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新幹線駅チカの城塞 [隠れ郷土史]

その城跡は上越新幹線の駅近にある。
駅からは歩いて5分足らずです。
こりゃ楽そうだな。実際、そこへ行くのは楽だった。着いてからも楽だった。道路は城域の高さと一緒だったからである。比高差がない。
上毛高原駅1.jpg
チケット.jpg
高崎駅9:51発、MAXたにがわ309号・越後湯沢行に乗車。乗車時間僅か16分足らず。10:07に上毛高原駅に着いた。
ここで帰りの上り電車時刻を確認しとくべきだったのだが。。。
上毛高原駅2.jpg

見えてきた.jpg
小川城標注.jpg
国道291沿いに徒歩5分。デカい案内標識があった。幟もはためいている。
国道は城域を横断している。向かって左側が本郭、道路を挟んで右の畑、集落が二の郭。
国道=城域の高さなので、そのまま入って行ける。一旦、堀の中に下りて本郭に上がる。深さは5m程度。
折れてる堀.jpg
堀1.jpg
堀2.jpg
堀3.jpg
堀4.jpg
この時期、蜘蛛の巣がある。蚊もいる。
暑かったが、敢えて上着で身を護った。
本郭1.jpg
本郭の大部分は、何やら植林されているスペースがあって踏み込めない。整備されていない花壇?
本郭2.jpg
現地の解説板はこの城塞の興亡についてかなり詳しく述べてある。地元の「おらが殿さま」のいいトコだけを述べている訳ではない。
地元の沼田氏の支配下だった小川氏がいてドタバタ内乱している説明に10数行も割いている。その後、小田原北条氏の脅威が北上してきた頃のこと。
「大永4年(1524年)上方より北面の武士(京都御所軽微)浪人して此の地に来る。赤松則村の裔にして赤松捨五郎祐正と言う。客分として城内にとどまるうち次第に軍議にも加わり其の才を認められ、後に景季(小川景季という人)の後家と女合わせ、上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斎と名乗る」
赤松捨五郎祐正~小川可遊斎とは何者なのか。
応仁の乱で荒れ果てた京から地方へ流れて来た浪人、若い頃の北条早雲(伊勢新九郎)のようなイメージだろうか。
解説板をそのまま読むと、内乱で城主がいなくなり、京都から名門・赤松氏の末裔と自称するアヤしい浪人が流れてきて、客分だったのが軍議にも加わり、おそらく小さい戦闘で功を表し、他に候補者がいなかったので前城主かその嫡男の未亡人を娶り、棚から牡丹餅のように小川氏の名跡を継いで小川可遊斎と名乗り、それを越後の上杉謙信が裁可したといふものだが、このままストレートに読むとちょっと疑問符が付く。
上方から赤松則村の裔、赤松捨五郎祐正が来たのが大永4年(1524年)。
まだ謙信はこの世の生を受けていない。享禄3年(1530年)生です。
そこに引っ掛かるかって?
由来1.jpg
由来2.jpg
上げ足を取るわけではないが、謙信が関東に影響力を及ぼすのは、関東管領上杉憲政が北条氏康に追われ、上州から越後へ逃亡したのが天文21年(1552年)以降である。この年の8月に謙信自らではなく、越後からは配下の本庄繁長他を上州に送り込んで沼田から北条軍を撤退させている。
上毛のいち土豪の内紛にクビを突っ込み可遊斎を裁可するとしても、可遊斎がこの地に流れ着いた1552年と、謙信の生年1539年では30年近くの差がある。
後に景季の後家と女合わせ上杉謙信の裁可を得て名跡となり・・・
後家さんを貰ったのはいいが、謙信の裁可を得たのはかなり後ではないか。タナボタで城主になった小川可遊斎が謙信の裁可を受けたのは遥か後年、関東管領上杉憲政を受け入れ上杉家の名跡を継いだ頃か、京に上洛して将軍足利義輝と謁見した頃(天文21年、1552年以降?)だと思う。

さっきからタナボタタナボタ言ってますが、小川可遊斎と言う人、戦巧者ではあったらしい。
可遊斎は小田原北条氏の軍勢を2度撃退している。
初回は天正7年(1579年)10月、謙信の跡目相続争い(御館の乱)で北条家出身の景虎を救援できず北条氏照、氏邦兄弟が関東に撤退した際、腹いせまぎれに小川城を攻撃したが小川可遊斎はこれを撃退した。
翌天正8年(1580年)、可遊斎は上州に進出して来た真田昌幸勢と共闘して再度、北条氏邦の軍勢を撃退している。この戦闘の背景は真田の主君、武田勝頼が、上杉景勝から黄金を貰ってと和睦し、形の上では甲越同盟になったので、武田と北条が手切れになってしまったからである。対北条戦線で「敵の敵は味方」の構図になり可遊斎は真田の寄騎という形にになった。
だが真田昌幸はこの地、小川から先の沼田が欲しいのである。小川可遊斎のアタマ越しに沼田城へ調略の手を伸ばす。これが北条氏邦を本気で怒らせ、天正8年の秋に3度目の攻撃を受けた。それほど大きい城ではないのだが、「数倍の兵力を以って小川城を囲む」とある。
小川城は陥落する。可遊斎は上毛高原駅の西にある見城山の柵に籠って抵抗するが、水や糧秣の補給に苦しみ、自分を認可してくれた謙信不在の越後へ落ちていった。
この時、真田昌幸は助けに来なかったらしい。結局真田はこの地をGETするのだが、この辺りはちょっとアヤしくもある。
最後に抵抗した見城山が見えます。
最後の抵抗.jpg
これは二の丸一帯。集落と畑、後はヤブです。ヤブを除いて完全に私有地です。
向こうは二の郭.jpg
二の丸1.jpg二の丸2.jpg
二の丸3.jpg真田伊賀って誰?.jpg
地元のヒーロー可遊斎が光芒のように輝くのは天正7年と8年の2年足らずでしかない。だが小が大を撃退するサマは痛快ではある。
最後に振り返る.jpg
楽チンな訪城であった。道路と城域の高さが同じなので、平城と見間違うばかりである。
それでも靴と裾がやや泥で汚れてしまった。
自販機で水を買って洗った。本郭の入口には自販機があって、そこで水分補給はできます。WCは無いです。(それでも泥汚れは落ちず、帰宅してからすぐさまクリーニング屋へ直行。)
最後に振り返った上の写真の時刻は10:37で、駅に戻ったら、10:41の上り電車が行ってしまった後だった。
次の上り電車は11:45発、MAXたにがわ410号までないぞ。
腹が減った~。
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新田の庄 江田館 [隠れ郷土史]

群馬泉酒蔵を過ぎて、伊勢崎市方面へ向かう途中の散策バナシ。
群馬県太田市に新田と名のつく町がある。新田〇〇町がたくさんある。
新田赤堀町、新田市町、新田市野井町、新田市野倉町、新田大町、新田大根町、新田金井町、新田嘉弥町(カネチョウ)、新田上江田町、新田上田中町、新田上中町、新田木崎町、新田小金井町、新田小金町、新田権右衛門町、新田下江田町、新田下田中町、新田反町町、新田高尾町、新田多村新田町、新田溜池町、新田天良町、新田中江田町、新田萩町、新田花香塚町、新田早川町、新田瑞木町、新田村田町といった塩梅で数えてみたら28町あった。新田氏を、新田義貞を誇りにしている地域である。
南側からの入口.jpg
今回取り上げるのは新田上江田町にある江田館というもの。
近世の大城郭じゃないですよ。鎌倉時代の豪族屋敷にちょっと手を加えたもの。
ここには新田一族の傍流。江田氏がいた方形館。夏空の晴れた昼下がりに群馬泉酒蔵の延長でここを通りかかった。
説明板.jpg
想像図.jpg
縄張り.jpg
新田氏を上野源氏と呼ぶそうだが、もとは河内源氏3代目・八慢太郎源義家の四男・義国の長子である新田義重が新田氏の始祖といふ。
義重の四男・新田義季(※)から4代目が江田行義という人でここに住んでいた。新田一族の傍流といっていい。
江田行義という人は新田義貞が挙兵して鎌倉へ攻め上るきっかけのひとつを担っている。
義貞が挙兵したのは護良親王か後醍醐天皇から綸旨を受け取ったという大義名分があったとしておこう。だがそれは表向きであってホントの挙兵要因は、新田荘に幕府の徴税使がやってきて6万貫文の軍資金を出せと。納期の期限は僅か5日。
無理難題である。6万貫文って現代だと幾らくらいだろうか。経済的に追い詰められて一族で挙兵したというのが真相ではないだろうか。
吉川英治の私本太平記では銭5万貫となっていて、「銭五万貫五日ノ内ニ上納ノ事 右、領主庄家、一致シテ違反ナカルベキ旨、御上意也」とある。
義貞の弟、脇屋義助が「無い袖は振れぬ」と拒絶する。徴税使は「しからば直接我らの手で徴発する」50人の兵を連れて新田の庄を恐慌状態に陥れるのだが、叛旗を翻す決意をした義貞に誅殺された。
この事件とは別に江田行義は北条得宗家から嫌がらせをうけている。最後の執権北条高時は、江田の所領を東武伊勢崎線世良田駅から南800mにある長楽寺という寺に寄進する文書を発給した。江田行義の名前はこの時に登場するのだが、寺に寄進する云々は売却寄進と思わ、寺に江田の所領を売ることにより幕府はその寺の庇護者となり、門前町の上がりを搾取するという仕組みではないだろうか。
だが太平記では江田の所領売却には触れていない。そのまま一族は挙兵する。
新田挙兵.jpg
極楽寺坂.jpg
私本太平記で義貞が挙兵する項「触れ不動」で、船田という新田家の執事が点呼をとっている。
脇屋二郎義助・・・義貞の弟ですね。大舘宗氏、堀口貞満、堀口行義、岩松経家、里見義胤に続いて江田行義が名前だけ登場する。江田行義は挙兵した義貞について行き、分倍河原では右軍の将を努め、鎌倉の極楽寺坂を抜こうと同族の大舘宗氏と共に攻めかけた。新田次郎著の小説では江田は化粧坂を攻めて幕府軍の中枢、赤橋守時一族を混戦の末に破っている。
極楽寺坂切通は突破できず大館宗氏は戦死。新田義貞は極楽寺坂切通の突破を断念し、伊稲村ケ崎に剣を投じて干潮を祈願した伝説に繋がる。
稲村ケ崎.jpg
後年、新田義貞は足利尊氏と対立する。江田行義も室町幕府の追討を受ける側になる。江田行義は義貞と離れて行方がわからなくなるが、足利幕府が滅んでから江田一族の誰かがこの地に戻って来た。既に館一帯は小田原北条氏に属した由良氏の所有となっていたのだが、江田氏の子孫がこの地一帯を氏神として保全する。ここに祀ってあったものは明治8年(1875年)に太田金山城(関東に石垣の城は無いを覆した巨城、私は行ってません。)の新田神社に移された。
駐車場.jpg
舗装されていない砂利と雑草だらけの駐車場にくるまが数台停まっており、何かのイベントかと中心部を見たら、野良着姿(失礼)のオジちゃんオバちゃんたち10数人が発掘の最中だった。
土塁の上にはアウトドア用の折り畳み椅子、テーブルが少しあって、昼食とお茶した痕があった。形ばかり「こんにちは」「どーも」最低限の挨拶だけ交わして後はお互い知らん顔。
炎天下の昼下がりにスーツ姿で現れた私をいぶかしむようでもある。
発掘中で立ち入り禁止.jpg
発掘中1.jpg
発掘中2.jpg
何故カットしてあるのかな.jpg
立ち入り禁止のロープと札があったので、方形館を囲む土塁上の一周は諦め、内側から少し見てまわり、一旦外に出て反時計まわりに館をぐるっと一周した。ほぼ全周を掘が巡ってましたね。
南側の堀1.jpg
南側の堀2.jpg
堀1.jpg
堀2.jpg
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堀5.jpg
堀6.jpg
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堀9.jpg
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堀11.jpg
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北側の土塁から堀を見下ろす2.jpg
西側のライン1.jpg
西側のライン2.jpg
西側の堀.jpg
夏空に映える江田館跡.jpg
どれも同じような写真ばっかりですが、平城、館なんでのはこんなものですよ。なかなかいい散策でしたよ。なんてったって山城と違ってゼェゼェハァハァ息が切れないのがいいね。

(※)四代遡って義季から分かれた家に、得川姓、世良田姓を名乗るようになった家がある。
得川・世良田は後世の徳川将軍家に連なる系譜?後世のデッチ上げでなければ江田氏と徳川氏は遠く縁戚関係にある家柄だったのか。
反町館.jpg生品神社.jpg
またこことは別に、義貞が住んでいた?反町館や、挙兵時の舞台生品神社等も訪問済みですが、それは項とUp時期を改めます。
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後閑堀ノ内の謎 [隠れ郷土史]

安中市上後閑にある長源寺という寺が、来年大河に取り上げられる真田六連銭発祥の地?などという記事をUPした時、ちょっと気になる場所を見つけたんです。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-07-20-6
長源寺のイワレは安中市の史料他で見たのですが、そこにホントに真田幸隆が隠れ住んでいたかどうかはどの史料にも無かった。その調査過程で上後閑長源寺に行く途中に堀ノ内という場所があるのに気付いた。ピンと来たので安中市史料のリストを見たらそこには後閑堀ノ内とあって、
所在は上後閑字堀之内
安中市遺跡番NO.1585
立地は平地
形態は館?
現況は宅地・畑
遺存状況は・・・消滅・・・
主要遺構は、削平地・堀?
クエスチョンが2つある。
この自信の無さそうな遺構をググってみたら、ある素晴らしいサイトhttp://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-2779.htmlにたどり着いたのもあって、そちら様も参考にしながら行ってみた。
一覧2.jpg一覧1.jpg
何故、堀ノ内にピンと来たか。
皆さんはそれを聞いて何を連想されます?屈強な殿方で神奈川県民だったらソープ街で有名な川崎市堀之内を脳裡に浮かべるのではないか。
そう思った方、風俗からアタマを切り離してください。堀ノ内とはその名の通り堀の内側のことです。
例えばそこの領主が自分の家屋敷の周囲に田畑や牧を所有し、その周囲を堀(濠)で囲んだ地域。
これが大規模になると武家屋敷を中心に、商店や農民をも抱き込んだ総構えの城下町にもなる。
城下町に川が流れているケースが多いのもそう。防衛や水運の為でもある。
寺社勢力などでも独自の防衛基盤を持つ場合、寺地の境界を土居と堀(濠)で囲むこともある。
その内側のことを言うのです。
川崎堀之内で言えば古来から現在のような色町だった訳ではなく、平安時代に桓武平氏秩父氏の一党、河崎基家という人が居住していた。まさか河崎殿も、自分が居住した一帯が後年、風俗街になるとは思わなかっただろう。
でもここでは本題ではないのでこれ以上は触れません。いつから風俗街になったのか、これも興味あるところではありますが省略します。
(横須賀市にも京急の駅で掘ノ内駅があるが、そこのイワレはサッパリわからない。)
堀ノ内地図.jpg
後閑の堀ノ内へ行くには・・・まぁ行く人は限りなく少ないかと思いますが・・・http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-07-20-6で載せた長源寺へ行くルートと全く一緒です。JR磯部駅から北へひたすら走り、後閑川に沿うと右手に後閑城公園への案内板があって、そこを右手に見ながら長源寺方面へひたすら走ります。
途中、左にある駐在所を過ぎて、左からの合流する道を無視、しばらくすると右手に別れ道が現れるので左折します。その道は安中榛名駅に至る道なので時折くるまが走り抜けます。
後閑川を渡る橋を小井戸橋というのですが、その先左手に見えます。
小井戸橋1.jpg
左手にそこだけ田んぼにせり出した一帯がある。それです。
ズーム.jpg
これがそうなのか?
私は裏手に回ってそこに停めて見物しましたが、その道は狭く、自動車1台停めたら行き違いができないのだ。
どうせすぐにくるまなんか来ないだろうと思ってそこに止めたまま、先端まで行ってみました。
くるまは小井戸橋のたもとに停めるのがいいでしょう。
背後から回り込む.jpg
それほど高低差はない.jpg
四角い段丘が1段あってそれっぽく見えますが、周囲に濠もなく、単に台地が出っ張っただけです。高低差もあまり無く、要害性は皆無といっていい。
徐々に先端へ.jpg
先端の隅に来たとこ.jpg
そこから回り込んでここまで.jpg
先端から先は田畑になっていて、そこから回り込むことは憚られた。。
堀ノ内の内側も私有地で畑になっています。
畑になっている.jpg
これだけである!!
我ながら何てヒマな見学をしたのかと。周囲は見渡す限りの田んぼなので地元民に不審者に間違われてもオカシくない。
誰かがいたら「この段丘に昔、誰かが住んでたの?」と聞いてみたかったのだが。

