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高林城彷徨顛末記 [隠れ郷土史]

この図はその道のプロ、余湖さんという方のサイトから高林城の鳥瞰図です。
許可を頂いて掲載しております。
高林城鳥瞰図.jpg
余湖さんの鳥瞰図の上(北)、小学校方面から主郭に登頂したのだが、そこから来た道を引き返さず、図の左下(南西)方向の山道に踏み込んでしまったのです。
陽は西に.jpg
さて、陽は西に傾きつつある。
高林城頂上部の主郭から枯葉に足を取られながらズリズリと下って左の往路を戻ればよかったのだが、何かが私に「右に行け」と囁いたような。
遺構がそれほどでもなかったので、これだけでは記事にならないと思ったのもある。
その先はホントに散策コースなのかアヤシイ獣道が延々と続いている。
下る.jpg
竹藪奥の堀切.jpg
竹藪の中を.jpg
下っていく細い獣道は竹藪を潜ったり、射していた陽が隠れて暗くなったり、左右分かれ道があったり、消えそうな獣道に突っ込んでしまった思ったらすぐに消えた筈の道がまた現れたりする。
西に沈もうとしている陽の方向からしてスタート地点から西南方向へ向かっている。黒岩公民館からどんどん離れていくのは何となくわかった。
高林城は峰々に連なってはいない。黒岩集落で途切れる独立峯になっているので、行くとこまで行って西南へ脱出するしかないと肚を決めゆっくり下って下っていった。
先の見えない下山路はやや不安も伴った。でも人気の無い山中で彷徨して遭難するのではなく、明らかに人が踏み分けた道があるので脱出できる筈である。
彷徨1.jpg
彷徨2.jpg
歩くこと20分。それまで足元が枯葉でフワフワしたりぬかるんでいないが自然の獣道だったのが途中から固くなった。ガレたコンクリートで固められていた。
下山.jpg
その脇、草に埋もれて生活物資のゴミが散らばっていて、どうも路上生活者か誰やら居住していたような平場があったが、誰もいなかった。
でも何とか下山したようである。軽トラの轍もあったから果樹園の跡かも知れない。
振り返る.jpg
振り返ったらこんな感じ。
雑木林です。子供の頃に近隣の雑木林にダンボールを持ち込んで斜面を滑ったり秘密基地を作ったりしたことあるでしょう?
産業廃棄物不法投棄の時代ではなかったが、そこには誰か投棄したオトナの世界があったりしたものである。
今はそういう場所は無くなった。宅地になっちゃった。
そんな感慨にふけっている場合ではないぞ。黒岩公民館に戻らなくては。山を下って平地に出たので少し足早に歩いた。
電信柱と電線が見えて来たので人家がある場所に脱出する直前、こんなのがあった。
罠あり.jpg
イノシシの罠ぁ?
檻ではなく足バサミのような罠らしい。禍々しいものがあるんだな。
公民館の職員さんが言うとおりやはり猪が出るらしいのだ。避けてサッサと公道に出た。そこには電柱があったのでようやく人がいる世界に出た安堵感。
そこで私は公民館に電話している。
「高林城の山に登った者ですが、無事下山してますから。30分後には戻ります」
電話に出た方は女性の職員さんで、さして私を心配してもいなさそうであった。
脱出.jpg
舗装された公道に出て、そこを左に行けば黒岩公民館の方へ出ると踏んだ。
でもそれは間違いだった。その先は左に溜池があってそこで行き止まりだったのである。
そこに2台の軽トラと2人の老人・・・失礼・・・地元の人で農家の人?らしき方がいた。
地元の人.jpg
「どーも。何されてます?」
「猪がかかってないか見に来たのよ」
「猪?かかってたんですか?」
「いや~・・・今日はかかってなかったな~。この先にも仕掛けてあっから見に行こうかと」
さきほどのイノシシの罠の表示はこの方たちが仕掛けたらしい。
「・・・この先、黒岩公民館まで行けますかね?」
「どうだろ。道を整備したって言ってたけど・・・」
そう言いながらその先を指した。そこにはまた黒岩小学校の生徒が描いたらしいお手製の案内図があって、クマコースとある。
クマコース?
公民館の職員さんは「熊は出ない」って言ってたぞ。そのクマコースは草が刈っていない。藪に消えて自然地形と同化しているようである。
「行けそうにないですね」
「行けるんだけどこれじゃぁ行けないね・・・(反対側、西日が射す方を指して)・・・あっちへぐるっと回って行くしかないんだよね」
農家の方が指した方角は西南の黒岩集落がある筈。
高林城彷徨.jpg
この写真を見てください。
スタート地点の黒岩小学校から登城し、山中を彷徨って西南に脱出、でもそこから反時計廻りに歩いて行き止まり、農家の方に言われてそこからまた時計廻りに県道に出て戻ったのです。
そこにはデカい家々が並んでいた。個人宅なので写真は撮らなかったが、その集落を抜けたらセンターラインのある県道に出る。西富岡のモスバーガー辺りから伸びている県道218号線です。
そこを北東に向かってトボトボ歩っていたら、さっきの農家のオッさん2人が私を軽で追い抜いていった。片手を挙げて先に行ってしまった。
正直言って、「乗せてくれよ~」と甘える気持ちがあったのは否定しないよ。
その先でT字路にぶつかる。そこを右に行くと遍照寺・大日堂というのがある。
遍照寺1.jpg
遍照寺2.jpg
私は平成24年の滞在中、この前を何回も走った。
安中市から山を越えて、上信越道富岡ICへ向かう裏道として利用した。寺の前に古い商店があって今は廃業状態で自販機だけ稼働している。よくこの自販機で炭酸清涼飲料を買ってガブガブ飲んだものである。
黒岩公民館.jpg
錆びたバス停1.jpg
黒岩公民館に戻った。男性の職員さんがいた。
「戻りました」
「大丈夫でしたか?」
「頂上まで行けるには行けたんですが・・・その後、向こう側の西へ出てしまったんですよ。そっから黒岩集落をぐるっと回ってきたら時間がかかってしまって。館長さんにもご挨拶を・・・」と言いかけたら、「館長は帰りました。4時までなんですよ」と言う。
4時まで?
いいですねぇと言いかけたが止めたよ。
時間を見たら4時半前だった。家に帰ったのではなく本庁に戻ったのかも。
「もしかして私が戻るまでお待ちになってたとか?」と聞いたらそうではないようで、単に定刻(17時)まで番してる感じであった。
私は高林城を指しながら、「誰が住んでたんですかね?」
「わからないです。地元ではそこの山は高林城っていうのがあったと言われてるだけでして」
「そこにあった寺(遍照寺)の関係かな」
私は寺社勢力でいうところの僧兵を束ねた神官のことを言ったのだが、繋がりがあるのかどうか。
高林城遠望.jpg
高林城は標注も解説板もない。詳細、背景はまったくわからないそうで地元の伝承にのみ頼っている。
富岡市内を流れる鏑川を境に北は安中氏、南は国峰城の小幡氏の領域(※)で、余湖さんの鳥瞰図を見ると西側の防御が固いように見える。
西から攻めてくるのは武田軍と想定した場合の物見の城塞だろうか。確かに立地としては四方が見渡せるいい場所ではあった。
武田に下るか、箕輪の長野氏を中心に抵抗するかビミョーな圏域で、緩衝地帯ともいえる。
(※)http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-13
「そこを通る街道を監視する為の見晴らし所(物見のこと)ではないかって言われています。富岡市の教育委員会に聞けば何かわかるかも知れませんが・・・」
職員さんはそう締めくくった。
後日、高崎市図書館で富岡市史をめくってみたのだが、高林城についての詳細な記載は無かった。
富岡市は製糸場で名高いだけに近代史の頁はブ厚いのだが、戦国時代の頁が極めて薄く、市内の城塞一覧表のようなものと、位置を示す小さい地図が綴じてあった程度。
高林城は大勢の兵が立て籠もって大軍を迎え撃つ規模はない。監視所、見張り、狼煙台程度よりやや大きい程度の規模で、大軍を迎え撃つスケールはない。
訪城した感想は地元から大切にされている里山といった感がある。確かに手軽に登ることはできるが、整備したと言ってもあくまで登山道レベル。比高差がそれほどないので、マニアに言わせるとこの程度のクラスだと楽な方だそうである。
でも私はもう体力的には無理だなと思った。
館内にいた女性職員さん(さきほど電話に出られた)にもご挨拶。そしたらこう言われた。
「その恰好(スーツ)に革靴で行かれたんですか?」
「・・・」
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高林城彷徨顛末記 [隠れ郷土史]

飲み記事が続いたので趣向を変えます。
昨年8月末に訪城したら蜘蛛の巣だらけで断念した富岡市の高林城のこと。
訪城プロのサイトを見ると、夏場に登城する人はまずいない。夏場は藪、蜘蛛の巣、ヤマビル、蛇、獣、訪城を阻む何がしかがうごめくからである。訪城シーズンは季節は晩秋~冬場。
(3月になると花粉が飛ぶ。)
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-10-09
隣接・管理する富岡市黒岩公民館の館長さんから、「次回は秋以降に是非おいでください」・・・そこまで言われたのでリベンジにやって来た。
くるまを公民館に停めて館内に入ったら8月と同じ顔触れで3名勤務されていた。
「8月に高林城に登ったけど蜘蛛の巣だらけで断念した者ですが。今なら大丈夫ですよね?」
館長は覚えていてくれた。
「先日登る道を整備しました。でも無理はなさらないでください。この時期さすがに蜘蛛の巣はないですが、枯葉が積もって足元が滑りますので・・・」
「熊とか出ないですよね?」
「熊はさすがに出ないですが猪が出ます」
サラッと言い切られた。
歩道橋1.jpg
歩道橋2.jpg
訪城口.jpg
黒岩公民館から黒岩小学校へ渡る歩道橋を渡ると小さい墓地に達する。上り口は墓地を通った先にある。
そこには地元・黒岩小学校生徒の描いたお手製の案内版があったあった。それには・・・
スタート
大変そうだ
里山に出発!!
私がみんなを見守っているよ
長いねーでもがんばれ
みんながんばって行こうね
タヌキのマンガや、何かから切って貼ったイノシシの写真もある。
スタート.jpg
微笑ましいけど。
大変そう?
長いねーでもがんばれ?
このお手製の案内板は昨年も見たが、改めて見ると登るにはある程度はがんばらなきゃいかんのか。でも子供らが走破したなら大丈夫だろうとタカを括った。
子供が描いた大雑把なコース図もあった。
コース図.jpg
登る1.jpg
登る2.jpg
夏場に蜘蛛の巣だらけで断念した訪城路は木を伐って道幅が広くなっていた。
この城塞を紹介している各方面のサイトを見たらそれほど比高差もなく手軽に登れるとのこと。地元小学生がコース図を描くくらいだから軽いと踏んだのだが。。。
足元が枯葉でカサカサ鳴る。フワフワして滑る。
上がったらそこが城域かと思ったらそこから先に尾根道があってまだまだその先らしい。
登る4.jpg
登る5.jpg
登る6.jpg
尾根を行く.jpg
イノシシコース.jpg
また小学生が描いた案内図があって、イノシシコースとある。ホントに猪が出るのだろうか。
もう少しがんばれ
現在地
チェックポイント
タヌキコース
ワーイ!!
ゴール!!
よくがんばって・・・(判読不能)
やはりがんばらなくてはならないらしい。
お手製で微笑ましい限りだが結構キツそうである。
登る6.jpg
平坦な尾根.jpg
この程度の山城なら山歩きに慣れた方なら楽勝だろうけど私はキツくなってきた。崖とか痩せ尾根のような危険箇所はないが、タヌキコースワーイどころではなくなってきたぞ。この道ってホントに地元の小学生が案内図を描けるくらいに完全走破したのだろうか。
さきほどのイノシシコースから先は案内板もなく自分が何処にいるのかわからないのである。
麓から15分か20分ほど歩いたつもりだが、キツいだけで実際はそれほど時間も距離も経ていないのかも知れない。
地元とはいえ、小学生が引率の教師無しで単独で歩ける山道とも思えないがなぁ。
尾根をやや下る.jpg
尾根を下ったら視界が暗くなり、右に最高所のような高まりがありそうな気配で、どうやら城域に入ったようだが起伏があってもそれが自然地形なのか後から手を加えた人工的なものなのかわからない。
裾をグルッと廻っているのは横堀か帯郭か腰郭か。
なかなか右手の頂上主郭にたどりつかない。
堀切1.jpg
堀切2.jpg
堀切3.jpg
埋まって浅くなっている堀切があって、そのうち堀切や虎口が見えてくる。そこにも頂上部への案内板すらないが、私は勘でここから登れと示された気がした。
その先に頂上部があって空が見えている。
頂城域の登り口は枯葉に埋まってフワフワしている。無理くり登った。
頂上主郭へ.jpg
主郭1.jpg
主郭の祠.jpg
主郭低い土塁2.jpg
何のこたぁない。これだけである。
祠がある。低い土塁がある。
堀切を除いて明瞭ではなかった。際立った遺構はない。
妙義が見える。そっち方面に陽が傾いている。
妙義が見える.jpg
麓の方から自動車の走行音が聞こえるからそれほど高い山ではなさそう。でも三角点があったからここが最高所のようである。
規模は小さい。物見か繋ぎ狼煙台より大きい程度の規模。
三角点.jpg
正直言って、ゼェゼェ言いながら辿りついて「これだけかい?」の感はぬぐえないが、昨年夏以来、未踏で断念した達成感が少しだけあった。
陽は西に.jpg
既に陽は西に傾いている。この時期の日没は早いので下山しなくては。
来た道を引き返せばよかったのだが、その先へ足を踏み入れたことでこの後、高林城から連なる南西の山中を彷徨するハメになってしまったのである。(続く)
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持舟城は何故3回も落城したのか? [隠れ郷土史]

地図上で見ると、持舟城はJR東海道線用宗駅の裏山に連なる東海道新幹線のトンネル上にある。
現地案内図ではこんな位置関係。
位置関係.jpg
現在の海岸線とは違って当時は海に面していた。用宗城は水軍基地だった。舟を持っているから持舟、または持船、船を用いるから用船、用宗という変遷でしょう。
上り電車.jpg
用宗駅は2面3線のホーム(単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線)で、東側の単式ホーム1番線に駅舎があり、そこに改札がある。
駅から近い筈だが改札と逆側、線路の向こう側(西側)か。だが駅西側には改札が無いのです。私は改札から見て線路の向こう側(西側)へ行きたいのだが。あっちへ渡るにはどうすればいいんだ。
窓口に1人で寂しそうに勤務していた駅員さんがいたので訊いてきた。
「線路の向こう側に行くにはどうやって行けばいいの?」
「向こう側に行かれるには、線路に沿って上り方面へ歩いて、最初の踏切を渡るんです。(反対側を指差す)そこまで戻られるにはコの字を描いたようにお進みください」
コの字だと??
行って反対側に渡ってまた戻ってくるのか。
仕方がない。駅前から上り線に沿って歩いた。
そこは幾つかの個人商店を交えた住宅地で、そこの公民館前に、持舟城を家康が攻撃した際に戦死した城将、向井正重らを供養する城山列士供養塔と持舟城由来略誌があった。
城山地蔵尊.jpg
金文字.jpg
持舟城は用宗駅前の地上から見て標高80mもない小城だが、今川、武田、徳川氏によって3回の攻防戦があった。水軍の要衝だったので奪い合いになったのである。
しかも3回とも落城している。
略誌の金文字にはこうある。途中読み難い箇所があるので濁点を入れます。まず、1回目の戦闘記述。
「川中島で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄十一年末駿河に侵攻して持舟城を攻略。城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。」

次に2回目の戦闘記述はこうある。
「三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川方の血をひく正室築山御前を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め、武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫、叔父伊兵衛政綱、長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。」
天正七年九月の戦は最も残虐であった。。。
残虐とあるぞ。
我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め。。。
家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり???

ここ用宗の番地は静岡県静岡市駿河区用宗城山町というのだが、後年としては家康のお膝元といってもいい。その地に、地元の英雄・家康を貶めるような記載があって憚らないのに驚いた。

その後にフォローするような箇所もあって、「後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り。。。」とある。
そして3回めはあっけない。
「天正八年二月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正十年二月、徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を抜き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。」
朝比奈という城将は、過去に2回も落ちた城なんか守れるかと端っから見切ったのだろう。
訪城口.jpg
最初の踏切で向こう側へ渡り、また駅の方向へ戻るように歩くのですが、途中に入口がある。
この先の急坂は舗装されていますが、公道というより農道で、城山一帯に広がるミカン畑の農業関係者、もしくは居住者の専用作業道の意味合いが強いようです。
坂道を登る途中、左右にはミカンを運ぶモノラックが敷設されているが、中には途中で途切れていたり、廃線のようになっている箇所もあった。
ミカン畑を縫う.jpg
ラックレール1.jpg
ラックレール2.jpg
かなり急な坂です。ヘアピンを曲がるように行くと、本郭へ上がる登城口があった。
登り口.jpg
そこからは舗装されていない。途中途中に細い石の仕切があって土の階段を形作っている。
えっちらおっちら登ったら前方にご老人の姿が見えた。
爺さん1.jpg
そこもその先も傾斜が急です。
このような石垣があったりするが、積み上げられた石の中にはコンクリートを粉砕した石があたりするのでこれはどう見ても後世のものでしょう。
後世の石垣?.jpg
ご老人と私との距離が近づいて行く。
私もバテてきたが、ご老人に比べたら私はまだまだ壮年である。だんだん距離が狭まってきた。
ご老人は背後の私の気配を察して振り向いて一瞬、ギョッとしたが、年少者の私の方から、「どうも~」とひと声あっけて私は先に出た。
ご老人は私に、「お若いですねぇ」、と返してくれて、マイペースでゆっくりゆっくり上がってくる。姿恰好はラフなので地元の人のようだが、リハビリという感じでもない。
爺さん2.jpg
追い抜いた私は時折振り返る。
大丈夫かな。倒れたりしないだろうなって。
頂上が近づいてきた。
もうすぐ本郭.jpg
頂上、本郭はこんな感じ。
何もないです。
碑.jpg
本郭1.jpg
開設板1.jpg
開設板2.jpg
背後の堀切1.jpg
背後の堀切2.jpg
尾根続きは一条の堀切で断ち切っただけ。
ツマンナイの。でも大した高さではないのに眺望はスバラシイ。
眺望1.jpg
眺望2.jpg
眺望3.jpg
眺望4.jpg
イノシシが出るのか。麓はここまで来る道にはそんなの無かったぞ。
小田原のミカン農場をサルが荒らしてる。サルは出ないのかな。
イノシシ.jpg
持舟城は何で3回も落城したのだろうか。
ひとつの考察を述べます。あくまで私の推測ですよ。
持舟城は水軍の拠点ですが、朝鮮出兵の頃と違い、今川・武田・徳川の海上戦は船上での重火器がそれほど発達していなかった。海上での撃沈は稀で、むしろ船を損傷させて浜辺に追い込み、上陸させてそこで捕獲、拿捕、積荷を奪ったりしていた。
水軍の拠点が海に面して土塁や堀を掘っても意味がないと思うのです。だって海から攻めて来たらこっちも小舟を出撃させで迎え撃ち、上陸させまいとしたに決まってる。
逆にこっちから船で攻めに出たら何処かの海上で大海戦になるか、そうならなければ敵国の海辺の漁村を荒らしまわる訳でさ。
だが遠州に家康が侵攻して来たことで、徳川軍は陸路を伝って持舟城に攻めて来たもんだから激戦になった。この小城にいた城将の名前は、一宮左兵衛尉元実、関口刑部少輔親長、一宮出羽守宗是、一宮左衛門尉某、三浦兵部義鏡、向井伊賀守正重、向井兵庫正綱、朝比奈駿河守氏秀、(朝比奈信置とも)といった面々だが、最後の城将、朝比奈は、「形成不利と戦わずして城を明け渡し」とあるからそれほど陸戦に対する備えは無く、日常は水軍のや海運、港町の拠点だったのでしょう。海上交通の番城だったのです。おそらく現在の海岸線ではなく、眼下の用宗駅辺りか、すぐ崖下に船溜りになりそうな天然の良港があったに違いない。
この城での陸戦を意識しなかったのではないだろうか。
爺さん3.jpg
一休みしていたご老人のところへ私から歩み寄ったのは礼というもの。
「地元の方ですか?」
「そうです。ここ(持舟城)を御存じで?」
「知ってました。駅の裏山にあるぐらいの甘い認識で登ってきたら結構キツかった」
「ああそうですか。あれですか?あっちこっちこういうところを廻られてるとか?」
「いや、ここだけですよ」
「ここだけですか?」
「所用で焼津まで来て、早く終わったから今日、行っとこうと思って途中下車したんですよ」
この小城の戦い、興亡についても若干、お伺いしたが、ご老人は「ここは武田が作った城」と言ってましたね。御年は聞かなかったが、70後半でしょうか。
「上り電車で帰京するのでお先に下ります」と言って下山しました。
杖があるぞ.jpg
下りたら杖があるじゃないか
やはりそれだけ急峻な山道だったという証である。
最後に振り返ります。
持舟城遠望.jpg
上り電車.jpg
用宗駅に戻ったら駅員がいないぞ。
「すっげぇ大回りだった」ってイヤミのひとつも言ってやろうかな~んて、冗談ですよ。そこまで私も意地悪くないです。
この駅の営業時間は7:00~19:00で早朝と夜間は無人になる。さっきの職員さんはどっか他の駅に籍を置いてる方でそこから派遣されてるのだと思う。戻る私より先に帰っちゃったんだな。
静岡駅で新幹線に乗り換えて帰京しました。
今月も遠州出張が入ってますが。。。
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富士宮市山本にあるもの [隠れ郷土史]

