天正17年6月11日。
政宗が若松市本町の小館で実母に毒殺されかけ、危うく一命を取り留めたのが翌18年4月5日。
相州小田原城を囲む秀吉への謁見にギリギリ間に合って首は繋がったのが同年6月5日。
太閤秀吉が背炙り峠を越えて会津に入ったのが8月9日。
政宗の会津支配は僅か1年足らずで終わる。奥州仕置でせっかく手中に収めた会津は取り上げられた。蒲生氏郷が入った。
大邦を得た蒲生氏郷は家臣を募集する。この時に穴澤助十郎以下一族も蒲生家に出仕して檜原へ帰ったようです。
蒲生氏郷が会津に置かれたのは伊達政宗への警戒、備えの為だが、穴澤一族を檜原に戻したのは、一族が帰りたがってたのもあり、檜原が雪深いこともあり、伊達を信用しない秀吉政権の意に適うものでもあった。
故郷の檜原に帰った彼らがどのような役職に就いたか記載が無いのですが、おそらく前と同じような役目、関守や国境警備の役人ではないかと思う。関所(口留番所)の役人を勤め、横目付や徒歩目付や番士を置いたのではないか。
有名な箱根関は小田原藩士が1ヶ月交替で勤務したらしいが、穴澤氏を置いておけば交替の必要はない。常勤で据え置かれたのでしょう。
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檜原は自分たちが支配されていた頃より大きくなっていた。政宗が旧檜原や米沢から移住させた者たちで更に拡張したのです。会津稽古堂の史料では「新編会津風土記」(文化6年、1809年)に59軒あった。
蒲生氏郷は検地をする。いつの時代も納税者は過少申告するものだが太閤検地はそれを許さず全国統一の単位で測りなおした。この検地は納税者たる農民には当然厳しく、土地によっては兵役を割り当てられる収税者の武士にも厳しい結果になるのだが、檜原の取れ高もこの頃、明らかになる。どれくらいだったか?
文禄3年(1594年)に調べた「領内高目録帳」という帳面には檜原の石高は僅か40石でしかない。大塩村の1030石と比べてかなり少ない。
寛政元年(1789年)の「会津鑑」には無高と記されているそうです。
そういう地だけに穴澤一族は会津の支配が蒲生氏、上杉景勝、加藤氏と変わってもそのまま檜原に居住する。彼ら施政者にしてみたら極寒豪雪の地にいてくれる存在だから願ったりだったのかも知れない。「そこに居たいんだったら居れば?」と思ったのだろう。
でもまぁメデタシメデタシである。

ここで一つの挿話を。
穴澤新右衛門俊光の長男・俊次(広次)という人が善九郎=善右衛門と混同されていることは記載しました。この穴澤善右衛門の挿話で嘘かホントかわからないがちょっと隅に置けない話がある。
現地の学者さんのHPでは、「穴澤善右衛門という人は伊達政宗の檜原侵攻の時は小田原に視察に行って不在だったので、後年蒲生氏郷の時代に檜原に戻った武勇に優れた人物です」とある。穴澤一族が蒲生氏支配の時に檜原に戻ったとはっきり記載されているのはこのHPからに依ります。
その善右衛門が磐梯山の西にある温泉へ妻子を連れて湯治に来ていた時、そこに棲む魔物で黒猫を退治した伝説がある。
昔語りの伝説なので物語は省略しますが、穴澤善右衛門が魔猫を斬った刀は、穴澤氏初代俊家が当時の蘆名家当主・盛高から「盗賊退治に行ってくれないか」と懇願されて檜原に赴任し、この記事にも登場する旧米沢街道沿いの物見岩、中ノ七里で退治した兇賊を斬った(捕えた)際に蘆名盛高から賜った名刀で、後に猫切丸と名づけられた。
魔物の黒猫が切られた岩を猫石(1335m)、それは猫魔ヶ岳(1404m)に繋がる。現在の磐梯山西にある雄国沼の外輪山ですね。近隣にあるスキー場名でも名高い。
裏磐梯猫魔スキー場の猫魔の名前は穴澤善右衛門が魔猫を退治した伝説に基づくのだろうか?
善右衛門が湯治した温泉は磐梯ゴールドライン途中から登山路を往くと辿りつく中ノ湯温泉らしい。現在は中ノ湯温泉跡、廃業しています。
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化け猫退治の伝説はさておき、後年、寛永20年(1643年)に保科正之が会津に入封してからは穴澤助十郎広次の子、光茂という人に禄が与えられ、穴澤一族は幕末まで会津藩士として生きる。なので幕末に詳しい人なら横須賀浦賀に穴澤氏の墓があるのに違和感はないでしょう。幕末の海防政策で相州横須賀にやって来たのです。
そこへ行くには京急で横須賀市浦賀駅(京急浦賀線終着駅)から久里浜行バスに乗車して、浦賀警察前、ドック前、しそして3つめのバス停紺屋町で下車すると右に小高い丘がある。
麓から見上げる.jpg
麓に叶神社、延命山東福寺と2つの神社仏閣があって、東福寺の境内を上った丘の頂上に、鹿目家、橋本家、そして穴澤家の墓がある。この墓所へ行くには麓から平場も含めて数えてみたら243段もの階段を上がらなくてはならない。結構コタエます。
東福寺の参道に入り右手に駐車場を見ながら境内の階段を上がり、本堂の左手にある階段を上がって墓所の中を歩きます。
階段を上り切って頂上のお寺の墓域を出ると住宅街に出るのですが、最も崖に近い側の住宅沿いに右手の細い未舗装の道を緑色のフェンスに沿って行くと、どういう人かわからないが「文覚上人庵跡」の石柱があって、そこが会津藩士墓地になっていた。
フェンスの先に.jpg
文覚上人庵跡.jpg
穴澤家の墓碑.jpg
私は原則、供養塔以外のお墓は撮らないのですが、穴澤氏が存続したこと、私自身がこの地に来て確認したという証の為にお墓全体ではなくお名前だけ撮影しました。掌も合わせましたよ。アナタの祖先が檜原で戦った故事に興味があります檜原にも行って来ましたってね。
墓の裏を見たら明治だった。穴澤與十郎という人で会津藩林砲兵隊寄合組だそうです。寄合だから中士。戊辰戦後は他の藩士とともに高田に幽閉され、斗南にも行っているようです。
明治の墓だけではなく背後の海側に小さいながらも近年建立した新しいお墓もありました。それは撮っていません。
他にも2家の墓があっていずれも旧会津藩士です。幕末の海防政策でこの地にやって来たものです。

私がこの地に来たのは穴澤一族が幕末明治まで存続したのをこの目で確かめる為に来ただけなのですが、山岳戦闘集団だった穴澤氏の墓が海の見える丘にあるのは違和感とまで言わないが、意外な気がする。青い海を初めて見た時彼らはどう思っただろうか。もっとも彼らが海を初めて見たのは相州の海ではなく、会津藩が幕命で文化4年(1807年)に北方警備を命ぜられた時かもしれない。
浦賀港2.jpg
穴澤家の家紋.jpg