ではこれは何なのか。
よくあるネタで、この単郭が山の上にあったら「そりゃ狼煙台だ」で片づけられてしまうところだが、ここは平地です。それは絶対に有りえない。
安中市の史料には館とあったが、ここに誰かがいたのだろうか。

安中市の史料にも縄張りがマンガのように描いてあった。
安中市史料拡大2.jpg
真ん中を南北に貫いているのは、現在の小井戸橋から峠を越えて、JR長野北陸新幹線安中榛名駅へ至る道に違いない。街道筋を抑える関だったのだろうか。
子供がスケッチしたような、笑っちゃうくらに簡易的な縄張りであるが、市の教育委員会も、これ以上でもこれ以下でも描きようが無かったに違いない。
こういうケースは、史料不足とはいえ記録に収めるのがその筋の大事な仕事なんです。取り敢えず載せないと後世に伝わらないからです。
ズームもう1枚.jpg
今後、新史料が発見される可能性も限りなく低いだろう。いつかは宅地化するかも知れない。
先達して下さった武蔵の五遁様に御礼申し上げます。
学習館にて.jpg
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井伊直孝の隠れ寺(豪徳寺の写真追加) [隠れ郷土史]

北野寺7.jpg
北野寺1.jpg
安中市、下後閑にあるお寺です。北野寺(キタノジ)
家康が関東に入府した際、譜代家臣4天王・赤備えの井伊兵部大輔直政を上野に配した。箕輪城→高崎城に移って、関ヶ原の功で近江佐和山に移封される。その頃かもっと前か、赤備えの井伊直政の次男、直孝という人が幼少の折、この寺の薬師堂で晩学に励んだ。彦根藩二代目藩主になる人です。
戦国大戦.jpg
井伊直孝は誰が演じるかわからないが来年の大河でも登場する可能性が高い。
直孝は大阪冬の陣で真田勢の挑発に乗り、真田丸に抜け駆けして押し寄せたが、真田勢や木村重成勢の反撃を喰らい500人の死傷者を出して惨敗した人です。
豊臣秀頼と淀殿が逃げ込んだ大坂城山里曲輪を包囲し、一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ人でもある。
北野寺3.jpg
これだけだとイメージが悪いので他に幾つか。
夏の陣では挽回し、若尾八重で長宗我部盛親勢を破り、捕えられた盛親が粗末な雑食を与えられていたのを座敷に上げて最後の晩餐ではないが、大名料理を喰わせた人。
仙台代博物館に現存しているが、伊達政宗の100万石のお墨付きを、「今更こんなのを持って何になるんですか」と本人の目の前でビリビリに破いたか、火鉢に放り混んで焼き捨てちゃった人。
世田谷に鷹狩に出た時に雷雨に見舞われ、荒れ寺で猫が手招きしたので雨宿りを兼ねて寺の和尚と親しくなった。これが現在の井伊家菩提寺でもある世田谷の豪徳寺。招き猫、ひこにゃんの由来。直孝の墓もそこにある。
先日、行って来ました。豪徳寺です。↓
豪徳寺1.jpg
豪徳寺境内、井伊家の墓所入口です。↓
井伊家墓所.jpg
直孝公のお墓は奥にあります。↓
直孝公のお墓.jpg

北野寺2.jpg
直孝は後年、亡くなるまで幕府の要職にあった。最初の大老(最初は大老と呼ばなかったかも知れない)でもあり、家中で殉死を禁じたり、清に滅ぼされた明の出兵以来を秀吉の朝鮮出兵を例に出して反対したり。少なくとも暗君ではなさそうである。
北野寺4.jpg
関ヶ原までは、高崎から安中にかては井伊領だった。でも直孝は安中藩主にはならなかった。それは後年、井伊本家の彦根藩を継いだからだが、初代安中藩主は直孝の異母兄、直勝という人なんです。
実はこの異母兄・直勝が井伊直政の嫡男で、一旦は近江佐和山に入っているのだが、家中不和等あって家康と幕閣が直勝の井伊本家相続を認めず、近江の井伊本家18万石を異母弟の直孝に継がせ、直勝を安中藩3万石に持ってきた。
なので直勝は本家たる彦根藩主には数えられていない。分家の初代安中藩主になっている。この入れ替えには何か事情があったようです。直勝は身体が弱かった(直孝よりも長命だったそうだが。)、家康が直孝に甘かった(真田丸の抜け駆けも咎めず)、譜代井伊家家臣と武田遺臣との不和とか。
直孝が北野寺に預けられたのは、母の出自がそれほど高貴ではなかったか、井伊直政が正室と直勝に対して遠慮があった・・・後世の人はいろいろ考える訳です。家康のご落胤説とかね。
ホントの嫡男、直勝にしてみれば、自分は嫡男なのに安中藩3万石で、弟の直孝に彦根本藩を奪われてしまった訳です。直孝は固辞したが幕閣の裁定は覆らなかった。元和元年(1615年)家康が亡くなる前年、「兄直勝ガ多病ニシテソノ任ニ耐エズ、汝父直政ノ家督ヲ相続シ軍務ヲ掌ルベシ」・・・安中市史にはこう書いてありました。家康の意志はあくまで直孝にあったらしい。
北野寺5.jpg
傷心していたかも知れない直勝は荒れていた安中城と城下を整備したが、安中藩は直勝の次、直好の代で遠州に移封され、その後に水野家、堀田家、板倉家、内藤家と続くが、ここ北野寺を長年庇護したのは安中藩よりもむしろ彦根藩の井伊本家ではなかったか。

寺はご住職の住居も兼ねているようです。でも境内には誰もいなかった。いたら「直孝公は何処でお勉強してたの?」と訊いてみたかったのだが。
北野寺8.jpg
北野寺のある下後閑からくるまで10分ほどの場所には、前に載せた真田幸隆が隠れていた長源寺があって、幸隆はそこの住職から餞別に六枚の銭を貰いそれが六連銭の旗印になった。その旗は真田丸にも靡いていたわけで、真田丸に立て籠もった家、真田丸に攻め寄せた人、時代の差はあれど、後世に因縁浅からぬ両家が隠れていたという不思議な地です。
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蜘蛛巣城(富岡市高林城) [隠れ郷土史]

蜘蛛巣城.jpg
この記事、偉大なる故・黒澤明監督の作品ネタではありません。
私が無名の小城にアタックしたが玉砕したという記事です。晩夏の8月末のことです。
関越道の藤岡JCTから上信越自動車道に逸れ、甘楽PAでカツ丼を喰ってから、富岡ICを下りて富岡丘陵を越えて安中市へ向かう途中、黒岩という地に立ち寄った。
黒岩小学校の前に公民館があってくるまはそこに停めた。そこは役所の分室のようです。公民館と隣接する運動場側から道路と川をオーバークロスして向かいの小学校に渡る歩道橋がある。小学校と運動場との共同管理運営をしているようでしたね。職員さんも3人ほど詰めていました。
公民館.jpg
私はこの黒岩一帯の道を平成24年から数えれないくらい走ったものです。一度、東京から来た人を同乗させてこの辺りを走ったら、ナビが無いもんだから、
「何処を走ってるんですか?」
道に迷ったと思ったらしくそう怪訝荘に言われたことがある。この里を抜けると妙義山が西に見えるので、迷うこたぁないんだけどね。
黒岩小学校HPには、「電車で来るには上信電鉄富岡駅下車徒歩40分。(タクシーの場合10分)、くるまで来るには、上信越道富岡ICから約6km、15分。。。」とある。
最寄駅などない。生徒数はおよそ80人程度だったと思います。
「富岡市の北側に広がる富岡丘陵の南西部、里山に囲まれた自然豊かな高台にあります。4階建ての校舎から見える木々の色づきや校庭に響き渡る野鳥のさえずりで四季の変化が手に取るように分かります。校舎の北側には星川が流れてい時季になると水鳥も渡ってきます。。。」
周囲には飲食店もコンビニもない。古い雑貨店らしきものがあったがクローズしたのか、自販機だけあった。HPでの紹介のとおり、里山に囲まれているが、自然豊かな高台=小学校と隣接する小山にコンパクトな城塞があって、マニアの方には、無名だが比高差がそれほどなく訪城が楽チンで、二の郭はヤブだが本郭は見どころがあるので是非おススメ。。。
公民館の駐車場にはこの辺り一帯の地図がある。
その城は高林城といふ。
MAP拡大.jpg
私がそんなのがあるなんて知ったのは今年になてからです。住んでた頃の冬に行っておけばよかった。
公民館にご挨拶し、「この辺りにタカバヤシジョウって何処ですか?」と訊いたの。
「ああ、コウリンジョウ(高林城)ですね」
「コウリンジョウ?」
「そこの歩道橋を渡ると墓地があって、その先を上って行くんですよ。そんなにたいした傾斜ではないんですが、今の時期だと・・・」
言わんとしていることはわかった。確かに懸念がある。8月の晩夏だからヤブか草ぼうぼうなのでしょう。
「高い山、急な山ではないようですが」
「ええ。そこの小学校の子らも登りますからね。ただ昨日の雨で足場がどうか。時期が来ると整備するんですが。行かれるなら無理しないでくださいね。無理せず」
無理せずを2回か3回繰り返し言われたから、ガタイだけで体力の無い年寄りと思ったかな。公民館前の駐車場にくるまを停める旨を告げて、訪城口へ向かった。
ちょうど昼時で3人いた職員さんは手持ちの弁当を開きかけてた。昼を喰いながら、「誰あの人?どこのヒマ人?」とでも会話したに違いない。
歩道橋2.jpg
歩道橋で公道と川を越えて学校側に渡るとなるほど墓地、お墓がある。その間に林道というか、獣道があって訪城路になっている。お墓参りに来るひとは公民館に停めるしかないわけですな。
小学校脇を上がる.jpg
訪城口.jpg
お手製.jpg
イノシシが出るってことか!!
まぁ大丈夫であろう。事前調査では頂上本郭へ20分も歩けば着くらしいが、そこへ至るまでに、いや、まだ攻城前半で大敵が待ち構えていた。
蜘蛛の巣である!!
それも一つふたつではない。ご覧のように訪城路は一本道になっていて、左右から張り出してる木々の間を通っているのだが、そこかしこが蜘蛛の巣だらけなのである。
某山城訪城路.jpg
私は注意深く蜘蛛の巣を避け、迂回し、這いつくばって潜り抜けたりしながら少しずつ登ったが、少なくとも3つ以上の蜘蛛の巣を破壊してしまい、巣の残骸が私のアタマに貼り付いた。
左右に切れてしまった巣(蜘蛛の糸)は左右どちらかに動いてしまう。そこには私に巣を壊されたヌシがいて、恨めし気に私を睨んでたような気がする。
「誰だおまえ?余所者だな?この山城にこの時期に来るなよ」という蜘蛛のお告げを聞いた。
こりゃ無理だワ。攻城にとりかかってから僅か10分足らず。もう断念した。
訪城道.jpg
だが下ろうとしたら今度は蜘蛛の巣が見えない。登ってる時は山城の向こうから刺す光が逆光になり、蜘蛛の巣がキラキラ光って見える場合もあるのだが、下りだと私の図体が光を遮断してよく見えないのです。下りではアタマだけでなく胴体にもひかっかった。
迂回したら小学校側から丸見えだった。
もし生徒らが窓際にいたら私を指して、「アイツ、失敗したんじゃない?」子供らの声が聞こえそうである。
小学校側の切岸.jpg
ほうほうの体で麓の公民館に逃げ帰った。
外の水道水をお借りして額に貼り付いた蜘蛛の巣と汗を洗い流した。顔をアタマを拭いてから撤退のご挨拶。私は両腕を前でクロスしながら、
「無理でした」
「無理でしたか。。。」
「足場よりも、蜘蛛の巣が」
「ああ、蜘蛛の巣ね」
夏場に訪城するそのスジの人は頭の天辺(帽子)からつま先(安全靴)まで、腕は長袖で虫刺されスプレーを吹きかけて準備万端、蜘蛛の巣を蹴散らしながらズンズン進んで行くんでしょうな。
「夏場は無理でしょう。いずれ整備しますので」
整備するたって、草刈り程度だろうけど。
「秋以降、冬場に是非お出でください」
えっ!!ほうほうの体で退散した私に「またお出でください」って言われたのです。さすがは群馬人情。わ・ざ・わ・ざ・来たけど断念したので、リベンジ大願成就してくださいってか。
「ええ、そうします」と言うしかないじゃん。
やれやれと思いながらくるまに戻ったら、まだアタマに蜘蛛糸が残っていたね。ベトベトする。濡れハンカチでゴシゴシ拭いた。
そのまま安中市へ向かう途中で思いだした。巣を張る蜘蛛は風が吹くのを待って巣を張る。巣を張るのにどれだけ時間がかかるのかわからないが。その後も獲物が来るのをじっと待っているんだな。酔狂で訪城してその世界を破壊して悪かったかなと。
私は家にチビタランチュラ数匹と同居しているので日頃から蜘蛛には寛大なのです。外来種の毒蜘蛛でない限りね。
MAP1.jpg
高林城の背景、経緯はわかっていない。黒岩小学校の里山見学コース、ハイキングコースも兼ねています。整備は地元の人です。小学校生かOBのお手製案内板もあってお絵かきに等しいが微笑ましい限りである。地元に大事にされている里山にある。冬場は手軽に登れる筈ですが・・・。
リベンジがあるかどうか。
でもああ言われたら来るしかないだろうね。
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穴山梅雪を弁護・・・できないなぁ・・・ [隠れ郷土史]