私らは毎年の富士浅間大社詣出を欠かさないのですが、船山温泉の帰途や、静岡紀尾井の帰途に立ち寄ったりするので、必ずしも正月、1月に行くという訳でもないです。
そこで願うのは家族の健康のみと決めています。商売繁盛とかそういうのは願掛けしません。
今日はその過程で発見したものについて。富士浅間大社の最寄駅はJR身延線富士宮駅ですが、そこから富士方面へ2駅の富士根駅前を出て左折、小さい川を渡って右折、道なりに行くと潤井川を渡る山本橋という橋がある。
山本橋.jpg
潤井川2.jpg
潤井川3.jpg
橋を渡って高尾製紙(製糸ではない)の脇に案内板がある。
誕生地まで400m.jpg
高尾製紙を右手にぐるっと回って突き当りのT字路にも案内板が。。。
誕生地まで50m.jpg
吉野家入口.jpg
石垣が見え、吉野家というお屋敷があった。(牛丼屋ではない。)この辺り一帯を山本というのだが、ここ吉野家は2007年の大河で内野聖陽さんが演じた山本勘助生誕地だというのです。
(富士根駅は富士市、山本は富士宮市、さきほど渡った山本橋の潤井川が市の境界です。)
勘助bmp.jpg
説明板1.jpg
散策コース.jpg
説明板2.jpg
山本勘助生誕地.jpg
この辺りは第2話「さらば故郷」で紹介された。紹介された内容は甲斐国誌に基づいている。駿河国富士郡山本吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入ったという説です。
実の父母を演じた人。ここ駿河の山本家。
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養父母を演じた人。三河の大林家。
養父.jpg養母.jpg
甲陽軍鑑では三河国宝飯郡牛窪、現在の愛知県豊川市牛久保町出身説他にもある。
NHKが放送、配信した内容はそのまま視聴者が信用してしまう。中には疑問符が付くのもあるし、甲陽軍鑑、甲斐国志とも江戸時代の史料だが、ここでは史料批判は控えます。
前半生が不明なので、どう描いてもいいのかもしれない。
碑1.jpg
吉野家の敷地内に、何か作業をしておられた方(現御当主)がおられたので、
「あの・・・勘助ってここで生まれたんですか?」
我ながらブシツケな挨拶ではあったが、作業の手を止めていろいろ説明してくれた。
生誕地の碑が長屋門の手前左手奥に建っている。
碑の裏面には、勘助の出生から川中島の合戦で戦死するまでの事暦が略記されているけど難文で、陰になって見えないのだ。
碑2.jpg
「読めないですね」
「門の傍に訳したのがあるよ。この辺りに・・・(碑の背後の山林と平段、畑の遊休地か?)・・・当時の御屋敷があったのよ」
屋敷跡2.jpg
なるほど全面に潤井川が流れ、背後や山林。中世土豪の館跡といった趣ではある。
「ここから電線も無く富士山が見えるんだけど、今日は雲に隠れちゃってるねぇ」
富士が隠れてる.jpg
長屋門脇にいろいろ置いてあった。
吉野家のご主人はしきりに「南朝南朝」と言われる。ここ山本にある吉野家の祖は大和国吉野郷に始まり、南北朝動乱後に勘助の曽祖父にあたる吉野浄雲入道貞倫(ジョウウンニュウドウサダトモ)という人が下向して土着した。長屋門脇の防水用のビニールファイルに入っていた系図を見たら、この地での吉野家初代貞倫-2代貞久-3代貞宗と弟の貞幸、この弟貞幸の三男だったという。
系図1.jpg
ドラマでは3代貞宗は出てこないが貞幸(演:伊藤高さん)は登場している。幼くして隻眼、片足が不自由な勘助を三河国大林家に養子に出す場面である。傍らに庵原忠胤(演:石橋蓮司さん)がいたような。
勘助は3兄弟の三男だが、兄、貞久は系図にその名前はないですね。光石研さんが演じていた。
実兄.jpg
この辺り、若干は違っていたりドラマの本流に関係ない兄弟人物が省略されるのはまぁ止む無いところ。
「勘助さんは分家だったのですか?」
「そう。吉野家から分れたの」
下の系図、見難いですが、白い線を引っ張ってるところに着目してください。
父、貞行、母、安。。。
兄と勘助本人。
そしてその左下、遥か後世には。。。
系図1.jpg
驚いたのは勘助に弟?がいて、そこから系図の枝が更に伸びていき、行きついた先端には「五十六」とあったのである。
「そうなんですか?」
「うん。そうなの」
系図2.jpg
「私みたいに見に来る閑人っています?」
これはこの手の散策で必ず問うようにしている。
「うん。今はそうでもないけど、このドラマの年は1ヶ月に何千人も見に来たもんだよ」
あれから8年か9年。今やモノクロで色あせた内野聖陽さん、市川亀治郎さん、柴本幸さん、Gacktさん。。。
色褪せて.jpg
何千人?
桁数多くないスか?でもその辺りはつっこまないでおいた。
「勘助さんの眼帯は変わってってるでしょう。偉くなるとね」
「最初、ボロかったのが、アワビの殻、片なの鍔・・・」(私)
「そうそう。山本家の家紋をあしらった立派なものになってね」
「実在の人物かどうかって言われてたのが、市川(市河)さんって方の文書が出てきてね」
功治3年(1557年)の川中島第3次合戦に於いて、武田晴信が市河という家臣にあてた感状に、「猶可有山本菅助口上候」・・・とあったというものです。
吉野家は葛山氏の家臣で葛山氏から知行を得ていたが、甲斐武田、駿河今川、小田原北条に接する場所柄、パワーバランスが拮抗していた。吉野家の主家、葛山氏そのものが難しい立場でいろいろあって信玄の6男が名跡を継いだのではなかったか。
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母安女の墓入口3.jpg
お母さん.jpg
母安女の墓入口2.jpg
このすぐ近くの墓所に勘助の母、安女の墓・・・墓碑があった。あめくみちこさんが演じていましたね。
勘助は諸国を見て廻り、甲斐の武田を知り、駿河に舞い戻って花倉の乱に関わった辺りは創造かも知れない。
実の母は既にこの世を去った後だった。
隻眼で足が不自由な勘助は、軍略という異能の才でもって武田に仕えることになる。
駿河国山本が生んだ稀代の名軍師??
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古河街道沿 反町館 生品神社 はじめちゃん [隠れ郷土史]

今日は複合記事です。最初は固いです。
晩秋に伊勢崎市と太田市を古河街道で往復、ウロついてた時のネタ。
太田市の古河街道沿いは、郷土の英雄、新田義貞の新田〇〇町という町名がやたらと多いのですが、新田反町にこんなのを発見しました。
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故・新田次郎さん著の「新田義貞」文庫本上巻、「陸奥の春」の冒頭で、新田荘村田の新館が落成した場面があります。
その新館の規模は大きく、周囲を濠で囲まれ濠の土が盛土として使われ、鎌倉に建てられている武家屋敷の構造を取り入れ広大で立派なものであると。
新田反町の反町館はデカいです。そこは広くて深そうな水濠に囲まれている。小説中の新館とはこの館かもしれない。
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中央部は神社の境内になっていた。
凄い濠である。
深さはどれくらいあるのだろう。うっかり子供が落ちたりしないか。
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義貞は鎌倉幕府の御家人なので、これだけの館を造成する以上は着工前に幕府に届け出る。落成なった暁に、検分の名目で視察にやって来たのが黒沼という人物。
この黒沼という人物は、中央から地方へ検分に来た役人だが、権力を笠に着て横柄ら野郎で、新田荘に滞在中は連日の接待、宴、遊女に飽きたらず、寡夫となった武家の女を枕頭に差し出させたり、昔の話とはそういうものなのですかね。
散々、接待させるだけさせた黒沼は鎌倉に戻って、「新田小太郎義貞には不釣り合いな大きな館であり、新田荘は裕福である」と北条得宗家に報告したものだから、「新田は金を持っている」と思われ、上州新田から遠い遠い津軽の安東氏の騒乱鎮圧に出兵させられた。
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鎌倉幕府の屋台骨がグラつき始める。
後醍醐天皇や護良親王が義貞他、各地の豪族へ打倒北条氏の綸旨、密書を送りまくるのだが、どうも義貞の挙兵の理由には、それだけではなく別の側面があるようである。というのは、鎌倉幕府でいうところの幕末に起こった元弘の乱の後、前述の黒沼という役人が再度、新田荘にやってくるのだ。今度は徴税にやってきた。
この頃の情勢は、千早城に籠って頑張る楠木正成の他、播磨の赤松則村が挙兵、足利尊氏、義貞他の東国武士に幕府打倒の綸旨が出回っていた・・・としておく。
幕府は楠木正成・赤松則村他、反乱軍の討伐で膨大な戦費が必要となり、戦費調達のため徴税を強化する。新田荘へ徴税使としてやってきた黒沼は、例によって新田武士を田舎者と小馬鹿にしながら初回検分時と同様の接待を強要し、幕府の要求として銭6万貫文もの戦費徴用を言い付けた。
単純計算だが、銭1貫を米1石として6万石、新田荘を10万石としたら年収の半分だが、領民の分もあるから半々としても2年以上に相当する。
この莫大な戦費を僅か5日で差し出せと。こんな無理無体な要求に応えるには領民の保有米や村々の備蓄米も差し出しても足りるかどうか。
もっとも幕府から見たら、どうも新田荘には寺の門前町が少なくないので、そこに富裕な商人が多かったと見られてたようである。

鎌倉期~南北朝の様相推理は現代版の小説で充分で、故・吉川英治さんの「私本太平記」、「新田帖~触れ不動」では、義貞の実弟、脇屋義助が応対し、「無いものは無い」と。そしたら黒沼一行は、鎌倉から随行して来た供回りに命令して、領内商家や米倉を開けて強制的な徴収を強行した。強盗まがいである。義貞は戦費を収めなければ朝廷側(後醍醐天皇、護良親王)に付いたとみなされる。追い詰められた。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-10-18の江田館でも述べたが、義貞の配下が黒沼を殺害する。「新田義貞」では黒沼が殺害され、「私本太平記」では黒沼とともにやってきた明石出雲介親連という者が殺害され、黒沼は義貞の執事、船田入道の縁者ということで生かされている。どちらでもいいが、小説から離れると、実は新田家は所領を切り売りするほどの窮状で、それらを北條得宗家が買っていた。だから黒沼と明石は新田家が北条得宗家に売った所領から徴税するために派遣されたという。だったら元の領主義貞は口出しできなかった筈。
義貞の挙兵の本当の理由は単に金が無かったからではないだろうか。

幕府の徴税使を殺害した以上この地で黙ってればいずれ誅されるは必定なので、朝廷からの綸旨、密勅、そういう大義名分とは別に、「そっちがそこまでするならこちらから起ってやる」となった。
一族一門を結集させて決起した場所がこれ。生品神社境内。
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演じた根津甚八さんは最近は見ないですね。引退されたのかな。
1991年のドラマだから根津さんが40代半ばぐらい。実際の義貞は後年、燈明寺畷で戦死した時は40代前半だったらしい。
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次に新田〇〇町から古河街道2号線を走って伊勢崎市へ向かう途中で見つけた店。
古河街道と謳っていますが、ストレートに古河(茨城県)までは行けない。前橋市と館林市を結ぶだけの道です。
この時も薄い鉛色のような曇り雨でやや気鬱だった。私が上州に関わってからまる4年になろうとしているがついに退職者が出そうなのである。その子はちょっと問題児なので別に辞めても大勢に影響はないのだが、今まで私が担当してたのもあって力不足を痛感している。
その子を残留させる為の条件をクリアできそうにない。傍観して自分自身が後悔するのがイヤなのでギリギリまで慰留しますが、私が上州に関わってからもう4年になるので、もう4年経ったんだから仕方がないかなと半ば諦めながら、やや暗い気分で伊勢崎市に差し掛かる辺りを真っ直ぐ走ってたら。。。
縦看板.jpg
は・じ・め・ちゃ・ん??
ダダっ広い駐車場でした。大型車も余裕で入れます。敷地内はこの店ともうひとつクローズしてしまった和食店、蕎麦店があって、広い駐車場を共用していた模様です。
道路向かいには常勝軒伊勢崎総本店?というのがある。そっちに押されてる感もある。
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お店の外観1.jpg
店のボディはやや塗装が剥がれているが、別にボロではない。
めし
定食
うまい
安い
四角く囲って斜めってる。
道路際に堂々と屹立する大看板には縦書きで、「うまい 安い ランチ サービス 味処 はじめちゃん」
その看板の根っこの部分に小看板があって、
うまい 安い
ランチサービス
ロースカツ
カキフライ
しょうが焼
丼類
鳥めし
焼き魚
ラーメン
そば
アハハハと笑ってしまいそうになった。何がウリなんだろう。
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くるまはもう停めちゃっているし、ここから先に飲食店があるかどうかも心もとない。ダメもとでここにしようと決めた。
暖簾は出てるし街燈も点いてるけど営ってるのかな。上州って準備中なのに暖簾が出ていたり、営業中の札がブラ下がっている店ってあるのよ。
あれ?時刻を見たら10時20分過ぎか。早いかな。でも電光掲示板では、「めし」って光ってるから多分営ってるんだろう。
引戸を開けたら、この店を営ってるご夫婦が、知人とおぼしき方と談笑中だった。
「大丈夫?」
「ハイ大丈夫ですよどーぞ~」
座敷の照明が点いた。TVもONされた。
無難に生姜焼きをオーダーして時刻を見たらやはり10時30分にもなっちゃぁいない。
お客さん(私のこと)が入って来たから仕方なく開けたって感がある。
店内は広いです。座敷は10卓ぐらいあったかも。
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お品書き1.jpg
お品書き2.jpg
メニューを見たら、こういう一般道のロードサイドにありがちな、昼は定食、夜は裏メニューを見れば酒の肴もありますよというスタイル。
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生姜焼1.jpg
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生姜焼き、美味しかったと思います。
味噌汁も熱々で、小鉢の和え物もなかなかです。
美味しかった青物.jpg
プラス50円のミニラーメンは、チャーシューとかの具は無いです。50円だから文句は言えないけど、だまはよくないですねぇ。ちゃんとほぐさなきゃ。
ミニラーメンが付いても味噌汁は付いてくるらしい。すると汁物がダブりますね。
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お店の外観2.jpg
お店の外観3.jpg
さて、再訪があるかどうか。
この先は国道17号とクロス、北関東自動車道に繋がるのですが、それは真新しいバイパスなのでそっちにくるまが多く流れてこの界隈は寂れちゃってるのかも知れない。
でも新しい幹線道路沿いよりもこういう旧街道沿いの方が店は古くても味わい深いレストがあるものなのですよ。
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箕輪の出城 [隠れ郷土史]

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高崎市郊外にある八幡霊園に至る県道を下って北へ走り、町屋橋で烏川を渡るとすぐ先にもうひとつ榛名白川を渡る橋が見えます。その川はすぐ近くで烏川と分岐した川です。
その橋を渡らないで右折、土手沿いに走ると白木の家?スナックがあって、敷地内にデカい碑がある。
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「???」
土手にくるまを停めて碑を眺める。碑には花を挿すコップ(ワンカップのような瓶)がコケていた。榛名おろし(強風)で倒れたらしい。
スナックのドアが開いている。店のママとおぼしき女性が店内を片付け掃除している。じーっと見てたら目が合ったので「どーも」と軽くアタマを下げ、碑を指して「これは何です?」とサインを送ったらママが出てきた。
「何ですこれ?」
「ああここはね。ミノワの出城だったのよ」
ミノワ=箕輪です。箕輪城の支城です。ママはハッキリと「出城」という専門用語を言った。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-07-17
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「裏にいわれがあるわよ」(ママ)
尖った葉っぱを除けないと碑文全文が読めないのだが、そこにはこうあった。
「此の城別名仲村城。あつま道の烏川渡河店に備えたる要害なり。永禄四年甲州勢来襲町屋阿弥陀堂を焼く時長野信濃守業政清水小内内記藤原正智を城主としてこれを守らしむ。上杉輝虎、小幡安中の奪還を謀り同八年七月兵を発す。箕輪勢先鋒となって武田信玄の殿分に肉迫。大いに若田の原に戦う。住吉城その拠点たり。爾来四百廿年城背の長野堰錚々往昔を伝う」
要は、この地(町屋)に武田信玄率いる甲州軍団がやって来て阿弥陀堂を焼くという暴挙をやらかし、迎撃した箕輪城(現在の箕郷町)の長野業政の先鋒となった場所だということです。
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碑文にある若田の原とは、このスナックのすぐ南に望遠される丘一帯、八幡霊園と若田浄水場のある辺りを若田町というので、おそらくその辺り一帯かと推定されます。
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戦国期の上州は北条、武田、長尾の草刈り場の様相を呈してしまったのは、彼らのような突出した大名が現れなかったから。
それでも従わずに抵抗する勢力はいて、箕郷町にある巨城、箕輪城に上州一揆衆の盟主、長野業政がいて、甲州軍の侵略に徹底抗戦。勝てないまでも生涯負けなかった人。
地図で見たら、この碑の立つスナック前を流れる榛名白川を上流に遡るとそのまま箕輪城の西の外郭に辿りつく。ここは安中方面から迫って来た甲州軍を迎え撃つ最前線基地だったというのです。
高崎方面.jpg
晩秋の榛名山.jpg
私は群馬県民に成りすまして言った。
「箕輪の出城だったんだ。ママのご先祖様が?」
「ううん(首を横に振る)アタシはここを借りてるだけよ」
「この土地の地主さんが立てたのかな」
「この石は近くにあるYF建設さんの社長さんが造ったのよ」
それにしても「甲州勢来襲町屋阿弥陀堂を焼く・・・」
武田信玄が上州に攻め入って領内を荒らしまわり、自分に従わない寺社仏閣を焼き払った故事は高崎市吉井町でも見たよ。よくやらかすんです。神奈川県でも三増峠の戦いを終えて引き上げる時も社をブッ壊して火にくべて暖を取ったりしてるからね。
碑文には永禄四年(1561年)とあるから川中島の前後でしょうか。
近づいてみる.jpg
「敷地内にこんなのあってジャマじゃない?」
「笑、まぁウチはこのまま借りてるけどね」
「こうやって訪ねてくる人います?」
「どうだろうねぇ。アタシは昼間はいないからねぇ。でも見に来る人っているんじゃない?今日はたまたま明るい今のウチに片付けちゃおうと思って来たんだけど。夜のお客さんで気にする人もいるけどね」
ママは碑の前に置いてあった水の瓶を立てて水を容れた。私が立ち去った後で花を活けたかもしれない。
かつての出城は500年経った今、スナックのママが城代を勤めている??
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相州丸山城公園 [隠れ郷土史]

この記事は2013年の梅雨時期に寄稿してお蔵入りになっていたものです。
現在は往時と風景描写が違っているかもですがそこはご容赦願います。
舞台は神奈川県伊勢原市。最寄駅は小田急線伊勢原駅。国定公園や大山参りの玄関口と謳っている。最近、大山のケーブルカーが新しくなったようですね。
伊勢原駅階段途中に観光案内所があって、そこには大山、丹沢、この地で暗殺された太田道灌に纏わるものが紹介されていた。案内所で聞いたのは、
「246沿いにある丸山の公園ってどうやって行けばいい?」
「バスで行かれます?」
「タクシーかなぁ」
歩いて行けないのはわかってる。バスもアヤしい。実際、帰りにその公園近くのバス停に行ったら運行数が少ない。結局はタクシーにした。運転手は女性で細い路地や一通、一時停止を繰りかえりながら246へ抜けた。
後部座席で見た周辺の風景は、駅前北口は再開発や道路整備事業の計画が進まず建物の改新築が出来ない状況が続いているため、周辺のビル建物が老朽化、寂れているように見えた。
東海大病院がそびえ立つ手前に、目指す公園があった。
「あれですよ」
「あれかい。帰りも呼ぶかも」
領収書を貰った。
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本格的な訪城マニアともいえない私はトシのせいもあって、山城、藪城は避け、比高差のある場所も避け、行ってみても往時のものは何もなく案内板か標注が立ってればまだいい方、公園化された楽チンなところに選んでいくようにしている。
この公園は太田道灌が暗殺された現場候補地の一つ。公園内解説版には発掘調査の成果のみ記されてあった。文明18年7月26日(1486年8月25日)、ここ神奈川県伊勢原市にあった?扇谷定正の館に招かれ風呂場で暗殺された記載はなかった。
この地で謀殺されたのはイマイチ裏付けが取れないようでもある。この地、相州糟屋に招かれて入浴後、脱衣所から出たところを曽我兵庫という者に襲われた。
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何故、暗殺されたのか。
自分を妬んだ者に讒言されたという。
ホントに主家に対して反乱を起こそうとした?
主家の扇谷上杉定正が、道灌が自分に取って代わろうとしたのを危惧して殺害した?
定正がもうひとつの管領家、山内家に唆された、もしくは合意の上だった?
いろいろあるが要は妬まれたんだと思う。原文を見たわけではないですが、太田道灌状というものがあるそうです。文明12年(1480年)に山内上杉氏の高瀬という家臣に提出した書状。それには39ヶ条にわたって自分の活躍が記され、山内家が武州、上野、両国を支配できるのは自ら功である」と述べてあり、扇谷、山内両上杉氏の関係が微妙な時に自信満々に自らの功績が書かれていて、この書状が偽書でないならばその内容が両上杉氏から危険視されたのではないか。度が過ぎた自画自賛列挙アピールが身を滅ぼしたともいえる。
自己顕示欲の強い人だったのだろうか。
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道灌暗殺で扇谷、山内両上杉氏の均衡が崩れ、ドロ沼の内戦抗争になる。
その後、道灌とも面識のある伊勢宗瑞~北条早雲が西から台頭する。関東の騒乱は更に後年、秀吉の小田原征伐まで終息しない。
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道灌が伊勢原市内の何処かで暗殺されたのは間違いないが、その候補地は決定的なものがなく、「糟谷館」というキーワードがあって、「下糟谷」にあったこの公園、丸山城が浮かび上がった。発掘と公園化でいろいろ出て来たらしいがそれについては割愛します。
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公演は市から委託された業者さんがいた。ウィーンっていう金属音を鳴らしながらそこらを除草作業中だった。キレイに起伏が見え、撮影時には作業の手を止めてくれた。
刈られた草が足元に飛んでくる。刈られた跡には犬のフンがあったりして危うく踏みそうになった。
公園内をジョギングしてた初老の男性がいて、私を振り返ってギョッとした顔をされたのでこっちが顔を逸らしたら、逸らした視線の先にベタベタした高校生の男女がいた。イチャついてたがあれから2年経ったので卒業と共に別れたに違いない。
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案内板の説明を読まなければとても城跡には見えない公園整備の典型です。場所は酷道246号線沿いにあるからポイントとしてはわかりやすいが、行ってみて初めて「駐車場があるのか」と気付くでしょう。帰りはタクシー呼びましたよ。
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実はこのネタは公園散策が主ではなく、「風呂場で暗殺された」、これがキーワードです。道灌は丸腰どころか一糸纏わず?下帯くらいは付けてただろうか。これ以上ない無防備状態での暗殺という陰惨極まりないケースは道灌以外にもある。
配流先の修善寺で鎌倉幕府二代将軍源頼家が風呂場で暗殺された。
永暦元年(1160年)、平治の乱で敗れ尾張に落ち延びた源義朝が鎌田という家人の舅、長田忠致に裏切られ入浴中に殺された。HNKではその描写はなかった。
町奴の幡随院長兵衛が白柄組の旗本奴、水野十郎左衛門に湯殿で斬殺された。
もう古本屋に出しちゃったけど、相馬氏を描いた近衛龍春氏の著書「慶長・元和大津波」に、相馬の家臣だか誰かが追放されて風呂場で暗殺された箇所があったような。
風呂場で暗殺とは何という陰湿な手段だろうか。そんなのを知ってしまうと、温泉宿で夜に貸切り湯に浸かってると時折「今、刺客に狙われたら」って思ったりする。
前述の逸話以外で風呂場で暗殺されたケースがある。
暗殺どころか、皆で朝風呂に入っていたところを敵兵に取り囲まれ、一族の殆どが皆殺しにされたのが会津檜原の穴澤一族です。
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ここから会津編に飛びます。
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世田谷城の隠れ遺構 [隠れ郷土史]