でもやはり彼らの故郷はここ檜原(桧原)です。かつての村は湖底に沈んでいますが。
桧原湖1.jpg
桧原湖2.jpg
桧原湖3.jpg
桧原湖5.jpg
桧原湖4.jpg
穴澤一族はメディアで取り上げられることはまずない。肖像画も無いし、現代の戦国ゲームにもないようです。
檜原に行けば簡単な記述はあるが、彼らが会津北の国境に長年据え置かれ、雪深い山郷で耐えながら3度に渡って外敵から会津を護ったようにアピールしていない。
彼らが檜原に帰ろうとした執念、想いは最後には叶うのです。檜原は彼らにとって最初は意に沿わぬ極寒の地だったが、歳月を重ねて馴染んで自分たちの故郷にした。
穴澤氏の五輪塔(現在の集落から).jpg
穴澤一族は何を護ろうとしたのか。
檜原で産出される金か。それもあっただろうけど、彼らが金を手にして豪奢な暮らしをした訳ではないです。
蘆名家に義理立てしたとも思えない。檜原にいると蘆名家中での競争とも無縁だったような気がする。
そこで彼らが護ろうとしたものは単に自分たちの故郷とささやかな暮らしです。「そんなの当たり前だろ」って泉下で笑うでしょう。
最後に1枚の写真を。
ご子孫でしょうか.jpg
ご子孫でしょうか。小田山の麓の道路沿いで偶然見つけました。(この項おわり)
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会津北の防人 穴澤一族の執念 [会津]

風呂場で惨殺されるという史上あまり例のない謀殺で滅んだ穴澤一族には生存者がいた。風呂の会に参加しなかった者どもが再起を図る。
諸国見聞に出かけていた新右衛門の嫡男、助十郎俊次
怪我で出羽国小野川温泉で療養中だった新衛右門の六弟、善七郎(善右衛門とも)
その他、佐馬允(五弟)、強弓の名手で太郎兵衛(次弟)といった弟たち。
穴澤主計の女房と嫡男。彼らも巻き込まれなかった。
一部の史料では善七郎=善右衛門=新右衛門の嫡子俊次、または広次と混同されています。この善七郎が現代に残る有名な地名のもとになる伝説にもなっている。それは後述します。
大塩まで来た.jpg
生き残った穴澤一門衆と妻子、乳母、郎党たちが、月夜の無い夜に灯を点したキツネたちに護られながら大塩村まで落ちた街道は米沢街道のようです。私も下ったが、整備された舗装路と別に雑木林に左右を囲まれた旧街道が今でもあるのです。
街道から檜原方面を望む.jpg
キツネ伝説云々はともかく、穴澤一族の生存者は助十郎俊次(広次とも)を中心に、大塩(北塩原郡)に居住した。
大塩まで来た.jpg
大塩村、名前からして塩の産地。会津藩の御用塩だったともいう。この地は檜原とは別に穴澤氏に与えられた知行地があったと推定される。
大塩裏磐梯温泉(食塩泉)のある大塩村は檜原から峠を越えて程遠くない。山を越えたら故郷檜原なので故郷の方角を朝夕拝みながら胸中さぞ無念だったかと思う。
檜原軍記には「大塩の城」「柏木森の城内」そこに居住したとある。大塩から喜多方へ向かう途中に、柏木城や綱取城、幾つかあるがそれらのどれかだろうか。
柏木城.jpg
綱取城の麓2.jpg
穴澤助十郎は黒川(会津若松)の蘆名本家へ訴え援軍を要請した。
蘆名家は衆道のもつれで斬殺された盛隆の遺児が継いでいた。僅か二歳の幼児なので訴えても判断が下せる訳がない。遺児の母親が後見するという体制になっている。
だがその女性は伊達家の出で政宗の叔母にあたる。実家の肩を持って穴澤一門の後援に積極的ではなかったのだ。
蘆名四天(平田、佐瀬、松本、富田)から「大塩の守備を厳重にしろ」とだけ命が下り、騎馬20、足軽100人を寄越しただけだった。
一方、伊達政宗は穴澤新右衛門が生前に居住していた館で起居していたらしいがさすがに寝覚めが悪かったのか、蘆名家が後詰を躊躇している間に自分の城塞、檜原城(小谷山城)を作り始めた。
小谷山城(桧原城)入口1.jpg
この城の場所を政宗にススメたのは裏切り者穴澤四郎兵衛だという。政宗が四郎兵衛に「新たにどこに築いたらいいかな?」と尋ねたら場所と地勢を教えたとか。
四郎兵衛の名前はこれを境に消えている。

蘆名本家が伊達駆逐に積極的でないのに業を煮やした穴澤助十郎と3人の叔父たち、一門残党たちはいずれ峠を越えて大塩に下ってくるであろう伊達軍の迎撃準備に取り掛かかった。
米沢街道沿いや萱峠に鹿垣を作って哨戒兵を置き、山道の左右に大石を置き大木を伐り倒し隘路で殲滅せんと待ち構える。お得意の山岳戦に持ち込もうとしたのである。狭い隘路なので大軍は分断されるしこちらは僅かな手勢で足りる。
鹿垣のあった辺りです。
鹿垣の説明板.jpg
鹿垣の図.jpg
「天正13年(1585年)5月8日卯の刻、伊達勢は檜原を発し・・・」大塩攻撃に向かったとある。
(檜原の軍記物は日付がいまいち曖昧で、穴澤一族が風呂で殲滅された日付と被ったりしている。)
だがこの時は斥候同士の小競り合いはあったが大規模な戦闘にはならなかった。米沢街道と萱峠に濃い霧が派生し、穴澤助十郎は50人足らずの兵でこの霧を利用して伊達軍の退路を断ち、奇襲を仕掛け、大石や大木を落とし、谷底に追い落としてやると狙っていたのだが、穴澤一門の山岳戦の手強さを知っている白石若狭という伊達の将校が濃い霧を見て胸騒ぎを覚え、政宗に「引き返しましょう」と進言、政宗もこれを容れた。穴澤側の不戦勝?に終わっている。
左奥は旧街道.jpg
米沢街道の途中に、伊達勢が引き上げた場所とある。
引き返したと説明があった.jpg
退頭古戦場.jpg
上の写真は退頭(ヒキガシラ)古戦場という。退頭すなわち行軍中に先頭が退いた(引き返した)場所といふ意味か。
大規模戦闘にならなかったのだから戦場ともいえないと思うが、先鋒か斥候か9人ほどを討ち取ったらしい。
檜原軍記にはその辺りも記述してあった。穴澤助十郎が30人ほどでその9人の伊達斥候兵と出くわしたらいずれも鎧に身を固めている。なのに「旅の者です」とシラを切るのである。
助十郎たちは「鎧を着た旅人がいるかよ」と問答無用で討ち取ってしまった。彼ら9人は政宗の勘気に触れ、抜け駆けして大塩に火を放って赦免を乞おうとしていたと書いてある。9人全員を討ち取ってしまったのにその辺りの事情をどうやって知ったのかな。
濃い霧に怖気づいた政宗の本隊の退却ぶりの描写は、
「殊のほか慌てて引き返したものとみて、鹿砦(鹿垣)のある萱峠から中ノ七里(穴澤一族の祖が山賊を退治した場所で、平成19年までは人家があったという。)までの間には弓、鉄砲、槍、長刀、えびら、うつぼ(矢を挿して背負う武具)などが無数に打ち捨ててあり、足の踏み場もないほどであった」という醜態ぶり。
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地団太踏んだ穴澤一族だがしぶとく抵抗しようとする。
一族は同じような名前ばかりで個々の腕っぷしが強く山岳戦が得意、寡兵でもって大勢の敵を破る辺りが痛快だが、あまり長期的な視野に長けた頭脳派はいないようで、今度は一族自ら刺客、暗殺者になろうとするのです。
図々しくも我らが故郷檜原に政宗が作った巨城檜原城(小谷山城)の麓、檜原川の河岸に馬場があって、そこへ政宗が馬の調練をしに来るのを待ち構えんとした。
強弓の名手でhttp://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-23にも登場した穴澤太郎兵衛が生存しているのだが太郎兵衛は荒っぽく的を外すことがある。
百発百中だった穴澤越後は風呂屋で惨死している。今は惣領たる助十郎や左馬允も命中率があまりいい方ではなく、風呂屋謀殺事件の時に出羽国小野川温泉で療養中だった故・新右衛門の弟、善七郎はどうか。
小柄な彼は故・穴澤越後や太郎兵衛叔父のように三人張の強弓とまでの膂力はないが、狙った的は外さない方なので射手は彼に決まった。善七郎は新右衛門の弟だから惣領助十郎の叔父だが、若干17歳でしかなかったそうで、甥叔父とはいえ従兄弟同士のようなものであろう。射手は彼に決まった。