学校敷地の脇にある.jpg
富士浅間大社の大宮城、前Blogで触れた葛飾区の葛西城、何も無い跡地に偶然出くわすことが少なくないのですが・・・。
この江尻城は平城だったらしい。江尻小学校辺りがその跡地で、校内には生徒たちの為だけに造ったとしか思えない碑と案内板があると聞き及んだ。それを見つける為に平日の白昼、私なんぞが許可無く校内をウロついたら警察に通報されかねない。
校内に踏み込まなくても。校庭に面した一通の通り沿いに案内板がたっている。縄張りも描かれている。
江尻城解説板.jpg
縄張り.jpg
周囲は市街地化している。城下町だけあって道は広くない。一通なので路肩に停めて解説板をジロジロ見てたら、ご近所のオバさんやご隠居がじーっとシロい目で見やがるんですよ。しかもヒソヒソ話。それでも手短に、大手町、二の丸町、当時を偲ぶ地名を確認した。
二の丸町解説板.jpg
校門は本丸門.jpg
この平城は武田氏の第二次駿河侵攻において拠点、基地になった。場所柄、水軍の補給基地も兼ねていたのではないか。
晩年に差し掛かった武田信玄は新鮮な海産物を喰ったことがないので(笑)、海がどうしても欲しかったのだろう。川中島から先には海があるがそこは長尾景虎がジャマして侵攻できなかった。欲張って海の無い上州を席巻できたので目を転じ、駿河侵攻反対派の嫡男義信を廃嫡、三国同盟を破棄してまで駿河に南下したかったのはその先を見据えていた。当時の寿命だともう若くはない。焦った。
南下して西上する戦略の途中で造られたのが江尻城。最初の縄張りは馬場信春で初代城代は山県昌景。だが後年、2人とも設楽が原で戦死してしまい、駿河寄の河内を治めていた穴山信君が城代となった。梅雪入道で知られる。武田家を滅亡に追い込んだ張本人扱いされてるあの人です。
当人を何とか弁護できないかと現代人の感覚でアタマを捻ったのだが・・・
二の丸町解説板.jpg
稲荷神社.jpg
穴山氏は武田家と数代遡った頃から二重三重の縁を結んでいる。
穴山信君のお母さんは信玄の姉さんで夫人は信玄の娘さん。官途名は玄蕃頭から武田信虎の受領名でもあった陸奥守。穴山氏は、一条氏、葛山氏、川窪氏、仁科氏他、数多い親類衆の中で筆頭といっていい。
言い換えれば御親類衆筆頭なのにああいう裏切り方をしたから武田ファンでもあまり評判が良くない。
穴山信君は重要なポイントを押さえるキャラなので必ず登場して当然の位置づけだが、武田もののドラマでは殆ど登場しない。武田家中で親類や身内はいいとこ信繁、信廉まで。他の武田親族集はあまり出て来ないのだ。
それは穴山信君の出番が増えて来るのは信玄が逝去してからで、それまでも川中島、三方ヶ原、設楽が原と従軍しているが、御親類衆なので最前線で華々しく戦ったという印象は全くない。脇備えか後備えだったのだろうか。
ということはどんな俳優さんが演じてもギャラが無駄なだけで、信玄が死んでからの武田家後日譚というか、武田勝頼が主役で描かれない限り登場しないのではないか。いいとこ本能寺の変後、家康の脱出劇(伊賀越え)で登場するくらいであろ。
信玄の死後、どの方面を見ても武田勝頼とソリが合わなかったように描かれる。甲陽軍鑑によれば設楽が原の決戦にで勝頼を諭したはいいが、戦線をいち早く離脱したとか。
勝頼に付いてって大丈夫だろうかというのはあったと思う。逆に勝頼は信君が煙たかったに違いない。
穴山信君画像.jpg
穴山信君・・・梅雪は、武田家が滅亡する天正十年(1582年)以前に寝返っている。
何が不満だったのか?
設楽が原の戦後、弱体化した武田家中で地位を高めんとした梅雪が、自分の嫡男勝千代と勝頼の娘に婚約が内定していたのを履行するよう迫ったが、甲陽軍鑑で佞臣と謗られる長坂長閑斎、跡部勝資の諫言によって破談にさせられたとか。
何処かで勝頼を見限ったに違いない。では寝返りの条件は?
家康への内応の条件は、甲斐一国を信君へ拝領すること。武田氏の名跡を継承すること。
では何故、評判が悪いのか。他にも裏切り者がいるじゃないか。
先んじて離反した親族に信玄の娘婿、木曾義昌がいるが、彼は韮崎の新城、新府城築城費用や資材(木曾山中の良質の木材)搬出の負担増で前途を悲嘆して織田軍に寝返った。甲斐府中の人質も斬殺されているから購いも受けている。
都留群~大月辺りを領する郡内小山田信茂は土壇場で裏切って勝頼一行の受け入れを拒否した。郡内では織田軍の蹂躙を阻止したという声も小さくないようだが・・・。
でもやはり裏切りは裏切りだよね。

木曾義昌の人質が斬殺されたのを知った信君は甲斐府中の人質、妻子を脱出させる。
江尻城を家康家臣、本多重次に明け渡し、自身は家康に合流して富士川沿いに甲斐へ道案内をする。
穴山信君は凋落著しい武田家を見限り穴山氏として存続を賭けたのである。だが条件付きの寝返りが武田氏滅亡の決定打になった為に後世まで主家裏切りの不評を買うことになる。
今後、研究者が新史料を発掘して弁護しても、何世紀かけても悪いイメージは拭えないだろう。
二十四将の穴山梅雪.jpg
穴山信君は甲斐府中から離れて駿河方面の司令官か統治者として、興津や江尻に配置された。
海を見て潮の風を嗅いで過ごしたことが、穴山信君の心中に変化を及ぼしたのもあると思う。
国境に配置されたからには緊張が伴う。外交、折衝も請け負う。親族衆筆頭という肩書もあるから相手にも軽んじられない。だが外交が得意な者は相手からの外交にも弱いのだ。そこを徳川家康に付けこまれたのである。
裏切り、寝返りの代償として、河内領と駿河江尻領を安堵され、内応の声がけした家康の与力として付けられた。
信長にも目通りしている。信長の冷たい目に信君はどう写っただろうか。
だが、信君の安堵感は長く続かない。本能寺の変はすぐ近づいていた。
来年、真田丸では武田家滅亡も描かれるだろう。信君の役はどなたが演ずるのだろうか。

駿河江尻から甲斐の国に飛びます。
下写真は甲斐南部町の福士というところです。写真中央のこんもりした山は福士の狼煙台なんですが、この山の麓にお寺があって、そこに行って来ました。
福士の狼煙山.jpg
穴山信君(梅雪)には嫡男がいたんです。
だが僅か16歳で夭折してしまい穴山家は断絶する。船山温泉に行きがてら、この山の麓にあるその子のお墓に行ってきました。明日に一譚、別記事を挟んで、明後日掲載します。
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長源寺 真田六連銭発祥の寺? [隠れ郷土史]

群馬県安中市上後閑に長源寺という曹洞宗の古刹がある。後閑川や長源寺川の流れる谷の奥まった所にひっそりと建っている。
長源寺.jpg
特別貴重な保存物は無いようでこの寺は安中市文化財100典には入ってない。国指定4、国登録有形文化財指定4、群馬県指定21、安中市指定71、総計100の中には含まれていません。
安中市でも奥まったこの地へ来るには、キッチン104の前の道をひたすら道なりに走って九十九川を渡り、最後のコンビニを右手に見て、妙義山に向かって走り、途中、右にカーヴしたら、上後閑、長源氏方面への案内版があるから迷わないでしょう。
上後閑への道.jpg
九十九川、後閑川を何回か渡って、中後閑、上後閑と過ぎて行くと谷が狭まって来る。如何にも最後の集落を過ぎたら山林地帯ににあった。
上後閑の郷1.jpg
そこへ至る道.jpg
そこから先は・・・細い林道になっているようだが、地図を見たら秋間の山中を彷徨するような道で、自動車ではおそらく越えられないと思う。この寺は人が住んでいるところとしてはかなりドン詰まりにある。
朱塗りの欄干の橋が長源寺川に架かっていて、橋を渡れば長源寺の境内。
着いたところ.jpg
朱色の欄干.jpg
古木がそびえています。この時期には藪蚊、虫もいます。
山門に登る石段は苔むしているので足元に注意。
いざ寺へ.jpg
何でこの寺を訪問したかというと。。。
また行くのかよとお思いでしょうが、船山温泉行が迫って来て、行く前は2007年に放映された大河のDVDを観るか、サントラから幾つか聞いて甲斐の国への高揚をかきたてるのですが、DVD4巻二十四話に、この長源寺と晃運字伝という僧、住職が登場したのである。
でも住職ではないかも知れない。それは後述します。
寺の場面1.jpg
「その頃真田幸隆は、上州安中の長源寺にいた」というナレーションだったかな。
「安中?」
「???」
ジャン妻と顔を見合わせた。
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この寺に佐々木蔵助さん演じる真田幸隆がいた?
河越夜戦で種子島で撃たれた山本勘助(演:内野聖陽さん)が寝ている。
寺の場面2.jpg
晃運字伝を演じた俳優さんは冷泉公裕(レイゼイキミヒロ)さんという個性派で、瀕死の状態から蘇生した山本勘助に向かって毒づく。
「このお侍はしぶとい。まだ生きるつもりでおるぞ」
「御坊が手当を?」(勘助)
「儂は医者ではないでの。さような傷を診たことのある医者など少なかろうて。医者の投げ出した者を見るのが坊主の役目じゃ。どうせ仏になるならとやってみたまでよ」
毒づいた揚句、えぐり取った火縄の弾を見せた。
「山伏から聞いた覚えがあっての。蘆毛の馬の糞を水に溶かして飲ませればどのような傷も癒えるというもの」
勘助はイヤな顔をした。
勘助は真田を武田の幕僚に加えたいのだが、
「甲斐でも何処でも行くがよかろう。このまま出家もせず穀潰しの落ち武者を置いておくのは寺の迷惑じゃ」
言いたい放題であった。
和尚.jpg
僧侶役.jpg
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真田は上州を去って武田に降るのだが、御坊のお蔭で上州で命を拾いましたと晃運字伝に礼を述べても、
「その命をわざわざ捨てに行くような者に礼を言われても心地悪いわ」
とまたしても笑って毒づいた後で、「幸隆殿。この坊主からの餞別じゃ。受け取れ」
出されたのが六つの銭だった。
餞別.jpg
「六動銭じゃ。死人の棺に納めるものじゃ」
六連銭は三途の川の渡り賃。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界を表す。
「真田の家は一度死んだ。一度死んだ者は二度とは死なぬものじゃ」
真田幸隆は、「いずれ所領を取り戻したら寺を建てて晃運を開山にしてやろう」と大きいことを言う。
「何を。お前のようなウツケに何ができるか」と笑って返した。
真田幸隆は本懐を遂げる。信州小県郡、真田に帰還してから、長谷寺を創建して真田家の菩提寺とし、晃運を招いて開祖とする。ってことは安中長源寺時代の晃運字伝は住職ではなく寺僧のひとりでしかないのではないだろうか。寺全体を掌握する住職を引き抜く訳にもいかないだろう。
この話がホントなら、真田の旗印である六連銭発祥の地?もしくは寺と言っても過言ではないことになる。
六連銭の旗.jpg

階段を上る.jpg
山門.jpg
由緒.jpg
長源寺は嘉吉3年(1443年だから室町時代)に開かれた。
創ったのは信濃からやって来た依田信濃守政知という人で、この寺に来る途中、右手にある後閑城(公園になっています)を作った人だという。
一旦は衰退したらしい。その後、やはり後閑城主だった新田伊勢守信純(後閑氏)という人が中興開基した。開基とはお寺を開くことで、中興とは一旦は衰えた状態を再び盛んにしたこと。
依田信濃守.jpg
新田伊勢守.jpg
境内の裏手や山になっていて熊でも猪でも出てきそうな雰囲気だが、その麓に開祖、中祖、歴代のご住職のお墓があった。そこに晃運字伝はあったかな。
真田が上州にいたのは、天文10年(1541年)に武田村上諏訪の連合軍に破れて故郷の信州真田を追われたからで、箕輪城の長野業政や、もとは先祖が一族だった?小県郡の滋野一族を頼ってやって来た。依田もその流に繋がる。彼らを頼る過程で長源寺と知り合ったのではないか。
裏手から境内を望む.jpg
階段を下る.jpg
真田幸隆は境内の何処にいたのだろうか。
この奥まった谷にある寺の境内に逼塞して読経三昧ではないでしょう。ここに来るまでの途中にある後閑城で食客になってたのではないか。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-17
後閑城.jpg

上後閑の郷2.jpg
上後閑の郷3.jpg
瑞々しい郷である。後閑川、長源寺川が流れ、九十九川にくなる。苔むした砂防ダム、堰堤もあったから、大雨には水が出るに違いない。雨の通り道なのだろう。心なしか、空は晴れ渡っているのに、寺の上と、秋間山に繋がる一帯には、いつ雨雲が湧きあがっても不思議でないように思えた。
真田幸隆がいた往時と風景は変わらないのではないだろうか。
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和が家近くの剣崎2城 [隠れ郷土史]

権田行バス.jpg
ドーミイン前のバス停、あら町銀行前、18:26発の権田行に乗車する。
権田は倉渕方面にある地で小栗上野介にちなむ場所です。高崎駅からそこまで通しで乗る人は少ないと思いますが、いつもはガラガラな路線バスなのに殆ど満席だった。
バスはひとつひとつ律儀に停車していく。並榎バス停までに誰かしら乗車、下車していた。現金で支払うお客さんは少なく、殆どがバスカードでしたね。
前面展望.jpg
引間の辺り.jpg
私は剣崎バス停で下りる。
バスは権田に向かって去って行く。
去って行くバス.jpg
交差点を左へ。コンビニ側に渡って緩い坂を上る。まだ日が長い。
途中、そこに階段があって、右上を見上げたら鳥居があるぞ。
階段上り口に何かの説明板があったが。。。
何だろう?.jpg
かすれて読めないじゃないか!!
読めないぞ.jpg
かろうじて、剣崎小路城と読めた。
目指す居酒屋、和が家はここから数十メートル。ちょっと寄り道した。
古墳の跡らしい.jpg
八幡の台地上にいます。階段を上がったら社も社務所も無いが、御嶽神社の境内らしいのだ。
読めない碑が立っている土壇は方形の古墳で、御嶽古墳、もしくは碓氷八幡26号墳というそうな。そこに、フォントがハッキリした解説板があった。
ハッキリした説明板.jpg
剣崎小路城(御嶽神社) 剣崎町字上小路
伝えによると永正四年(1507年)ごろ福田忠政がこの地に小路城を築城。
忠政の子加賀守信義は若田ヶ原の戦に功あり、武田信玄より剣崎、藤塚、豊岡の地を拝領す。
忠政-信義-勝政-信成と住し、天正十年(1583年)板鼻へ移居す。

福田忠政って誰?
子の加賀守信義も知らない。
ググッてみたら、福田氏は倉賀野十六騎の1人。倉賀野で年1回開催されるお祭り、武者行列にもいるという。
若田ヶ原は群馬八幡駅から見て西北の丘陵一帯と推定される。http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-05-22でも載せたように若田上水場から八幡霊園の辺りであろうかと。そこで甲州軍と上州一揆衆(リーダーは長野業政)が激戦になった。
説明板から察するに、福田氏は上州へ侵攻して来た武田軍の寄力にでもなったのだろうか。
供養塔だろうか.jpg
説明板はまだ続く。
剣崎鳴熊城 剣崎町字鳴熊六万坊
伝えによると天正十八年(1591年、一説に慶長四年)に柴田勝家の孫、三左衛門勝重が城主となる。
徳川家康に徴され碓氷、群馬の二郡内に二千石の采地を拝領す。関ヶ原、大阪、両役に戦功あり、武州に五百石を拝領す。
柴田三左衛門勝重-勝興-勝門-と住し、元禄七年(1694年)三河へ移り廃城となる。
柴田勝重は織田軍の柴田勝家の直系ではなく、勝家の姉の旦那、佐久間盛次の子で勝家の養子になった柴田勝政の子だという。
天正11年(1583年)に越前北ノ庄城が落城した際に、母方の祖父である上野の日根野高吉という人のもとに逃がされた。
後年16歳で元服し勝重に名乗る。慶長4年(1599年)徳川家康に仕え上野に2000石を賜る。旗本ですね。
柴田家は勝家の直系の系譜とはいえないが、後世そのまま旗本として続いたようである。
暗くなってきた.jpg
小路も鳴熊も高崎市史にあったかな~。記憶にないな~。
現地説明板に書かれている以上のことはわからないだろうね。ではこの場所に2つの古城跡の説明文が並んでるのはどういうことか。同一物件か?
いや、別物らしい。
前者は砦程度、後者は2000石だから陣屋規模のものではないだろうか。
振り返る.jpg
暗くなってきた。
これまで、和が家に向かってこの坂を歩いたのは数回あるが、いずれも暗い夜道で気付かなかっんだよね。
その先へ行く.jpg
見えてきた.jpg
和が家が見えてきた。
店に向かう右手の土手は道路掘削のものだが、ああいうのを見てしまうと城塞の切岸っぽく見えてしまうのはビョーキかな。
飲みながらこの2城の話をしたかって?
してないです。ただ、和が家のある一画も城域だったかも知れない。
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真田出丸伝承地へ行って来た [隠れ郷土史]