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世田谷区は広いけどJRは通っていない。大手私鉄だけです。だから東急、小田急の区といってもいいが、世田谷線のかもしだすのんびりした雰囲気もせいか、世田谷区にお住まいのウチの社員は、「都会の田舎なのよ」とも言っていた。その社員は世田谷区世田谷に住んでるのだが、家までの道筋を説明するのが案外めんどくさいらしい。
東急線沿線を歩いて街道から逸れると、高所得者の一軒屋が多い感じがする。閑静でセレブな街だな~と思ったりする。世田谷区役所には公用でよく行くのですが、公用がてら、閑静な住宅街の中にある公園と、公園に隣接する豪徳寺に立ち寄った。
上州安中にある北野寺の記事で、その寺には来年の大河でおそらくやられ役で登場する井伊直孝公が幼少の頃に学問研鑚を積んだ旨をUpした。直孝公を含めた井伊家の菩提寺は豪徳寺境内の奥にあるのだが、そこも含めた一帯が世田谷城という吉良氏の城塞だったのをご存じでしょうか?
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世田谷城はその筋には有名です。それは世田谷というブランド名で有名であり、前述のように高級住宅地の世田谷にあるから知られてるのかも知れないが、23区の中では土の起伏が残存しているように見えるからです。
だが世田谷城公園に行ってみると規模が小さい。しかも公園化の際に近代的な石垣で補強されているので、素人さんは「石垣の城?」と勘違いされるかもしれない。
世田谷城は近世石垣の城ではなく、土をかき上げて固めたものです。
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土崩れ防止の為に近代のブロックで補強されているので、輪郭がボヤけてしまってるんです。玄人筋はこの小公園を見て、「やり過ぎだ」、「整備し過ぎ」、「イメージを損なう」と思う人も少なくないのではないか。
公園には解説板こそ3つもあるが、そこだけだと規模の小さい城だなとしか見えない。近隣のセレブなママが子供たちを連れて喋っていたりする。
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だがこの小公園は城域の南端の一画でしかないのです。これだけなら数十人も立て籠もればいっぱいになっちゃうし、敵が攻めて来たらあっさり陥落してしまうだろう。
往時の世田谷城はここから豪徳寺を含めた一帯で、歩いてみると意外と広範囲なのがわかる。
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公園から北、住宅地に接する辺りはフェンスで遮られて入れない。そこから先は藪化している。藪化しているということは手つかずの森だということ。そこを意識しながら公園から豪徳寺方面へ踏み込むと、意外なところに「???」と思わせるものが残存しているようです。
残存しているようですというのは、私有地を含むそのエリアには踏み込めないからです。残存エリアと思わせる一帯は殆ど全てが立ち入り禁止か、もしくはそれに近いといっていい。
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上のMAPを見ていただきたいのですが。。。
城域の南端でしかない世田谷城跡公園の北は①のフェンスで遮られてる。そこから先の②一帯はは木々が生えていて雑木林かと思わせるが、実はその一帯に手つかずの遺構が残存している可能性が高い。だが②には踏み込むことはできない。
②に隣接して旧い団地がある。G住宅としておきます。その団地は公園より高い位置にあるのでそこも城域です。
だがその団地エリアには、「G住宅に用の無い方は立ち入り禁止」・・・不審者は警察に通報しますとまで書かれてないが、そういう注意を促す掲示が幾つもあるので立ち入りは憚られる。
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一旦諦めて豪徳寺参道を歩いて行くと右手に土塁の高まりが続いている。③です。これはマニアにも知られていて、人口的な手が加わった公園でガッカリした散策者が愁眉を開くポイントでもある。
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豪徳寺の山門前、右手に空地がある。④です。そこにも変な土の高まりがあるが、それが世田谷城のものなのかどうか。住宅を建設しようとした残土にも見える。そこは広場になっていて、住宅開発しようとして断念したかのような空地になっています。そこにも表示上は立ち入り禁止になっている。
だが、そこから東、②に繋がる森を見ると、何やら手つかずの部分が遠望できるのです。
でもそこまではモラル上は近寄れない。立ち入り禁止を踏破して無理矢理に行こうと思えば行けますよ。でも周辺の家々からまる見えなんです。

②の森を見るにはどうすればいいか。豪徳寺の門前から東をぐるっと回ってみたのですが、②の森を背にして豪徳寺2丁目の高級住宅が立ち並んでいて何処からも入れなかった。警備保障を導入した家もある。おそらくその住宅に住まわれる方々は、家の裏窓から世田谷城の、一般人の目には触れない遺構を毎日見れるのではないか。
一部、住宅が立ってない(取り壊された跡地)箇所があります。⑤です。そこも立ち入り禁止です。
この写真は道路から⑤を遠望したものですが、何やら切崖になっていました。
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魔がさしても絶対に立ち入らないこと。世田谷区はいい街ですが犯罪も少なくないので、不法侵入で警察に通報されますよ。

いよいよG住宅という団地の敷地に入るしかないか。
そこも高台になっていて坂の途中に、「G住宅に用の無い方は立ち入り禁止」とある。
幸い私はダークスーツ姿である。この恰好で上州の山城に入ると、山歩きのハイカーから怪訝に見られたことが数回あるが、ここは都心の一等地である。この恰好なら良くて勤勉な会社員に、悪くとも不動産業者に見えるだろう。何か誰何されたらきちんと名刺を出して本業を名乗るか、この辺りの物件調査ですとでも言うかな。
平日の午後、団地住民がヒソヒソ立ち話をしている。目が合おうものなら不審者扱いされかねない。自分らの生活圏内を守ろうとする独特の空気を体感した。長居はマズそうである。
さっき寺の参道から見た土塁③は団地側はコンクリで補強されていた。
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団地の北へ廻る。豪徳寺に接する辺りの空地④に出た。そこは団地側からも出入りできないようになっている。団地の住民も豪徳寺に参詣しようとするには南側の公道に出て参道を歩かなくてはならない造りになっている。
団地の東側へ廻る。さっき豪徳寺山門から見た森がややハッキリ見えてきた。
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そこには横に長い緑の土手があった。
それは手前と奥にある。もしかしたら二重堀だろうか。
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そこまで行けそうで行けず、届きそうで届かない、見えそうで見えない、確認できないもどかしさ。
ここから遠望するに留め、足早に引き返した。
私と同じように世田谷城を散策に来た私服のオジさんがいましたね。
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世田谷城を強引に見るには、G団地敷地内に入って近隣住民のご迷惑にならないよう、短時間で節度を守ってサッと引き上げるしかないのです。
いよいよ森の中まで行くには「世田谷城跡見学会」というのに参加するしかないらしい。その見学会のBlogを見ると、私が遠望した二重堀のように見たものは実際はV字型の堀だった。
見学会の定員は50名程度かと。おそらくG団地の管理組合に話を通したうえで、年に僅か1回程度の開催かと思われるし、抽選でGETするのも難しいだろう。
普段は立ち入り禁止の場所に遺構が眠っている。何故、立ち入り禁止なのかはわからない。
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世田谷城の吉良氏は天正18年(1590年)の小田原征伐まで存続したが、一戦も交えず逃亡したという。おそらく家康を頼ったかと思われるが、高家旗本として復帰し、もしかしたら赤穂浪士に繋がるのかも知れない。
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荒川線沿い煉瓦造りの建物は何? [隠れ郷土史]

荒川区役所が公用先に加わりました。
そこには荒川線で行きます。千代田線か京成の町屋駅で乗り換えます。
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荒川線は路面電車の名残を残しているが、一部の併用軌道を除いて殆どが専用軌道です。幾つもの踏切があって、道路優先でくるまに負けてるように見える荒川線です。
警報機が鳴ってるのに、踏切を渡るくるま、道路が青だとそっちが優先の風景を見かける。道路が赤信号になるまで荒川線は道路と自動車に遠慮して?一時停止してるんです。
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荒川線の駅は、駅は駅なんだけどホームのある停留所、停車場感覚です。荒川区に行くには荒川区役所前という停留所があるのだが、私の赴く先は分庁舎なので、ひとつ手前の荒川二丁目の方が近いことに気付いた。
荒川二丁目停留所ホームに下りたら、何やらレンガの建物が見えるぞ。
???
レンガ造のアヤしい建物.jpg
まさか富岡製糸場?
そんなこたぁない。では何だろう。
正門前1.jpg
土塁でぐるっと廻った先に正門があって警備員さんがいた。立ち入り禁止になっている。
土塁の断面もレンガで固めてあり、敷地内の向こうにもレンガ造りの建物があるぞ。警備員とは別に守衛もいる。
正門前2.jpg
「あの富岡製糸場みたいなレンガ造りの建物は何です?」
こういうのは聞いた方が早いの。警備員さんは日がなそこに立っていて、ヒマそうに見えるし(失礼)、質問したら親切に答えてくれるものなのである。
「軍部の建物か何かですか?」
「ああ、ここは日本で最初の下水処理場なんです」
「下水処理場?軍部の施設じゃないんだ」
「軍のものじゃないですね」
奥に何かあるぞ.jpg
「見学は予約制なんですが、今の時間帯は大丈夫じゃないかな。ご覧になります?1時間半くらいのコースですが」
私は固辞した。公用途中だし。1時間半も潰すわけにはいかないよ。
「ここから写真、撮ってもいい?」
「いいですよ」
「すぐそこにある碑みたいなのも撮っていい?」
「いいですけど。白線の手前まででお願いします。規則なんですよ~」
なるべく奥まで入ろうとズカズカ歩く私を軽く制止した。これ以上入らないよう付いて来るんです。そしてパンフレットをいただきました。
発祥の地.jpg
現在の私設名は「三河島水再生センター」というそうです。
私が遠目で臨むレンガの建物は、軍部の建物でも製糸場でもなく、大正11年3月から稼働した日本で最初の下水処理施設で、「旧三河島汚水処分場喞筒場」という。喞筒はショクトウと読みます。ポンプのことですよ。
三河島水再生センター(みかわしまみずさいせいセンター)は、大正11年(1922年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場である。旧喞筒(ぽんぷ)場施設が国の重要文化財に指定されている。
望遠してみる.jpg
大正11年(1922年)の完成時の処理方法は散水ろ床法。
昭和9年(1934年)からはパドル式活性汚泥法。
昭和34年(1959年)から現在の標準活性汚泥法を導入。
旧三河島汚水処分場喞筒場施設は平成11年(1999年)に稼働を停止している。現在でも大正時代からの形をそのまま保持しており、耐震補強工事のうえで、「日本で最初の近代下水処理場」の重要文化財に指定されている。
製糸場と見まがうばかりのレンガ造りの施設棟、阻水扉室(ソスイヒと読みます。下水と一緒に流れてくるゴミを除去するところ)、沈砂池(土砂を沈殿させる)、濾格室(混じってるものをかき上げるもの)、濾格室上屋、量水器室、喞筒室暗渠(ポンプ室内の下水溝)、ヴェンチュリーメーター(水の流を調整し、水量を計測する)、土運車引揚装置用電動機室(インクラインのようなもの?残留物を引き上げる)、変圧器冷却水用井戸喞筒小屋、門衛所、敷地内の喞筒室周囲の擁壁、石造階段等。
見学イコール実際に稼働している汚泥や現物を見るのかって?旧施設は引退しているので中に汚泥なんかありません。見学に入っても臭くないそうです。
施設内フラッと入れなくて完全予約制なのは、テロ対策かもしれないですね。
パンフ.jpg
ひとつ思い出したことがある。
私は現在の会社に転職前は某工場地帯のさる施設にいたのだが、その会社には廃棄物処理、汚泥乾燥機、下水処理場といった環境設備のプラント部署があった。例えば何処かのゴミ焼却場や、ここみたいな下水処理場の汚泥処理施設の試験機導入とかに立ち会う部署です。(原発とかもあった。)
下水処理場の施設に派遣されるとキツいそうです。現物が流れて来る訳だからね。
若い者がそこに派遣されて事務所に戻って所長に言った台詞はこういうものだった。
「何で俺が〇〇をかき混ぜなきゃならないんですかぁ」
結局その若い者は辞めましたよ。でもそういう現場、作業、作業員は決してなくならない。隙間産業というものは絶対に必要なんです。誰かがそういう現場に入らなくては市民生活が成り立たない訳でさ。
私はそういう現場に配属されたらどうしようかと内心で心配だった時期があったが、幸いというか、そういうことにはならなかった。
味濃いランチ.jpg豚肉キクラゲ玉子炒め.jpg
その後、この界隈に数回、行ってはいますが未だに見学していません。事前予約というのがやはりめんどいんですよ。フラッと行って気儘に見学するという訳にはいかない施設なのです。
最後の2枚写真はその日に荒川区役所に立ち寄ってからの昼のランチ。味が濃かったねぇ。
荒川区役所周辺はあまりソソる飲食店がみつからない。三ノ輪まで出るとあるのですが。
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新幹線駅チカの城塞 [隠れ郷土史]

その城跡は上越新幹線の駅近にある。
駅からは歩いて5分足らずです。
こりゃ楽そうだな。実際、そこへ行くのは楽だった。着いてからも楽だった。道路は城域の高さと一緒だったからである。比高差がない。
上毛高原駅1.jpg
チケット.jpg
高崎駅9:51発、MAXたにがわ309号・越後湯沢行に乗車。乗車時間僅か16分足らず。10:07に上毛高原駅に着いた。
ここで帰りの上り電車時刻を確認しとくべきだったのだが。。。
上毛高原駅2.jpg

見えてきた.jpg
小川城標注.jpg
国道291沿いに徒歩5分。デカい案内標識があった。幟もはためいている。
国道は城域を横断している。向かって左側が本郭、道路を挟んで右の畑、集落が二の郭。
国道=城域の高さなので、そのまま入って行ける。一旦、堀の中に下りて本郭に上がる。深さは5m程度。
折れてる堀.jpg
堀1.jpg
堀2.jpg
堀3.jpg
堀4.jpg
この時期、蜘蛛の巣がある。蚊もいる。
暑かったが、敢えて上着で身を護った。
本郭1.jpg
本郭の大部分は、何やら植林されているスペースがあって踏み込めない。整備されていない花壇?
本郭2.jpg
現地の解説板はこの城塞の興亡についてかなり詳しく述べてある。地元の「おらが殿さま」のいいトコだけを述べている訳ではない。
地元の沼田氏の支配下だった小川氏がいてドタバタ内乱している説明に10数行も割いている。その後、小田原北条氏の脅威が北上してきた頃のこと。
「大永4年(1524年)上方より北面の武士(京都御所軽微)浪人して此の地に来る。赤松則村の裔にして赤松捨五郎祐正と言う。客分として城内にとどまるうち次第に軍議にも加わり其の才を認められ、後に景季(小川景季という人)の後家と女合わせ、上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斎と名乗る」
赤松捨五郎祐正~小川可遊斎とは何者なのか。
応仁の乱で荒れ果てた京から地方へ流れて来た浪人、若い頃の北条早雲(伊勢新九郎)のようなイメージだろうか。
解説板をそのまま読むと、内乱で城主がいなくなり、京都から名門・赤松氏の末裔と自称するアヤしい浪人が流れてきて、客分だったのが軍議にも加わり、おそらく小さい戦闘で功を表し、他に候補者がいなかったので前城主かその嫡男の未亡人を娶り、棚から牡丹餅のように小川氏の名跡を継いで小川可遊斎と名乗り、それを越後の上杉謙信が裁可したといふものだが、このままストレートに読むとちょっと疑問符が付く。
上方から赤松則村の裔、赤松捨五郎祐正が来たのが大永4年(1524年)。
まだ謙信はこの世の生を受けていない。享禄3年(1530年)生です。
そこに引っ掛かるかって?
由来1.jpg
由来2.jpg
上げ足を取るわけではないが、謙信が関東に影響力を及ぼすのは、関東管領上杉憲政が北条氏康に追われ、上州から越後へ逃亡したのが天文21年(1552年)以降である。この年の8月に謙信自らではなく、越後からは配下の本庄繁長他を上州に送り込んで沼田から北条軍を撤退させている。
上毛のいち土豪の内紛にクビを突っ込み可遊斎を裁可するとしても、可遊斎がこの地に流れ着いた1552年と、謙信の生年1539年では30年近くの差がある。
後に景季の後家と女合わせ上杉謙信の裁可を得て名跡となり・・・
後家さんを貰ったのはいいが、謙信の裁可を得たのはかなり後ではないか。タナボタで城主になった小川可遊斎が謙信の裁可を受けたのは遥か後年、関東管領上杉憲政を受け入れ上杉家の名跡を継いだ頃か、京に上洛して将軍足利義輝と謁見した頃(天文21年、1552年以降?)だと思う。

さっきからタナボタタナボタ言ってますが、小川可遊斎と言う人、戦巧者ではあったらしい。
可遊斎は小田原北条氏の軍勢を2度撃退している。
初回は天正7年(1579年)10月、謙信の跡目相続争い(御館の乱)で北条家出身の景虎を救援できず北条氏照、氏邦兄弟が関東に撤退した際、腹いせまぎれに小川城を攻撃したが小川可遊斎はこれを撃退した。
翌天正8年(1580年)、可遊斎は上州に進出して来た真田昌幸勢と共闘して再度、北条氏邦の軍勢を撃退している。この戦闘の背景は真田の主君、武田勝頼が、上杉景勝から黄金を貰ってと和睦し、形の上では甲越同盟になったので、武田と北条が手切れになってしまったからである。対北条戦線で「敵の敵は味方」の構図になり可遊斎は真田の寄騎という形にになった。
だが真田昌幸はこの地、小川から先の沼田が欲しいのである。小川可遊斎のアタマ越しに沼田城へ調略の手を伸ばす。これが北条氏邦を本気で怒らせ、天正8年の秋に3度目の攻撃を受けた。それほど大きい城ではないのだが、「数倍の兵力を以って小川城を囲む」とある。
小川城は陥落する。可遊斎は上毛高原駅の西にある見城山の柵に籠って抵抗するが、水や糧秣の補給に苦しみ、自分を認可してくれた謙信不在の越後へ落ちていった。
この時、真田昌幸は助けに来なかったらしい。結局真田はこの地をGETするのだが、この辺りはちょっとアヤしくもある。
最後に抵抗した見城山が見えます。
最後の抵抗.jpg
これは二の丸一帯。集落と畑、後はヤブです。ヤブを除いて完全に私有地です。
向こうは二の郭.jpg
二の丸1.jpg二の丸2.jpg
二の丸3.jpg真田伊賀って誰?.jpg
地元のヒーロー可遊斎が光芒のように輝くのは天正7年と8年の2年足らずでしかない。だが小が大を撃退するサマは痛快ではある。
最後に振り返る.jpg
楽チンな訪城であった。道路と城域の高さが同じなので、平城と見間違うばかりである。
それでも靴と裾がやや泥で汚れてしまった。
自販機で水を買って洗った。本郭の入口には自販機があって、そこで水分補給はできます。WCは無いです。(それでも泥汚れは落ちず、帰宅してからすぐさまクリーニング屋へ直行。)
最後に振り返った上の写真の時刻は10:37で、駅に戻ったら、10:41の上り電車が行ってしまった後だった。
次の上り電車は11:45発、MAXたにがわ410号までないぞ。
腹が減った~。
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新田の庄 江田館 [隠れ郷土史]

群馬泉酒蔵を過ぎて、伊勢崎市方面へ向かう途中の散策バナシ。
群馬県太田市に新田と名のつく町がある。新田〇〇町がたくさんある。
新田赤堀町、新田市町、新田市野井町、新田市野倉町、新田大町、新田大根町、新田金井町、新田嘉弥町(カネチョウ)、新田上江田町、新田上田中町、新田上中町、新田木崎町、新田小金井町、新田小金町、新田権右衛門町、新田下江田町、新田下田中町、新田反町町、新田高尾町、新田多村新田町、新田溜池町、新田天良町、新田中江田町、新田萩町、新田花香塚町、新田早川町、新田瑞木町、新田村田町といった塩梅で数えてみたら28町あった。新田氏を、新田義貞を誇りにしている地域である。
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今回取り上げるのは新田上江田町にある江田館というもの。
近世の大城郭じゃないですよ。鎌倉時代の豪族屋敷にちょっと手を加えたもの。
ここには新田一族の傍流。江田氏がいた方形館。夏空の晴れた昼下がりに群馬泉酒蔵の延長でここを通りかかった。
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新田氏を上野源氏と呼ぶそうだが、もとは河内源氏3代目・八慢太郎源義家の四男・義国の長子である新田義重が新田氏の始祖といふ。
義重の四男・新田義季(※)から4代目が江田行義という人でここに住んでいた。新田一族の傍流といっていい。
江田行義という人は新田義貞が挙兵して鎌倉へ攻め上るきっかけのひとつを担っている。
義貞が挙兵したのは護良親王か後醍醐天皇から綸旨を受け取ったという大義名分があったとしておこう。だがそれは表向きであってホントの挙兵要因は、新田荘に幕府の徴税使がやってきて6万貫文の軍資金を出せと。納期の期限は僅か5日。
無理難題である。6万貫文って現代だと幾らくらいだろうか。経済的に追い詰められて一族で挙兵したというのが真相ではないだろうか。
吉川英治の私本太平記では銭5万貫となっていて、「銭五万貫五日ノ内ニ上納ノ事 右、領主庄家、一致シテ違反ナカルベキ旨、御上意也」とある。
義貞の弟、脇屋義助が「無い袖は振れぬ」と拒絶する。徴税使は「しからば直接我らの手で徴発する」50人の兵を連れて新田の庄を恐慌状態に陥れるのだが、叛旗を翻す決意をした義貞に誅殺された。
この事件とは別に江田行義は北条得宗家から嫌がらせをうけている。最後の執権北条高時は、江田の所領を東武伊勢崎線世良田駅から南800mにある長楽寺という寺に寄進する文書を発給した。江田行義の名前はこの時に登場するのだが、寺に寄進する云々は売却寄進と思わ、寺に江田の所領を売ることにより幕府はその寺の庇護者となり、門前町の上がりを搾取するという仕組みではないだろうか。
だが太平記では江田の所領売却には触れていない。そのまま一族は挙兵する。
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極楽寺坂.jpg
私本太平記で義貞が挙兵する項「触れ不動」で、船田という新田家の執事が点呼をとっている。
脇屋二郎義助・・・義貞の弟ですね。大舘宗氏、堀口貞満、堀口行義、岩松経家、里見義胤に続いて江田行義が名前だけ登場する。江田行義は挙兵した義貞について行き、分倍河原では右軍の将を努め、鎌倉の極楽寺坂を抜こうと同族の大舘宗氏と共に攻めかけた。新田次郎著の小説では江田は化粧坂を攻めて幕府軍の中枢、赤橋守時一族を混戦の末に破っている。
極楽寺坂切通は突破できず大館宗氏は戦死。新田義貞は極楽寺坂切通の突破を断念し、伊稲村ケ崎に剣を投じて干潮を祈願した伝説に繋がる。
稲村ケ崎.jpg
後年、新田義貞は足利尊氏と対立する。江田行義も室町幕府の追討を受ける側になる。江田行義は義貞と離れて行方がわからなくなるが、足利幕府が滅んでから江田一族の誰かがこの地に戻って来た。既に館一帯は小田原北条氏に属した由良氏の所有となっていたのだが、江田氏の子孫がこの地一帯を氏神として保全する。ここに祀ってあったものは明治8年(1875年)に太田金山城(関東に石垣の城は無いを覆した巨城、私は行ってません。)の新田神社に移された。
駐車場.jpg
舗装されていない砂利と雑草だらけの駐車場にくるまが数台停まっており、何かのイベントかと中心部を見たら、野良着姿(失礼)のオジちゃんオバちゃんたち10数人が発掘の最中だった。
土塁の上にはアウトドア用の折り畳み椅子、テーブルが少しあって、昼食とお茶した痕があった。形ばかり「こんにちは」「どーも」最低限の挨拶だけ交わして後はお互い知らん顔。
炎天下の昼下がりにスーツ姿で現れた私をいぶかしむようでもある。
発掘中で立ち入り禁止.jpg
発掘中1.jpg
発掘中2.jpg
何故カットしてあるのかな.jpg
立ち入り禁止のロープと札があったので、方形館を囲む土塁上の一周は諦め、内側から少し見てまわり、一旦外に出て反時計まわりに館をぐるっと一周した。ほぼ全周を掘が巡ってましたね。
南側の堀1.jpg
南側の堀2.jpg
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北側の土塁から堀を見下ろす2.jpg
西側のライン1.jpg
西側のライン2.jpg
西側の堀.jpg
夏空に映える江田館跡.jpg
どれも同じような写真ばっかりですが、平城、館なんでのはこんなものですよ。なかなかいい散策でしたよ。なんてったって山城と違ってゼェゼェハァハァ息が切れないのがいいね。