善七郎は二人張の弓と矢を持って軽装で檜原へ向かう。
随行者は助十郎、太郎兵衛、佐間允の一族と若干の郎党を連れ、ナワさんが自転車で越えた蘭峠(アララギトウゲ、私は自家用車で越えました)には伊達の物見がいたので途中の沢に逸れ、崖、岩山、藪や茂みを分け入って政宗が馬の調練をする馬場の東南端に身を潜めた。
だが失敗した。
射損じたのではない。配下の調練を検分していた政宗はそのうち自身の血が騒いだのか、黒毛の馬に自ら乗馬して駆け出した。
だが4人が潜む馬場の端まで疾駆して来ない。馬場の中頃で何を思ったか引き返してしまったそうである。矢頃という弓矢でいう射程距離に入らなかったのだ。
政宗は一度ならず二度三度と疾駆して来たがいずれも馬場の中頃で引き返した。そのうち調練を終えて城に帰ってしまったとある。
4人はまた地団太踏んだ。せめて我らが狙い参上したことを政宗に伝えてやろうと書を記した。
「穴澤善七郎こと征矢を一筋進上仕るべく参上致しお待ち申し上げ候。公ついに馬場の端まで駆けなされず、矢を放つには遠く御馬の足速く大願成就に至らず候。折を見て一矢を差し上げたく候」
わざわざ来てやったぞと言ってやったようなもので、あてつけと腹いせに書いたその書を矢に結んで馬場の隅に刺しておいたのを伊達の徒歩兵が発見した。
読んだ政宗は内心で背筋が寒くなった。
だがそこは奥羽の梟雄、表には動揺を表さずに配下に油断しないよう下知した。だがそれきり馬場での調練を止めてしまったという。とうとう米沢に帰ってしまいそれ以降、政宗が檜原にやって来たという話は聞かない。

その後、政宗はNHK大河でも描かれた仙道郡方面からの南下政策を取るのだが、鈴木孫兵衛信康(後藤孫兵衛)という者を檜原城代にしている。孫兵衛は大河でも登場して佐野史郎さんが演じていたように思う。
彼は檜原の暮らしが相当辛かったらしい。豪雪と寒気が想像以上に厳しいうえに穴澤一門がちょいちょい嫌がらせのように襲撃してくる。寒いし退屈だし娯楽はないし、ホンネでは早く任を解いて欲しかったに違いない。

政宗が城代を部下に任せて自分はサッサと米沢に引き上げたのは、仙道郡の戦線が活発になったのもあるが、檜原から会津に攻め入るよりも仙道郡から正攻法でジワジワと南下すればいずれ会津は手に入ると思ったのだろう。檜原は寒そうだから配下に任せて自身は帰っちゃたのかも。
政宗は檜原で冬を経験していないようです。命令とはいえ後藤孫兵衛は「何で自分が」と嘆いたに違いない。鈴木(後藤)は檜原に4年間いたそうです。

穴澤一族は檜原奪還を諦めない。
最後の穴澤軍対伊達軍の戦闘詳報が私の知るもので3説ある。
まず1説では意外な者が援軍として登場している。
猪苗代弾正盛国。
蘆名氏の祖・佐原氏が三浦半島佐原から会津にやって来た時に長男の系譜だった猪苗代氏は「本来なら会津よりこっちが直系だぞ」という自負があってちょいちょい背くのである。その猪苗代盛国が何でまた檜原から大塩に落ちた穴澤氏に付いたのだろうか。
いよいよ伊達政宗の会津侵攻が本格的になった時、猪苗代盛国は蘆名本家から一番早く離反して伊達側に付いて猪苗代城に伊達軍を引き入れ、摺上原で蘆家大敗北の要因の第一になった人物である。蘆名本家の命でわざわざ檜原まで対伊達戦線に行くだろうか。
この説では猪苗代軍は総勢600人で先方は盛国、二番手は嫡子盛胤、三番手に穴澤一族とある。地の理を知らない猪苗代勢が先に立つのも腑に落ちないし、600人は狭隘な檜原では大軍といっていい。
案の定、峠の物見から丸見えで、伊達軍の奇襲を受けて敗退している。

彼らが往還した旧米沢街道です。人が一人歩けるのがやっとの幅なのです。
旧米沢街道2.jpg
上の写真、枯葉に埋もれた細い道がそうです。

次のもう1説は天正14年4月、穴澤助十郎俊次が穴澤一族だけで300余人をもって檜原城(小谷山城)に迫ったが、城中から500人が討って出て戦闘になった。穴澤軍は島津の釣野伏のように伏兵を置き伊達軍を引っかけたというもの。
3説めがある。これは2説めに酷似しているのでおそらく同じかも知れないが講談調の脚色が入る。双方で最も兵数が少なく、前述の檜原城代、後藤孫兵衛の苦衷を裏付けるような穴澤一族の嫌がらせのようなものです。
穴澤助十郎、善七郎、太郎兵衛、佐間允らは、郎党50人と多少の弓鉄砲を用意し、鎖帷子を着込んで檜原にお参りに来たのである。
穴澤新右衛門他が風呂屋で滅んでから旧檜原の住民は政宗が新たに作った檜原城(小谷山)麓に移転し、かつての里は荒れ放題だった。そこに残る氏神様の前に額ずいて「必ずやここ檜原に戻れますように」と祈願した。
社.jpg
上の矢印の社は湖底に沈んだ村々を偲ぶ為に後年移されたものかも知れないが、ここから伊達軍が駐屯する小谷山は目と鼻の先です。お参りが済んだところで何と一族郎党は携えて来た弁当や酒の入った竹筒を取り出し、しめやかな酒宴を始めたというのである。
かつての故郷とはいえ今は敵の最前線で敵中といっていい。度が過ぎた大胆不敵さ。殆どからかい半分のこの酒盛りの模様が檜原城の物見から望見されない訳はない。ナメられたとアタマに来た城兵300人が打って出た。
穴澤一族は酒盛りを止めて引き上げかけるのだが、何もしないで帰るのも業腹とばかり強弓の穴澤太郎兵衛や善七郎を中心とした矢戦で喰いとめ、軽く当たっては引きを繰り返している内に本格的な合戦になってしまった。返り討ちまでいかないが伊達軍を追い払った。
昨日の記事で、裏切り者穴澤四郎兵衛の家にひとりで殴り込みをかけた高橋という郎党が伊達の足軽を1名生け捕りにした。助十郎俊次(広次)の前に据え置いた。助十郎が言うには、
「城代の後藤に伝えろ。我らがこの地に出向いたのはかつての氏神様へ参拝に来ただけだ。こういう時に得物を持って追い討ちしようなどとは誠に興ざめする振る舞いではないか。心ある武士のすることかよ。いつか返礼してやるからな」
足軽を放ってやった。穴澤一族も静々と大塩に帰っていく。
敵中にお参りに行って酒盛り、酒の勢いで合戦するとはいい度胸である。それと何処かのんびりしたというか牧歌的である。