コインロッカーとジャン妻.jpg
JR大阪環状線の玉造駅で下りたとこ。
ジャン妻はワガママを言い出した。
「コインロッカーないの?」
私だってこの駅に初めて下りたんだから、コインロカーの有る無しなんて知らないよ。
「これから行くのは山城じゃぁないよ。荷物持って行けるよ」
「でも荷物持って歩くのイヤだ」
2日後のヒロさんとの昼酒の時にも「荷物持ち歩くのヤダ」とかヌカしてたからね。目ざとく見つけてゴソゴソ入れてた。
三光神社.jpg
真田丸.jpg
そこから徒歩5分ほどにある真田出丸伝承地は、ゆるい丘になっていて、公園、墓地、寺院、学校、宅地が立ち並んでいる。
三光神社にこんなのがあった。
真田幸村公之像.jpg
真田出丸は大阪城総構えの外にあるので、独立した砦、キル・ゾーンだったのかも知れない。
抜け穴!!
真田の抜け穴1.jpg
真田の抜け穴3.jpg
真田の抜け穴2.jpg
抜け穴の中.jpg
そこから徒歩数分。。。
心眼寺1.jpg
扉は六連銭1.jpg扉は六連銭2.jpg
その辺りにある心眼寺は寺の大扉に六連銭が銘打ってあった。
ここにも真田丸跡とある。
出丸跡の碑.jpg
真田左衛門佐信繁の墓碑?
幸村公の墓碑1.jpg
「信繁?何で幸村じゃないの?」
「家康をコテンパンに敗走させたんだから、後日、講談で憚りがあったんじゃないか?」
説明板.jpg
辺り一帯の地名を真田山町という。
隣接してこんな地名もある。
宰相山西公園?.jpg真田山の名前が.jpg
宰相山公園?
宰相とは加賀宰相、前田家のことではないのか。

真田丸を攻めて来たのは加賀前田勢で、数少ない冬の陣での直接戦闘の中に、真田出丸攻防戦がある。
出丸前方に篠山という丘があって、そこに真田兵が潜んでいた。やってきた加賀前田勢が陣地を構築しようとするのを真田兵が篠山から妨害した。
加賀前田勢は夜陰に乗じて篠山を奪おうと攻め上がったらもぬけの殻で、夜が明けたら真田勢が前田兵を愚弄、挑発した。挑発に乗った前田勢は真田丸に攻めかかるが、出丸からモロに銃撃を浴び、出丸から打って出た真田郡に蹂躙されて大損害を受ける。
「何で何も残ってないの?」
「・・・」
私は答えに窮した。
「本陣に攻め込まれて散々な目に遭ったんだから、残しておけないだろ」
「ふ~ん」
冬の陣講和条件、総堀を埋める(総構えの破却)によって破却されている。
心眼寺2.jpg
もしかして幸村?.jpg
真田信繁は次男なので国持ちではないし、後藤基次は黒田家家臣で主君長政と対立して出奔している。国持ちは長宗我部盛親だけ?でも盛親は関ヶ原で傍観しており、入城前の実戦経験はアヤしいところもある。(国持ちは他にもいた。伊勢桑名城主の氏家行広)
大阪城内には他にもイワク付きの人物がいる。
織田頼長・・・信長の末弟、有楽斎(長益)の次男。この人は格からいって総大将を希望したらしいが、有楽斎の進退からして何やらアヤしい。間諜だったのかも知れない。
小笠原権之丞・・・何と家康の子息というが、何で大阪方についたのだろうか。
御宿政友・・・信玄の侍医、御宿友綱の息子。(武田信玄六男の葛山信貞の子ともいう。)
増田盛次・・・豊臣政権五奉行の1人増田長盛の嫡子。
大谷大学吉治・・・関ヶ原で自刃したあの大谷刑部吉継の長男。
平塚左馬助為景・・・大谷刑部の寄騎だった美濃垂井城主平塚為広の嫡男。
前述の氏家行広・・・もと伊勢桑名城主。別名荻野道喜。こっちの方が有名かもしれない。
仙石秀範(宗也斎)・・・戦国史上で最も失敗し挽回した男を描いたヤングマガジンコミックス、センゴクシリーズで知られる仙石秀久(信州小諸初代藩主)の嫡男。
結城朝勝・・・下野宇都宮広綱の次男。名門結城家の養嗣子だったのを家康の次男、結城秀康に家督を奪われた人。
細川興秋・・・細川忠興の次男で母はガラシア婦人。
石川三長と康勝・・・家康の下を出奔した石川数正の子息たち。
新宮行朝・・・紀伊新宮城主だった新宮氏善の嫡子。
内藤元盛・・・周防内藤氏。毛利家重臣なのに入城した。
三好政康・・・信長の上洛前の永禄年間に畿内を席巻していた三好三人衆の1人で88歳だという。
浅井政高・・・淀殿の父、近江小谷浅井長政の従兄弟ともいうが。。。
細川頼範(元勝)・・・京兆家細川家(本流)当主。母が信長の妹。ということはこれまた淀殿の従兄弟か。
山名堯政・・・応仁の乱西軍の主将格だった名族、山名家の流れ。
この顔触れを見るといずれもB級クラスでメジャー団体とはいえないな。関ヶ原ではぐれた大名もしくはその子息か一族たち。もしくは名門の末裔たち。
いずれも戦国最後の決戦に賭けてやってきた。

宰相山公園を歩いて玉造駅に戻る途中、大阪市のミニ街宣カーがゆっくり走って来て、
「大阪都構想が不安なら、取り敢えず反対に入れましょう」
既に大阪都構想は結果が出ているが、このカーと私は目が合った。でも大阪人ではないのでスルーした。
玉造駅.jpg
今年は大坂の陣400年らしいね。
ということは、来年の主役、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親たちの没後400年でもある。あっ、もちろん豊家滅亡400年でもある。
ってことは、神君家康公没後400年でもあるわけか。

そして夜、この街へ向かう。
薄暮の和歌山2.jpg
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大宮城 富士浅間大社と運命共同体? [隠れ郷土史]

私たちジャン夫婦の初詣は10年以上に渡って静岡県富士宮市の富士浅間大社と決めている。
地元の神社でなくわざわざそこまで行きはじめた理由は何だったか忘れましたが、40台前半の頃、自分を取り巻く悪環境を変えようと祈祷をお願いしたことがある。
祈祷、お祓いを申し込む時、何をお願いしたいのか巫女さんだったかに訊かれるんです。印象に残ってるのは私の隣にいた夫婦が、「今、係争している裁判に勝ちたいんです」って周囲に聞こえるようにハッキリ言ってたこと。あまりに生臭い願い事だな~。神々もタイヘンだなと思ったよ。
私の場合、御利益はあったかって?
あるにはあったんです。その時の障害は取り除かれて今日に至っている。
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富士浅間大社に至るルートは、静岡の紀尾井、船山温泉ルートとも重なるので、年に一度ならず2~3回はお参りしています。
さすがに元旦に初詣という訳にはいかず、早くて1月半ば移行、遅い時は2月か3月になったりする。既にその年がスタートしてから行くんですね。年に最初の紀尾井か船山温泉の帰途に立ち寄る訳ですよ。
何をお願いするか。家内安全健康これだけ。商売繁盛とか、何かに打ち勝つ・・・例えば我に勝利を与えたまえとか、そういう野心的な類のものは祈願したことがないです。
富士が見える.jpg
富士拡大.jpg
湧玉池.jpg
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湧玉池からの水堀2.jpg
湧玉池からの水堀3.jpg
お参りしてて、以前から気になっていたことがある。
浅間大社のある一帯を静岡県富士宮市宮町というのだが、大型観光バスが駐車する浅間大社前~大宮町を東西に走る県道76号線の商店街右手、地図で見ると北側、浅間大社から見て湧玉池から東の向こう側にやや小高い斜面(言われなきゃ気付かない程度の高低差)がある。そこに大宮小学校校舎が見える。
境内から大宮城・小学校を望む.jpg
その辺り一帯を元城町というそうです。
元は城?.jpg
元城町?
いかにも曰くありげな町名ではないか。
こんなのもある。
城山組の山車倉庫.jpg
城山と銘打った山車の倉庫です。
調べてみたらこの地一帯は、駿府今川家傘下の国人領主、富士氏がいたという。大宮城といいます。
富士氏はもとは浅間大社の大宮司の家柄。バックに富士浅間大社がいたか、もしくは大社を護る為に武力化したのではないか。寺社勢力にはよくあるケースである。
大宮城があったと言われる小学校一帯は浅間大社と隣接しているのでほぼ一体であったといっていい。
あまり知られていないこの城が現れるのは、甲州軍の駿河侵攻を迎え撃ったからです。
当時の城主は富士兵部少輔信忠という人。民部とか宮内とかは神職に関係する官途名かと思いますが浅間大社の宮司も兼ねていたようです。神職は浅間大社で司り、政治や軍事は湧玉池の東にある大宮城(館か?)で執っていたのではないか。
今川家の傘下とはいえ、田楽狭間で討たれた今川義元の後を継いだ蹴鞠男、氏真の代になって数年経っている。凋落著しい。
三河の家康に内通しようとした家臣を駿府に呼び寄せて謀殺したりもしているので離反者も増えていく。井伊谷にいた井伊直虎(女性です)の地頭職を罷免したりもしている。
そこへ晩年の信玄が南下して来る。甲州軍の先方は穴山信君(梅雪)だった。甲州軍は永禄11年(1568年)12月、永禄12年(1569年)2月、永禄12年6月、しつこく南下して攻め寄せたが、富士信忠は初回と2回は撃退に成功する。
3回めは焦れた信玄が本隊引きつれて直接やって来た。甲州軍は本栖から御殿場を経て三島経由で進路を西に向け、大宮城へ攻め寄せた。
今川家はあてにならない。富士信忠は小田原北条氏政の庇護下にもあったらしいが、例によって優柔不断に描かれがちの北条氏政は援軍を送れなかったそうです。大宮城は駿河侵攻の喉元、最前線だが、今川、北条両氏から見捨てられた格好になった。
富士信忠は20日ほど頑張ったが、結果、穴山信君を通して7月に開城した。浅間大社が隣接しているので幾ら何でも焼き払うような暴挙はさすがに信玄でもできなかったに違いない。
信忠は武田氏に帰属する。穴山信君に預けられ、勝頼の代になって息子の信通が宮司に復権したが、神職に携わる代わりに軍事力は削がれていったと思われる。

よく2度も撃退したなと感心する。というのは現地に立って見るとわかりますが、大宮城のあった小学校一帯はまるで要害地ではなく、標高の低いなだらかな丘に過ぎないのだ。
大宮城は現在、大宮小学校のグランド下に埋まっている。
大宮小学校.jpg
辺り一帯は一通が多く、道幅が狭く、駐車場が無いので、浅間大社の駐車場に停めて散策するしかない。でも、歩き回っても何もないです。唯一、大宮小学校の南に。城内の蔵屋敷稲荷神社の説明板に・・・
「この神社の創建については不詳であるが、もとは大宮城内の蔵屋敷の神として祭られていたが、城の解体とともに蔵屋敷の地名共々に残ったものと思われる。・・・」
ここにいきなり唐突に「大宮城内・・・」と出て来るだけなんです。
蔵屋敷稲荷神社.jpg
唐突に大宮城.jpg
ある方のBlogで2010年4月の記事に、小学校の南にある一通の通りに、「大宮城通り」と銘打った手書きの看板がミラーに付けられていた。前述の蔵屋敷以外だとそれが唯一、この地に大宮城があったことを示すものだったのですが、そのミラーの場所に行ってみたら無かった。
その看板はこのミラーに付いていたのですが。
ミラー.jpg
ここに大宮城とあった筈.jpg
その方のBlogはコメントを入れるのにYahoo登録が必須のようで、お写真をお借りしようとしたのですが断念致しました。
(お名前を出してすみませんが、るな様はその方の大宮城の記事にコメントされてましたね。大宮城通りの表示をお探しになられていたようですが、今は無いようです。)
この日、お参りもしました。歩き廻ってから富士宮焼きそばを食べました。
富士宮焼きそば.jpg
麺が固ぇな。
初めて喰ったわけじゃないがこんなに固かったかな。
浅間大社2.jpg
武田軍の駿河侵攻は富士宮合戦を省略していきなり駿河湾に面した薩唾峠に現れ、今川家の家臣たちが衆寡敵せずして引き、甲州軍は駿府になだれ込み、今川氏真は駿府を捨ててだらしなく掛川へ逃げるオチで終わるケースが多い。富士氏の迎撃戦はまず描かれない。
大宮城そのものの説明板はみつからなかった。ホントに無いのかも知れない。富士宮市民にとってあくまで誇るべき文化、観光の象徴は世界遺産に繋がる富士浅間大社であって、それと運命共同体だった大宮城は脇役に過ぎないのでしょう。
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柳川町のこと [隠れ郷土史]

赤線地帯1.jpg
赤線地帯とはなんぞや?
警察が遊郭等の風俗営業が認められる地域を限定し、集団地区として営業させる指導をする。その場所を地図に赤線で囲んで表示していたのが赤線の語源です。赤線地区とは特飲街ともいって半ば公認で売春が行われていた場所、地域。
いついつから赤線に指定しましたと公にするものではないようです。

下の地図は図書館で偶然見つけたもので、現在とは一致しません。
旧乙種料理店街地図.jpg
終戦後、アメリカの占領下になって進駐軍特殊慰安施設云々の通知が内務省から出される。これは進駐軍の為だけの公用慰安婦の増員配置のようなものであまり触れたくないですが、要は進駐軍兵士の為の公用慰安婦を増員しようと現役復帰を呼びかけたものです。
進駐軍が客として登楼したことで花柳街が一旦は活気を取り戻していく。

ところが翌年、昭和21年(1946年)GHQが公娼制度廃止を打ち出す。「日本による公娼の存続はデモクラシーの理想に違背し全国民の自由発達に相反するものなり・・・」
女性の人権を守る立場から廃止を打ち出される。
警視庁はこの情報を事前に掴んでおり、「最近の社会情勢を鑑みるに公娼制度の廃止は必然の趨勢なるを以て・・・(略)・・・貸座敷乃娼妓は之を廃業せしめ廃業者に付ては私娼として家業継続を認め・・・」
意味は、公娼地域は私娼地域として営業せしめ、貸座敷業者は接待所娼妓を接待婦と呼び替えただけで、戦前からの集娼政策を続けるつもりだったらしい。
業者が借金のカタで拘束するのではなく、個人が自発的に営業するのならGHQのお達しに違反しないという解釈をしたのです。

昭和21年11月に家邸された、「私娼の取締並びに発生防止保護対策」というのがあって、
①特殊飲食店指定をして警察の取締下に置く。
②風紀上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置する。
③接客に従事する婦女は酌婦または女給の正業を持たせる。
乙種料理店が特殊飲食店という名称に変わっています。それと②と③ですが、②こそ集娼地域と特殊飲食店の指定地域を限定して纏めて集団的に営業させる方針そのもので、その地域一帯を地図上で赤線で囲んだことから、赤線地区と呼ばれるようになった。
(特殊飲食店の許可を得ずして私娼を置く地域を青線というそうです)
そこで働く女性たちは表面上は特殊飲食店での女給として正業に就労しているということ。③ですね。あくまで建前ですよ。女給に転職して裏で本業を営んだのです。
ただ、これは店の主に拘束されるものではなく借金のカタでもなく、女性と客との間の自由交渉で成立し、部屋と寝具を借り、得た報酬の何割かを店の主に納める形態に変わったということ。
酌婦、公娼、私娼、そういう名前は廃され、従事婦、あるいは女給という表現で呼ばれるようになる。
柳川町、特に東部一帯はこうして赤線地区になり、戦争中に強制疎開された柳通も復活する。
何だか法の網を掻い潜って、何とか存続させようとしているのがわかりますね。