(※)四代遡って義季から分かれた家に、得川姓、世良田姓を名乗るようになった家がある。
得川・世良田は後世の徳川将軍家に連なる系譜?後世のデッチ上げでなければ江田氏と徳川氏は遠く縁戚関係にある家柄だったのか。
反町館.jpg生品神社.jpg
またこことは別に、義貞が住んでいた?反町館や、挙兵時の舞台生品神社等も訪問済みですが、それは項とUp時期を改めます。
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後閑堀ノ内の謎 [隠れ郷土史]

安中市上後閑にある長源寺という寺が、来年大河に取り上げられる真田六連銭発祥の地?などという記事をUPした時、ちょっと気になる場所を見つけたんです。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-07-20-6
長源寺のイワレは安中市の史料他で見たのですが、そこにホントに真田幸隆が隠れ住んでいたかどうかはどの史料にも無かった。その調査過程で上後閑長源寺に行く途中に堀ノ内という場所があるのに気付いた。ピンと来たので安中市史料のリストを見たらそこには後閑堀ノ内とあって、
所在は上後閑字堀之内
安中市遺跡番NO.1585
立地は平地
形態は館?
現況は宅地・畑
遺存状況は・・・消滅・・・
主要遺構は、削平地・堀?
クエスチョンが2つある。
この自信の無さそうな遺構をググってみたら、ある素晴らしいサイトhttp://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-2779.htmlにたどり着いたのもあって、そちら様も参考にしながら行ってみた。
一覧2.jpg一覧1.jpg
何故、堀ノ内にピンと来たか。
皆さんはそれを聞いて何を連想されます?屈強な殿方で神奈川県民だったらソープ街で有名な川崎市堀之内を脳裡に浮かべるのではないか。
そう思った方、風俗からアタマを切り離してください。堀ノ内とはその名の通り堀の内側のことです。
例えばそこの領主が自分の家屋敷の周囲に田畑や牧を所有し、その周囲を堀(濠)で囲んだ地域。
これが大規模になると武家屋敷を中心に、商店や農民をも抱き込んだ総構えの城下町にもなる。
城下町に川が流れているケースが多いのもそう。防衛や水運の為でもある。
寺社勢力などでも独自の防衛基盤を持つ場合、寺地の境界を土居と堀(濠)で囲むこともある。
その内側のことを言うのです。
川崎堀之内で言えば古来から現在のような色町だった訳ではなく、平安時代に桓武平氏秩父氏の一党、河崎基家という人が居住していた。まさか河崎殿も、自分が居住した一帯が後年、風俗街になるとは思わなかっただろう。
でもここでは本題ではないのでこれ以上は触れません。いつから風俗街になったのか、これも興味あるところではありますが省略します。
(横須賀市にも京急の駅で掘ノ内駅があるが、そこのイワレはサッパリわからない。)
堀ノ内地図.jpg
後閑の堀ノ内へ行くには・・・まぁ行く人は限りなく少ないかと思いますが・・・http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-07-20-6で載せた長源寺へ行くルートと全く一緒です。JR磯部駅から北へひたすら走り、後閑川に沿うと右手に後閑城公園への案内板があって、そこを右手に見ながら長源寺方面へひたすら走ります。
途中、左にある駐在所を過ぎて、左からの合流する道を無視、しばらくすると右手に別れ道が現れるので左折します。その道は安中榛名駅に至る道なので時折くるまが走り抜けます。
後閑川を渡る橋を小井戸橋というのですが、その先左手に見えます。
小井戸橋1.jpg
左手にそこだけ田んぼにせり出した一帯がある。それです。
ズーム.jpg
これがそうなのか?
私は裏手に回ってそこに停めて見物しましたが、その道は狭く、自動車1台停めたら行き違いができないのだ。
どうせすぐにくるまなんか来ないだろうと思ってそこに止めたまま、先端まで行ってみました。
くるまは小井戸橋のたもとに停めるのがいいでしょう。
背後から回り込む.jpg
それほど高低差はない.jpg
四角い段丘が1段あってそれっぽく見えますが、周囲に濠もなく、単に台地が出っ張っただけです。高低差もあまり無く、要害性は皆無といっていい。
徐々に先端へ.jpg
先端の隅に来たとこ.jpg
そこから回り込んでここまで.jpg
先端から先は田畑になっていて、そこから回り込むことは憚られた。。
堀ノ内の内側も私有地で畑になっています。
畑になっている.jpg
これだけである!!
我ながら何てヒマな見学をしたのかと。周囲は見渡す限りの田んぼなので地元民に不審者に間違われてもオカシくない。
誰かがいたら「この段丘に昔、誰かが住んでたの?」と聞いてみたかったのだが。

ではこれは何なのか。
よくあるネタで、この単郭が山の上にあったら「そりゃ狼煙台だ」で片づけられてしまうところだが、ここは平地です。それは絶対に有りえない。
安中市の史料には館とあったが、ここに誰かがいたのだろうか。

安中市の史料にも縄張りがマンガのように描いてあった。
安中市史料拡大2.jpg
真ん中を南北に貫いているのは、現在の小井戸橋から峠を越えて、JR長野北陸新幹線安中榛名駅へ至る道に違いない。街道筋を抑える関だったのだろうか。
子供がスケッチしたような、笑っちゃうくらに簡易的な縄張りであるが、市の教育委員会も、これ以上でもこれ以下でも描きようが無かったに違いない。
こういうケースは、史料不足とはいえ記録に収めるのがその筋の大事な仕事なんです。取り敢えず載せないと後世に伝わらないからです。
ズームもう1枚.jpg
今後、新史料が発見される可能性も限りなく低いだろう。いつかは宅地化するかも知れない。
先達して下さった武蔵の五遁様に御礼申し上げます。
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井伊直孝の隠れ寺(豪徳寺の写真追加) [隠れ郷土史]

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安中市、下後閑にあるお寺です。北野寺(キタノジ)
家康が関東に入府した際、譜代家臣4天王・赤備えの井伊兵部大輔直政を上野に配した。箕輪城→高崎城に移って、関ヶ原の功で近江佐和山に移封される。その頃かもっと前か、赤備えの井伊直政の次男、直孝という人が幼少の折、この寺の薬師堂で晩学に励んだ。彦根藩二代目藩主になる人です。
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井伊直孝は誰が演じるかわからないが来年の大河でも登場する可能性が高い。
直孝は大阪冬の陣で真田勢の挑発に乗り、真田丸に抜け駆けして押し寄せたが、真田勢や木村重成勢の反撃を喰らい500人の死傷者を出して惨敗した人です。
豊臣秀頼と淀殿が逃げ込んだ大坂城山里曲輪を包囲し、一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ人でもある。
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これだけだとイメージが悪いので他に幾つか。
夏の陣では挽回し、若尾八重で長宗我部盛親勢を破り、捕えられた盛親が粗末な雑食を与えられていたのを座敷に上げて最後の晩餐ではないが、大名料理を喰わせた人。
仙台代博物館に現存しているが、伊達政宗の100万石のお墨付きを、「今更こんなのを持って何になるんですか」と本人の目の前でビリビリに破いたか、火鉢に放り混んで焼き捨てちゃった人。
世田谷に鷹狩に出た時に雷雨に見舞われ、荒れ寺で猫が手招きしたので雨宿りを兼ねて寺の和尚と親しくなった。これが現在の井伊家菩提寺でもある世田谷の豪徳寺。招き猫、ひこにゃんの由来。直孝の墓もそこにある。
先日、行って来ました。豪徳寺です。↓
豪徳寺1.jpg
豪徳寺境内、井伊家の墓所入口です。↓
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直孝公のお墓は奥にあります。↓
直孝公のお墓.jpg

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直孝は後年、亡くなるまで幕府の要職にあった。最初の大老(最初は大老と呼ばなかったかも知れない)でもあり、家中で殉死を禁じたり、清に滅ぼされた明の出兵以来を秀吉の朝鮮出兵を例に出して反対したり。少なくとも暗君ではなさそうである。
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関ヶ原までは、高崎から安中にかては井伊領だった。でも直孝は安中藩主にはならなかった。それは後年、井伊本家の彦根藩を継いだからだが、初代安中藩主は直孝の異母兄、直勝という人なんです。
実はこの異母兄・直勝が井伊直政の嫡男で、一旦は近江佐和山に入っているのだが、家中不和等あって家康と幕閣が直勝の井伊本家相続を認めず、近江の井伊本家18万石を異母弟の直孝に継がせ、直勝を安中藩3万石に持ってきた。
なので直勝は本家たる彦根藩主には数えられていない。分家の初代安中藩主になっている。この入れ替えには何か事情があったようです。直勝は身体が弱かった(直孝よりも長命だったそうだが。)、家康が直孝に甘かった(真田丸の抜け駆けも咎めず)、譜代井伊家家臣と武田遺臣との不和とか。
直孝が北野寺に預けられたのは、母の出自がそれほど高貴ではなかったか、井伊直政が正室と直勝に対して遠慮があった・・・後世の人はいろいろ考える訳です。家康のご落胤説とかね。
ホントの嫡男、直勝にしてみれば、自分は嫡男なのに安中藩3万石で、弟の直孝に彦根本藩を奪われてしまった訳です。直孝は固辞したが幕閣の裁定は覆らなかった。元和元年(1615年)家康が亡くなる前年、「兄直勝ガ多病ニシテソノ任ニ耐エズ、汝父直政ノ家督ヲ相続シ軍務ヲ掌ルベシ」・・・安中市史にはこう書いてありました。家康の意志はあくまで直孝にあったらしい。
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傷心していたかも知れない直勝は荒れていた安中城と城下を整備したが、安中藩は直勝の次、直好の代で遠州に移封され、その後に水野家、堀田家、板倉家、内藤家と続くが、ここ北野寺を長年庇護したのは安中藩よりもむしろ彦根藩の井伊本家ではなかったか。

寺はご住職の住居も兼ねているようです。でも境内には誰もいなかった。いたら「直孝公は何処でお勉強してたの?」と訊いてみたかったのだが。
北野寺8.jpg
北野寺のある下後閑からくるまで10分ほどの場所には、前に載せた真田幸隆が隠れていた長源寺があって、幸隆はそこの住職から餞別に六枚の銭を貰いそれが六連銭の旗印になった。その旗は真田丸にも靡いていたわけで、真田丸に立て籠もった家、真田丸に攻め寄せた人、時代の差はあれど、後世に因縁浅からぬ両家が隠れていたという不思議な地です。
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蜘蛛巣城(富岡市高林城) [隠れ郷土史]

蜘蛛巣城.jpg
この記事、偉大なる故・黒澤明監督の作品ネタではありません。
私が無名の小城にアタックしたが玉砕したという記事です。晩夏の8月末のことです。
関越道の藤岡JCTから上信越自動車道に逸れ、甘楽PAでカツ丼を喰ってから、富岡ICを下りて富岡丘陵を越えて安中市へ向かう途中、黒岩という地に立ち寄った。
黒岩小学校の前に公民館があってくるまはそこに停めた。そこは役所の分室のようです。公民館と隣接する運動場側から道路と川をオーバークロスして向かいの小学校に渡る歩道橋がある。小学校と運動場との共同管理運営をしているようでしたね。職員さんも3人ほど詰めていました。
公民館.jpg
私はこの黒岩一帯の道を平成24年から数えれないくらい走ったものです。一度、東京から来た人を同乗させてこの辺りを走ったら、ナビが無いもんだから、
「何処を走ってるんですか?」
道に迷ったと思ったらしくそう怪訝荘に言われたことがある。この里を抜けると妙義山が西に見えるので、迷うこたぁないんだけどね。
黒岩小学校HPには、「電車で来るには上信電鉄富岡駅下車徒歩40分。(タクシーの場合10分)、くるまで来るには、上信越道富岡ICから約6km、15分。。。」とある。
最寄駅などない。生徒数はおよそ80人程度だったと思います。
「富岡市の北側に広がる富岡丘陵の南西部、里山に囲まれた自然豊かな高台にあります。4階建ての校舎から見える木々の色づきや校庭に響き渡る野鳥のさえずりで四季の変化が手に取るように分かります。校舎の北側には星川が流れてい時季になると水鳥も渡ってきます。。。」
周囲には飲食店もコンビニもない。古い雑貨店らしきものがあったがクローズしたのか、自販機だけあった。HPでの紹介のとおり、里山に囲まれているが、自然豊かな高台=小学校と隣接する小山にコンパクトな城塞があって、マニアの方には、無名だが比高差がそれほどなく訪城が楽チンで、二の郭はヤブだが本郭は見どころがあるので是非おススメ。。。
公民館の駐車場にはこの辺り一帯の地図がある。
その城は高林城といふ。
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私がそんなのがあるなんて知ったのは今年になてからです。住んでた頃の冬に行っておけばよかった。
公民館にご挨拶し、「この辺りにタカバヤシジョウって何処ですか?」と訊いたの。
「ああ、コウリンジョウ(高林城)ですね」
「コウリンジョウ?」
「そこの歩道橋を渡ると墓地があって、その先を上って行くんですよ。そんなにたいした傾斜ではないんですが、今の時期だと・・・」
言わんとしていることはわかった。確かに懸念がある。8月の晩夏だからヤブか草ぼうぼうなのでしょう。
「高い山、急な山ではないようですが」
「ええ。そこの小学校の子らも登りますからね。ただ昨日の雨で足場がどうか。時期が来ると整備するんですが。行かれるなら無理しないでくださいね。無理せず」
無理せずを2回か3回繰り返し言われたから、ガタイだけで体力の無い年寄りと思ったかな。公民館前の駐車場にくるまを停める旨を告げて、訪城口へ向かった。
ちょうど昼時で3人いた職員さんは手持ちの弁当を開きかけてた。昼を喰いながら、「誰あの人?どこのヒマ人?」とでも会話したに違いない。
歩道橋2.jpg
歩道橋で公道と川を越えて学校側に渡るとなるほど墓地、お墓がある。その間に林道というか、獣道があって訪城路になっている。お墓参りに来るひとは公民館に停めるしかないわけですな。
小学校脇を上がる.jpg
訪城口.jpg
お手製.jpg
イノシシが出るってことか!!
まぁ大丈夫であろう。事前調査では頂上本郭へ20分も歩けば着くらしいが、そこへ至るまでに、いや、まだ攻城前半で大敵が待ち構えていた。
蜘蛛の巣である!!
それも一つふたつではない。ご覧のように訪城路は一本道になっていて、左右から張り出してる木々の間を通っているのだが、そこかしこが蜘蛛の巣だらけなのである。
某山城訪城路.jpg
私は注意深く蜘蛛の巣を避け、迂回し、這いつくばって潜り抜けたりしながら少しずつ登ったが、少なくとも3つ以上の蜘蛛の巣を破壊してしまい、巣の残骸が私のアタマに貼り付いた。
左右に切れてしまった巣(蜘蛛の糸)は左右どちらかに動いてしまう。そこには私に巣を壊されたヌシがいて、恨めし気に私を睨んでたような気がする。
「誰だおまえ?余所者だな?この山城にこの時期に来るなよ」という蜘蛛のお告げを聞いた。
こりゃ無理だワ。攻城にとりかかってから僅か10分足らず。もう断念した。
訪城道.jpg
だが下ろうとしたら今度は蜘蛛の巣が見えない。登ってる時は山城の向こうから刺す光が逆光になり、蜘蛛の巣がキラキラ光って見える場合もあるのだが、下りだと私の図体が光を遮断してよく見えないのです。下りではアタマだけでなく胴体にもひかっかった。
迂回したら小学校側から丸見えだった。
もし生徒らが窓際にいたら私を指して、「アイツ、失敗したんじゃない?」子供らの声が聞こえそうである。
小学校側の切岸.jpg
ほうほうの体で麓の公民館に逃げ帰った。
外の水道水をお借りして額に貼り付いた蜘蛛の巣と汗を洗い流した。顔をアタマを拭いてから撤退のご挨拶。私は両腕を前でクロスしながら、
「無理でした」
「無理でしたか。。。」
「足場よりも、蜘蛛の巣が」
「ああ、蜘蛛の巣ね」
夏場に訪城するそのスジの人は頭の天辺(帽子)からつま先(安全靴)まで、腕は長袖で虫刺されスプレーを吹きかけて準備万端、蜘蛛の巣を蹴散らしながらズンズン進んで行くんでしょうな。
「夏場は無理でしょう。いずれ整備しますので」
整備するたって、草刈り程度だろうけど。
「秋以降、冬場に是非お出でください」
えっ!!ほうほうの体で退散した私に「またお出でください」って言われたのです。さすがは群馬人情。わ・ざ・わ・ざ・来たけど断念したので、リベンジ大願成就してくださいってか。
「ええ、そうします」と言うしかないじゃん。
やれやれと思いながらくるまに戻ったら、まだアタマに蜘蛛糸が残っていたね。ベトベトする。濡れハンカチでゴシゴシ拭いた。
そのまま安中市へ向かう途中で思いだした。巣を張る蜘蛛は風が吹くのを待って巣を張る。巣を張るのにどれだけ時間がかかるのかわからないが。その後も獲物が来るのをじっと待っているんだな。酔狂で訪城してその世界を破壊して悪かったかなと。
私は家にチビタランチュラ数匹と同居しているので日頃から蜘蛛には寛大なのです。外来種の毒蜘蛛でない限りね。
MAP1.jpg
高林城の背景、経緯はわかっていない。黒岩小学校の里山見学コース、ハイキングコースも兼ねています。整備は地元の人です。小学校生かOBのお手製案内板もあってお絵かきに等しいが微笑ましい限りである。地元に大事にされている里山にある。冬場は手軽に登れる筈ですが・・・。
リベンジがあるかどうか。
でもああ言われたら来るしかないだろうね。
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穴山梅雪を弁護・・・できないなぁ・・・ [隠れ郷土史]

学校敷地の脇にある.jpg
富士浅間大社の大宮城、前Blogで触れた葛飾区の葛西城、何も無い跡地に偶然出くわすことが少なくないのですが・・・。
この江尻城は平城だったらしい。江尻小学校辺りがその跡地で、校内には生徒たちの為だけに造ったとしか思えない碑と案内板があると聞き及んだ。それを見つける為に平日の白昼、私なんぞが許可無く校内をウロついたら警察に通報されかねない。
校内に踏み込まなくても。校庭に面した一通の通り沿いに案内板がたっている。縄張りも描かれている。
江尻城解説板.jpg
縄張り.jpg
周囲は市街地化している。城下町だけあって道は広くない。一通なので路肩に停めて解説板をジロジロ見てたら、ご近所のオバさんやご隠居がじーっとシロい目で見やがるんですよ。しかもヒソヒソ話。それでも手短に、大手町、二の丸町、当時を偲ぶ地名を確認した。
二の丸町解説板.jpg
校門は本丸門.jpg
この平城は武田氏の第二次駿河侵攻において拠点、基地になった。場所柄、水軍の補給基地も兼ねていたのではないか。
晩年に差し掛かった武田信玄は新鮮な海産物を喰ったことがないので(笑)、海がどうしても欲しかったのだろう。川中島から先には海があるがそこは長尾景虎がジャマして侵攻できなかった。欲張って海の無い上州を席巻できたので目を転じ、駿河侵攻反対派の嫡男義信を廃嫡、三国同盟を破棄してまで駿河に南下したかったのはその先を見据えていた。当時の寿命だともう若くはない。焦った。
南下して西上する戦略の途中で造られたのが江尻城。最初の縄張りは馬場信春で初代城代は山県昌景。だが後年、2人とも設楽が原で戦死してしまい、駿河寄の河内を治めていた穴山信君が城代となった。梅雪入道で知られる。武田家を滅亡に追い込んだ張本人扱いされてるあの人です。
当人を何とか弁護できないかと現代人の感覚でアタマを捻ったのだが・・・
二の丸町解説板.jpg
稲荷神社.jpg
穴山氏は武田家と数代遡った頃から二重三重の縁を結んでいる。
穴山信君のお母さんは信玄の姉さんで夫人は信玄の娘さん。官途名は玄蕃頭から武田信虎の受領名でもあった陸奥守。穴山氏は、一条氏、葛山氏、川窪氏、仁科氏他、数多い親類衆の中で筆頭といっていい。
言い換えれば御親類衆筆頭なのにああいう裏切り方をしたから武田ファンでもあまり評判が良くない。
穴山信君は重要なポイントを押さえるキャラなので必ず登場して当然の位置づけだが、武田もののドラマでは殆ど登場しない。武田家中で親類や身内はいいとこ信繁、信廉まで。他の武田親族集はあまり出て来ないのだ。
それは穴山信君の出番が増えて来るのは信玄が逝去してからで、それまでも川中島、三方ヶ原、設楽が原と従軍しているが、御親類衆なので最前線で華々しく戦ったという印象は全くない。脇備えか後備えだったのだろうか。
ということはどんな俳優さんが演じてもギャラが無駄なだけで、信玄が死んでからの武田家後日譚というか、武田勝頼が主役で描かれない限り登場しないのではないか。いいとこ本能寺の変後、家康の脱出劇(伊賀越え)で登場するくらいであろ。
信玄の死後、どの方面を見ても武田勝頼とソリが合わなかったように描かれる。甲陽軍鑑によれば設楽が原の決戦にで勝頼を諭したはいいが、戦線をいち早く離脱したとか。
勝頼に付いてって大丈夫だろうかというのはあったと思う。逆に勝頼は信君が煙たかったに違いない。
穴山信君画像.jpg
穴山信君・・・梅雪は、武田家が滅亡する天正十年(1582年)以前に寝返っている。
何が不満だったのか?
設楽が原の戦後、弱体化した武田家中で地位を高めんとした梅雪が、自分の嫡男勝千代と勝頼の娘に婚約が内定していたのを履行するよう迫ったが、甲陽軍鑑で佞臣と謗られる長坂長閑斎、跡部勝資の諫言によって破談にさせられたとか。
何処かで勝頼を見限ったに違いない。では寝返りの条件は?
家康への内応の条件は、甲斐一国を信君へ拝領すること。武田氏の名跡を継承すること。
では何故、評判が悪いのか。他にも裏切り者がいるじゃないか。
先んじて離反した親族に信玄の娘婿、木曾義昌がいるが、彼は韮崎の新城、新府城築城費用や資材(木曾山中の良質の木材)搬出の負担増で前途を悲嘆して織田軍に寝返った。甲斐府中の人質も斬殺されているから購いも受けている。
都留群~大月辺りを領する郡内小山田信茂は土壇場で裏切って勝頼一行の受け入れを拒否した。郡内では織田軍の蹂躙を阻止したという声も小さくないようだが・・・。
でもやはり裏切りは裏切りだよね。