檜原に還ろう帰ろうとする穴澤一族の戦闘はここまで。これ以降は見られない。
見つかってないだけかも知れないが、この氏神参りの戦闘から先は蘆名、伊達の抗争から煙のように消え去っている。
既にこの時は黒川の蘆名家中はボロボロ。最後の当主たる佐竹家から来た義広という人に付いて来た佐竹家臣団と蘆名家の家臣団が衝突。猪苗代盛国と会津田島の長沼氏は伊達側に付き、佐竹家から来た家臣団のせいで席次を下げられた伊南の河原田、伊北の山之内も離反しかけている。家中分裂の蘆名家はそんな状態で摺上原の戦闘で滅ぶのだが、最後まで蘆名家に背かなかった穴澤一族は泥中の白玉のようでもある。暴れっぷりは痛快であり、一族の最後と、檜原へ還ろう還ろうとするその執念には一掬の涙無きを得ない。

檜原や会津が伊達のものになり、その後穴澤一族はどうなったのだろうか。
浦賀港を望む.jpg
???
会津ネタなのに突然海が見えます。横須賀市西浦賀の小高い丘の上から撮ったもの。
西浦賀の小高い丘にある墓碑です。
穴澤家の墓碑.jpg
横須賀浦賀に何故、穴澤氏の墓碑があるのだろうか?(続く)
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会津北の防人 穴澤一族の最後? [会津]

檜原と接する米沢領綱木の地頭で遠藤という者は、穴澤一門で仲間外れにされて浮いている穴澤四郎兵衛を寝返らせる策を進言した手前、自らが檜原村に乗り込む。最上から会津方面へは真綿商人が往還していたらしいので、その商人に化けて檜原村にやってきた。
いきなり穴澤四郎兵衛の屋敷に行かず、幾つか真綿を売って小金を稼いでから訪れたそうです。真綿を手土産に差し出し穴澤四郎兵衛に取り次がれた。
人払いをして遠藤は単刀直入に「伊達の家臣」と名乗り、「伊達公に内応されよ、穴澤新右衛門を討ち取られよ」と言った。もちろん先ごろ穴澤新右衛門が伊達側に付くのを断った経緯も話したに違いない。
四郎兵衛は驚いた。不和とはいえ本家や一門を裏切れというのである。その場では即答はせず遠藤を別室に待機させて家中の主だった者どもを集めた。
だが意外にもその旨を聞いた嫡男の四郎次郎、甥の孫四郎、譜代の郎党たちは伊達への寝返りに賛同したのである。
「檜原軍物語」の現代版では、「ご本家と些細なことで不和の間柄になり一門衆からも退け者にされ、月見花見の会にもご出席なさらぬので我らも肩身狭き思いをしております。蘆名ご本家も凋落著しく、近日中に伊達公と合戦になるでしょう。であればいっそ・・・」内応に応じましょうと一致したという。

会津若松図書館稽古堂の史料によると、穴澤四郎兵衛が本家と不和になったのは天正13年(1585年)だという。理由は書いてなかった。「大口論になった」とだけある。

伊達政宗が内応を持ちかけたのも天正13年4月だが、昨日の記事、大荒井騒動は天正10年4月中旬とあった。この時に既に不和になっていた筈だが、その辺りはよくわからない。「月見、花見の宴も欠席」とあるから数年間は不和のままだったのかも知れない。
また「檜原軍物語」には穴澤四郎兵衛の郎党が「ご先祖様からの分地(分知)も少なく、極く僅かな知行で細々過ごすよりはここで思い切って伊達公にお味方して・・・」と進言している。
檜原でうだつが上がらず先細りをするよりは伊達について身代を増やそうと思ったのだろう。この地にいても所領は増えないのだから。
穴澤四郎兵衛も自ら独断では決めかねたところを見ると、胸中としては家中で誰かが反対するだろうと思ってたのだろうか。だが自分が思ってる以上に家中の心が本家から離れていたという訳である。
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一族郎党寝返りに一決したが、ではどうやって穴澤新右衛門以下、穴澤一門を討つか。そうたやすく討てる相手ではない。
この時「風呂屋で討ち取ってしまえばいい」と陰惨な謀略を進言したのが四郎兵衛の甥、孫四郎という者で、何処からそういう発想をしたのだろうか。源義朝や太田道灌の暗殺故事を知っていたのだろうか。
「風呂で討ち取る?」
甥が言う案に四郎兵衛は首を捻った。
この当時は各家々に風呂があったかどうかわからないが、本家と不和なのに、まさか「ウチの風呂に入りに来ないか」、または「風呂屋へ行こう」誘うわけにいかないではないか。何か企んでるのかと疑われるだけである。
四郎兵衛も大兵で剛の者だが、討ち取る相手は新右衛門俊光だけではない。穴澤一門を洩らさず殲滅しなくては成就しないのである。
風呂屋に押し込める策を模索する過程で風呂屋の又五郎という下郎の名前が出る。「彼奴(又五郎)を引き入れて謀略をもって新右衛門他、一門を風呂に入れて大刀を取り上げ、別途政宗公の加勢を引き入れて討ち取ってしまえばいい」という卑劣で陰惨な策を講じた。

風呂屋の又五郎という。名字はわからない。この当時の風呂屋とはお湯の張った湯屋、温泉とは違う。小屋に入って中に焼いた石に水を掛け蒸した蒸し風呂か、釜に湯を沸かして蒸気を浴槽内に送り込むのです。現在でいうならサウナのようなもの。
熱い水蒸気を浴びて身体の垢を浮き上がらせ、適度に室外に出て身体を叩いたりこすったりして垢を落とし、別に用意したぬるま湯や冷水で身体を充分に洗うのです。風呂屋と湯とは別物だといっていい。
行水、水垢離のようなものはあったが、毎日風呂を使う訳ではないです。
往時は風呂屋が宿場や集落を廻り酒肴を出し囲碁や将棋を指した。風呂と宴会とゲーセンがセットになったような娯楽だったのである。
現代のように湯に浸かる風呂は江戸時代になってからのものです
では風呂屋の又五郎を仲間に引きこむことにした。そのやり方が単純で単に脅しつけただけである。
別室に伊達の家臣、遠藤を待たせたまま又五郎をすぐさま呼びつけ「伊達殿の大軍が攻めてくる。黒川(会津若松)からは援軍が来ないので我らだけでは持ちこたえられない。我らは本家に背くのでその手助けをせよ」
又五郎は断って逃げ出そうとしたが孫四郎に足をすくわれ、襟首を掴まれて引き戻された。
「我らの企てを知った以上は生かして帰さん」と刀を突き付けて脅かした。「侍に取り立てるか檜原の金銀を積んでやる」とも言った。
震え上がって観念しかけた又五郎の前に遠藤が現れて伊達の家臣と名乗り、懐中から砂金を取り出し、当座の褒美として渡した。下郎の哀しさ、金の前に墜ちたのである。

又五郎を引きこみ遠藤を米沢領に帰してから四郎兵衛は仮病を用いて屋敷に引き籠った。仮病は欺く策だが裏切ることでホントに懊悩したのかもしれない。
すぐ雪解けになり、それまで気持ちの中ではズルズル引き伸ばしながら憂鬱でもあった四郎兵衛は又五郎を呼んで督促した。「早く段取りを組め」と。
決行日は5月3日に決まった。又五郎が檜原村に風呂屋を開いた日だという。
その前1日、又五郎が本家穴澤新右衛門俊光の屋敷を訪れる。風呂の使いである。
「ご一族の方々にはご参会の催しもなくご退屈でございましょうから、明後日3日に風呂を焚きますのでご一族の方々総出でお出でいただき、ご酒を召し上がられ囲碁や将棋でおくつろぎなさいませ」というもの。
「風呂も悪くないな」
新右衛門はこう言ったという。娯楽として言っている。やはり毎日風呂に入っていた訳ではないのである。
「3日は何だったかな?」
「ウチの開業記念日でございます」
「朝から?」
「へぇ。御酒も朝ご飯もこちらで用意いたします」朝風呂、朝酒の誘いといっていい。
「久しぶりに入れて貰うことにするよ」
退屈だった新右衛門は承知した。
次に又五郎は一門の家々を廻る。皆々参加しますと。雪深い時期が終わり娯楽に飢えていたのであろう。