昭和22年に日本国憲法も発布され、酌婦たちも基本的人権を認められ自由の身となった。これは借金のカタというか、女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたもの。
だが基本的人権を得て酌婦は自由の身になったが生きる術を失ったともいえる。この発令も女性の意志による場合までは禁止できないようで、公娼廃止の裏で私娼は特殊飲食店としてこの時も存続した。
昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が始まり、川町の特殊飲食店という)指定地区すなわち赤線も復活した。
「市内柳川町は関東屈指の私娼婦街にして・・・」、最後の最盛期を迎えた。

そして昭和31年(1956年)5月に売春防止法が国会を通過する。
2年の有余期間を得て昭和33年(1958年)4月1日に施行され、およそ100年に渡る花柳街が幕を閉じることになる。
最後の夜はどのような光景だったのだろうか。それを知る手がかりをひとつ見つけたので紹介します。ただ、場所は柳川町ではありません。吉原です。
実際は1ヶ月早い2月28日をもって廃業になり街の灯が消えたのだが、その様子は、
「赤線最後の日だといって人が大勢押しかけるでもなく、ただ戸を閉め、灯りを消して、それで終わりでした」
「その夜、気分が昂ぶっていたせいか寝付けず外に出て見たら、街燈も要らないほど夜通し明るかった街なのにどこもかしこも真っ暗。いったいここは何処だろうと思ったほどでした」
「この街がこれからどうなっていくのか、今、真っ暗闇の中にじっとしている人たちはこれから先をどうしていくのか、思いを巡らして・・・」
高崎柳川町もおおかた同様の光景であったでしょう。

群馬県では条例により特殊浴場の許可を認めないそうで、赤線地区内のそういう店は軒並み廃業するか、バー、スナック、料亭や旅館、ラブホ、公衆浴場、アパート、下宿屋、ダンスホール、カフェに鞍替えしていく。バーやキャバレーは芸事の習得がなくても接客ができるし、坪数が少なくても営業が可能だからです。
その前に風俗営業法により18歳未満の女性は風俗営業への就業を禁止されており、半玉制という芸者養成のいわば見習い期間も禁止となり、芸者への枠が狭くなっていたのも影響した。
昭和の一時代、店同士の競争が激しくなって町が荒れ、「柳川町は怖い街」と風評された時代もあったそうだが、今回はその辺は割愛します。

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流石に群馬県下で最大の赤線地帯だったのだけあり、そういうのを知ってしまうと、その名残りが残っているなぁと思うね。
幅1mも無い細い路地にひしめき合う昔ながらの建物があるんですよ。
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2階立ての木造長屋はかつての妓楼だったのだろうか。個人もお住まいのようです。
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大正13年(1924年)に建てられた料亭、信田本店です。
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裏路地には酒場、スナックたちが密集している。クローズしてたり、壁が崩れていたり、物件誘致の看板が掛かった店も少なくない。
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青空のもとだけに廃墟感が目立つが、夜にはアヤしく光り、人の息吹が戻る店もあるのです。
赤線の延長線上の営業を、非合法にも続けている店もあるかも知れない。
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現在の柳川町は小さいバー、スナック、スタンド酒場、飲み屋さんが集まっている。
あまり人が歩いていない。衰退した要因は何といっても特殊浴場が営業できないこと。これが一番大きいそうです。
ご存じの人ってまず少ないと思いますが、こんな歌がある。
小雨に煙ったシンフォニーロード
濡れて柳川町 傘もない
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この歌詞には通町、矢島町、連雀町、あら町は出てきません。あくまで高崎の夜の代表町は柳川町なんです。でもその後、柳川町に限らず飲食店が拡散化した。
家主が代替わりして貸テナント業に転換した。外国人経営者による店も多くなった。
くるま社会による郊外の量販店、飲食店が増えたのも大きい。
駅前の再開発により、駅近くの通町、矢島町など、他の町で洒落た酒場が開店し評判が良いのもある。そこは駅から近く、若くして独立した店主が多く、何も高崎で飲むなら駅からやや遠い柳川町でなくともよくなったのですね。
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柳川町に限らず全国の赤線地区は消えていったのだが、そういうものは完全撲滅に至ったかどうか。
私は高崎に住んでた1年間はその筋の呼び込みさんには殆ど声を掛けられなかった。それは傍らにジャン妻を同伴していたからだが、その後、出張で出向いた夜には中央銀座アーケードでアヤし気な女性に声をかけられるよ。
驚くことに高崎駅前ロータリー、湊生の前でも時折り客引きの女性がいて声を掛けられる時がある。その辺りだけ暗いからです。
私は、「いや、間に合ってるから」ってお断りしている。何が間に合ってるのか突っ込まないでください。
こんな話を聞いたことがある。
住んでた頃だから平成24年のいつだったか。上州のウチのヤンキー娘、女性社員で4人いるうちの1人が私に白い目を向けて言うには、
「〇〇さん(私のこと)あの辺りで遊んでるの?」
「遊んでる?アーケード街で飲み食いしてるだけだよ」
「アタシ高校生の時に塾帰りで柳通りを走ってたらヘンな女性に声をかけられたんだよね」
「高校生の時に?」
「中学だったかな?」
「中学かよ。で、何て声をかけられたのさ?」
「どう?今夜は?って」
「・・・」
「そのまんまスーッと通り過ぎたけど」
中学でも高校でも最近の学生さんはガタイがいいが、お前はその頃からどんなカッコしてたんだよ。露出度が多い服でも着てたのかい。「どう?今夜は?」ってのは稼ぎの良し悪しを聞かれたに決まってるだろう。
あの辺りに住んでるのかと、住民税徴収切り替え申請時にウチの社員の住所を総ざらいチェックしたら、並榎町や台町在住の者はいたが、柳川町在住の者はいなかった。
この時はよく知らないクセにその子の戒めの為に言いました。
「あの辺りはあまり行かない方がいいぞ」
「行かないよ。アブないモン」
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私は最近、夜に柳川町の辺りを歩いてるが、殆どが小さいバー、スナック、居酒屋、料理店です。
客引きはない代わりに、誰かが隠れてこちらを窺っているようなアヤしさはあるよ。路地脇から何者かが出てきそうな雰囲気だね。
その町を知るにはその町の店に入るしかないのだが、正直、入ろうと思う店はなかった。人通りが少ないし、客筋が通町とは違うような気がする。
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客引きはアーケード内の方が多いね。柳川町に限らず公に看板を出せないと客引きが跋扈するのだが、彼らも生きる為に必死。
今の世は平成、「明るく住みよい街に」、「青少年の健全なる成長を願って・・・」、健全を願うスローガンのもと、各方面で浄化作戦が展開され、警察の手を借りて完全一掃されていく。
横浜でも2005年か7年に浄化作戦が展開され、京急黄金町辺りのそういう風景は消えていった。
だがそれは、人そのものが消えた風景でもあるのだ。
(この項終わり)
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柳川町のこと [隠れ郷土史]

以下は平成24年から今日まで、各方面からの聞きかじりや、恐縮ながら某史料を参考にまとめたものでございます。間違った記述があったらご容赦願います。
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江戸時代、宿場女郎や飯盛女の頃まで遡ります。
高崎藩は藩祖が赤備えの井伊家に始まり、酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家、大河内松平家、間部家を経て再度大河内松平家が維新まで続くのだが、いずれも譜代で占められている。
譜代だけに幕府要職に就く藩主もいたからお堅い藩政だった。高崎は中山道の要衝であり、江戸の北の守りの要でもあったので風紀取り締まりに熱心であったという。
風紀が乱れると近隣諸国から無宿者や素浪人が居着いて幕府から睨まれがち。江戸からそう遠くないので、何か不手際があればすぐさま幕閣に伝わるのを怖れたのもある。

高崎宿は中山道の宿駅なのに相撲や芝居の興行もダメで、宿場の飯盛女についても当然厳しく取り締まられたそうです。安永年間(1772年)に幕府が飯盛女(公娼)を旅籠1軒につき何人と許可したのに、高崎藩だけはあまり年を経ずして全面禁止してしまった。街道の要衝なのに、そういう必要悪?を厳しく取り締まられたので火の消えたような宿場だったとか。町民は厳しい取り締まりを緩めて欲しいと陳情するが、藩は許さなかった。

寛政12年(1800年)と文政12年(1829年)に大火が起きる。
この火事は本町から出火して城下1460軒を焼失。次いで私の住んでいた羅漢町からも出火し500軒余を焼失。またまた四ツ屋町から出火し500数十軒が焼失してしまう。上州に吹くからっ風に乗って延焼したに違いない。
高崎宿の旅籠経営者たちは、大火後の復興には飯盛女を置くことが必要と高崎藩に陳情する。
何とか許可を得たのだが、その後、どうもやり過ぎて上限を超えてしまったらしく、再許可の後わずか3年にしてまたまた飯盛女を置くのが禁止された。

文久二年(1862年)にも本町から出火している。それらの大火で絞め出された飯盛女たちを、ある有力者が城下の北郭、かつて馬場だった一帯があって湿地帯になっていたのだが、そこに集めて遊女屋の興りと相成った。その地が現在の柳川町東部一帯だと聞き及ぶ。
そこが柳川町と改名されたのは明治6年(1873年)3月のことです。柳の大木があって柳の川(城の濠)のある町。
夜の柳通りです。本町側の入口です。
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これが時代劇なら、夜鷹が立ってそうなシチュエーションですね。
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左に見える石造りの建物は、昨日の記事の店です。
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高崎藩は新政府側に付いて明治維新を迎えるが、廃藩置県、版籍奉還によって高崎藩は岩鼻県~群馬県になった。その間に柳川町東部にあった私娼街が公認されずに数を増やしていき、本町、九藏町、北通町、そしてうさぎCafeがゲストハウスで移転する椿町にも出現した。
いずれも公に許可を得た公娼ではなく許可を得ていない私娼の料理屋です。
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うさぎの移転先隣に暢神荘という老舗の料亭がありますが、もしかしたら昔は???
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失礼しました。やめときましょう。ではどういう名目で私娼を置いて営業していたのか。
あっちこっちに散らばるように増えて行く無認可の私娼宿(料理店)を放置しておく訳にもいかないので警察が取り締まることになる。従来からある料理店を甲種料理店として、酌婦(事実上の私娼)がいる料理店を乙種料理店として制度化した。いずれも酌婦を置いて営業するのには警察の許可が必要だったのです。
(保健所の管轄になるのは昭和の戦後からです。)
あからさまに娼屋の看板を出していたのではなく、実際は私娼がいても許認可上はあくまで料亭(料理店)ということなのですよ。乙種料理店で働く女性は芸妓さんだが、酌婦であり私娼であるということ。

私娼を置く店の数は増えていった。届出上の数字は時代によって違っており、集計がめんどくさいから触れませんが、数が増えたことで群馬県令によって取締規制が設けられ、乙種料理店の娼妓は1週間に1度の検梅が義務付けられた。
その担当だった病院は現在でもあります。〇貫病院です。
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明治26年(1893年)に群馬県は公娼廃止制度を打ちだすのですが、その前に、今年の大河で大沢たかおさんが演じている初代県令楫取素彦が、明治9年に県下に散らばっていた遊郭を、中山道沿いの深谷、本庄、玉村、新町、倉賀野、安中、妙義、伊香保他、13箇所に集めて公娼を許可した。ちょっと外れますが、富岡製糸場の近くにもそういう一帯があったのです。
安中に遊郭とは意外な気もする。
例の新島襄さんは日本キリスト教会の指導者なので、新島の友人で県会議員だった湯浅治郎という人が公娼廃止運動を起こす。安中の遊郭は街中の何処かに散らばっていて夜毎やかましかったらしいのだ。

公娼廃止には中山道沿いの倉賀野、新町、玉村、板鼻、廃娼運動の口火を切った安中や隣の松井田辺りから存続運動が起きて、在娼する為に奔走する者あり、存続の為の建議案が出されたり、知事や県会議員への働きかけあり、採決の段になって退出者が続出して定数を欠いたり、すったもんだで遅れるのだが、明治30年(1897年)の県会で廃止が決定する。
これにも大沢たかおさん演じる楫取素彦さんが大いに関わっているそうだが、大河ではそこまで描かれないだろうな。
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ただ、あくまで公娼廃止ですよ。ここがミソ。
私娼は廃止対象外で存続するんです。

群馬県は全国に先駆けて唯一の公娼廃止を打ち出したが、実際は埼玉県が明治8年に廃娼を布告している。でも発令後すぐに本庄と深谷の遊郭が埼玉県の管轄になってしまい、埼玉県は廃娼県ではなくなってしまった経緯があるそうです。
だがオモシロいことに、明治30年(1897年)の県会で廃止が決定して、その後すぐに公娼復活運動が2回起きている。
「そういうのは必要だろ」という人たちが必ずいるのですね。県庁を前橋に持ってっちゃった楫取素彦知事の後に赴任した2人の知事が公娼存続派だったのだ。そのひとり、明治31年7月末に着任した草刈親明という知事は廃娼派が強い中、独断で公娼復活を発令する。
だがその規模がデカかった。草刈知事が発令した公娼場所指定は、前橋市、高崎市、甘楽郡、桐生、館林、沼田の7か所で、いずれも坪数7千から1万2千という大規模なものだった。
これには世論が沸騰したそうで、草刈知事は同年11月末に免官されて取り消しになった。

もう2回めは明治39年に起きた。
明治39年10月、高崎市会が「遊郭ノ設置ノ儀に付具申書」というのが当時の有田義資という知事に提出された。これは高崎市会が遊郭設置の建議を可決して県に提出したもの。
その理由がふるっている。「高崎には陸軍連隊があり、花柳病が兵営の壮丁を冒して衛生上よくないので・・・」だから遊郭を設置して取り締まるというもの。
軍隊の為に遊郭を設置せよと言ってるに等しいが、風紀上、衛星上よくないのに何故そういうのを設置するのか。私でも首を傾げる。
実はこれには裏があって、何者かわからないが、一部の市の土地を安い値で購入し、その地を遊郭として高値で売り、その差額を市費の欠損に充てるとというもの。軍の要望だけではないらしいのだ。
上毛新聞がこの裏を叩いたらしいです。この復活運動は結局は実現せず、群馬県は全国に先駆けて唯一の公娼廃止県となる。

だが抜け道があった。
前述のように私娼は存続するのですよ。柳川町東部の乙種飲食店は公娼扱いではなく、公式では酌婦という名の料理屋なので、私娼は廃止の対象外だったの。
それだったら廃業した公娼の女性たちだって喰う為に私娼街に流れていかざるを得ない。公と私の違いだけで内容は同じなんだから、だったら私娼に鞍替えしちゃえってことになる。皮肉にも乙種料理店と私娼がどんどん増えて盛んになっていく。
公的には全国初の廃娼県(公娼廃止県)となったが、私娼がいるから廃娼県ではないような気がしますね。

廃娼県なのに何故、柳川町が北関東屈指の花柳街で有名になったのだろうか。
まず明治5年(1872年)、徴兵制が布告され、翌明治6年(1873年)から明治8年(1875年)2月に旧高崎城内に陸軍が置かれた。
兵隊さんは何人いたのか。おそらく2000人近くいたと思うが、この兵隊さんが柳川町の花柳街を華やかにしていくのです。
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高崎連隊の兵隊さんは柳川町と堀ひとつ隔てた兵舎にいて、将校は土曜日曜に外出外泊(将校のみ)する。将校たちは現在の柳通りを堂々馬で闊歩したという。
高崎には鉄道も敷設され、鉄道に乗ってやってきた将校や各界の政界や業界の有力者たちも遊んだに決まってる。下世話な話で恐縮だが、「朝から軍人さんが押しかけて」、「日曜日は十五連隊の兵隊さんばかり」、稼いだものの「身体がもたないよぉ」・・・
それくらい繁盛した。切っても切れない関係になっていく。