木曾義昌の人質が斬殺されたのを知った信君は甲斐府中の人質、妻子を脱出させる。
江尻城を家康家臣、本多重次に明け渡し、自身は家康に合流して富士川沿いに甲斐へ道案内をする。
穴山信君は凋落著しい武田家を見限り穴山氏として存続を賭けたのである。だが条件付きの寝返りが武田氏滅亡の決定打になった為に後世まで主家裏切りの不評を買うことになる。
今後、研究者が新史料を発掘して弁護しても、何世紀かけても悪いイメージは拭えないだろう。
二十四将の穴山梅雪.jpg
穴山信君は甲斐府中から離れて駿河方面の司令官か統治者として、興津や江尻に配置された。
海を見て潮の風を嗅いで過ごしたことが、穴山信君の心中に変化を及ぼしたのもあると思う。
国境に配置されたからには緊張が伴う。外交、折衝も請け負う。親族衆筆頭という肩書もあるから相手にも軽んじられない。だが外交が得意な者は相手からの外交にも弱いのだ。そこを徳川家康に付けこまれたのである。
裏切り、寝返りの代償として、河内領と駿河江尻領を安堵され、内応の声がけした家康の与力として付けられた。
信長にも目通りしている。信長の冷たい目に信君はどう写っただろうか。
だが、信君の安堵感は長く続かない。本能寺の変はすぐ近づいていた。
来年、真田丸では武田家滅亡も描かれるだろう。信君の役はどなたが演ずるのだろうか。

駿河江尻から甲斐の国に飛びます。
下写真は甲斐南部町の福士というところです。写真中央のこんもりした山は福士の狼煙台なんですが、この山の麓にお寺があって、そこに行って来ました。
福士の狼煙山.jpg
穴山信君(梅雪)には嫡男がいたんです。
だが僅か16歳で夭折してしまい穴山家は断絶する。船山温泉に行きがてら、この山の麓にあるその子のお墓に行ってきました。明日に一譚、別記事を挟んで、明後日掲載します。
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長源寺 真田六連銭発祥の寺? [隠れ郷土史]

群馬県安中市上後閑に長源寺という曹洞宗の古刹がある。後閑川や長源寺川の流れる谷の奥まった所にひっそりと建っている。
長源寺.jpg
特別貴重な保存物は無いようでこの寺は安中市文化財100典には入ってない。国指定4、国登録有形文化財指定4、群馬県指定21、安中市指定71、総計100の中には含まれていません。
安中市でも奥まったこの地へ来るには、キッチン104の前の道をひたすら道なりに走って九十九川を渡り、最後のコンビニを右手に見て、妙義山に向かって走り、途中、右にカーヴしたら、上後閑、長源氏方面への案内版があるから迷わないでしょう。
上後閑への道.jpg
九十九川、後閑川を何回か渡って、中後閑、上後閑と過ぎて行くと谷が狭まって来る。如何にも最後の集落を過ぎたら山林地帯ににあった。
上後閑の郷1.jpg
そこへ至る道.jpg
そこから先は・・・細い林道になっているようだが、地図を見たら秋間の山中を彷徨するような道で、自動車ではおそらく越えられないと思う。この寺は人が住んでいるところとしてはかなりドン詰まりにある。
朱塗りの欄干の橋が長源寺川に架かっていて、橋を渡れば長源寺の境内。
着いたところ.jpg
朱色の欄干.jpg
古木がそびえています。この時期には藪蚊、虫もいます。
山門に登る石段は苔むしているので足元に注意。
いざ寺へ.jpg
何でこの寺を訪問したかというと。。。
また行くのかよとお思いでしょうが、船山温泉行が迫って来て、行く前は2007年に放映された大河のDVDを観るか、サントラから幾つか聞いて甲斐の国への高揚をかきたてるのですが、DVD4巻二十四話に、この長源寺と晃運字伝という僧、住職が登場したのである。
でも住職ではないかも知れない。それは後述します。
寺の場面1.jpg
「その頃真田幸隆は、上州安中の長源寺にいた」というナレーションだったかな。
「安中?」
「???」
ジャン妻と顔を見合わせた。
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この寺に佐々木蔵助さん演じる真田幸隆がいた?
河越夜戦で種子島で撃たれた山本勘助(演:内野聖陽さん)が寝ている。
寺の場面2.jpg
晃運字伝を演じた俳優さんは冷泉公裕(レイゼイキミヒロ)さんという個性派で、瀕死の状態から蘇生した山本勘助に向かって毒づく。
「このお侍はしぶとい。まだ生きるつもりでおるぞ」
「御坊が手当を?」(勘助)
「儂は医者ではないでの。さような傷を診たことのある医者など少なかろうて。医者の投げ出した者を見るのが坊主の役目じゃ。どうせ仏になるならとやってみたまでよ」
毒づいた揚句、えぐり取った火縄の弾を見せた。
「山伏から聞いた覚えがあっての。蘆毛の馬の糞を水に溶かして飲ませればどのような傷も癒えるというもの」
勘助はイヤな顔をした。
勘助は真田を武田の幕僚に加えたいのだが、
「甲斐でも何処でも行くがよかろう。このまま出家もせず穀潰しの落ち武者を置いておくのは寺の迷惑じゃ」
言いたい放題であった。
和尚.jpg
僧侶役.jpg
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真田は上州を去って武田に降るのだが、御坊のお蔭で上州で命を拾いましたと晃運字伝に礼を述べても、
「その命をわざわざ捨てに行くような者に礼を言われても心地悪いわ」
とまたしても笑って毒づいた後で、「幸隆殿。この坊主からの餞別じゃ。受け取れ」
出されたのが六つの銭だった。
餞別.jpg
「六動銭じゃ。死人の棺に納めるものじゃ」
六連銭は三途の川の渡り賃。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界を表す。
「真田の家は一度死んだ。一度死んだ者は二度とは死なぬものじゃ」
真田幸隆は、「いずれ所領を取り戻したら寺を建てて晃運を開山にしてやろう」と大きいことを言う。
「何を。お前のようなウツケに何ができるか」と笑って返した。
真田幸隆は本懐を遂げる。信州小県郡、真田に帰還してから、長谷寺を創建して真田家の菩提寺とし、晃運を招いて開祖とする。ってことは安中長源寺時代の晃運字伝は住職ではなく寺僧のひとりでしかないのではないだろうか。寺全体を掌握する住職を引き抜く訳にもいかないだろう。
この話がホントなら、真田の旗印である六連銭発祥の地?もしくは寺と言っても過言ではないことになる。
六連銭の旗.jpg

階段を上る.jpg
山門.jpg
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長源寺は嘉吉3年(1443年だから室町時代)に開かれた。
創ったのは信濃からやって来た依田信濃守政知という人で、この寺に来る途中、右手にある後閑城(公園になっています)を作った人だという。
一旦は衰退したらしい。その後、やはり後閑城主だった新田伊勢守信純(後閑氏)という人が中興開基した。開基とはお寺を開くことで、中興とは一旦は衰えた状態を再び盛んにしたこと。
依田信濃守.jpg
新田伊勢守.jpg
境内の裏手や山になっていて熊でも猪でも出てきそうな雰囲気だが、その麓に開祖、中祖、歴代のご住職のお墓があった。そこに晃運字伝はあったかな。
真田が上州にいたのは、天文10年(1541年)に武田村上諏訪の連合軍に破れて故郷の信州真田を追われたからで、箕輪城の長野業政や、もとは先祖が一族だった?小県郡の滋野一族を頼ってやって来た。依田もその流に繋がる。彼らを頼る過程で長源寺と知り合ったのではないか。
裏手から境内を望む.jpg
階段を下る.jpg
真田幸隆は境内の何処にいたのだろうか。
この奥まった谷にある寺の境内に逼塞して読経三昧ではないでしょう。ここに来るまでの途中にある後閑城で食客になってたのではないか。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-17
後閑城.jpg

上後閑の郷2.jpg
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瑞々しい郷である。後閑川、長源寺川が流れ、九十九川にくなる。苔むした砂防ダム、堰堤もあったから、大雨には水が出るに違いない。雨の通り道なのだろう。心なしか、空は晴れ渡っているのに、寺の上と、秋間山に繋がる一帯には、いつ雨雲が湧きあがっても不思議でないように思えた。
真田幸隆がいた往時と風景は変わらないのではないだろうか。
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和が家近くの剣崎2城 [隠れ郷土史]

権田行バス.jpg
ドーミイン前のバス停、あら町銀行前、18:26発の権田行に乗車する。
権田は倉渕方面にある地で小栗上野介にちなむ場所です。高崎駅からそこまで通しで乗る人は少ないと思いますが、いつもはガラガラな路線バスなのに殆ど満席だった。
バスはひとつひとつ律儀に停車していく。並榎バス停までに誰かしら乗車、下車していた。現金で支払うお客さんは少なく、殆どがバスカードでしたね。
前面展望.jpg
引間の辺り.jpg
私は剣崎バス停で下りる。
バスは権田に向かって去って行く。
去って行くバス.jpg
交差点を左へ。コンビニ側に渡って緩い坂を上る。まだ日が長い。
途中、そこに階段があって、右上を見上げたら鳥居があるぞ。
階段上り口に何かの説明板があったが。。。
何だろう?.jpg
かすれて読めないじゃないか!!
読めないぞ.jpg
かろうじて、剣崎小路城と読めた。
目指す居酒屋、和が家はここから数十メートル。ちょっと寄り道した。
古墳の跡らしい.jpg
八幡の台地上にいます。階段を上がったら社も社務所も無いが、御嶽神社の境内らしいのだ。
読めない碑が立っている土壇は方形の古墳で、御嶽古墳、もしくは碓氷八幡26号墳というそうな。そこに、フォントがハッキリした解説板があった。
ハッキリした説明板.jpg
剣崎小路城(御嶽神社) 剣崎町字上小路
伝えによると永正四年(1507年)ごろ福田忠政がこの地に小路城を築城。
忠政の子加賀守信義は若田ヶ原の戦に功あり、武田信玄より剣崎、藤塚、豊岡の地を拝領す。
忠政-信義-勝政-信成と住し、天正十年(1583年)板鼻へ移居す。

福田忠政って誰?
子の加賀守信義も知らない。
ググッてみたら、福田氏は倉賀野十六騎の1人。倉賀野で年1回開催されるお祭り、武者行列にもいるという。
若田ヶ原は群馬八幡駅から見て西北の丘陵一帯と推定される。http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-05-22でも載せたように若田上水場から八幡霊園の辺りであろうかと。そこで甲州軍と上州一揆衆(リーダーは長野業政)が激戦になった。
説明板から察するに、福田氏は上州へ侵攻して来た武田軍の寄力にでもなったのだろうか。
供養塔だろうか.jpg
説明板はまだ続く。
剣崎鳴熊城 剣崎町字鳴熊六万坊
伝えによると天正十八年(1591年、一説に慶長四年)に柴田勝家の孫、三左衛門勝重が城主となる。
徳川家康に徴され碓氷、群馬の二郡内に二千石の采地を拝領す。関ヶ原、大阪、両役に戦功あり、武州に五百石を拝領す。
柴田三左衛門勝重-勝興-勝門-と住し、元禄七年(1694年)三河へ移り廃城となる。
柴田勝重は織田軍の柴田勝家の直系ではなく、勝家の姉の旦那、佐久間盛次の子で勝家の養子になった柴田勝政の子だという。
天正11年(1583年)に越前北ノ庄城が落城した際に、母方の祖父である上野の日根野高吉という人のもとに逃がされた。
後年16歳で元服し勝重に名乗る。慶長4年(1599年)徳川家康に仕え上野に2000石を賜る。旗本ですね。
柴田家は勝家の直系の系譜とはいえないが、後世そのまま旗本として続いたようである。
暗くなってきた.jpg
小路も鳴熊も高崎市史にあったかな~。記憶にないな~。
現地説明板に書かれている以上のことはわからないだろうね。ではこの場所に2つの古城跡の説明文が並んでるのはどういうことか。同一物件か?
いや、別物らしい。
前者は砦程度、後者は2000石だから陣屋規模のものではないだろうか。
振り返る.jpg
暗くなってきた。
これまで、和が家に向かってこの坂を歩いたのは数回あるが、いずれも暗い夜道で気付かなかっんだよね。
その先へ行く.jpg
見えてきた.jpg
和が家が見えてきた。
店に向かう右手の土手は道路掘削のものだが、ああいうのを見てしまうと城塞の切岸っぽく見えてしまうのはビョーキかな。
飲みながらこの2城の話をしたかって?
してないです。ただ、和が家のある一画も城域だったかも知れない。
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真田出丸伝承地へ行って来た [隠れ郷土史]

コインロッカーとジャン妻.jpg
JR大阪環状線の玉造駅で下りたとこ。
ジャン妻はワガママを言い出した。
「コインロッカーないの?」
私だってこの駅に初めて下りたんだから、コインロカーの有る無しなんて知らないよ。
「これから行くのは山城じゃぁないよ。荷物持って行けるよ」
「でも荷物持って歩くのイヤだ」
2日後のヒロさんとの昼酒の時にも「荷物持ち歩くのヤダ」とかヌカしてたからね。目ざとく見つけてゴソゴソ入れてた。
三光神社.jpg
真田丸.jpg
そこから徒歩5分ほどにある真田出丸伝承地は、ゆるい丘になっていて、公園、墓地、寺院、学校、宅地が立ち並んでいる。
三光神社にこんなのがあった。
真田幸村公之像.jpg
真田出丸は大阪城総構えの外にあるので、独立した砦、キル・ゾーンだったのかも知れない。
抜け穴!!
真田の抜け穴1.jpg
真田の抜け穴3.jpg
真田の抜け穴2.jpg
抜け穴の中.jpg
そこから徒歩数分。。。
心眼寺1.jpg
扉は六連銭1.jpg扉は六連銭2.jpg
その辺りにある心眼寺は寺の大扉に六連銭が銘打ってあった。
ここにも真田丸跡とある。
出丸跡の碑.jpg
真田左衛門佐信繁の墓碑?
幸村公の墓碑1.jpg
「信繁?何で幸村じゃないの?」
「家康をコテンパンに敗走させたんだから、後日、講談で憚りがあったんじゃないか?」
説明板.jpg
辺り一帯の地名を真田山町という。
隣接してこんな地名もある。
宰相山西公園?.jpg真田山の名前が.jpg
宰相山公園?
宰相とは加賀宰相、前田家のことではないのか。

真田丸を攻めて来たのは加賀前田勢で、数少ない冬の陣での直接戦闘の中に、真田出丸攻防戦がある。
出丸前方に篠山という丘があって、そこに真田兵が潜んでいた。やってきた加賀前田勢が陣地を構築しようとするのを真田兵が篠山から妨害した。
加賀前田勢は夜陰に乗じて篠山を奪おうと攻め上がったらもぬけの殻で、夜が明けたら真田勢が前田兵を愚弄、挑発した。挑発に乗った前田勢は真田丸に攻めかかるが、出丸からモロに銃撃を浴び、出丸から打って出た真田郡に蹂躙されて大損害を受ける。
「何で何も残ってないの?」
「・・・」
私は答えに窮した。
「本陣に攻め込まれて散々な目に遭ったんだから、残しておけないだろ」
「ふ~ん」
冬の陣講和条件、総堀を埋める(総構えの破却)によって破却されている。
心眼寺2.jpg
もしかして幸村?.jpg
真田信繁は次男なので国持ちではないし、後藤基次は黒田家家臣で主君長政と対立して出奔している。国持ちは長宗我部盛親だけ?でも盛親は関ヶ原で傍観しており、入城前の実戦経験はアヤしいところもある。(国持ちは他にもいた。伊勢桑名城主の氏家行広)
大阪城内には他にもイワク付きの人物がいる。
織田頼長・・・信長の末弟、有楽斎(長益)の次男。この人は格からいって総大将を希望したらしいが、有楽斎の進退からして何やらアヤしい。間諜だったのかも知れない。
小笠原権之丞・・・何と家康の子息というが、何で大阪方についたのだろうか。
御宿政友・・・信玄の侍医、御宿友綱の息子。(武田信玄六男の葛山信貞の子ともいう。)
増田盛次・・・豊臣政権五奉行の1人増田長盛の嫡子。
大谷大学吉治・・・関ヶ原で自刃したあの大谷刑部吉継の長男。
平塚左馬助為景・・・大谷刑部の寄騎だった美濃垂井城主平塚為広の嫡男。
前述の氏家行広・・・もと伊勢桑名城主。別名荻野道喜。こっちの方が有名かもしれない。
仙石秀範(宗也斎)・・・戦国史上で最も失敗し挽回した男を描いたヤングマガジンコミックス、センゴクシリーズで知られる仙石秀久(信州小諸初代藩主)の嫡男。
結城朝勝・・・下野宇都宮広綱の次男。名門結城家の養嗣子だったのを家康の次男、結城秀康に家督を奪われた人。
細川興秋・・・細川忠興の次男で母はガラシア婦人。
石川三長と康勝・・・家康の下を出奔した石川数正の子息たち。
新宮行朝・・・紀伊新宮城主だった新宮氏善の嫡子。
内藤元盛・・・周防内藤氏。毛利家重臣なのに入城した。
三好政康・・・信長の上洛前の永禄年間に畿内を席巻していた三好三人衆の1人で88歳だという。
浅井政高・・・淀殿の父、近江小谷浅井長政の従兄弟ともいうが。。。
細川頼範(元勝)・・・京兆家細川家(本流)当主。母が信長の妹。ということはこれまた淀殿の従兄弟か。
山名堯政・・・応仁の乱西軍の主将格だった名族、山名家の流れ。
この顔触れを見るといずれもB級クラスでメジャー団体とはいえないな。関ヶ原ではぐれた大名もしくはその子息か一族たち。もしくは名門の末裔たち。
いずれも戦国最後の決戦に賭けてやってきた。

宰相山公園を歩いて玉造駅に戻る途中、大阪市のミニ街宣カーがゆっくり走って来て、
「大阪都構想が不安なら、取り敢えず反対に入れましょう」
既に大阪都構想は結果が出ているが、このカーと私は目が合った。でも大阪人ではないのでスルーした。
玉造駅.jpg
今年は大坂の陣400年らしいね。
ということは、来年の主役、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親たちの没後400年でもある。あっ、もちろん豊家滅亡400年でもある。
ってことは、神君家康公没後400年でもあるわけか。

そして夜、この街へ向かう。
薄暮の和歌山2.jpg
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大宮城 富士浅間大社と運命共同体? [隠れ郷土史]

私たちジャン夫婦の初詣は10年以上に渡って静岡県富士宮市の富士浅間大社と決めている。
地元の神社でなくわざわざそこまで行きはじめた理由は何だったか忘れましたが、40台前半の頃、自分を取り巻く悪環境を変えようと祈祷をお願いしたことがある。
祈祷、お祓いを申し込む時、何をお願いしたいのか巫女さんだったかに訊かれるんです。印象に残ってるのは私の隣にいた夫婦が、「今、係争している裁判に勝ちたいんです」って周囲に聞こえるようにハッキリ言ってたこと。あまりに生臭い願い事だな~。神々もタイヘンだなと思ったよ。
私の場合、御利益はあったかって?
あるにはあったんです。その時の障害は取り除かれて今日に至っている。
浅間大社1.jpg
富士浅間大社に至るルートは、静岡の紀尾井、船山温泉ルートとも重なるので、年に一度ならず2~3回はお参りしています。
さすがに元旦に初詣という訳にはいかず、早くて1月半ば移行、遅い時は2月か3月になったりする。既にその年がスタートしてから行くんですね。年に最初の紀尾井か船山温泉の帰途に立ち寄る訳ですよ。
何をお願いするか。家内安全健康これだけ。商売繁盛とか、何かに打ち勝つ・・・例えば我に勝利を与えたまえとか、そういう野心的な類のものは祈願したことがないです。
富士が見える.jpg
富士拡大.jpg
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湧玉池からの水堀2.jpg
湧玉池からの水堀3.jpg
お参りしてて、以前から気になっていたことがある。
浅間大社のある一帯を静岡県富士宮市宮町というのだが、大型観光バスが駐車する浅間大社前~大宮町を東西に走る県道76号線の商店街右手、地図で見ると北側、浅間大社から見て湧玉池から東の向こう側にやや小高い斜面(言われなきゃ気付かない程度の高低差)がある。そこに大宮小学校校舎が見える。
境内から大宮城・小学校を望む.jpg
その辺り一帯を元城町というそうです。
元は城?.jpg
元城町?
いかにも曰くありげな町名ではないか。
こんなのもある。
城山組の山車倉庫.jpg
城山と銘打った山車の倉庫です。
調べてみたらこの地一帯は、駿府今川家傘下の国人領主、富士氏がいたという。大宮城といいます。
富士氏はもとは浅間大社の大宮司の家柄。バックに富士浅間大社がいたか、もしくは大社を護る為に武力化したのではないか。寺社勢力にはよくあるケースである。
大宮城があったと言われる小学校一帯は浅間大社と隣接しているのでほぼ一体であったといっていい。
あまり知られていないこの城が現れるのは、甲州軍の駿河侵攻を迎え撃ったからです。
当時の城主は富士兵部少輔信忠という人。民部とか宮内とかは神職に関係する官途名かと思いますが浅間大社の宮司も兼ねていたようです。神職は浅間大社で司り、政治や軍事は湧玉池の東にある大宮城(館か?)で執っていたのではないか。
今川家の傘下とはいえ、田楽狭間で討たれた今川義元の後を継いだ蹴鞠男、氏真の代になって数年経っている。凋落著しい。
三河の家康に内通しようとした家臣を駿府に呼び寄せて謀殺したりもしているので離反者も増えていく。井伊谷にいた井伊直虎(女性です)の地頭職を罷免したりもしている。
そこへ晩年の信玄が南下して来る。甲州軍の先方は穴山信君(梅雪)だった。甲州軍は永禄11年(1568年)12月、永禄12年(1569年)2月、永禄12年6月、しつこく南下して攻め寄せたが、富士信忠は初回と2回は撃退に成功する。
3回めは焦れた信玄が本隊引きつれて直接やって来た。甲州軍は本栖から御殿場を経て三島経由で進路を西に向け、大宮城へ攻め寄せた。
今川家はあてにならない。富士信忠は小田原北条氏政の庇護下にもあったらしいが、例によって優柔不断に描かれがちの北条氏政は援軍を送れなかったそうです。大宮城は駿河侵攻の喉元、最前線だが、今川、北条両氏から見捨てられた格好になった。
富士信忠は20日ほど頑張ったが、結果、穴山信君を通して7月に開城した。浅間大社が隣接しているので幾ら何でも焼き払うような暴挙はさすがに信玄でもできなかったに違いない。
信忠は武田氏に帰属する。穴山信君に預けられ、勝頼の代になって息子の信通が宮司に復権したが、神職に携わる代わりに軍事力は削がれていったと思われる。