だが、イヤな予感を得た人がいる。新右衛門の妻女である。
名前の伝わっていない妻女はここ数日、屋敷の周囲をウロつく数匹のキツネが気になっていた。キツネは山男集団穴澤一族の氏神様だという。風呂会当日朝も悪い夢を見たので胸騒ぎがして亭主に言った。
「昨夜の夢見が悪く、屋敷の周囲をキツネが数匹いて離れようとしないのです。伊達公の軍勢も檜原を狙ってる折もあり、縁起が悪いので今日の風呂の会の参加は見合わせて欲しい」
新右衛門は破顔一笑した。何を言ってるんだと。
「それは女子供の言うことで、峠に哨戒兵を置いてあるからそうすぐに伊達の大軍は来れないし来たら物見が知らせるであろう」
過去3回の戦勝で油断していたか、平和に慣れたのかも知れない。これが家族との今生の別れになる。

既に穴澤四郎兵衛から決行の密使が綱木村の遠藤に伝わり、遠藤が米沢に急使を差し向け、総勢1500人の伊達の徒歩兵が檜原峠に向かっている。
その前に四郎兵衛の手の者が檜原峠に向かい、峠の哨戒兵は不意打ちを喰らって全滅している。雪も少なく、伊達軍は難なく峠を越えてこちら側の小谷山で待機。
新右衛門俊光の父、隠居していた穴澤加賀は老齢で、風呂会当日は風邪で伏せっており参加しなかったという。

又五郎の風呂屋では前夜から酒肴を手配済で、穴澤一門の面々は米や酒を持ち寄り祝儀の金を携えてやってきた。強弓の名手穴澤越後、穴澤丹後、山岳戦馬術の名手穴澤主計、新九郎、九郎次郎他10数名である。
ひとり、片足の者がいた。
新右衛門の弟のひとり、与七郎という者。
彼は先年猪狩に出た際に大雪崩に遭い、左足の膝下を砕き折って骨ばかりになったのを自らの刀で膝から下を断ち切ってしまった硬骨漢。ようやく癒えたので松葉杖をついてやってきた。
当然、四郎兵衛はいない。
新右衛門はそれに気付いただろうか。気付いたとしてどう思っただろうか。
だが物陰から四郎兵衛の手の者が見ている。
(助十郎殿がいないな)
新右衛門俊光の嫡男、穴澤助十郎俊次(広次)のことである。彼は諸国見聞で檜原に不在だった。
新右衛門の弟の太郎兵衛、左馬允、善七郎もいない。どうも一族全員は揃ってないようだがここまで来ては決行するしかない。

朝茶代わりに酒が出た。朝の空きっ腹にいい気分である。
「一風呂浴びてから朝ご飯にしましょう」と又五郎に案内されて一同、風呂場に入る。その間に携えて来た太刀は湯屋に隣接した座敷に置かれたがそれらは入湯後に全て隠され、風呂屋から四郎兵衛屋敷に急使が走り、そこから小谷山の麓に待機した伊達兵の中へ騎馬の使いが駈け込んだ。
伊達軍が動きだした。
率いる将校は誰だかわからないが伊達成実、片倉小十郎、原田といった高級将校ではなくこの策謀に関わった綱木の地頭、遠藤だと思う。たかが風呂場に入った素っ裸の(湯帷子のようなものは纏っていたかも)穴澤一門10数名を伊達の徒歩兵千数百人が取り囲んだのである。
穴澤加賀が伏している岩山城へも押さえの兵が向かっている。
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随行して来た一門の家来衆はどうしていたのか。
風呂屋の又五郎が、今日に限ってはお身内だけで、と言い回り、安心して疑うことなく屋敷に帰ってしまっていたという。如何に穴澤一族が武勇に長けていても素朴な山男集団で謀略に疎かったかということ。
いい気分で蒸風呂に入っていた新右衛門他は風呂小屋の周囲からドッと湧き上がった喊声に驚愕した。完全武装した敵兵に囲まれている。裸のままで湯上りの座敷に駆け込んだら預けておいた大刀や獲物が無いぞ。
寄手の先頭には穴澤四郎兵衛がいた。
「四郎兵衛一門の端くれなれど、米沢の伊達殿から強っての頼みで貴殿らの首を貰い受ける。もはや逃れ得ぬからには腹を召されよ」と言う。
この時の新衛右門以下穴澤一門の胸中はこんな愚策を見抜けずのこのこ来てしまった後悔の念と、ここに至ってはもはやどうにもならぬことを覚ったが、仲違いしていたとはいえ従兄弟四郎兵衛の裏切りに対して眦が釣り上がり、怒髪天を衝き唇を噛んで血を流した。
腹を召されよと言っても刀は取り上げられている。
「では腹の切り方を見せてやるから刀を出せ」
四郎兵衛は一瞬詰まった。
せめて武士らしく腹を切らせるかと思ったがすぐに刀を貸すなどとんでもないと思い直した。小刀でさえ渡してしまったら暴れまくられ包囲した兵どもに少なからず犠牲者が出ると踏んだのである。それでは風呂屋に押し込めて取り囲んだ意味がない。ここまでやったのだがら後世の汚名を着ようと殲滅するしかない。煩悩を断ち切って「討ち取れ」下知を下した。寄せ手が一勢に攻め込み、武装した1500人対一糸纏わぬ10数人という前代未聞の室内戦になったのである。
新右衛門は一族を見回して、これまでだと覚悟を決めさせた。殆ど素裸で武器も無いなので一方的な殺戮になるかと思いきや、穴澤新右衛門以下、越後、丹後、九郎次郎、主計らは板の間の敷居をバリバリ引き剥がして得物とし、敵兵の顔面や真額(眉間)を狙ってブッ叩いて数人の兵を昏倒させ、相手の槍刀を奪って斬り結んだ。片足の与七郎は足手まといになるのがイヤで、先に湯釜に飛び込んで憤死している。
寄せ手に少なからず犠牲者が出たが多勢に無勢で、受ける側は素裸なのに武装した兵が後から押し重なって攻め入って来るので新右衛門以下穴澤一族の主だった豪傑衆は、源義朝や太田道灌の如く風呂場で全員が惨殺された。
四郎兵衛率いる手勢は次に岩山(巌山)城へ押し寄せる。僅か数十人の兵で抵抗して隠居・穴澤加賀が自刃する時間を稼いだ。.
加賀は自刃、女房衆も自害、郎党村人(兵農分離していないので、平時は農耕者だった)たちで30歳以下の者どもは檜原の西、大塩村に落ち延びさせ、それ以上の年配者は風呂屋を囲む伊達兵に斬り込んでいる。