なのでこんな話がある。
明治27年(1894年)、日清戦争時に高崎第十五連隊が出征する為、海軍港広島に集まった時のことです。兵士の花柳病検査で感染者が多数見つかり、全国唯一の廃娼県の筈が面目丸つぶれになったというから笑えるよな。
感染者は上官や軍医から、「貴様は何処で感染したのか?」訊かれたに決まってる。そこで高崎十五連隊のお膝元出入りの街、柳川町の名がまことしやかに囁かれ、口コミで伝わっていったに違いない。

大正に入っても花柳病患者が増加していき、どういう衛生的見解からかわからないが、市中にバラけて点在している乙種料理店を一か所に纏めようと、集約しようとした。北通町、九蔵町、椿町の乙種料理店が柳川町に移転、花街を形作っていく。
柳川町の花柳街は、そこにもともとあったところへ警察の指導により更に集められたのです。あちこちに点在しているより1箇所に纏まってた方が取り締り易いのでしょう。そこには〇貫病院他、診療所があって検査、検疫を義務付けた。
比較対象にはならないかも知れないが、東京都港区では路上喫煙が禁止された代わりに、喫煙場所をあちこちに設けてそこで纏めて喫煙させてます。凄い煙ですよ。たき火みたいです。柳川町に集約したのはそれと同じような意味合いではないかなぁ。
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柳川町の全盛期は日露戦争勝利後の明治38年(1905年)か、第一次世界大戦が始まった大正3年(1914年)か、朝鮮戦争の頃ではないだろうか。
昭和4年(1929年)、柳川町東部には娼家55軒で300人の私娼を抱えていたというから結構な数です。

そして大戦の影が忍び寄ってくる。
日本は昭和6年(1931年)の満州事変からは第二次世界大戦へ突入するのだが、国家総動員法が発令されて経済が統制され軍需最優先になる。食料他、物資全ては配給制になった。
酒が禁止される。食料もそう。タバコだって1日数本である。これじゃぁ商売にならない。柳川町で働く女性達も軍需工場へ動員されてモンペ姿で女工さんにならざるを得なかった。
昭和18年(1943年頃)には柳川町の料理屋は殆どが軒並み休業、廃業状態になった。ただ、ごく一部の将校クラスのお座敷に芸妓さんが出たことはあるらしいが、時勢柄、三味線弾いたり歌ったり踊ったりするわけにもいかなかったそうである。
芸妓さんの中には馴染だった兵隊さんが戦死したのを知り悲しんだ逸話もありました。内地から大陸に渡る慰問団に加わった芸妓さんもいたとか。
昭和20年に入ってから柳通りに面した家屋が防空法の下に取り壊されて空地になってしまったという記載もあった。灯火管制により夜は真っ暗になった。
終戦前日の昭和20年8月14日に高崎も空襲に見舞われるのだが、柳川町は焼失を免れ翌15日に終戦になる。

朝の柳通りです。
朝帰りの将校さんがこの道をフラフラ歩いたのだろうか。
朝の棚木通り.jpg
では柳川町はいつ赤線指定になったのだろうか。
どうも赤線指定というのは、いついつを以て赤線に指定しましたと触れるものではないようなのだ。
(この項続く)
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道に迷って見つけた赤堀城 [隠れ郷土史]

ここは何処だ?どの辺りだ?
北関東自動車道伊勢崎IC方面へはどうやって行けばいいんだ?
私のボロくて古い社用車にはナビが付いていない。赤城山を左手に見て前橋から伊勢崎に向かってるのが、途中で道に迷ってしまった。
公用で前橋市街を抜けて群馬運輸局に行き、その帰途、近くの県道3号線から76号線に入り何処かで南下しようとした。後で思えばすぐ上武道路(17号線)に入るべきだったのだが、途中にあった表示「駒形IC方面」を見て、駒形ではまだ伊勢崎に遠いなと判断し、そのまま真っ直ぐに来てしまったらしい。
そしたらある交差点近くで自然渋滞にハマった。ここは西久保という五叉路で、地元では渋滞の名所らしいのを後で知ったが、そこを右折すれば伊勢崎IC方面へ出れるのがわかった。私は伊勢崎ICで北関東自動車道に入るのではなく、そこから市街を突っ切って坂東大橋を渡り、埼玉の本庄市方面に向かう。
日頃、自分は上州で道に迷うなんてありえないと思ってた自信が崩壊していく。
誰か本社の人間を同乗させると、大抵、「何処を走ってるのか全然わからないんですけど・・・」と言われる。「ナビなくても平気なんですか?」とも言われるが、私は自分が今現在居る位置から上州三山の赤城山、榛名山、妙義山へ向かって、アタマの中で直線を引くと、自分がどの辺りにいるか三角点感覚でだいたいわかるんです。
だけどそれは上州三山が見えての話。左手に見えた赤城山が見えなくなってしまったのと、平野部、伊勢崎、太田、館林辺りで迷うことがある。

赤堀今井町というところに来たら。。。
何だこれは?.jpg
何かあるぞ?
ポール看板が立っていた。そこまで30mとある。だけど道が狭いぞ。
細い道.jpg
何処かそこらで駐車して見に行こうとしたが、停める場所がないのだ。
しばらくその辺りの細い路地をウロついたが、なかなか目的地にたどり着けないのだ。どこもドン詰まりで地元の住宅の私有地に入り込んでしまうのである。
県道側に砂利の空地があった。ここも私有地らしいが、短い時間だけと割り切ってそこに停めさせて貰った。
県道から細い道を入ると、その先に何か見えるぞ。
何かあるぞ.jpg
正面の奥と右側にデカい土塁がそびえ立っていた。脇に古い五輪塔と説明板が建っている。
高さ4mはあるだろう土塁は正面の畑を四角く囲むようになっている。
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虎口だろうか?.jpg
西側を望む.jpg
畑を囲んでる.jpg
北側の堀.jpg
北側には幅10mほどの堀の跡があった。ここも耕作地になっているようで、その先の北側、住宅が建っている辺りも一段高くなっていて、2つの郭が並列して配置されている。
後で地図と航空写真を見たら、東西を2つの川に挟まれていた。中州を取り込んだようである。
航空写真.jpg
地図.jpg
木が「土塁を崩してなるか」と頑張って根を張っているぞ。
土塁に木の根っこ.jpg
誰がいたのか。
私も詳しくない。南北朝期に赤堀直秀という人が作った。この辺りの土豪の多くは藤原秀郷の末裔でございと言うのだが、赤堀さんはその系統らしい。それほど大勢力ではない土豪で、生き延びる為に、古河公方、由良氏、上杉氏の間を従属していた。同じ伊勢崎市内、前に載せた名和さん・・・失礼、那波氏とは対立構図だったようです。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-17
解説板.jpg
一面は畑です。あきらかに人様の所有地。そこらを走り回ったトラクターか軽トラのワダチがあったが、それはこの土地の所有者のものでしょう。
所有者のホンネは、土塁を崩して耕作地の面積を広げたいのではないかなぁ。でも広げようにも伊勢崎市教育委員会が指定したので崩すに崩せないのでしょう。
この時はまだ種付はされてないのだろうか。土の臭いがプンプンする。雨でも降ったらぬかるみになるは必定で、夏場には草ぼうぼうになって草いきれがするだろう。
春の陽気で、雲ひとつない青空、私の足元に土埃が舞っている。
デカい土塁が見える.jpg
この地へ乗用車で入るのは難しい。止めといた方がいい。あくまでもここは私有地の畑であるから。
この後、何とか予定時刻までに武州へ渡った。
私は道に迷ったけど、迷ったが幸い?そこに何があるか気になるタチなのです。
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鼻高の陣城 [隠れ郷土史]

高崎市から安中バイパス18号線で碓氷方面へ走らせると、観音山から続く左手の丘陵の中腹に、何やら洋風のラブホらしき建物が見えます。
丘陵にあるもの.jpg
デュオ1.jpg
Chatea DUOといいます。
24時間営業ラーメン山岡屋チェーン、高崎西店の駐車場から撮影しました。ラーメン屋のオバちゃんは、私が住んでた平成24年からいた人でしたね。
久々です.jpg薄味にしました.jpg
「Chateauはお城。DUOは2人。お二人のためのお城で夜景を見ながら寛ぎのひとときを。。。」
何を言ってんだか。でも上質のラブホで売ってるらしいね。らしいというのは私は利用したことが無いからですが。
夜にはアヤし気に光ります。何しろそこだけ目立つので有名です。
ラブホ.jpg
何でこんなのをいきなり取り上げたか。
別にこのラブホの記事ではない。ラブホの右隣にあるこんもりした森についてです。
デュオの隣の森.jpg
この辺りの地名は鼻高といいます。何でそんな名前なのかわからない。マトモな人は達磨寺の少林寺や、一年を通して色とりどりの花が咲く鼻高展望花の丘へ行かれるだろうけど、私は行ったことないのだ。
さて、ラブホのすぐ西側に福泉寺という寺があって、その一帯は甲斐の武田信玄率いる甲斐軍団が上州を侵略しに来て陣取った場所なんです。本陣、陣城といっていい。
福泉寺.jpg
陣城へ行くには福泉寺が目印ですが、碓氷川を渡って丘陵の北麓にある裏道を走ります。天満宮の信号機のある交差点を丘陵方面へ上るんです。
山岡屋から見ると森にしか見えないが、行ってみると住宅地でしたね。
途中、公民館何とかというバス停(ぐるりんか?)に来たら、左の脇道に入って福泉寺(陣城)はすぐ目の前です。福泉寺へ逸れずにそのまま道なりに上がっていくと、旅人の惑星ショウさんがよく花を愛でて撮影される鼻高公園に通じる筈です。
更に丘陵の東へ向かう道は冒頭のChatea DUOへ至る道らしい。若い男女でそっち方面へ走り去るくるまを2台確認しました。
これがお寺?.jpg
福泉寺に行ってみると、そこには確かに石造りの寺の門柱はあるが寺社の建物が無いようです。
公民館、集会場のような建物だった。西側に墓地があります。墓地には初老の男性が掃除をしていたが、ご住職のカッコではなく、業者か管理人さんのような人でした。
寺?公民館の庭には大小の供養塔がたくさんあって、最も大きい供養塔には文字が剥げて判読に苦しむ説明板が立っていた。上杉武田両軍戦没者供養塔とあった。
いわれ.jpg
判読し難いのですが、概略こうあります。
当福泉寺の辺りは、戦国時代の砦の跡で、土地の人々は寺の周辺を乱闘場と語り伝えている。
上杉方と武田軍の合戦場で、今でも当時の人骨が埋れている。
当寺は、永禄年間武田軍の六回に及ぶ箕輪城攻撃の際、武田信玄公がその本陣に使用した所である。
今や戦国の世を隔たること既に四百十余年。戦国の世を連想する人も年と共に減少し、有芒無名の将兵の霊も無縁となり、供養する者もなく地縛の霊となって追善回向を待ち望んでいる。。。(以下は省略します)
供養塔1.jpg
供養塔がたくさん.jpg土塁と供養塔.jpg
武田信玄の本陣だった、上杉武田両軍がここで戦った、とあるが、越後上杉氏(景虎、謙信)ではなく、凋落していた関東管領上杉憲政のことかも知れない。箕輪城攻めとあるので上杉方というのは長野業政を中心とした上州一揆衆ではないか。
高崎市史にはこの地について、長野勢と武田勢との間で若田原において激戦が行われ、この本陣を長野勢が夜襲したという記述があった。
今年の2月に亡くなられた火坂雅志さんの著書に「業政駆ける」というのがあって、晩年の長野業政が主人公。ここでも後半に長野勢が武田軍の本陣を夜襲した場面はあった。
だが、福泉寺の説明板には六度の箕輪城攻めとあるので、若田原で激戦になった後で武田軍が箕輪城まで攻め入って陥落させたのなら、この時既に長野業政は亡くなって跡目を僅か17歳の業盛が継いでいた可能性が高い。
土塁?.jpg
竹藪.jpg
史料から.jpg
福泉寺の陣城の北斜面は崖になっていますが、現在は竹藪で視界を遮られ、北方の眺望は全く見えないです。もし今の世に信玄が現れても若田原は見えないので、鼻高の陣城から東にある洋風のお城、Chatea DUOに入城するしかない。
バカな想像はさておき、信玄がいた?本陣だった?と囁かれる場所がもうひとつあります。上野國一社八幡宮です。
社殿1.jpg
裏手に長大な堀の跡があります。ここにも信玄や甲州軍がいた?
もしかしたら寺社が自衛の為に独自に造ったものかも知れないが。
大堀3.jpg
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-13
信玄がウロついた地図.jpg
では激戦になった若田原という地名は何処か。
若田という地名は現在でもあります。ここから西北の八幡霊園のある辺りを若田町といいます。若田原は八幡霊園の八幡町、隣接してある若田上水場の若田の表示があるので、その一帯と推定されます。
若田上水場.jpg
更にその東に居酒屋和が家のある剣崎町という町があって、名前からして剣戟を交わした一帯、すなわち古戦場だったのではないだろうか。

私が高崎市に住んでた平成24年、里見橋台(明治の高崎市水道の橋台)を里見軌道未成線と勘違いして八幡当たりをウロウロ散策していた時に発見したのですが、現在、高崎市水道記念館のある若田浄水場から、国道406号線(くだもの街道)の下大島町に下るS字カーヴがあって、そこの霊園側(浄水場側)にくるまの入れないつづら折りの歩道がある。そこから里見川に下りる手前に信玄石というのが鎮座している。
木々に隠れて.jpg
先日、久々に行ってみた。
読めないぞ1.jpg
殆ど読めないぞ!!
誰か説明してくれ!!
読めないぞ2.jpg
信玄石とあるから、信玄が腰かけた石?
ここに信玄が腰かけたのなら、信玄は箕郷町にある箕輪城を睨んだ筈である。秋間方面から那波無理之助率いる甲州雇われ軍が北上して若田原に連なる丘陵に点在する里見、雉郷の小塞を抜き、クリーンセンターの先にある高浜を陥落させている。室田の鷹留城と箕郷の箕輪城を分断し、悠々と最後の料理にかかった。

信玄石の近くにこんなのがあった。
何なんだろねこれは。時折、イノシシが迷い込むのだろうか。
イノ缶1.jpgイノ缶2.jpg
ボケてますが、若田地区から鼻高を振り返ったところ。
校舎の向こうにラブホが見えます。鼻高本陣はその隣です。6回もやって来たくらいだから、信玄はよほど豊穣な上州が欲しかったんだろうね。
若田方面からラブホを望む.jpg
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葛西城と近くのカツ丼 [隠れ郷土史]