よく2度も撃退したなと感心する。というのは現地に立って見るとわかりますが、大宮城のあった小学校一帯はまるで要害地ではなく、標高の低いなだらかな丘に過ぎないのだ。
大宮城は現在、大宮小学校のグランド下に埋まっている。
大宮小学校.jpg
辺り一帯は一通が多く、道幅が狭く、駐車場が無いので、浅間大社の駐車場に停めて散策するしかない。でも、歩き回っても何もないです。唯一、大宮小学校の南に。城内の蔵屋敷稲荷神社の説明板に・・・
「この神社の創建については不詳であるが、もとは大宮城内の蔵屋敷の神として祭られていたが、城の解体とともに蔵屋敷の地名共々に残ったものと思われる。・・・」
ここにいきなり唐突に「大宮城内・・・」と出て来るだけなんです。
蔵屋敷稲荷神社.jpg
唐突に大宮城.jpg
ある方のBlogで2010年4月の記事に、小学校の南にある一通の通りに、「大宮城通り」と銘打った手書きの看板がミラーに付けられていた。前述の蔵屋敷以外だとそれが唯一、この地に大宮城があったことを示すものだったのですが、そのミラーの場所に行ってみたら無かった。
その看板はこのミラーに付いていたのですが。
ミラー.jpg
ここに大宮城とあった筈.jpg
その方のBlogはコメントを入れるのにYahoo登録が必須のようで、お写真をお借りしようとしたのですが断念致しました。
(お名前を出してすみませんが、るな様はその方の大宮城の記事にコメントされてましたね。大宮城通りの表示をお探しになられていたようですが、今は無いようです。)
この日、お参りもしました。歩き廻ってから富士宮焼きそばを食べました。
富士宮焼きそば.jpg
麺が固ぇな。
初めて喰ったわけじゃないがこんなに固かったかな。
浅間大社2.jpg
武田軍の駿河侵攻は富士宮合戦を省略していきなり駿河湾に面した薩唾峠に現れ、今川家の家臣たちが衆寡敵せずして引き、甲州軍は駿府になだれ込み、今川氏真は駿府を捨ててだらしなく掛川へ逃げるオチで終わるケースが多い。富士氏の迎撃戦はまず描かれない。
大宮城そのものの説明板はみつからなかった。ホントに無いのかも知れない。富士宮市民にとってあくまで誇るべき文化、観光の象徴は世界遺産に繋がる富士浅間大社であって、それと運命共同体だった大宮城は脇役に過ぎないのでしょう。
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柳川町のこと [隠れ郷土史]

赤線地帯1.jpg
赤線地帯とはなんぞや?
警察が遊郭等の風俗営業が認められる地域を限定し、集団地区として営業させる指導をする。その場所を地図に赤線で囲んで表示していたのが赤線の語源です。赤線地区とは特飲街ともいって半ば公認で売春が行われていた場所、地域。
いついつから赤線に指定しましたと公にするものではないようです。

下の地図は図書館で偶然見つけたもので、現在とは一致しません。
旧乙種料理店街地図.jpg
終戦後、アメリカの占領下になって進駐軍特殊慰安施設云々の通知が内務省から出される。これは進駐軍の為だけの公用慰安婦の増員配置のようなものであまり触れたくないですが、要は進駐軍兵士の為の公用慰安婦を増員しようと現役復帰を呼びかけたものです。
進駐軍が客として登楼したことで花柳街が一旦は活気を取り戻していく。

ところが翌年、昭和21年(1946年)GHQが公娼制度廃止を打ち出す。「日本による公娼の存続はデモクラシーの理想に違背し全国民の自由発達に相反するものなり・・・」
女性の人権を守る立場から廃止を打ち出される。
警視庁はこの情報を事前に掴んでおり、「最近の社会情勢を鑑みるに公娼制度の廃止は必然の趨勢なるを以て・・・(略)・・・貸座敷乃娼妓は之を廃業せしめ廃業者に付ては私娼として家業継続を認め・・・」
意味は、公娼地域は私娼地域として営業せしめ、貸座敷業者は接待所娼妓を接待婦と呼び替えただけで、戦前からの集娼政策を続けるつもりだったらしい。
業者が借金のカタで拘束するのではなく、個人が自発的に営業するのならGHQのお達しに違反しないという解釈をしたのです。

昭和21年11月に家邸された、「私娼の取締並びに発生防止保護対策」というのがあって、
①特殊飲食店指定をして警察の取締下に置く。
②風紀上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置する。
③接客に従事する婦女は酌婦または女給の正業を持たせる。
乙種料理店が特殊飲食店という名称に変わっています。それと②と③ですが、②こそ集娼地域と特殊飲食店の指定地域を限定して纏めて集団的に営業させる方針そのもので、その地域一帯を地図上で赤線で囲んだことから、赤線地区と呼ばれるようになった。
(特殊飲食店の許可を得ずして私娼を置く地域を青線というそうです)
そこで働く女性たちは表面上は特殊飲食店での女給として正業に就労しているということ。③ですね。あくまで建前ですよ。女給に転職して裏で本業を営んだのです。
ただ、これは店の主に拘束されるものではなく借金のカタでもなく、女性と客との間の自由交渉で成立し、部屋と寝具を借り、得た報酬の何割かを店の主に納める形態に変わったということ。
酌婦、公娼、私娼、そういう名前は廃され、従事婦、あるいは女給という表現で呼ばれるようになる。
柳川町、特に東部一帯はこうして赤線地区になり、戦争中に強制疎開された柳通も復活する。
何だか法の網を掻い潜って、何とか存続させようとしているのがわかりますね。

昭和22年に日本国憲法も発布され、酌婦たちも基本的人権を認められ自由の身となった。これは借金のカタというか、女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたもの。
だが基本的人権を得て酌婦は自由の身になったが生きる術を失ったともいえる。この発令も女性の意志による場合までは禁止できないようで、公娼廃止の裏で私娼は特殊飲食店としてこの時も存続した。
昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が始まり、川町の特殊飲食店という)指定地区すなわち赤線も復活した。
「市内柳川町は関東屈指の私娼婦街にして・・・」、最後の最盛期を迎えた。

そして昭和31年(1956年)5月に売春防止法が国会を通過する。
2年の有余期間を得て昭和33年(1958年)4月1日に施行され、およそ100年に渡る花柳街が幕を閉じることになる。
最後の夜はどのような光景だったのだろうか。それを知る手がかりをひとつ見つけたので紹介します。ただ、場所は柳川町ではありません。吉原です。
実際は1ヶ月早い2月28日をもって廃業になり街の灯が消えたのだが、その様子は、
「赤線最後の日だといって人が大勢押しかけるでもなく、ただ戸を閉め、灯りを消して、それで終わりでした」
「その夜、気分が昂ぶっていたせいか寝付けず外に出て見たら、街燈も要らないほど夜通し明るかった街なのにどこもかしこも真っ暗。いったいここは何処だろうと思ったほどでした」
「この街がこれからどうなっていくのか、今、真っ暗闇の中にじっとしている人たちはこれから先をどうしていくのか、思いを巡らして・・・」
高崎柳川町もおおかた同様の光景であったでしょう。

群馬県では条例により特殊浴場の許可を認めないそうで、赤線地区内のそういう店は軒並み廃業するか、バー、スナック、料亭や旅館、ラブホ、公衆浴場、アパート、下宿屋、ダンスホール、カフェに鞍替えしていく。バーやキャバレーは芸事の習得がなくても接客ができるし、坪数が少なくても営業が可能だからです。
その前に風俗営業法により18歳未満の女性は風俗営業への就業を禁止されており、半玉制という芸者養成のいわば見習い期間も禁止となり、芸者への枠が狭くなっていたのも影響した。
昭和の一時代、店同士の競争が激しくなって町が荒れ、「柳川町は怖い街」と風評された時代もあったそうだが、今回はその辺は割愛します。

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流石に群馬県下で最大の赤線地帯だったのだけあり、そういうのを知ってしまうと、その名残りが残っているなぁと思うね。
幅1mも無い細い路地にひしめき合う昔ながらの建物があるんですよ。
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2階立ての木造長屋はかつての妓楼だったのだろうか。個人もお住まいのようです。
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大正13年(1924年)に建てられた料亭、信田本店です。
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裏路地には酒場、スナックたちが密集している。クローズしてたり、壁が崩れていたり、物件誘致の看板が掛かった店も少なくない。
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青空のもとだけに廃墟感が目立つが、夜にはアヤしく光り、人の息吹が戻る店もあるのです。
赤線の延長線上の営業を、非合法にも続けている店もあるかも知れない。
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現在の柳川町は小さいバー、スナック、スタンド酒場、飲み屋さんが集まっている。
あまり人が歩いていない。衰退した要因は何といっても特殊浴場が営業できないこと。これが一番大きいそうです。
ご存じの人ってまず少ないと思いますが、こんな歌がある。
小雨に煙ったシンフォニーロード
濡れて柳川町 傘もない
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この歌詞には通町、矢島町、連雀町、あら町は出てきません。あくまで高崎の夜の代表町は柳川町なんです。でもその後、柳川町に限らず飲食店が拡散化した。
家主が代替わりして貸テナント業に転換した。外国人経営者による店も多くなった。
くるま社会による郊外の量販店、飲食店が増えたのも大きい。
駅前の再開発により、駅近くの通町、矢島町など、他の町で洒落た酒場が開店し評判が良いのもある。そこは駅から近く、若くして独立した店主が多く、何も高崎で飲むなら駅からやや遠い柳川町でなくともよくなったのですね。
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柳川町に限らず全国の赤線地区は消えていったのだが、そういうものは完全撲滅に至ったかどうか。
私は高崎に住んでた1年間はその筋の呼び込みさんには殆ど声を掛けられなかった。それは傍らにジャン妻を同伴していたからだが、その後、出張で出向いた夜には中央銀座アーケードでアヤし気な女性に声をかけられるよ。
驚くことに高崎駅前ロータリー、湊生の前でも時折り客引きの女性がいて声を掛けられる時がある。その辺りだけ暗いからです。
私は、「いや、間に合ってるから」ってお断りしている。何が間に合ってるのか突っ込まないでください。
こんな話を聞いたことがある。
住んでた頃だから平成24年のいつだったか。上州のウチのヤンキー娘、女性社員で4人いるうちの1人が私に白い目を向けて言うには、
「〇〇さん(私のこと)あの辺りで遊んでるの?」
「遊んでる?アーケード街で飲み食いしてるだけだよ」
「アタシ高校生の時に塾帰りで柳通りを走ってたらヘンな女性に声をかけられたんだよね」
「高校生の時に?」
「中学だったかな?」
「中学かよ。で、何て声をかけられたのさ?」
「どう?今夜は?って」
「・・・」
「そのまんまスーッと通り過ぎたけど」
中学でも高校でも最近の学生さんはガタイがいいが、お前はその頃からどんなカッコしてたんだよ。露出度が多い服でも着てたのかい。「どう?今夜は?」ってのは稼ぎの良し悪しを聞かれたに決まってるだろう。
あの辺りに住んでるのかと、住民税徴収切り替え申請時にウチの社員の住所を総ざらいチェックしたら、並榎町や台町在住の者はいたが、柳川町在住の者はいなかった。
この時はよく知らないクセにその子の戒めの為に言いました。
「あの辺りはあまり行かない方がいいぞ」
「行かないよ。アブないモン」
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私は最近、夜に柳川町の辺りを歩いてるが、殆どが小さいバー、スナック、居酒屋、料理店です。
客引きはない代わりに、誰かが隠れてこちらを窺っているようなアヤしさはあるよ。路地脇から何者かが出てきそうな雰囲気だね。
その町を知るにはその町の店に入るしかないのだが、正直、入ろうと思う店はなかった。人通りが少ないし、客筋が通町とは違うような気がする。
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客引きはアーケード内の方が多いね。柳川町に限らず公に看板を出せないと客引きが跋扈するのだが、彼らも生きる為に必死。
今の世は平成、「明るく住みよい街に」、「青少年の健全なる成長を願って・・・」、健全を願うスローガンのもと、各方面で浄化作戦が展開され、警察の手を借りて完全一掃されていく。
横浜でも2005年か7年に浄化作戦が展開され、京急黄金町辺りのそういう風景は消えていった。
だがそれは、人そのものが消えた風景でもあるのだ。
(この項終わり)
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柳川町のこと [隠れ郷土史]

以下は平成24年から今日まで、各方面からの聞きかじりや、恐縮ながら某史料を参考にまとめたものでございます。間違った記述があったらご容赦願います。
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江戸時代、宿場女郎や飯盛女の頃まで遡ります。
高崎藩は藩祖が赤備えの井伊家に始まり、酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家、大河内松平家、間部家を経て再度大河内松平家が維新まで続くのだが、いずれも譜代で占められている。
譜代だけに幕府要職に就く藩主もいたからお堅い藩政だった。高崎は中山道の要衝であり、江戸の北の守りの要でもあったので風紀取り締まりに熱心であったという。
風紀が乱れると近隣諸国から無宿者や素浪人が居着いて幕府から睨まれがち。江戸からそう遠くないので、何か不手際があればすぐさま幕閣に伝わるのを怖れたのもある。

高崎宿は中山道の宿駅なのに相撲や芝居の興行もダメで、宿場の飯盛女についても当然厳しく取り締まられたそうです。安永年間(1772年)に幕府が飯盛女(公娼)を旅籠1軒につき何人と許可したのに、高崎藩だけはあまり年を経ずして全面禁止してしまった。街道の要衝なのに、そういう必要悪?を厳しく取り締まられたので火の消えたような宿場だったとか。町民は厳しい取り締まりを緩めて欲しいと陳情するが、藩は許さなかった。

寛政12年(1800年)と文政12年(1829年)に大火が起きる。
この火事は本町から出火して城下1460軒を焼失。次いで私の住んでいた羅漢町からも出火し500軒余を焼失。またまた四ツ屋町から出火し500数十軒が焼失してしまう。上州に吹くからっ風に乗って延焼したに違いない。
高崎宿の旅籠経営者たちは、大火後の復興には飯盛女を置くことが必要と高崎藩に陳情する。
何とか許可を得たのだが、その後、どうもやり過ぎて上限を超えてしまったらしく、再許可の後わずか3年にしてまたまた飯盛女を置くのが禁止された。

文久二年(1862年)にも本町から出火している。それらの大火で絞め出された飯盛女たちを、ある有力者が城下の北郭、かつて馬場だった一帯があって湿地帯になっていたのだが、そこに集めて遊女屋の興りと相成った。その地が現在の柳川町東部一帯だと聞き及ぶ。
そこが柳川町と改名されたのは明治6年(1873年)3月のことです。柳の大木があって柳の川(城の濠)のある町。
夜の柳通りです。本町側の入口です。
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これが時代劇なら、夜鷹が立ってそうなシチュエーションですね。
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左に見える石造りの建物は、昨日の記事の店です。
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高崎藩は新政府側に付いて明治維新を迎えるが、廃藩置県、版籍奉還によって高崎藩は岩鼻県~群馬県になった。その間に柳川町東部にあった私娼街が公認されずに数を増やしていき、本町、九藏町、北通町、そしてうさぎCafeがゲストハウスで移転する椿町にも出現した。
いずれも公に許可を得た公娼ではなく許可を得ていない私娼の料理屋です。
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うさぎの移転先隣に暢神荘という老舗の料亭がありますが、もしかしたら昔は???
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失礼しました。やめときましょう。ではどういう名目で私娼を置いて営業していたのか。
あっちこっちに散らばるように増えて行く無認可の私娼宿(料理店)を放置しておく訳にもいかないので警察が取り締まることになる。従来からある料理店を甲種料理店として、酌婦(事実上の私娼)がいる料理店を乙種料理店として制度化した。いずれも酌婦を置いて営業するのには警察の許可が必要だったのです。
(保健所の管轄になるのは昭和の戦後からです。)
あからさまに娼屋の看板を出していたのではなく、実際は私娼がいても許認可上はあくまで料亭(料理店)ということなのですよ。乙種料理店で働く女性は芸妓さんだが、酌婦であり私娼であるということ。

私娼を置く店の数は増えていった。届出上の数字は時代によって違っており、集計がめんどくさいから触れませんが、数が増えたことで群馬県令によって取締規制が設けられ、乙種料理店の娼妓は1週間に1度の検梅が義務付けられた。
その担当だった病院は現在でもあります。〇貫病院です。
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明治26年(1893年)に群馬県は公娼廃止制度を打ちだすのですが、その前に、今年の大河で大沢たかおさんが演じている初代県令楫取素彦が、明治9年に県下に散らばっていた遊郭を、中山道沿いの深谷、本庄、玉村、新町、倉賀野、安中、妙義、伊香保他、13箇所に集めて公娼を許可した。ちょっと外れますが、富岡製糸場の近くにもそういう一帯があったのです。
安中に遊郭とは意外な気もする。
例の新島襄さんは日本キリスト教会の指導者なので、新島の友人で県会議員だった湯浅治郎という人が公娼廃止運動を起こす。安中の遊郭は街中の何処かに散らばっていて夜毎やかましかったらしいのだ。

公娼廃止には中山道沿いの倉賀野、新町、玉村、板鼻、廃娼運動の口火を切った安中や隣の松井田辺りから存続運動が起きて、在娼する為に奔走する者あり、存続の為の建議案が出されたり、知事や県会議員への働きかけあり、採決の段になって退出者が続出して定数を欠いたり、すったもんだで遅れるのだが、明治30年(1897年)の県会で廃止が決定する。
これにも大沢たかおさん演じる楫取素彦さんが大いに関わっているそうだが、大河ではそこまで描かれないだろうな。
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ただ、あくまで公娼廃止ですよ。ここがミソ。
私娼は廃止対象外で存続するんです。

群馬県は全国に先駆けて唯一の公娼廃止を打ち出したが、実際は埼玉県が明治8年に廃娼を布告している。でも発令後すぐに本庄と深谷の遊郭が埼玉県の管轄になってしまい、埼玉県は廃娼県ではなくなってしまった経緯があるそうです。
だがオモシロいことに、明治30年(1897年)の県会で廃止が決定して、その後すぐに公娼復活運動が2回起きている。
「そういうのは必要だろ」という人たちが必ずいるのですね。県庁を前橋に持ってっちゃった楫取素彦知事の後に赴任した2人の知事が公娼存続派だったのだ。そのひとり、明治31年7月末に着任した草刈親明という知事は廃娼派が強い中、独断で公娼復活を発令する。
だがその規模がデカかった。草刈知事が発令した公娼場所指定は、前橋市、高崎市、甘楽郡、桐生、館林、沼田の7か所で、いずれも坪数7千から1万2千という大規模なものだった。
これには世論が沸騰したそうで、草刈知事は同年11月末に免官されて取り消しになった。

もう2回めは明治39年に起きた。
明治39年10月、高崎市会が「遊郭ノ設置ノ儀に付具申書」というのが当時の有田義資という知事に提出された。これは高崎市会が遊郭設置の建議を可決して県に提出したもの。
その理由がふるっている。「高崎には陸軍連隊があり、花柳病が兵営の壮丁を冒して衛生上よくないので・・・」だから遊郭を設置して取り締まるというもの。
軍隊の為に遊郭を設置せよと言ってるに等しいが、風紀上、衛星上よくないのに何故そういうのを設置するのか。私でも首を傾げる。
実はこれには裏があって、何者かわからないが、一部の市の土地を安い値で購入し、その地を遊郭として高値で売り、その差額を市費の欠損に充てるとというもの。軍の要望だけではないらしいのだ。
上毛新聞がこの裏を叩いたらしいです。この復活運動は結局は実現せず、群馬県は全国に先駆けて唯一の公娼廃止県となる。

だが抜け道があった。
前述のように私娼は存続するのですよ。柳川町東部の乙種飲食店は公娼扱いではなく、公式では酌婦という名の料理屋なので、私娼は廃止の対象外だったの。
それだったら廃業した公娼の女性たちだって喰う為に私娼街に流れていかざるを得ない。公と私の違いだけで内容は同じなんだから、だったら私娼に鞍替えしちゃえってことになる。皮肉にも乙種料理店と私娼がどんどん増えて盛んになっていく。
公的には全国初の廃娼県(公娼廃止県)となったが、私娼がいるから廃娼県ではないような気がしますね。

廃娼県なのに何故、柳川町が北関東屈指の花柳街で有名になったのだろうか。
まず明治5年(1872年)、徴兵制が布告され、翌明治6年(1873年)から明治8年(1875年)2月に旧高崎城内に陸軍が置かれた。
兵隊さんは何人いたのか。おそらく2000人近くいたと思うが、この兵隊さんが柳川町の花柳街を華やかにしていくのです。
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高崎連隊の兵隊さんは柳川町と堀ひとつ隔てた兵舎にいて、将校は土曜日曜に外出外泊(将校のみ)する。将校たちは現在の柳通りを堂々馬で闊歩したという。
高崎には鉄道も敷設され、鉄道に乗ってやってきた将校や各界の政界や業界の有力者たちも遊んだに決まってる。下世話な話で恐縮だが、「朝から軍人さんが押しかけて」、「日曜日は十五連隊の兵隊さんばかり」、稼いだものの「身体がもたないよぉ」・・・
それくらい繁盛した。切っても切れない関係になっていく。

なのでこんな話がある。
明治27年(1894年)、日清戦争時に高崎第十五連隊が出征する為、海軍港広島に集まった時のことです。兵士の花柳病検査で感染者が多数見つかり、全国唯一の廃娼県の筈が面目丸つぶれになったというから笑えるよな。
感染者は上官や軍医から、「貴様は何処で感染したのか?」訊かれたに決まってる。そこで高崎十五連隊のお膝元出入りの街、柳川町の名がまことしやかに囁かれ、口コミで伝わっていったに違いない。