この風呂屋の謀殺の日付は2説あって、天正12年(1584年)11月26日、天正13年(1585年)5月3日とあるのだが、会津北の防人・穴澤一族はこの日に殆どが滅亡するのです。
彼らの首級は、四郎兵衛の嫡男四郎次郎と、甥でこの謀殺の発案者孫四郎が米沢に持っていった。政宗自ら実検したとある。
桧原湖4.jpg
桧原湖3.jpg
平成27年11月27日追記。
岩山城(巌山城)のあった堂場山散策路(どんぐり探勝路)を、リンクしている「ふくしま旅日記」管理人、もこべぇさんが歩かれたそうです。
「穴澤氏自刃の標注とかありませんでしたか?」
「ありました。自刃の碑というより木柱?だったかな?あまり荘厳な感じではなくて書かれている文字を見なければちょっと目立つ道標?って感じでした」
突然その標注が現れたらしいですね。あっ、これってご本人の承諾を得て掲載していますから。
もこべぇさんの記事を見たら、どうもこの散策路は湖に突き出た半島を往復するだけで往復とも同じ道で、ハイキングコースによくありがちなここまで何Km、終点まで何Kmといった標注がないそうです。
歩いてみたら思ったよりアップダウンが多かったそうで、調べてみたら堂場山の尾根に沿って、郭4、郭3、郭2、郭1(半島の突端部分)とあって、ハイキングコースはそこを結んではいます。でもそれぞれが小規模の平場を設けた程度で連郭式の縄張りともいえず、下記の図のように離れているんです。城域の起伏も薄く、これだけだとあまり技巧的な縄張りともいえない。磐梯山噴火の際に埋もれて縄張りが見難くなってるのかも。
岩山城散策路1.jpg
岩山城散策路2.jpg
穴澤一族が憤死した跡地は何処かわからない。桧原湖底に沈んでいる。
湖に半島のように突き出す堂場山、岩山(巌山)城に至る散策路には「穴澤加賀自刃云々」の標注があるそうだが私は確認していません。知らずに散策して発見するとギョッとするでしょうよ。
湖底に沈む.jpg
檜原湖畔.jpg
現在は桧原湖畔に資料館があります。
併設された座敷で出される山塩ラーメンが美味しいらしいけど今回はパス。その資料館に檜原の城塞が4つ紹介されています。
撮影した後で「館内の撮影はご遠慮ください」の貼り紙に気付いてしまったゴメンナサイ。穴澤一族の紹介はあまり詳しく展示していなかったぞ。ましてや一族が風呂場で惨殺されたとかの記載なんかない。
私は伊達政宗は嫌いではないが、会津に来た時は会津側に立って見てしまうので政宗は外敵、侵略者でしかない。穴澤一族をもっともっとアピールしていいと思うのだが。。。
他に檜原の暮しの紹介や金山の写真とかがあった。
館内の掲示物.jpg
HPから.jpg
四郎兵衛は穴澤一門の残党狩りをする。新衛門の嫡子助十郎、加賀の次男(新右衛門の弟)太郎兵衛、五男左馬允、六男善七郎が風呂屋に来なかったので彼らは生存していると踏んだのです。
この残党狩りについてひとつの挿話がある。
穴澤本家譜代の郎党で高橋という者が所用で他出していて、風呂屋謀殺事件の夕方に檜原に帰って来て四郎兵衛謀反を知った。
死に遅れたと憤激して四郎兵衛の屋敷にひとりで出向いて「主人の死出の供ができなかった。誰でもいいから出て来い。恨みの一太刀を当ててから散華してやる」と大見得を切った。
だがバツが悪いのか四郎兵衛は出て来ない。家来の口からこう言わせた。
「そういうお前は忠義者だから助命する」と言うのである。
高橋は「今、自分を討たなかったら後年、助十郎殿(難を逃れた新右衛門の嫡男)を奉じて必ず仇を討ってやるぞ。それでもいいのか。後顧の憂いを断ちたかったら今立ち会え」と吠えまくったが四郎兵衛は出て来ない。自分で言いたくないのか会いたくないのか、また家来に言わせた。
「勝手にしろ。この場は助けるから立ち去れ」
この時自ら出て来なかった四郎兵衛がどのような胸中だったのか。あれだけのことをして後味が悪かったのかも知れないが、高橋ひとりを助命することで自分の所業を慰めただけかも知れない。
高橋は泣いた。「四郎兵衛殿は己が不忠不義のクセに他人(高橋自身のこと)の忠義を知るとは不思議なお人ではある」と言い捨て家に戻ってからも大泣きしたが、気を取り直して女房に握り飯をたくさん作らせ、夜になってから隠れている穴澤一門落人たちを探して廻り、生存者を大塩村(現在の北塩原村)へ落ち延びさせた。
伝説ではその夜道をどこからか集まって来たキツネの群が狐火を点して一行を送ったという。
大塩まで来た.jpg
裏切り者穴澤四郎兵衛はどうなったか。
四郎兵衛は米沢に出向いて政宗の御前に出たらしい。
政宗は米沢に運ばれた穴澤一門の首級を実検して「いずれも無双の勇士」と誉めたのは勝者の余裕だが、口では四郎兵衛を労ったものの、心中では好まなかったようである。
寝返らせて生き残った穴澤姓を忌み嫌ったのかのように四郎兵衛の姓を遠藤に変えさせた。四郎兵衛に当座の恩賞は与えたが重く用いるつもりは無かったようである。伊達家中には遠藤姓が多いが(神山繁さんが演じた遠藤基信とか)伊達家中になってからの四郎兵衛のその後は不明です。
風呂屋の又五郎の消息もわからない。私の想像だが、檜原にはいられなかったと思う。人知れず放逐されたか打ち殺されたのではないか。
檜原宿.jpg
檜原は伊達政宗のものになった。
だが穴澤一族はしぶとい。大塩(現在の北塩原村)に潜伏した残党たちが執念で檜原奪還に挑むのである。(続く)
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会津北の防人 穴澤一族その後 [会津]

穴澤一族供養塔1.jpg
会津北の防人と呼ばれる穴澤一族が、雪深い裏磐梯檜原で伊達軍の侵略を3回、単独で撃退したネタをUpしたことがある。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-22
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-23
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-24
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-24-1
独眼竜政宗ではなくその父輝宗の時代である。
アクション活劇のようなこの記事は「檜原軍物語」という江戸時代に出された軍記物を現代ものに翻訳したものがベースになっています。
後世のものなので幾分か講談調になっている感は否めないが。
①文章が昔語り風なこと。
②蘆名や伊達の家中以外の登場人物名が他の史料にあまりないこと。
③本文中に学者さんの検証が皆無で逆に信用できること。
一定の価値はあるようです。会津若松駅前の書店にありますよ。
史料1.jpg史料2.jpg
私の記事は3度撃退したところでそれきり終わってる。その後も檜原の金や、その先にある豊穣な会津盆地を欲する伊達氏は政宗の時代になって、策謀を巡らして穴澤一族を殲滅することになるのだが。。。
その謀略が陰惨極まりない。。。
作日の相州丸山城の太田道灌の如く、穴澤一族の主だった者は殆どは風呂屋で謀殺され、檜原は伊達の手に落ちるのです。最後をUpするのに私自身の気が萎えてしまったのもあって放置状態でした。
桧原宿跡.jpg
その穴澤一族がいた檜原です。
現代私たちが見る光景は明治21年(1888年)7月の磐梯山噴火により崩落でできた堰止湖と(桧原湖)と移転した湖畔の集落であって、往時の村々は湖面から15mほど沈んでいます。
今年は2回この地を訪れた。3月は雪深く峠を走破するには至らなかったので先日再訪した。
荒涼とした晩秋の風景です。
桧原湖1.jpg
桧原湖2.jpg
これが今年3月の光景です。
凍結3.jpg
凍結2.jpg凍結1.jpg
3月後半でもこんな風景です。湖が無かった頃は大峡谷のようだった筈。
テント.jpg
ドーム型の屋形船やテントが凍った湖面に固定されています。
この時、磐梯山ゴールドラインは雪で閉ざされて通行できず、一般道の459号線を走ったが、道の脇は2mから3mの積雪でしたね。この写真を若松市内「麦とろ」で話したら、
「桧原湖では年に1人か2人か死んだってニュースが出るんだよな」
「それは氷が割れて落ちちゃったとかで?」
「いや、氷は割れたんではなぐで(テントの)中で一酸化炭素中毒になるんだよ。釣ってもいいけど中で寝泊まりしちゃいけないの」
プレハブ?.jpg
船?.jpg
穴澤一族はもともと雪深い檜原の住民ではない。
過去記事にある通り2説あって、ひとつは仙道郡田村庄から来た説、もう一つは越後魚沼穴澤村説。
最初は山賊退治で檜原にやって来た。当時黒川といった会津若松の蘆名本家に頼まれて赴任したのです。檜原に永住する気は無く帰りたかったらしいがその後、山の生活に慣れてしまった。
檜原国境の警備に据え置かれて数年、米沢の伊達氏が仮想敵国になる。伊達軍が攻めて来た時は隘路に誘い込み、山の斜面や崖を平野を行くが如く走りまわり、強弓を携えて楯ごと射抜いたり、大岩や大木を落とし、雪原での戦いでは橇を履くなどして伊達の大軍を翻弄した。
山岳戦に滅法強いということで檜原に派遣されたまま据え置かれた。ズルズル引き伸ばしされいつの間にか棲みついてしまったのもある。檜原が彼らの故郷になった。
穴澤一族が最初に桧原に来て山賊退治をした場所です。先日行って来ました。
山賊退治の場所.jpg
この古戦場に行く峠道は穴澤一族の五輪塔がある集落内の道を西へ向かい蘭峠(アララギ)を越える道で旧米沢街道に沿っているようです。
蘭峠は2008年にナワさんが峠越えをしています。舗装されているし普通乗用車で行けますが、檜原側から峠を越えて西側の会津大塩へ至る辺りは道が狭いです。
峠を下って来たところ.jpg
檜原へ戻ります。
集落にあった五輪塔は前は5つあったが今年は3つになっていた。
そこに立つと「俺らの最後を書いてくれよ」という声が聞こえたなんちゃって。
わかったよ。書きますよ。
穴澤一族供養塔2.jpg
伊達軍を単独で撃退した3度目の合戦後から先をUpします。もしおヒマでしたら過去の4記事を再読してみてください。