私のグルメ記事、ラーメン記事、歴ネタ(そこに何があったか?)の類は、公用で外出途中に縁あって導かれることが多いです。
葛飾区の行政に行った時のこと。私が群馬に転勤する前、その行政は京成線金町駅から徒歩10分弱の水戸街道沿いにあった。
群馬から戻ったら、その行政は金町から離れ、中川を渡って西、亀有~青戸(青砥)の南北のド真ん中にキレイな箱物行政になって移転していた。
駅から遠くなった。歩けない距離ではないが結構遠い。先日は京成線青砥駅からトボトボ歩いた。晴れてたが寒波の影響で寒く、時折吹き付ける北風がアタマに突き刺さるように痛く感じた。
申請、届出を済ませ、環七通りに出て小岩方面のバスを拾おうとした時、ある公園に迷い込んだ。
解説版を読む.jpg
葛西城???
知らないです。ここは都内葛飾区の住宅密集地で平坦地、環七に面しており、自動車がバンバン走る幹線道路でもある。そんなものがあった痕跡は皆無の場所です。
その辺り1.jpg
その辺り2.jpg
公園になっています.jpg
城域の中心部を南北に環七通りがブチ抜いていて、東西に分断されて2つの公園があった。そこに簡単な解説版が立っていて、過去、昭和47年(1972年)、環七道路建設に伴う際に調査が行われ、いろいろ出て来たそうです。
地名のとおり、ここには葛西氏がいたという。
葛西氏?
何処かで聞いたような。
NHKのBSプレミアムで独眼竜政宗が放映された際、奥州仕置で減封された政宗が、改易された葛西氏と大崎氏の遺臣を煽って葛西大崎一揆をおこさせた一件が描かれていた。それに関係が無くもないようである。
奥州葛西氏の最後の当主は晴信という人だが、隣国の大崎氏と近隣戦闘に明け暮れたせいで小田原に参陣できずに改易された。
解説版があるぞ.jpg
葛西城の縄張り.jpg
葛西氏初代の葛西清重という人が下総国葛西御厨、すなわちここ葛西城の葛飾区、江戸川区、墨田区を所領としていたのを、奥州藤原氏が滅んだ際に陸奥国に所領を得てそこに探題として赴任した。
なので本家がずーっとここ葛飾区にいたのではないらしい。
この地は後北条氏が、扇谷上杉氏、関東公方、里見氏らとバタバタ戦争をしていた時代の最前線だったらしいのだ。もし小田原北条氏が大河になればその過程で取り上げられるかも知れない。
公園のある辺りは標高が低く、1m~2mくらいしかない。中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城だったらしく、水城、浮いた平城だったのではないか。
イメージからしたらこんな感じです。(のぼうの城、忍城)
イメージ.jpg
天正18年(1590年)の小田原征伐の時、三河の戸田忠次らによって攻められ落城したが、この時に葛西氏の傍流がここにいたかどうか。
家康が江戸に入府したら、この地に青戸御殿、葛西御殿ともと呼ばれる館、陣屋が建てられ、3代家光の時代まで鷹狩の宿舎として利用された。得られた獲物を焼いて喰らいながら酒でも酌み交わしたのでしょう。村の娘が伽に侍ったかもしれない。
でも明暦3年(1657年)、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材に持って行かれた。家綱、綱吉が鷹狩を好んだという逸話は聞かないので、無用の建物になっていたのだろうか。
発掘されたそうです.jpg
公園や環七の地下には当時の濠とかが埋まっているそうだが、それらは永遠に陽の目を見ることはない。そういうのを惜しむ声もあるようだが私はあまり気にしない。公園化はまだいい方です。そこにかつてあったものが後世に伝わるよう、案内版でも立っていればいいのです。
複合遺跡だったそうです.jpg
見学し終わったら14時近くになっている。
昼が未だなのです。だけどこの辺り、環七沿いには飲食店が無いのだ。14時過ぎたらランチ難民になってしまう。
公園からほど近いところに中川に面して有名な大病院があった。病院内にはCafeがあったが、患者さんやそのご家族でいっぱいいっぱい。
まてよ?病院近くにある飲食店は割と早い時間帯から開けて通しで営業する店もある。その代わり夜は早く閉める。通院患者や見舞いの家族がターゲットなのです。
そば屋さん.jpg
京成青砥駅の方に歩いた辺りにあるお蕎麦屋さんがあって、その辺にあるようなものしか出さない店だが、ここでこんなものを喰らった。
セット.jpg
最初、「カツ丼」と一声オーダーして、WCに行った後でTVを見たら、TVにはセットものが表示されていた。
「やっぱのもりそばとのセットにするワ」
そしたら店のオバちゃんが厨房に向かって、店主(息子さんか?)に甲高い素っ頓狂な声を掛けたものである。
「ちょっとそれ、カツ丼待って。セットだって」
待って???
ウエイト???
何故セットで待つ必要があるんだ?そのまま続けりゃいいじゃねぇかと思ったらさにあらず。どうもカツ丼単品と比べてセットのカツ丼はランクが下がるようですね。カツの質か枚数かが気持ち、減るんでしょうな。
案の定。。。
カツ4枚.jpg
このカツ丼は単品のカツ丼ではあるまい。
明らかに丼が小さいしカツが4枚しかないぞ。慌てて声かけて訂正して、セット用に取り換えたんだろ。
でも1人前のカツ丼を見て確認したわけじゃない。個人経営の店なので店名は伏せます。
「だったら最初っからカツ丼ともりそばって頼んだらいいじゃない」(ジャン妻)
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大河の温度差 [隠れ郷土史]

右端が県令さん.jpg
私はこのドラマは観てません。昨年末、駄作だった官兵衛が終わった時、
「来年は?」
「観ないよ。長州藩の青春ものだろ?」
「・・・」
「さ来年(真田)は観るけど・・・」
そのつもりで名胡桃、岩櫃にも行きましたからね。さて、県庁に行く途中、寂しいながらも、前橋駅前けやき通りに大河をアピールする幟があった。
幟.jpg
はて?
高崎市にはこの幟は立ってないな。
県庁、私が良く行くのは南の13階、障害〇〇課です。新規申請の事前相談事があってね。
けやき通り.jpg
現在、前橋市大手町一丁目1番1号、群馬県庁昭和庁舎の2階で大河館がOPENされている。
「ぐんま花燃初代県令・素彦と文」です。会館期間は平成27年1月10日~来年の平成28年1月31日まで。休館日は年間を通して殆どないようです。
内容は番組のPRに決まっている。私は入っていませんが、キャスト紹介、衣装展示、シアター、セットの再現、そして初代群馬県令(県知事のようなもの)、大沢たかおさん演じる楫取素彦(カトリモトヒコ)の紹介であろうかと。
昭和庁舎2階.jpg
女性職員に、「会場は2階でございます」と誘われ、上がってみたものの、「観てもなぁ」・・・躊躇してしまった。
上がったら男性職員さんが、「どうぞ。ご覧ください」
既に時刻は2時を過ぎていたが昼がまだだったの、その後も時間に押されていたので、やっぱり止いた。
「まだ業務中なのと、ちょっと下で待ち合わせをしてるんで、用が済んだら・・・」
「さようございますか。お連れ様と是非いらしてください」
とても丁寧な応対をされたので悪い気がした。だが、見ないまでもつい言ってしまったのだ。
「この大河、幟やポスターは前橋市ではよく見かけるけど、高崎市では1本も見た事ないな」
ホントはどっかにあるのかも知れないよ。職員さんは、「えっ??」って固まった。
「何で前橋ではアピールして高崎ではアピールしないのかな」
「ええっと・・・」
「県庁をこっちに持ってかれちゃったからかな」
「いやぁ。どうなんでしょうか(笑)」
職員さんは笑ってごまかすのに懸命で、ハッキリした答えは返ってこなかった。
高崎市では大河のポスター、幟は見たことない。ここへ来る前、高崎市の分庁舎にも立ち寄ったが、見なかった気がする。高崎市にもどっかにあるのかな。私が気付かなかっただけかも知れないが。
私は後で来るフリをしてその場を立ち去った。

前BlogⅡで、私は高崎市と前橋市との関係について書いている。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-06-18
初代県令楫取素彦さんについてはまぁここに書いた通りです。

そういえば、週間ポスト2015年2月20日号に、「NHK大河花燃ゆで群馬県民が長州許さん」なんて凄いタイトルの記事があったね。
群馬県民が山口県に含むところがあるような見出しですが、でも群馬県民全部が長州にどうこうは言ってないと思うな。
大沢たかをさん演じる群馬初代県令の楫取素彦は生粋の長州人なのです。高崎市が前橋市に含むところの県庁移転に大いに絡んでる人です。
それ以前に高崎藩は新政府軍からの高圧的な態度に屈服せざるを得なかった。もともとは譜代藩ですからね。否応なく軍資金を供給させられ、小栗上野介を有無言わさず処刑されたんだから。
ポストは前も群馬県と茨城県を煽るような記事を出してたね。まぁ週刊誌は大衆を煽って販売部数を稼ぐのは解るよ。

ただ、気になるのは、ドラマ中で富岡製糸場が取り上げられるだろうか。
世界遺産へ.jpg
(写真は認定前のものです。)

1881(明治14年)に明治維新政府太政官は全国の官営工場の払い下げ案を提示。これは西南戦争後の財政難らしいが、払い下げ候補には富岡製糸場も含まれた。
だが楫取素彦は反対している。富岡製糸場の規模では民間資本が受け入れられないことや、閉場になったら諸外国に対して恥ずかしいという理由で官営にて存続する旨の請願書を出した。県令の立場で官営存続に関わったのです。
(富岡製糸場の3代社長だったと思うが、元前橋藩士の速水堅曹という人がいて製糸場のプロ。この人が深く関わっているのだがここでは省略する。
製糸場は富岡より2年前、前橋の方が先だった。)
県庁.jpg
大河で楫取素彦と富岡製糸場は取り上げても県庁移転問題には触れないかも知れない。
私は両市を煽るつもりはないですよ。ただ、何かのきっかけで尾を引いている部分が表面に出る。大河に関しても温度差が感じられます。
ジャン妻は呆れた。
「県庁でそんな余計な質問をしたの?」
「うん・・・」
大河を見ない、館内にも入らないでおいて、職員さんに答えられない質問をして悪かった気がしないでもないが、あれくらいなら別に言ってもいいよね。
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倉賀野城 [隠れ郷土史]

飲み食い記事が続いたので、ちょいと歴ネタを。

平成24年に初めて上州に降り立った時は新幹線ではなく湘南新宿ライン1本で来ました。
2時間半座りっ放しで籠原駅を過ぎて、いい加減ケツや腰が痛くなった頃、あとひと駅で高崎、もう少しの辛抱だ~と気付かされた駅が倉賀野駅だった。目的地まであと一つの駅というのは乗り過ごさないよう意識して覚えているものなのです。
西から架線のない単線の鉄路が寄り添って来て本線に接続、後でそれが八高線という渋谷駅前に鎮座している犬コロのような名前の路線なのを知った。
まさか後年、その八高線を全線乗るハメになるとは思わなんだけどな。
八高線で高崎へ.jpg
高崎まであとひとつの駅、倉賀野駅ですが。。。
くらがの?
何処かで聞いたような。
私が記憶を手繰り寄せるのは大抵が何かマニアックなネタ、知らなくても日常生活に全く支障ないネタなのですが。
倉賀野駅.jpg
倉賀野駅近郊では、群馬の森周辺にある火薬製造所の遺構や、それらを運んだ軽便鉄道の跡地を散策したものですが、それらは駅東口にあった。
今回の散策は西口へ。駅前の一本道を西南に流れる烏川に向かって歩きます。途中の小学校にこの辺りの案内版がわかりやすく明記されている。
城跡の河岸段丘から.jpg
公演に出た。
川はすぐ側です。
倉賀野氏がいたところです。
倉賀野氏はもとからの上州の土豪ではなく武州秩父辺りからの流れらしいですが、その辺りの詳細については割愛します。
この辺りは武州と上州の境界線でもある。
細長い公園にデカい碑があるだけですが、これでいいのです。
倉賀野城跡1.jpg
倉賀野城跡3.jpg
烏川3.jpg
この地にいた最後の主、倉賀野尚行という人が脇役で出たドラマがあります。ドラマでは尚行→直行になっていた。演じたのは大門正明さん。彼のBlogのTopにも倉賀野直行のフォトが貼り付けてあったからご本人も満更でもなかったのではないか。
倉賀野尚行(直行)ともいうこの人は小田原北条や武田に押されて衰退していく山内上杉家最後の当主(関東に常在したという意味で長尾景虎とは違います。)上杉憲政の重臣?だった人。
管領様1.jpg
上杉憲政率いる反北条連合軍が河越城を包囲した場面で初回の登場をしています。
河越城内に三千、今川と和睦してやって来た小田原からの援軍は八千、ダレてるとはいえ攻囲軍はウソかホントか八万!!これだけ数の差が合って何ですぐ攻めかからないのか。こちらの数に恐れての降伏開城を待っていたのだろうか。
待っているだけでは退屈でしょうがない。お決まりの遊興癖も描かれる。。
長野と妻鹿方.jpg大門さん1.jpg
攻囲軍の陣中では、上席に箕輪城を拠点とする長野業政(小市慢太郎さん)と、倉賀野城の倉賀野直明(大門正明さん)が着座していた。
長野業政は10人以上もいた自分の娘たちを四方に嫁がせて同盟を結んだ上州の盟主だが、小市慢太郎さんは実直そうに見えるけど、失礼ながらそんな精力絶倫男には見えない。その長野は上杉憲政(演:市川左團次さん)にウルサく諫言する。北条が今川と和睦して駿河の河東から引いたのは、敵を我ら管領軍のみに絞ったのだから攻めかかって一気に勝負をつけるべきだと。
だが憲政は長野の口から小田原の氏康を北条呼ばわりするのが気に入らない。憲政は名族のプライドが高く、小田原北条氏の祖、早雲のアヤしい出自(伊勢出身)をアゲツらって作戦とは全く関係ない反論をする。「北条ではない、伊勢だ」と言い張るんです。
「さような名跡に拘る時ではありませぬ」という長野に、「こだわる時じゃ」と癇癪を食らわすので、見かねた倉賀野直行は初めて口を出して仲立ちする。
「長野殿、敵は策を講じようにも城へ使者を送ることもできぬ。このまま城を捨てて小田原へ退くか、討ち死に覚悟で我らに攻めかかるか。我らが戦う時はその時でよかろ」
めんどくさそうに言ってるようにも見えるが上杉憲政はニンマリする。我が意を得たりと思ったのでしょう。

倉賀野自身もこのすぐ後で、「陣中の何処かに北条の忍び・・・」と失言をしている。憲政は自分の肩を持った倉賀野には、「倉賀野、お・だ・わ・ら・じゃ」とニヤリと諭すんです。
でも原作では倉賀野にも「伊勢じゃ」と癇癖を起こしてた。この辺りは演出の違いでしょう。
大門さんと遊女.jpg
夜、陣中でも遊興する憲政に混じって倉賀野も杯をグイグイアオるのだが、この辺りは憲政の腰巾着、太鼓持ちとまで言わないけど、おもねったキャラに描かれていた。
某史料には河越夜戦で倉賀野行政という人が戦死し、直行はその後で倉賀野城主になっている。この辺りの事情はわからない。

大門さん演じる倉賀野直行の再登場は、凋落した上杉憲政が上州平井城の一画にいる場面で近侍していた。既に憲政の管領の権威はなくなり周囲に従う将星の顔ぶれも僅かになっている。随従する僅かな家臣のひとりに倉賀野直行がいた。
そこへ長野業政が別れの挨拶がてら、越後へお逃げください、でも自分は上州に残ると。この時、既に長野は憲政を見限っていたのかも知れないが、憲政を倉賀野直行に託して箕輪へ去っていく。倉賀野もさすがに初回登場時より周囲の状況が悪化しているので厳しいカオをしている。
大門さん2.jpg
越後へ随行したのならこの時点で倉賀野城は北条の手中に落ちていたのであろうか。一説によると倉賀野直行は永禄3年(1560年)と永禄6年(1563年)に単独で2回も北条軍、武田軍を撃退しているそうです。彼が越後に去ったのは憲政と同行したのではなく、金井秀景という家臣が武田に内応して永禄8年(1565年)に落城、この時に倉賀野尚行は憲政のいる越後へ逃れたとも。
裏切った金井秀景はちゃっかり倉賀野氏を名乗っているそうです。
大門さん3.jpg
登場3回め。上杉憲政が越後に逃れて落ち着いた頃にまた遊興癖を出し、そこへGackt長尾景虎と西岡徳馬の直江実綱がやって来たのでそれを取次ぐ場面だった。
この時もう憲政の家臣は彼ひとりだったのだろうか。憲政は酒宴の最中だったので、取り次いた倉賀野も取り次がれた憲政もバツが悪そうだった。