大正に入っても花柳病患者が増加していき、どういう衛生的見解からかわからないが、市中にバラけて点在している乙種料理店を一か所に纏めようと、集約しようとした。北通町、九蔵町、椿町の乙種料理店が柳川町に移転、花街を形作っていく。
柳川町の花柳街は、そこにもともとあったところへ警察の指導により更に集められたのです。あちこちに点在しているより1箇所に纏まってた方が取り締り易いのでしょう。そこには〇貫病院他、診療所があって検査、検疫を義務付けた。
比較対象にはならないかも知れないが、東京都港区では路上喫煙が禁止された代わりに、喫煙場所をあちこちに設けてそこで纏めて喫煙させてます。凄い煙ですよ。たき火みたいです。柳川町に集約したのはそれと同じような意味合いではないかなぁ。
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柳川町の全盛期は日露戦争勝利後の明治38年(1905年)か、第一次世界大戦が始まった大正3年(1914年)か、朝鮮戦争の頃ではないだろうか。
昭和4年(1929年)、柳川町東部には娼家55軒で300人の私娼を抱えていたというから結構な数です。

そして大戦の影が忍び寄ってくる。
日本は昭和6年(1931年)の満州事変からは第二次世界大戦へ突入するのだが、国家総動員法が発令されて経済が統制され軍需最優先になる。食料他、物資全ては配給制になった。
酒が禁止される。食料もそう。タバコだって1日数本である。これじゃぁ商売にならない。柳川町で働く女性達も軍需工場へ動員されてモンペ姿で女工さんにならざるを得なかった。
昭和18年(1943年頃)には柳川町の料理屋は殆どが軒並み休業、廃業状態になった。ただ、ごく一部の将校クラスのお座敷に芸妓さんが出たことはあるらしいが、時勢柄、三味線弾いたり歌ったり踊ったりするわけにもいかなかったそうである。
芸妓さんの中には馴染だった兵隊さんが戦死したのを知り悲しんだ逸話もありました。内地から大陸に渡る慰問団に加わった芸妓さんもいたとか。
昭和20年に入ってから柳通りに面した家屋が防空法の下に取り壊されて空地になってしまったという記載もあった。灯火管制により夜は真っ暗になった。
終戦前日の昭和20年8月14日に高崎も空襲に見舞われるのだが、柳川町は焼失を免れ翌15日に終戦になる。

朝の柳通りです。
朝帰りの将校さんがこの道をフラフラ歩いたのだろうか。
朝の棚木通り.jpg
では柳川町はいつ赤線指定になったのだろうか。
どうも赤線指定というのは、いついつを以て赤線に指定しましたと触れるものではないようなのだ。
(この項続く)
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道に迷って見つけた赤堀城 [隠れ郷土史]

ここは何処だ?どの辺りだ?
北関東自動車道伊勢崎IC方面へはどうやって行けばいいんだ?
私のボロくて古い社用車にはナビが付いていない。赤城山を左手に見て前橋から伊勢崎に向かってるのが、途中で道に迷ってしまった。
公用で前橋市街を抜けて群馬運輸局に行き、その帰途、近くの県道3号線から76号線に入り何処かで南下しようとした。後で思えばすぐ上武道路(17号線)に入るべきだったのだが、途中にあった表示「駒形IC方面」を見て、駒形ではまだ伊勢崎に遠いなと判断し、そのまま真っ直ぐに来てしまったらしい。
そしたらある交差点近くで自然渋滞にハマった。ここは西久保という五叉路で、地元では渋滞の名所らしいのを後で知ったが、そこを右折すれば伊勢崎IC方面へ出れるのがわかった。私は伊勢崎ICで北関東自動車道に入るのではなく、そこから市街を突っ切って坂東大橋を渡り、埼玉の本庄市方面に向かう。
日頃、自分は上州で道に迷うなんてありえないと思ってた自信が崩壊していく。
誰か本社の人間を同乗させると、大抵、「何処を走ってるのか全然わからないんですけど・・・」と言われる。「ナビなくても平気なんですか?」とも言われるが、私は自分が今現在居る位置から上州三山の赤城山、榛名山、妙義山へ向かって、アタマの中で直線を引くと、自分がどの辺りにいるか三角点感覚でだいたいわかるんです。
だけどそれは上州三山が見えての話。左手に見えた赤城山が見えなくなってしまったのと、平野部、伊勢崎、太田、館林辺りで迷うことがある。

赤堀今井町というところに来たら。。。
何だこれは?.jpg
何かあるぞ?
ポール看板が立っていた。そこまで30mとある。だけど道が狭いぞ。
細い道.jpg
何処かそこらで駐車して見に行こうとしたが、停める場所がないのだ。
しばらくその辺りの細い路地をウロついたが、なかなか目的地にたどり着けないのだ。どこもドン詰まりで地元の住宅の私有地に入り込んでしまうのである。
県道側に砂利の空地があった。ここも私有地らしいが、短い時間だけと割り切ってそこに停めさせて貰った。
県道から細い道を入ると、その先に何か見えるぞ。
何かあるぞ.jpg
正面の奥と右側にデカい土塁がそびえ立っていた。脇に古い五輪塔と説明板が建っている。
高さ4mはあるだろう土塁は正面の畑を四角く囲むようになっている。
土塁と五輪塔.jpg
虎口だろうか?.jpg
西側を望む.jpg
畑を囲んでる.jpg
北側の堀.jpg
北側には幅10mほどの堀の跡があった。ここも耕作地になっているようで、その先の北側、住宅が建っている辺りも一段高くなっていて、2つの郭が並列して配置されている。
後で地図と航空写真を見たら、東西を2つの川に挟まれていた。中州を取り込んだようである。
航空写真.jpg
地図.jpg
木が「土塁を崩してなるか」と頑張って根を張っているぞ。
土塁に木の根っこ.jpg
誰がいたのか。
私も詳しくない。南北朝期に赤堀直秀という人が作った。この辺りの土豪の多くは藤原秀郷の末裔でございと言うのだが、赤堀さんはその系統らしい。それほど大勢力ではない土豪で、生き延びる為に、古河公方、由良氏、上杉氏の間を従属していた。同じ伊勢崎市内、前に載せた名和さん・・・失礼、那波氏とは対立構図だったようです。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-17
解説板.jpg
一面は畑です。あきらかに人様の所有地。そこらを走り回ったトラクターか軽トラのワダチがあったが、それはこの土地の所有者のものでしょう。
所有者のホンネは、土塁を崩して耕作地の面積を広げたいのではないかなぁ。でも広げようにも伊勢崎市教育委員会が指定したので崩すに崩せないのでしょう。
この時はまだ種付はされてないのだろうか。土の臭いがプンプンする。雨でも降ったらぬかるみになるは必定で、夏場には草ぼうぼうになって草いきれがするだろう。
春の陽気で、雲ひとつない青空、私の足元に土埃が舞っている。
デカい土塁が見える.jpg
この地へ乗用車で入るのは難しい。止めといた方がいい。あくまでもここは私有地の畑であるから。
この後、何とか予定時刻までに武州へ渡った。
私は道に迷ったけど、迷ったが幸い?そこに何があるか気になるタチなのです。
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鼻高の陣城 [隠れ郷土史]

高崎市から安中バイパス18号線で碓氷方面へ走らせると、観音山から続く左手の丘陵の中腹に、何やら洋風のラブホらしき建物が見えます。
丘陵にあるもの.jpg
デュオ1.jpg
Chatea DUOといいます。
24時間営業ラーメン山岡屋チェーン、高崎西店の駐車場から撮影しました。ラーメン屋のオバちゃんは、私が住んでた平成24年からいた人でしたね。
久々です.jpg薄味にしました.jpg
「Chateauはお城。DUOは2人。お二人のためのお城で夜景を見ながら寛ぎのひとときを。。。」
何を言ってんだか。でも上質のラブホで売ってるらしいね。らしいというのは私は利用したことが無いからですが。
夜にはアヤし気に光ります。何しろそこだけ目立つので有名です。
ラブホ.jpg
何でこんなのをいきなり取り上げたか。
別にこのラブホの記事ではない。ラブホの右隣にあるこんもりした森についてです。
デュオの隣の森.jpg
この辺りの地名は鼻高といいます。何でそんな名前なのかわからない。マトモな人は達磨寺の少林寺や、一年を通して色とりどりの花が咲く鼻高展望花の丘へ行かれるだろうけど、私は行ったことないのだ。
さて、ラブホのすぐ西側に福泉寺という寺があって、その一帯は甲斐の武田信玄率いる甲斐軍団が上州を侵略しに来て陣取った場所なんです。本陣、陣城といっていい。
福泉寺.jpg
陣城へ行くには福泉寺が目印ですが、碓氷川を渡って丘陵の北麓にある裏道を走ります。天満宮の信号機のある交差点を丘陵方面へ上るんです。
山岡屋から見ると森にしか見えないが、行ってみると住宅地でしたね。
途中、公民館何とかというバス停(ぐるりんか?)に来たら、左の脇道に入って福泉寺(陣城)はすぐ目の前です。福泉寺へ逸れずにそのまま道なりに上がっていくと、旅人の惑星ショウさんがよく花を愛でて撮影される鼻高公園に通じる筈です。
更に丘陵の東へ向かう道は冒頭のChatea DUOへ至る道らしい。若い男女でそっち方面へ走り去るくるまを2台確認しました。
これがお寺?.jpg
福泉寺に行ってみると、そこには確かに石造りの寺の門柱はあるが寺社の建物が無いようです。
公民館、集会場のような建物だった。西側に墓地があります。墓地には初老の男性が掃除をしていたが、ご住職のカッコではなく、業者か管理人さんのような人でした。
寺?公民館の庭には大小の供養塔がたくさんあって、最も大きい供養塔には文字が剥げて判読に苦しむ説明板が立っていた。上杉武田両軍戦没者供養塔とあった。
いわれ.jpg
判読し難いのですが、概略こうあります。
当福泉寺の辺りは、戦国時代の砦の跡で、土地の人々は寺の周辺を乱闘場と語り伝えている。
上杉方と武田軍の合戦場で、今でも当時の人骨が埋れている。
当寺は、永禄年間武田軍の六回に及ぶ箕輪城攻撃の際、武田信玄公がその本陣に使用した所である。
今や戦国の世を隔たること既に四百十余年。戦国の世を連想する人も年と共に減少し、有芒無名の将兵の霊も無縁となり、供養する者もなく地縛の霊となって追善回向を待ち望んでいる。。。(以下は省略します)
供養塔1.jpg
供養塔がたくさん.jpg土塁と供養塔.jpg
武田信玄の本陣だった、上杉武田両軍がここで戦った、とあるが、越後上杉氏(景虎、謙信)ではなく、凋落していた関東管領上杉憲政のことかも知れない。箕輪城攻めとあるので上杉方というのは長野業政を中心とした上州一揆衆ではないか。
高崎市史にはこの地について、長野勢と武田勢との間で若田原において激戦が行われ、この本陣を長野勢が夜襲したという記述があった。
今年の2月に亡くなられた火坂雅志さんの著書に「業政駆ける」というのがあって、晩年の長野業政が主人公。ここでも後半に長野勢が武田軍の本陣を夜襲した場面はあった。
だが、福泉寺の説明板には六度の箕輪城攻めとあるので、若田原で激戦になった後で武田軍が箕輪城まで攻め入って陥落させたのなら、この時既に長野業政は亡くなって跡目を僅か17歳の業盛が継いでいた可能性が高い。
土塁?.jpg
竹藪.jpg
史料から.jpg
福泉寺の陣城の北斜面は崖になっていますが、現在は竹藪で視界を遮られ、北方の眺望は全く見えないです。もし今の世に信玄が現れても若田原は見えないので、鼻高の陣城から東にある洋風のお城、Chatea DUOに入城するしかない。
バカな想像はさておき、信玄がいた?本陣だった?と囁かれる場所がもうひとつあります。上野國一社八幡宮です。
社殿1.jpg
裏手に長大な堀の跡があります。ここにも信玄や甲州軍がいた?
もしかしたら寺社が自衛の為に独自に造ったものかも知れないが。
大堀3.jpg
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-13
信玄がウロついた地図.jpg
では激戦になった若田原という地名は何処か。
若田という地名は現在でもあります。ここから西北の八幡霊園のある辺りを若田町といいます。若田原は八幡霊園の八幡町、隣接してある若田上水場の若田の表示があるので、その一帯と推定されます。
若田上水場.jpg
更にその東に居酒屋和が家のある剣崎町という町があって、名前からして剣戟を交わした一帯、すなわち古戦場だったのではないだろうか。

私が高崎市に住んでた平成24年、里見橋台(明治の高崎市水道の橋台)を里見軌道未成線と勘違いして八幡当たりをウロウロ散策していた時に発見したのですが、現在、高崎市水道記念館のある若田浄水場から、国道406号線(くだもの街道)の下大島町に下るS字カーヴがあって、そこの霊園側(浄水場側)にくるまの入れないつづら折りの歩道がある。そこから里見川に下りる手前に信玄石というのが鎮座している。
木々に隠れて.jpg
先日、久々に行ってみた。
読めないぞ1.jpg
殆ど読めないぞ!!
誰か説明してくれ!!
読めないぞ2.jpg
信玄石とあるから、信玄が腰かけた石?
ここに信玄が腰かけたのなら、信玄は箕郷町にある箕輪城を睨んだ筈である。秋間方面から那波無理之助率いる甲州雇われ軍が北上して若田原に連なる丘陵に点在する里見、雉郷の小塞を抜き、クリーンセンターの先にある高浜を陥落させている。室田の鷹留城と箕郷の箕輪城を分断し、悠々と最後の料理にかかった。

信玄石の近くにこんなのがあった。
何なんだろねこれは。時折、イノシシが迷い込むのだろうか。
イノ缶1.jpgイノ缶2.jpg
ボケてますが、若田地区から鼻高を振り返ったところ。
校舎の向こうにラブホが見えます。鼻高本陣はその隣です。6回もやって来たくらいだから、信玄はよほど豊穣な上州が欲しかったんだろうね。
若田方面からラブホを望む.jpg
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葛西城と近くのカツ丼 [隠れ郷土史]

私のグルメ記事、ラーメン記事、歴ネタ(そこに何があったか?)の類は、公用で外出途中に縁あって導かれることが多いです。
葛飾区の行政に行った時のこと。私が群馬に転勤する前、その行政は京成線金町駅から徒歩10分弱の水戸街道沿いにあった。
群馬から戻ったら、その行政は金町から離れ、中川を渡って西、亀有~青戸(青砥)の南北のド真ん中にキレイな箱物行政になって移転していた。
駅から遠くなった。歩けない距離ではないが結構遠い。先日は京成線青砥駅からトボトボ歩いた。晴れてたが寒波の影響で寒く、時折吹き付ける北風がアタマに突き刺さるように痛く感じた。
申請、届出を済ませ、環七通りに出て小岩方面のバスを拾おうとした時、ある公園に迷い込んだ。
解説版を読む.jpg
葛西城???
知らないです。ここは都内葛飾区の住宅密集地で平坦地、環七に面しており、自動車がバンバン走る幹線道路でもある。そんなものがあった痕跡は皆無の場所です。
その辺り1.jpg
その辺り2.jpg
公園になっています.jpg
城域の中心部を南北に環七通りがブチ抜いていて、東西に分断されて2つの公園があった。そこに簡単な解説版が立っていて、過去、昭和47年(1972年)、環七道路建設に伴う際に調査が行われ、いろいろ出て来たそうです。
地名のとおり、ここには葛西氏がいたという。
葛西氏?
何処かで聞いたような。
NHKのBSプレミアムで独眼竜政宗が放映された際、奥州仕置で減封された政宗が、改易された葛西氏と大崎氏の遺臣を煽って葛西大崎一揆をおこさせた一件が描かれていた。それに関係が無くもないようである。
奥州葛西氏の最後の当主は晴信という人だが、隣国の大崎氏と近隣戦闘に明け暮れたせいで小田原に参陣できずに改易された。
解説版があるぞ.jpg
葛西城の縄張り.jpg
葛西氏初代の葛西清重という人が下総国葛西御厨、すなわちここ葛西城の葛飾区、江戸川区、墨田区を所領としていたのを、奥州藤原氏が滅んだ際に陸奥国に所領を得てそこに探題として赴任した。
なので本家がずーっとここ葛飾区にいたのではないらしい。
この地は後北条氏が、扇谷上杉氏、関東公方、里見氏らとバタバタ戦争をしていた時代の最前線だったらしいのだ。もし小田原北条氏が大河になればその過程で取り上げられるかも知れない。
公園のある辺りは標高が低く、1m~2mくらいしかない。中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城だったらしく、水城、浮いた平城だったのではないか。
イメージからしたらこんな感じです。(のぼうの城、忍城)
イメージ.jpg
天正18年(1590年)の小田原征伐の時、三河の戸田忠次らによって攻められ落城したが、この時に葛西氏の傍流がここにいたかどうか。
家康が江戸に入府したら、この地に青戸御殿、葛西御殿ともと呼ばれる館、陣屋が建てられ、3代家光の時代まで鷹狩の宿舎として利用された。得られた獲物を焼いて喰らいながら酒でも酌み交わしたのでしょう。村の娘が伽に侍ったかもしれない。
でも明暦3年(1657年)、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材に持って行かれた。家綱、綱吉が鷹狩を好んだという逸話は聞かないので、無用の建物になっていたのだろうか。
発掘されたそうです.jpg
公園や環七の地下には当時の濠とかが埋まっているそうだが、それらは永遠に陽の目を見ることはない。そういうのを惜しむ声もあるようだが私はあまり気にしない。公園化はまだいい方です。そこにかつてあったものが後世に伝わるよう、案内版でも立っていればいいのです。
複合遺跡だったそうです.jpg
見学し終わったら14時近くになっている。
昼が未だなのです。だけどこの辺り、環七沿いには飲食店が無いのだ。14時過ぎたらランチ難民になってしまう。
公園からほど近いところに中川に面して有名な大病院があった。病院内にはCafeがあったが、患者さんやそのご家族でいっぱいいっぱい。
まてよ?病院近くにある飲食店は割と早い時間帯から開けて通しで営業する店もある。その代わり夜は早く閉める。通院患者や見舞いの家族がターゲットなのです。
そば屋さん.jpg
京成青砥駅の方に歩いた辺りにあるお蕎麦屋さんがあって、その辺にあるようなものしか出さない店だが、ここでこんなものを喰らった。
セット.jpg
最初、「カツ丼」と一声オーダーして、WCに行った後でTVを見たら、TVにはセットものが表示されていた。
「やっぱのもりそばとのセットにするワ」
そしたら店のオバちゃんが厨房に向かって、店主(息子さんか?)に甲高い素っ頓狂な声を掛けたものである。
「ちょっとそれ、カツ丼待って。セットだって」
待って???
ウエイト???
何故セットで待つ必要があるんだ?そのまま続けりゃいいじゃねぇかと思ったらさにあらず。どうもカツ丼単品と比べてセットのカツ丼はランクが下がるようですね。カツの質か枚数かが気持ち、減るんでしょうな。
案の定。。。
カツ4枚.jpg
このカツ丼は単品のカツ丼ではあるまい。
明らかに丼が小さいしカツが4枚しかないぞ。慌てて声かけて訂正して、セット用に取り換えたんだろ。
でも1人前のカツ丼を見て確認したわけじゃない。個人経営の店なので店名は伏せます。
「だったら最初っからカツ丼ともりそばって頼んだらいいじゃない」(ジャン妻)
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大河の温度差 [隠れ郷土史]

右端が県令さん.jpg
私はこのドラマは観てません。昨年末、駄作だった官兵衛が終わった時、
「来年は?」
「観ないよ。長州藩の青春ものだろ?」
「・・・」
「さ来年(真田)は観るけど・・・」
そのつもりで名胡桃、岩櫃にも行きましたからね。さて、県庁に行く途中、寂しいながらも、前橋駅前けやき通りに大河をアピールする幟があった。
幟.jpg
はて?
高崎市にはこの幟は立ってないな。
県庁、私が良く行くのは南の13階、障害〇〇課です。新規申請の事前相談事があってね。
けやき通り.jpg
現在、前橋市大手町一丁目1番1号、群馬県庁昭和庁舎の2階で大河館がOPENされている。
「ぐんま花燃初代県令・素彦と文」です。会館期間は平成27年1月10日~来年の平成28年1月31日まで。休館日は年間を通して殆どないようです。
内容は番組のPRに決まっている。私は入っていませんが、キャスト紹介、衣装展示、シアター、セットの再現、そして初代群馬県令(県知事のようなもの)、大沢たかおさん演じる楫取素彦(カトリモトヒコ)の紹介であろうかと。
昭和庁舎2階.jpg
女性職員に、「会場は2階でございます」と誘われ、上がってみたものの、「観てもなぁ」・・・躊躇してしまった。
上がったら男性職員さんが、「どうぞ。ご覧ください」
既に時刻は2時を過ぎていたが昼がまだだったの、その後も時間に押されていたので、やっぱり止いた。
「まだ業務中なのと、ちょっと下で待ち合わせをしてるんで、用が済んだら・・・」
「さようございますか。お連れ様と是非いらしてください」
とても丁寧な応対をされたので悪い気がした。だが、見ないまでもつい言ってしまったのだ。
「この大河、幟やポスターは前橋市ではよく見かけるけど、高崎市では1本も見た事ないな」
ホントはどっかにあるのかも知れないよ。職員さんは、「えっ??」って固まった。
「何で前橋ではアピールして高崎ではアピールしないのかな」
「ええっと・・・」
「県庁をこっちに持ってかれちゃったからかな」
「いやぁ。どうなんでしょうか(笑)」
職員さんは笑ってごまかすのに懸命で、ハッキリした答えは返ってこなかった。
高崎市では大河のポスター、幟は見たことない。ここへ来る前、高崎市の分庁舎にも立ち寄ったが、見なかった気がする。高崎市にもどっかにあるのかな。私が気付かなかっただけかも知れないが。
私は後で来るフリをしてその場を立ち去った。

前BlogⅡで、私は高崎市と前橋市との関係について書いている。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-06-18
初代県令楫取素彦さんについてはまぁここに書いた通りです。

そういえば、週間ポスト2015年2月20日号に、「NHK大河花燃ゆで群馬県民が長州許さん」なんて凄いタイトルの記事があったね。
群馬県民が山口県に含むところがあるような見出しですが、でも群馬県民全部が長州にどうこうは言ってないと思うな。
大沢たかをさん演じる群馬初代県令の楫取素彦は生粋の長州人なのです。高崎市が前橋市に含むところの県庁移転に大いに絡んでる人です。
それ以前に高崎藩は新政府軍からの高圧的な態度に屈服せざるを得なかった。もともとは譜代藩ですからね。否応なく軍資金を供給させられ、小栗上野介を有無言わさず処刑されたんだから。
ポストは前も群馬県と茨城県を煽るような記事を出してたね。まぁ週刊誌は大衆を煽って販売部数を稼ぐのは解るよ。

ただ、気になるのは、ドラマ中で富岡製糸場が取り上げられるだろうか。
世界遺産へ.jpg
(写真は認定前のものです。)