3度目の戦闘が終わって穴澤一族と会津黒川(会津若松)の蘆名本家との間に隙間風が吹くようになっている。その理由は前述の過去記事で伊達軍を3度に渡って撃退したのに蘆名宗家から恩賞が出なかったことが挙げられる。
その頃の蘆名当主は盛隆という人だが、この人は蘆名直系ではなく須賀川の二階堂家からの養子で生粋の会津人ではなかった。
養子の殿さまと譜代家臣は大抵不和と決まっている。盛隆も軽んじられてるようでオモシロくないだろうが、檜原の山奥にいる穴澤一族の存在を軽く見ていたフシがある。
穴澤一族のホンネは「ウチらのご先祖様は蘆名家に請われてこの地に来たのに」と言いたいが、養子の蘆名盛隆はそんな過去の事情は知らず、辺境にいるいち家臣としてしか見ていない。
隙間風が吹いた理由がもうひとつある。3度目の大敗で懲りたのか、しばらく伊達軍の南下もなく平穏だったところへ大荒井騒動という事件がおきる。同じ蘆名家中で大荒井村の領主、小荒井氏と諍いになった。大荒井村だけど小荒井氏です。
大荒井という地は現在は喜多方市内のようです。市の北方、押切川が濁川(ニゴリガワ)に合流する東側に大荒井という地名があるがその辺りでしょうか。
喜多方市の北.jpg
その地は蘆名宗家が穴澤一族に対して雪深い檜原にいてくれる代わりに贈った最初の恩賞地だった。いわば代替地。檜原は標高が高いので稲作ができないのです。穴澤氏にとって大切な領地だった。
大荒井というからには小荒井という地もあって、そこの地頭でもある小荒井阿波という者が、当主の穴澤新右衛門俊光に親切心のように言うには、
「檜原の地にいながらにして山を下った大荒井の地の年貢を取り立てるのは大変でしょうから、某が代行して徴収しましょう」と持ちかけた。
手数料ぐらいは支払っただろうが、あまり深く考えず穴澤新右衛門俊光は年貢徴収を一任した。
だがこの時から大荒井村の年貢取り立てが厳しくなり、天正10年(1582年)の春に大荒井村の百姓が檜原に駆け込んで訴えた。訴状の内容は「小荒井殿の年貢徴収が厳しく百姓が困窮しているので、以前のように桧原の殿の方で直接お取立てを願いたい」というもの。
穴澤新右衛門俊光は大荒井村での年貢徴収が厳しくなったのは小荒井阿波が私腹を肥やす為に相違ないと思ったが、自分が年貢徴収代行を許した手前、事情聴取、詰問をしようとする。「檜原に出頭されよ」
小荒井阿波は、同じ蘆名家中なので穴澤氏に「出頭せよ」と呼びつけられる筋合いはないと思ったのか出頭に応じなかった。
新右衛門自ら10人の供を連れて山を下り大荒井村に向かうことになる。ご先祖が山賊退治をした蘭峠を越えて旧米沢街道を下っていった。
峠を下る.jpg
供回り10人では少ないと新右衛門の弟たちが心配して、後から与十郎という弟が20人の武装兵で追いかけ大荒井村の村外れに待機した。新右衛門の領内調査が始まるのだが、この僅かな武装兵が小荒井阿波の配下にバレて迎撃態勢を整える。合戦になってしまうのである。
穴澤の檜原衆30人&大荒井村の百姓100人、小荒井阿波一党30人&小荒井村の百姓山伏200人、ざっと130人対230人が平野部で戦闘になった。いつもながら数的には穴澤が圧倒的に不利だが穴澤は辛うじて勝つ。小荒井の館は炎上した。勢い余ってちょっとやり過ぎた感もある。
この騒動後、新右衛門俊光自ら黒川に出頭して仔細経緯を蘆名盛隆に報告した。立腹した盛隆は小荒井阿波の所領を没収して追放するが、喧嘩両成敗で穴澤新右衛門も「濫りに私兵を動かして家中で内戦を起こした」と咎められ、穴澤一族が山賊退治の名目で国境警備に当たった功で賜った大切な米蔵、大荒井村を取り上げられてしまった。私闘と断じられたのである。
私闘には違いないが穴澤一族は蘆名宗家のこの処置に対して含んだ。

だが、蘆名家に含んだところで伊達に滅ぼされた理由にはならない。
キーマンが登場する。
穴澤一族のひとり。新右衛門の従兄弟、穴澤四郎兵衛という人。
この人は冒頭に並べた過去記事でも登場しています。穴澤一族は同じような名前の豪者が個々に多いのだが、この人は穴澤新右衛門俊光の従兄弟だという。
四郎兵衛は大荒井村騒動の時は新右衛門俊光と仲違いしていた。年賀の宴、月見の宴、祝い事や仏事からも遠ざけられていた。四郎兵衛も自分から近づかないで距離を置いていた。
会津若松駅前の書店にある史料によると、仲違いした理由は闘犬による不和という。飼ってた犬同士の喧嘩だろうか。
何故そんなことで不和になったか。闘犬でも闘鶏でもいいが、伊達軍を3度目に迎撃した以降はさして戦闘がなく、国境警備の緊張感も多少は薄れ、檜原領内での娯楽が少なくヒマを持て余してそういう些細なことで喧嘩になったのだろう。おそらく賭け事も絡んでたのではないか。