最後の4回めは、上杉憲政がGucktに管領職と上杉家の名跡を譲る場面で近侍していた。
4回目の登場.jpg
結果として倉賀野直行は最後まで上杉家を見捨てず米沢まで付いていったらしい。越後亡命後の憲政は御館の乱で惨死するまで名前が出て来ないので、何処かで直臣になったのだろうか。倉賀野城を奪還しようと動いたが成功しなかったそうです。もう倉賀野ではなく名を変えて直江氏に仕え、庄内藩主の酒井氏にも仕え、結局は米沢藩の上杉定勝に帰参したと。
何で上杉憲政なんぞに義理立てして仕えたのかはわからないが、まぁ一貫して上杉氏に仕えた人といっていいでしょう。
倉賀野城跡2.jpg
倉賀野城跡4.jpg
このデカい碑は公園に鎮座して烏川を睨んでいる。
でもすぐ裏手には新興住宅が並んでおり、この場所が紹介される度にその家々はメディアに曝されるのでお気の毒ではある。
碑の解説文も簡略なのは、散策者や探訪者を敢えて長時間この地に立ち止まらせないように配慮しているのかも知れない。私もすぐ立ち去り、住宅に背を向け、川に目をやった。
烏川2.jpg
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梶原景時を弁護する [隠れ郷土史]

群馬八幡の同名居酒屋をここ相州寒川で発見した私は思わず降りてしまったよ。
あるんですねぇ.jpg
駅に面している.jpg
あるんですねぇ。同名店が。我、ではなく、和、まで一緒です。
そういえば今夜、ジャン妻は部署で誰かの歓迎会とか言ってたな。ひとりこの店に来てみるか?
でも今日の行程、最後は大田区なんです。そこからまたここ相州寒川まで戻って来るのもなぁ。
取り敢えずこの場所を立ち去った。
だが、この日の寒川は、途中下車した私の裾を掴んで離そうとしない。この案内板に目が留まった。
案内版.jpg
梶原景時?
この辺りにいたのか。
また私の散策癖がウズウズしてきた。今日は海老名で昼休憩を15分しかとってない。仮に1時間として残り45分で散策できるだろうか。
往復20分とみた。迷ったり探したりに10分。うん、大丈夫、余裕だな。

寒川駅の西口を出て、海老名方面の踏切の道を左へ真っ直ぐ歩きます。途中、具志堅の何とかという居酒屋の傍を通り、更に西へ。
しばらくすると歩道がないのに大型トラックがバンバン走る道路(旧大山街道)に出ます。そこを渡った辺りに幾つか案内板が立っていた。
景時については、「頼朝の死後、多くの家臣に嫉まれ」とある。
讒言者とか、そういうイヤな表現は全くされてない。
デカい説明版.jpg
館跡いわれ.jpg
館跡3.jpg
館跡4.jpg
この案内板を見て満足して寒川駅に戻ろうとしたのだが、位置図に気になるポイントを見つけた。
館の周囲を囲む堀が太い棒線、土塁伝承地が▲▲▲▲▲▲でなぞられていて、ちょこっとだけ残存土塁があるらしいのだ。
おや?.jpg
でも何せ800年以上前のものなので何処まで残っているのか。あまり期待しないで探し回った。
殆どが住宅地になっていて、マンション工事現場の向こう側にそこだけ土がムキ出しになっている幾坪かの一画が垣間見えた。そこに旧そうな墓碑か板碑、供養塔のようなものが幾つか並んでいたのである。
だがそこへ行くのがタイヘン。路地に入っても結局は家々で行き止まりの袋小路。いっそ工事現場に入り込んで、「地元の者だけど、その先の墓にお参りしたいのだが」とやってやろうかと思ったよ。
3本めの路地でようやくその場所へ辿り着いた。
個人の私有地だと思いますが遊地のようにも見えた。畑でもない。果樹園の果てか。でもくるまの轍はあったし洗濯物が干してあった。土塁の後はその一角にあり、僅かに地表が盛り上がってるのがわかりますか?
隣はマンション工事が始まっている。いずれはここにも住宅が建つだろう。
土塁あと.jpg
30台~40台前半の頃、私の所業を何者かが上に告げ口された時、「景時みたいなことをしやがって・・・」自分でしたことを棚に上げて罵ったものです。時に景時は三成に置き換えられたりもした。
老成しつつある今では景時をそれほど悪く思わなくなった。
吾妻鏡.jpg
今では梶原景時を悪人として描かれるケースは少ないように思う。この時代の史料は吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記、九条兼実の日記「玉葉」他に見るしかないのだが、頼朝のスケープゴートだった景時の書いた詳細な報告に私見が混じり讒言と化したきらいはあるのではないか。
もっとも後年、景時を信頼していた頼朝が亡くなってから、66人もの御家人衆の名前を連ねた弾劾文が上奏されるに至っては如何に人望が無さ過ぎだと思う。いくら何でも66人は多過ぎる。そのメンバーも凄い顔ぶれでいちいち列挙したくないが、千葉、三浦、畠山、小山、結城、和田、比企、二階堂、葛西、八田、波多野、大井、若狭、渋谷、首藤、宇都宮、安達、佐々木、稲毛、岡崎、土屋、土肥、河野、曽我、二宮、毛呂、天野、工藤・・・およそこの時代の軍記物に登場する姓がズラリ。
弾劾状を受け取った官僚の大江広元だけが景時を惜しいと。思いとどまるよう三浦義村と和田義盛に諭したが、彼らは応じなかった。
頼朝と違って二代目の頼家は景時という人物を知らない。利用価値もわからないし、自身の決裁権を御家人衆に奪われており、景時を護ろうにも守れない。守るいわれもない。黙って弾劾状を見せたら景時は一切の抗弁をせず、一旦はこの地、寒川一ノ宮に引き籠った。
讒言者は讒言されても仕方がないが、こういうのは必ず火を付けて煽った何者かがいる筈である。

景時は息子二人と三十余人の郎党を率いて何故か西へ向かう。途中、駿河の狐崎という場所(二説ある。)で地元の土豪と交戦して敗死した。
敗死後数年経って、一族か郎党が再興を願ったが退けられたという。
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現在、景時が単なる大悪人ではなく、義経や御家人と対立するが、頼朝が信頼した絶対的な官僚武士として描かれることが多い。
頼朝の命のまま、頼朝や幕府に損のないように忠実に仕事をした人。そう演じた人は江原真二郎さん、中尾彬さんが印象に残っている。中尾さんは景時の失脚、敗死までは描かれなかったけど。
もちろん景時は善人ではない。善人では務まらないだろう。
狡兎死して走狗烹らるの例えどおりですね。そういうのは創業の功臣に多い。必要なときに重宝がられるが、用がなくなればあっさり捨てられるという。
景時の失脚はその後、三浦氏滅亡まで続く北条氏の有力御家人粛清の始まりでもある。畠山、比企、和田、三浦、いずれも北条氏に睨まれて消えて行く。

これはジャン家にあった昭和47年刊行の史料からです。その頃の館跡。
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某支店長から本社のある女性スタッフを非難する書面があがった事件があったので、行き先を変えたら何故かここ寒川にいる。
その書面は梶原景時宛の弾劾状66人連署まで届かなくとも差出人は連盟になっており、数えてみたら店長以下11人もの連署になっていたな。
1/6とはいえ小さくない数字である。二桁だからね。
景時が私をここへ導いたのだろうか。暗にその女性を助けろと言ってるのだろうか?
寒川に行った翌週、私はその現場に行った。連中11人は私には何事も無かったように接してくれたが、吐き出すだけ吐き出したからやや落ち着いた感はあった。
では受け取った〇長がいつ本人に注意するか。。。
まだ誰かが注意したという話は聞かない。朝礼で、「現場への対応に対しては相手の身になって言葉を選んで親切にお願いします」とだけ。
事情を知らない聞いた連中は「それって誰のこと?」って怪訝に思うだけです。何故注意しないのか。それじゃ本人も直らないし現場も収まらないだろう。
私に情報をくれた男性取締役と昨日も話したのだが、
「まだ注意してないみたいだね」
「ですね。〇長、彼女の話題が別件で出た時に、ちょっと顔をしかめてましたけどね」
「あれかな。〇長にしてみりゃ自分が言いたくても言えないことを彼女が代返してくれたと思ってるフシはない?」
「それはあるかも。でも他からも同じようなクレームが来てるみたいなんで。。。」
くだんの女性を梶原景時と同一視できないが、どちらも職務を遂行したに過ぎないのではないか。でも長くその職に就いていると、誰でも自分で気付かぬうちに慢心して、自分に跳ね返って来るのだろうか。
哀しいかな。景時には弁護する者も、注意する者も誰もいなかったのである。

だがこの日はまだ終わらない。
あの群馬八幡と同じ名前の居酒屋が気になる。。。
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そして夜.jpg
行ったのかよって?
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手取川で何があったのか? [隠れ郷土史]

土手から手取川を見てるところ。
ここから見た手取川は水がそれほど無いように見えた。
土手から下流.jpg
土手から上流.jpg
ここへ来る前、私は近江町市場に接した寿司屋さんでランチしています。
ひととおり寿司を腹中に収めた後、店の主人が言うお決まりの台詞、
「何処からお見えになったんですか?」
これにはまぁ適当に答えました。その次に、
「これから何処か行かれるんですか?」
外は雨、風も冷たい。主人はせっかくの金沢観光なのにあいにくのお天気ですねぇといった表情だったが、同行者も私の奇異な趣味というか、私が手取川に行こうとしているのを知っています。
もちろん付き合ってはくれないし私だって突き合わせるつもりはない。夜の宴会まで自由行動なんですが、「何処へも行かない」と言えばいいものを正直な私は、
「昔、戦いがあったところ・・・」
「???」
主人は握る手を休めてキョトンとしてた。
「手取川」
「そんなトコがあるんですか?」
そう来ると思ったよ。天気が荒れてるので、「こんなお天気で行かれるんですか?」
「戦いの日もこんな天気だった。往時を知るのにシチュエーションは万全」とか強がりを言ってしまったものである。
「誰と誰が戦ったんですか?」
私はもう自分のマニアックな趣味を寿司屋の中で曝すのが恥ずかしかったのだが、
「謙信と信長ですよ」
「そんなのがあったんですか?オイ?(奥さんを呼ぶ)、手取川で戦いがあってそこへ行かれるんだって」
「まぁこのお天気の中を。それってなんなんですか?」
やれやれまた説明させるんかい。でも奥さんは私が行くその場所というよりも、強まりそうな風雨を心配して下さった。
「くれぐれもお気をつけて。無事にお戻りください」
「別に戦いに行くわけじゃないんだからさ」
「いやいや、この悪天候にそんなところに行かれるなんてまさに戦いでしょう」
「ちょっとっ、行く決心が鈍るじゃないかっ」
コントみたいな遣り取りがあって、寒風に吹かれながら現地に来たのです。
どういう偉人かわからないのだが、熊田源太郎という人が明治中頃~昭和初期に集めた13863冊の書籍を収納してある財団法人呉竹文庫の駐車場入り口に、手取川古戦場の説明碑文を発見しました。
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今から438年前のことです。
信玄と信長との直接対決は実現しなかった。上洛途中で信玄が病死したからである。
では謙信と信長の直接対決はどうだったかというと、それも実現しなかったが、もしかしたら?というのはあった。無くもなかったのです。その舞台がここ手取川。
結果として直接対決にはならなかったが、謙信対信長の配下・・・この方面、北陸戦線司令官の柴田勝家軍と会い見えた。

能登の七尾城が絡んでいます。七尾城攻防についてはこの記事を見て欲しいのですが。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26
手取川の戦いってのは簡単に言うと、七尾城を救援に来た柴田勝家軍が手取川を渡ったところで七尾城陥落を知り、謙信自ら手取川からここからほど近い松任城(JR松任駅の辺り)まで出張って来ているというではないか。
撤退せんと雨中を引き返したら手取川が増水しており、そこを謙信軍が背後から襲いかかった。
勝家軍は織田軍得意の鉄砲も雨で使えず川に追い落とされてしまい、戦死者1000人プラス多数の溺死者が出たような、殆ど一方的な殺戮だったような記事になっている記事が殆どです。
一級河川.jpg
今日見てもそれほどの川には見えないのですが、手取川が一級河川に指定されたのは昭和41年(1966年)です。国で直接管理する=河川改修が始まった。暴れ川に沿った周囲の被害を無くさんと、洪水調節や治水用のダム、手取川ダムが建設される。
手取川は全長72kmで、白山にある水源とは2702mもの差がある。単純計算で72/2702=1/27だから、僅か27mで1mの段差というのはかなりの急勾配、急流河川なのです。
今は上流のダム、沿岸の護岸、河川敷の整備工事が行われ、昔のように氾濫することはない。この日も川の中州の辺りで重機が何やら動いてたし、荒れた天気の割には河川の水はそれほどなかったように思う。
(だから千里浜なぎさドライヴウェイの砂が年々少なくなっていくのだが。この碑がある場所から日本海まではもう1kmもないんです。)
だがそういう治水事業が無かった時代、川の水量は今から見て数倍はあったに違いない。
重機が見える.jpg
ではこの戦いがあまり知られてないのは何故か。
寿司屋のオヤジはともかくyossyさんはご存じでした。ただ、訝しげに、「へぇ、そんな地元でも行かないところへ?」
小舞子駅に案内板もなかったし、この公園の碑だけなんです。どうもちゃんとした記録が無いらしい。
この戦いは昨年の駄作大河、軍師官兵衛でも出なかったが、北陸方面戦線で秀吉が勝家と衝突、無断で帰ってしまったあの事件は描かれた。その後で秀吉は近江長浜でどんちゃん騒ぎをやらかしていたのだが、この戦いはそのタイミングで起こった。
でもドラマではあまり描かれない。やはり地方戦線の局地戦だからだろうか。柴田勝家という地味なキャラだからだろうか。
(官兵衛以上の駄作、毘沙門堂を洞窟にしちゃった「天地人」で少し描かれたらしいね。戦国ゲーム信長の野望にはあるようです。)
この碑は手取川の左岸(流に沿って)にあり、往時から言うと織田軍側にあります。
ポイントとしてこの地に来れた満足感はあったけど、ビュー的には古戦場ってのは案外とツマんないモンなんだなぁ。
あくまで戦いのあった場所っていう位置づけだけなんだね。
落首.jpg
解説碑文.jpg
謙信率いる越後軍は勝家軍が撤退するところを奇襲したらしいが、それほど大きい規模の戦闘だったのだろうか。というのは勝家と喧嘩した秀吉が戦線を離れてしまったとはいえ、それでも準AクラスからBの上クラスの将校たちが幾人もいて、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政、不破光治、金森長近、他に氏家、安藤、稲葉といった面々、彼らは誰も戦死していない。
大勝した謙信も手取川を越えて対岸に渡ってないようです。そこで引き返した。彼自身の足かせにもなった関東管領職に引っ張られて越後へサッサと引き上げてしまったことや、翌年春に急死したことも何だかこの戦いを曖昧にしているようにも見えるのだ。
信長は実際にはこの戦闘には参加していないので、正確に言えば織田軍の敗北といえる。でも謙信ファンにしてみれば痛快である。生涯一度の対決を殆ど一方的に大勝したのだから。信長自ら出張っていなかったとはいえ信長軍を破ったのだから。
最近、演じた方だとこのお二人でしょうか。
謙信.jpg勝家.jpg
ところが。。。
夜に同行者から聞いた話だと、いろいろ異説があって、
「この戦いはホントは無かったってのもありましたよ」って私に言うんです。
無かったって言われると、悪天候で見に行った私の立場が無いんだけど。(^^;
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