1881(明治14年)に明治維新政府太政官は全国の官営工場の払い下げ案を提示。これは西南戦争後の財政難らしいが、払い下げ候補には富岡製糸場も含まれた。
だが楫取素彦は反対している。富岡製糸場の規模では民間資本が受け入れられないことや、閉場になったら諸外国に対して恥ずかしいという理由で官営にて存続する旨の請願書を出した。県令の立場で官営存続に関わったのです。
(富岡製糸場の3代社長だったと思うが、元前橋藩士の速水堅曹という人がいて製糸場のプロ。この人が深く関わっているのだがここでは省略する。
製糸場は富岡より2年前、前橋の方が先だった。)
県庁.jpg
大河で楫取素彦と富岡製糸場は取り上げても県庁移転問題には触れないかも知れない。
私は両市を煽るつもりはないですよ。ただ、何かのきっかけで尾を引いている部分が表面に出る。大河に関しても温度差が感じられます。
ジャン妻は呆れた。
「県庁でそんな余計な質問をしたの?」
「うん・・・」
大河を見ない、館内にも入らないでおいて、職員さんに答えられない質問をして悪かった気がしないでもないが、あれくらいなら別に言ってもいいよね。
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倉賀野城 [隠れ郷土史]

飲み食い記事が続いたので、ちょいと歴ネタを。

平成24年に初めて上州に降り立った時は新幹線ではなく湘南新宿ライン1本で来ました。
2時間半座りっ放しで籠原駅を過ぎて、いい加減ケツや腰が痛くなった頃、あとひと駅で高崎、もう少しの辛抱だ~と気付かされた駅が倉賀野駅だった。目的地まであと一つの駅というのは乗り過ごさないよう意識して覚えているものなのです。
西から架線のない単線の鉄路が寄り添って来て本線に接続、後でそれが八高線という渋谷駅前に鎮座している犬コロのような名前の路線なのを知った。
まさか後年、その八高線を全線乗るハメになるとは思わなんだけどな。
八高線で高崎へ.jpg
高崎まであとひとつの駅、倉賀野駅ですが。。。
くらがの?
何処かで聞いたような。
私が記憶を手繰り寄せるのは大抵が何かマニアックなネタ、知らなくても日常生活に全く支障ないネタなのですが。
倉賀野駅.jpg
倉賀野駅近郊では、群馬の森周辺にある火薬製造所の遺構や、それらを運んだ軽便鉄道の跡地を散策したものですが、それらは駅東口にあった。
今回の散策は西口へ。駅前の一本道を西南に流れる烏川に向かって歩きます。途中の小学校にこの辺りの案内版がわかりやすく明記されている。
城跡の河岸段丘から.jpg
公演に出た。
川はすぐ側です。
倉賀野氏がいたところです。
倉賀野氏はもとからの上州の土豪ではなく武州秩父辺りからの流れらしいですが、その辺りの詳細については割愛します。
この辺りは武州と上州の境界線でもある。
細長い公園にデカい碑があるだけですが、これでいいのです。
倉賀野城跡1.jpg
倉賀野城跡3.jpg
烏川3.jpg
この地にいた最後の主、倉賀野尚行という人が脇役で出たドラマがあります。ドラマでは尚行→直行になっていた。演じたのは大門正明さん。彼のBlogのTopにも倉賀野直行のフォトが貼り付けてあったからご本人も満更でもなかったのではないか。
倉賀野尚行(直行)ともいうこの人は小田原北条や武田に押されて衰退していく山内上杉家最後の当主(関東に常在したという意味で長尾景虎とは違います。)上杉憲政の重臣?だった人。
管領様1.jpg
上杉憲政率いる反北条連合軍が河越城を包囲した場面で初回の登場をしています。
河越城内に三千、今川と和睦してやって来た小田原からの援軍は八千、ダレてるとはいえ攻囲軍はウソかホントか八万!!これだけ数の差が合って何ですぐ攻めかからないのか。こちらの数に恐れての降伏開城を待っていたのだろうか。
待っているだけでは退屈でしょうがない。お決まりの遊興癖も描かれる。。
長野と妻鹿方.jpg大門さん1.jpg
攻囲軍の陣中では、上席に箕輪城を拠点とする長野業政(小市慢太郎さん)と、倉賀野城の倉賀野直明(大門正明さん)が着座していた。
長野業政は10人以上もいた自分の娘たちを四方に嫁がせて同盟を結んだ上州の盟主だが、小市慢太郎さんは実直そうに見えるけど、失礼ながらそんな精力絶倫男には見えない。その長野は上杉憲政(演:市川左團次さん)にウルサく諫言する。北条が今川と和睦して駿河の河東から引いたのは、敵を我ら管領軍のみに絞ったのだから攻めかかって一気に勝負をつけるべきだと。
だが憲政は長野の口から小田原の氏康を北条呼ばわりするのが気に入らない。憲政は名族のプライドが高く、小田原北条氏の祖、早雲のアヤしい出自(伊勢出身)をアゲツらって作戦とは全く関係ない反論をする。「北条ではない、伊勢だ」と言い張るんです。
「さような名跡に拘る時ではありませぬ」という長野に、「こだわる時じゃ」と癇癪を食らわすので、見かねた倉賀野直行は初めて口を出して仲立ちする。
「長野殿、敵は策を講じようにも城へ使者を送ることもできぬ。このまま城を捨てて小田原へ退くか、討ち死に覚悟で我らに攻めかかるか。我らが戦う時はその時でよかろ」
めんどくさそうに言ってるようにも見えるが上杉憲政はニンマリする。我が意を得たりと思ったのでしょう。

倉賀野自身もこのすぐ後で、「陣中の何処かに北条の忍び・・・」と失言をしている。憲政は自分の肩を持った倉賀野には、「倉賀野、お・だ・わ・ら・じゃ」とニヤリと諭すんです。
でも原作では倉賀野にも「伊勢じゃ」と癇癖を起こしてた。この辺りは演出の違いでしょう。
大門さんと遊女.jpg
夜、陣中でも遊興する憲政に混じって倉賀野も杯をグイグイアオるのだが、この辺りは憲政の腰巾着、太鼓持ちとまで言わないけど、おもねったキャラに描かれていた。
某史料には河越夜戦で倉賀野行政という人が戦死し、直行はその後で倉賀野城主になっている。この辺りの事情はわからない。

大門さん演じる倉賀野直行の再登場は、凋落した上杉憲政が上州平井城の一画にいる場面で近侍していた。既に憲政の管領の権威はなくなり周囲に従う将星の顔ぶれも僅かになっている。随従する僅かな家臣のひとりに倉賀野直行がいた。
そこへ長野業政が別れの挨拶がてら、越後へお逃げください、でも自分は上州に残ると。この時、既に長野は憲政を見限っていたのかも知れないが、憲政を倉賀野直行に託して箕輪へ去っていく。倉賀野もさすがに初回登場時より周囲の状況が悪化しているので厳しいカオをしている。
大門さん2.jpg
越後へ随行したのならこの時点で倉賀野城は北条の手中に落ちていたのであろうか。一説によると倉賀野直行は永禄3年(1560年)と永禄6年(1563年)に単独で2回も北条軍、武田軍を撃退しているそうです。彼が越後に去ったのは憲政と同行したのではなく、金井秀景という家臣が武田に内応して永禄8年(1565年)に落城、この時に倉賀野尚行は憲政のいる越後へ逃れたとも。
裏切った金井秀景はちゃっかり倉賀野氏を名乗っているそうです。
大門さん3.jpg
登場3回め。上杉憲政が越後に逃れて落ち着いた頃にまた遊興癖を出し、そこへGackt長尾景虎と西岡徳馬の直江実綱がやって来たのでそれを取次ぐ場面だった。
この時もう憲政の家臣は彼ひとりだったのだろうか。憲政は酒宴の最中だったので、取り次いた倉賀野も取り次がれた憲政もバツが悪そうだった。

最後の4回めは、上杉憲政がGucktに管領職と上杉家の名跡を譲る場面で近侍していた。
4回目の登場.jpg
結果として倉賀野直行は最後まで上杉家を見捨てず米沢まで付いていったらしい。越後亡命後の憲政は御館の乱で惨死するまで名前が出て来ないので、何処かで直臣になったのだろうか。倉賀野城を奪還しようと動いたが成功しなかったそうです。もう倉賀野ではなく名を変えて直江氏に仕え、庄内藩主の酒井氏にも仕え、結局は米沢藩の上杉定勝に帰参したと。
何で上杉憲政なんぞに義理立てして仕えたのかはわからないが、まぁ一貫して上杉氏に仕えた人といっていいでしょう。
倉賀野城跡2.jpg
倉賀野城跡4.jpg
このデカい碑は公園に鎮座して烏川を睨んでいる。
でもすぐ裏手には新興住宅が並んでおり、この場所が紹介される度にその家々はメディアに曝されるのでお気の毒ではある。
碑の解説文も簡略なのは、散策者や探訪者を敢えて長時間この地に立ち止まらせないように配慮しているのかも知れない。私もすぐ立ち去り、住宅に背を向け、川に目をやった。
烏川2.jpg
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梶原景時を弁護する [隠れ郷土史]

群馬八幡の同名居酒屋をここ相州寒川で発見した私は思わず降りてしまったよ。
あるんですねぇ.jpg
駅に面している.jpg
あるんですねぇ。同名店が。我、ではなく、和、まで一緒です。
そういえば今夜、ジャン妻は部署で誰かの歓迎会とか言ってたな。ひとりこの店に来てみるか?
でも今日の行程、最後は大田区なんです。そこからまたここ相州寒川まで戻って来るのもなぁ。
取り敢えずこの場所を立ち去った。
だが、この日の寒川は、途中下車した私の裾を掴んで離そうとしない。この案内板に目が留まった。
案内版.jpg
梶原景時?
この辺りにいたのか。
また私の散策癖がウズウズしてきた。今日は海老名で昼休憩を15分しかとってない。仮に1時間として残り45分で散策できるだろうか。
往復20分とみた。迷ったり探したりに10分。うん、大丈夫、余裕だな。

寒川駅の西口を出て、海老名方面の踏切の道を左へ真っ直ぐ歩きます。途中、具志堅の何とかという居酒屋の傍を通り、更に西へ。
しばらくすると歩道がないのに大型トラックがバンバン走る道路(旧大山街道)に出ます。そこを渡った辺りに幾つか案内板が立っていた。
景時については、「頼朝の死後、多くの家臣に嫉まれ」とある。
讒言者とか、そういうイヤな表現は全くされてない。
デカい説明版.jpg
館跡いわれ.jpg
館跡3.jpg
館跡4.jpg
この案内板を見て満足して寒川駅に戻ろうとしたのだが、位置図に気になるポイントを見つけた。
館の周囲を囲む堀が太い棒線、土塁伝承地が▲▲▲▲▲▲でなぞられていて、ちょこっとだけ残存土塁があるらしいのだ。
おや?.jpg
でも何せ800年以上前のものなので何処まで残っているのか。あまり期待しないで探し回った。
殆どが住宅地になっていて、マンション工事現場の向こう側にそこだけ土がムキ出しになっている幾坪かの一画が垣間見えた。そこに旧そうな墓碑か板碑、供養塔のようなものが幾つか並んでいたのである。
だがそこへ行くのがタイヘン。路地に入っても結局は家々で行き止まりの袋小路。いっそ工事現場に入り込んで、「地元の者だけど、その先の墓にお参りしたいのだが」とやってやろうかと思ったよ。
3本めの路地でようやくその場所へ辿り着いた。
個人の私有地だと思いますが遊地のようにも見えた。畑でもない。果樹園の果てか。でもくるまの轍はあったし洗濯物が干してあった。土塁の後はその一角にあり、僅かに地表が盛り上がってるのがわかりますか?
隣はマンション工事が始まっている。いずれはここにも住宅が建つだろう。
土塁あと.jpg
30台~40台前半の頃、私の所業を何者かが上に告げ口された時、「景時みたいなことをしやがって・・・」自分でしたことを棚に上げて罵ったものです。時に景時は三成に置き換えられたりもした。
老成しつつある今では景時をそれほど悪く思わなくなった。
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今では梶原景時を悪人として描かれるケースは少ないように思う。この時代の史料は吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記、九条兼実の日記「玉葉」他に見るしかないのだが、頼朝のスケープゴートだった景時の書いた詳細な報告に私見が混じり讒言と化したきらいはあるのではないか。
もっとも後年、景時を信頼していた頼朝が亡くなってから、66人もの御家人衆の名前を連ねた弾劾文が上奏されるに至っては如何に人望が無さ過ぎだと思う。いくら何でも66人は多過ぎる。そのメンバーも凄い顔ぶれでいちいち列挙したくないが、千葉、三浦、畠山、小山、結城、和田、比企、二階堂、葛西、八田、波多野、大井、若狭、渋谷、首藤、宇都宮、安達、佐々木、稲毛、岡崎、土屋、土肥、河野、曽我、二宮、毛呂、天野、工藤・・・およそこの時代の軍記物に登場する姓がズラリ。
弾劾状を受け取った官僚の大江広元だけが景時を惜しいと。思いとどまるよう三浦義村と和田義盛に諭したが、彼らは応じなかった。
頼朝と違って二代目の頼家は景時という人物を知らない。利用価値もわからないし、自身の決裁権を御家人衆に奪われており、景時を護ろうにも守れない。守るいわれもない。黙って弾劾状を見せたら景時は一切の抗弁をせず、一旦はこの地、寒川一ノ宮に引き籠った。
讒言者は讒言されても仕方がないが、こういうのは必ず火を付けて煽った何者かがいる筈である。

景時は息子二人と三十余人の郎党を率いて何故か西へ向かう。途中、駿河の狐崎という場所(二説ある。)で地元の土豪と交戦して敗死した。
敗死後数年経って、一族か郎党が再興を願ったが退けられたという。
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七士の墓2.jpg
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現在、景時が単なる大悪人ではなく、義経や御家人と対立するが、頼朝が信頼した絶対的な官僚武士として描かれることが多い。
頼朝の命のまま、頼朝や幕府に損のないように忠実に仕事をした人。そう演じた人は江原真二郎さん、中尾彬さんが印象に残っている。中尾さんは景時の失脚、敗死までは描かれなかったけど。
もちろん景時は善人ではない。善人では務まらないだろう。
狡兎死して走狗烹らるの例えどおりですね。そういうのは創業の功臣に多い。必要なときに重宝がられるが、用がなくなればあっさり捨てられるという。
景時の失脚はその後、三浦氏滅亡まで続く北条氏の有力御家人粛清の始まりでもある。畠山、比企、和田、三浦、いずれも北条氏に睨まれて消えて行く。

これはジャン家にあった昭和47年刊行の史料からです。その頃の館跡。
昔の館写真.jpg
館跡1.jpg

某支店長から本社のある女性スタッフを非難する書面があがった事件があったので、行き先を変えたら何故かここ寒川にいる。
その書面は梶原景時宛の弾劾状66人連署まで届かなくとも差出人は連盟になっており、数えてみたら店長以下11人もの連署になっていたな。
1/6とはいえ小さくない数字である。二桁だからね。
景時が私をここへ導いたのだろうか。暗にその女性を助けろと言ってるのだろうか?
寒川に行った翌週、私はその現場に行った。連中11人は私には何事も無かったように接してくれたが、吐き出すだけ吐き出したからやや落ち着いた感はあった。
では受け取った〇長がいつ本人に注意するか。。。
まだ誰かが注意したという話は聞かない。朝礼で、「現場への対応に対しては相手の身になって言葉を選んで親切にお願いします」とだけ。
事情を知らない聞いた連中は「それって誰のこと?」って怪訝に思うだけです。何故注意しないのか。それじゃ本人も直らないし現場も収まらないだろう。
私に情報をくれた男性取締役と昨日も話したのだが、
「まだ注意してないみたいだね」
「ですね。〇長、彼女の話題が別件で出た時に、ちょっと顔をしかめてましたけどね」
「あれかな。〇長にしてみりゃ自分が言いたくても言えないことを彼女が代返してくれたと思ってるフシはない?」
「それはあるかも。でも他からも同じようなクレームが来てるみたいなんで。。。」
くだんの女性を梶原景時と同一視できないが、どちらも職務を遂行したに過ぎないのではないか。でも長くその職に就いていると、誰でも自分で気付かぬうちに慢心して、自分に跳ね返って来るのだろうか。
哀しいかな。景時には弁護する者も、注意する者も誰もいなかったのである。

だがこの日はまだ終わらない。
あの群馬八幡と同じ名前の居酒屋が気になる。。。
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そして夜.jpg
行ったのかよって?
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手取川で何があったのか? [隠れ郷土史]

土手から手取川を見てるところ。
ここから見た手取川は水がそれほど無いように見えた。
土手から下流.jpg
土手から上流.jpg
ここへ来る前、私は近江町市場に接した寿司屋さんでランチしています。
ひととおり寿司を腹中に収めた後、店の主人が言うお決まりの台詞、
「何処からお見えになったんですか?」
これにはまぁ適当に答えました。その次に、
「これから何処か行かれるんですか?」
外は雨、風も冷たい。主人はせっかくの金沢観光なのにあいにくのお天気ですねぇといった表情だったが、同行者も私の奇異な趣味というか、私が手取川に行こうとしているのを知っています。
もちろん付き合ってはくれないし私だって突き合わせるつもりはない。夜の宴会まで自由行動なんですが、「何処へも行かない」と言えばいいものを正直な私は、
「昔、戦いがあったところ・・・」
「???」
主人は握る手を休めてキョトンとしてた。
「手取川」
「そんなトコがあるんですか?」
そう来ると思ったよ。天気が荒れてるので、「こんなお天気で行かれるんですか?」
「戦いの日もこんな天気だった。往時を知るのにシチュエーションは万全」とか強がりを言ってしまったものである。
「誰と誰が戦ったんですか?」
私はもう自分のマニアックな趣味を寿司屋の中で曝すのが恥ずかしかったのだが、
「謙信と信長ですよ」
「そんなのがあったんですか?オイ?(奥さんを呼ぶ)、手取川で戦いがあってそこへ行かれるんだって」
「まぁこのお天気の中を。それってなんなんですか?」
やれやれまた説明させるんかい。でも奥さんは私が行くその場所というよりも、強まりそうな風雨を心配して下さった。
「くれぐれもお気をつけて。無事にお戻りください」
「別に戦いに行くわけじゃないんだからさ」
「いやいや、この悪天候にそんなところに行かれるなんてまさに戦いでしょう」
「ちょっとっ、行く決心が鈍るじゃないかっ」
コントみたいな遣り取りがあって、寒風に吹かれながら現地に来たのです。
どういう偉人かわからないのだが、熊田源太郎という人が明治中頃~昭和初期に集めた13863冊の書籍を収納してある財団法人呉竹文庫の駐車場入り口に、手取川古戦場の説明碑文を発見しました。
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今から438年前のことです。
信玄と信長との直接対決は実現しなかった。上洛途中で信玄が病死したからである。
では謙信と信長の直接対決はどうだったかというと、それも実現しなかったが、もしかしたら?というのはあった。無くもなかったのです。その舞台がここ手取川。
結果として直接対決にはならなかったが、謙信対信長の配下・・・この方面、北陸戦線司令官の柴田勝家軍と会い見えた。

能登の七尾城が絡んでいます。七尾城攻防についてはこの記事を見て欲しいのですが。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26
手取川の戦いってのは簡単に言うと、七尾城を救援に来た柴田勝家軍が手取川を渡ったところで七尾城陥落を知り、謙信自ら手取川からここからほど近い松任城(JR松任駅の辺り)まで出張って来ているというではないか。
撤退せんと雨中を引き返したら手取川が増水しており、そこを謙信軍が背後から襲いかかった。
勝家軍は織田軍得意の鉄砲も雨で使えず川に追い落とされてしまい、戦死者1000人プラス多数の溺死者が出たような、殆ど一方的な殺戮だったような記事になっている記事が殆どです。
一級河川.jpg
今日見てもそれほどの川には見えないのですが、手取川が一級河川に指定されたのは昭和41年(1966年)です。国で直接管理する=河川改修が始まった。暴れ川に沿った周囲の被害を無くさんと、洪水調節や治水用のダム、手取川ダムが建設される。
手取川は全長72kmで、白山にある水源とは2702mもの差がある。単純計算で72/2702=1/27だから、僅か27mで1mの段差というのはかなりの急勾配、急流河川なのです。
今は上流のダム、沿岸の護岸、河川敷の整備工事が行われ、昔のように氾濫することはない。この日も川の中州の辺りで重機が何やら動いてたし、荒れた天気の割には河川の水はそれほどなかったように思う。
(だから千里浜なぎさドライヴウェイの砂が年々少なくなっていくのだが。この碑がある場所から日本海まではもう1kmもないんです。)
だがそういう治水事業が無かった時代、川の水量は今から見て数倍はあったに違いない。
重機が見える.jpg
ではこの戦いがあまり知られてないのは何故か。
寿司屋のオヤジはともかくyossyさんはご存じでした。ただ、訝しげに、「へぇ、そんな地元でも行かないところへ?」
小舞子駅に案内板もなかったし、この公園の碑だけなんです。どうもちゃんとした記録が無いらしい。
この戦いは昨年の駄作大河、軍師官兵衛でも出なかったが、北陸方面戦線で秀吉が勝家と衝突、無断で帰ってしまったあの事件は描かれた。その後で秀吉は近江長浜でどんちゃん騒ぎをやらかしていたのだが、この戦いはそのタイミングで起こった。
でもドラマではあまり描かれない。やはり地方戦線の局地戦だからだろうか。柴田勝家という地味なキャラだからだろうか。
(官兵衛以上の駄作、毘沙門堂を洞窟にしちゃった「天地人」で少し描かれたらしいね。戦国ゲーム信長の野望にはあるようです。)
この碑は手取川の左岸(流に沿って)にあり、往時から言うと織田軍側にあります。
ポイントとしてこの地に来れた満足感はあったけど、ビュー的には古戦場ってのは案外とツマんないモンなんだなぁ。
あくまで戦いのあった場所っていう位置づけだけなんだね。
落首.jpg
解説碑文.jpg
謙信率いる越後軍は勝家軍が撤退するところを奇襲したらしいが、それほど大きい規模の戦闘だったのだろうか。というのは勝家と喧嘩した秀吉が戦線を離れてしまったとはいえ、それでも準AクラスからBの上クラスの将校たちが幾人もいて、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政、不破光治、金森長近、他に氏家、安藤、稲葉といった面々、彼らは誰も戦死していない。
大勝した謙信も手取川を越えて対岸に渡ってないようです。そこで引き返した。彼自身の足かせにもなった関東管領職に引っ張られて越後へサッサと引き上げてしまったことや、翌年春に急死したことも何だかこの戦いを曖昧にしているようにも見えるのだ。
信長は実際にはこの戦闘には参加していないので、正確に言えば織田軍の敗北といえる。でも謙信ファンにしてみれば痛快である。生涯一度の対決を殆ど一方的に大勝したのだから。信長自ら出張っていなかったとはいえ信長軍を破ったのだから。
最近、演じた方だとこのお二人でしょうか。
謙信.jpg勝家.jpg
ところが。。。
夜に同行者から聞いた話だと、いろいろ異説があって、
「この戦いはホントは無かったってのもありましたよ」って私に言うんです。
無かったって言われると、悪天候で見に行った私の立場が無いんだけど。(^^;
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