大荒井の戦闘では新右衛門俊光の実弟で後から20人の兵で追いかけてきた与十郎という者が戦死しているのだが、弟の遺骸と共に鎧の直垂を涙で濡らしながら引き上げる途中で、檜原の百姓兵80人が応援に駆け付けて来るのと出合った。
彼らが言うには本家と仲違いしている穴澤四郎兵衛にも急が伝わり、
「幾ら仲違いして疎遠になっているとはいえ、一族の総領が敵に取り巻かれているのを打ち捨てておけるか」
穴澤四郎兵衛も途中まで応援に馳せ参じて来たというのである。途中の大塩村まで下って来たら味方が辛くも戦勝したことを知り、そこで引き返したことを新右衛門俊光に告げた。
会津若松市駅前の書店に置いてあった小説ではこうある。不和の四郎兵衛も手兵を率いて馳せ参じようとしたのを知った新右衛門は、
「日頃剛情一徹な四郎兵衛の心中に肉親の血を感じて瞼が熱くなった」
ここで四郎兵衛が引き上げずに新右衛門と出逢っていればそこは男同士、多少のシコリは残ってもわだかまりが解け、後年の穴澤一族滅亡は・・・いや、たら?れば?は止めましょう。この穴澤四郎兵衛のもとに伊達から謀略が持ち込まれるのだが、その前に独眼竜政宗は大荒井騒動の顛末で穴澤新右衛門が蘆名本家を恨んでいることを知る。恨んでいる筈と伝わった。
その後、黒川(会津若松)で蘆名当主・盛隆が衆道のもつれで斬殺れるというみっともない事件がおきる。醜聞といっていい。
盛隆の遺児が継ぐが3歳で夭折。常陸の佐竹家から佐竹義広が最後の会津蘆名家総領として継ぐのだが、この蘆名家中のドタバタも伊達政宗の独眼には会津侵攻の好機到来と写ったに違いない。
政宗に最初に桧原奪取の策を言上したのは伊達成実。三浦友和さんが演じたあの人。
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「大荒井騒動の後、穴澤新右衛門は所領の大荒井を没収されたから、その恨みを利用して穴澤に新領を与える口約束をして寝返らせ、手引きをさせる」という単純なもの。もっとも相手が乗ればの話である。
檜原への使者に立候補したのが七宮伯耆という者。商人に変装して檜原村へ向かった。

現在の桧原湖を眺めると湖に突きだした半島、小山が見える。堂場山という。そこに岩山城(巌山城)という城塞があります。堂場遊歩道入口から散歩道があるそうだが今回の探訪では発見できなかった。岩山城の堂場山はどんぐり散策路があって名前からして熊が出そうですね。磐梯山噴火の影響か城塞の起伏は明確ではないらしい。
桧原湖.jpg
岩山城.jpg
これは穴澤一族が岩山城に移る前の戸山城。ここも熊が出るそうですよ。
戸山城入口.jpg
当時の檜原村は桧原湖の湖底に沈んでいます。下写真は→の先に社があるのですが、この社と半島のように突き出た堂場山の間の湖面下に村があった。穴澤一族は平時は岩山城ではなく湖面下に沈んでいる麓の屋敷に居住しており、それ以外に家臣の屋敷、宿屋、木地師、鍛冶職人、金堀工夫、百姓の家が置かれ、米沢街道を取り込み旅人を監視する。
寒冷高地で稲作ができない代わりに宿賃、木戸銭、そして檜原で産出される金といった利権を得ることができた。
社.jpg
桧原湖と穴澤氏.jpg
現在はつづら折りの道路が白布峠を抜けて米沢と結んでいますが、当時の檜原峠は一般道になっていません。ある程度の装備をしないと歩けないようです。

さて、伊達の使い七宮伯耆は首尾よく穴澤新右衛門と面会できた。だが新右衛門を口説く中で最後にちょっとした失言をするんです
出だしはよかった。まずは時節柄の挨拶を兼ねて、
「伊達家とご当家とは不幸にも長年不和を続けて来たが、この度伊達家では輝宗公がご隠居され、嫡男の政宗公が家督を継がれたのを機会に、これまでの行きがかりは一切捨て、ご当家とも是非中良くしたい云々。。。」
ご当家とは穴澤家のこと。新右衛門は内心で「伊達家とご当家とは不幸にも長年不和ったってこっちから攻めた訳ではない。喧嘩を売って来たのはそっちじゃないか」と思った。

次に七宮は穴澤家の現状について憂えるような物言いをする。
「ご当家は幾多のご武功にも関わらずただ今のところはご不遇でおられるご様子、政宗公はそれを深く惜しまれ伊達家と同心して大功をたてられ、ご身上を増やし勇名を広めては如何かと。。。」
既に蘆名本家は衣服の綻びどころかズタボロの布のようなものになり下がっている。そんな凋落著しい家に何を義理立てしているのかと。伊達家と組めば国境警備も不要になるが、いつまでも檜原にいたって所領は増えないですよと。
だが、新右衛門俊光は黙っている。

ここで七宮伯耆は蘆名家を取り巻く諸国へ話題を転じた。
「関東では北条、佐竹が衝突し、佐竹が敗れるようなことになれば戦火は奥羽に飛び火します。蘆名家は盛隆公が急逝され、幼君が当主となられているが、近隣諸国は好機到来とばかりに黒川を攻め取ろうとするでありましょう。政宗公はそれを憂えておられます」という。
ここでも新右衛門は何言も発しない。
新右衛門も政宗の噂は聞いている。その頃の陸奥の合戦は小競り合いが多いのだが、合戦する同士も何がしかの縁戚関係になっていて大抵は第三者が仲介して和睦するケースが多いのだ。
だが、政宗はそういうのが通用しない梟雄、奥羽の新人類のようなもの。信用できないのだ。

七宮は熱弁を奮ったが、最後に上げ足を取られる。
「蘆名家はまさに累卵の危うき(積み上げた卵のようにアブない状態)にあります。どうせ他家に掠め取られるのなら、母君には甥であり幼君には従兄弟でもある自分(政宗のこと)が、いっとき黒川の所領を預かり幼君ご成長の暁にはまたお返しすると。新右衛門殿には是非、伊達家について黒川への先導を勤めていただきたいと申しております。実現の暁には相当の所領を差し上げます」
これには説明がいる。
衆道のもつれで斬殺された蘆名盛隆は須賀川二階堂家の出だが、盛隆の室は政宗の父・伊達輝宗の養女でもあり、輝宗の父・晴宗の実の娘(四女)だという。ということはヤヤコシイが政宗の叔母にあたる。だから親戚筋でもある政宗が納めて後で返すよと。それまで黙って聞いていた新右衛門はこれに噛みついた。
「政宗公が蘆名本家と繋がる甥でもあり従兄弟でもあるというのなら、近隣諸国が黒川に乱入する動きあらば援軍を送るか自ら出馬して危急を救うのが身内の情というものではないか。自分が黒川を預かって後で返すなど信じ難い。我にその先導を引き受けよとはあまりにも武士(モノノフ)を小馬鹿にした物言いではないか」
頑として応じず、米沢に帰れと撥ねつけた。
七宮伯耆はほうほうの体で退散した。交渉は失敗したのである。
政宗.jpg
政宗は伯耆の結果を知りガッカリしながらも表面上は笑って許したそうです。むしろ新右衛門の硬骨ぶりを誉めた。相手を誉めることは己の自尊心を慰撫することでもある。政宗はそういう人です。
では次にどうするか。檜原と国境を接する米沢領・綱木の地頭で遠藤という者の口から穴澤四郎兵衛の名前が出る。
「その者は新右衛門と闘犬のことで喧嘩になりそれ以降も仲違いしたままとのこと。上手く説得すればあるいは内応するやも知れない。手引きさせ、夜討ちでも仕掛ければ檜原は破れましょう」
政宗はあまり期待しないでその策を採用した。(続く)
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