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紀尾井さんのルーツ [隠れ郷土史]

紀尾井1.jpg
静岡市内にあるマニアックな酔いどれたちが誇る名(迷)居酒屋、紀尾井の主人が私に言うには、
「横地城って行ったことあります?」
横地城?
「まだ行ってないが。マークはしてありますよ」
「ウチのルーツなんですよ」
やはりそうか。
店主の目が「是非行って来てくださいよ」と訴えている?
傍らでジャン妻は「またヘンな山城を革靴で上って、靴をダメにするんじゃないでしょうねぇ」と不安げだが、調べてみたら城域が舗装された遊歩道になっていた。
紀尾井の店主のルーツにやってきました。

横地城、別名を金寿城(名前だけだと縁起が良さそうだが)に行くには菊川市街地から245線をひたすら南下します。
菊川市立総合病院の辺りを過ぎると緩いカーヴになる。その辺りにこんな看板がある。
大看板.jpg
この看板は私が数えたところ1枚、2枚、3枚あり、いずれの案内も城域へ導くようですが、特に1枚めの看板案内はこの辺り一帯の遺跡群を余さず見て廻る最も長いコースで、舗装されているものの、細くて長い道のようです。
一気に城の中核に行くにはどうすればいいか調べたら、3枚めの看板の案内で左に逸れ、この案内の先に、
看板1.jpg
この説明板の左手にも訪城口があるのですが、ここもスルーして、
解説板1.jpg
この先にも駐車場がありますが.jpg
そこからの登城口3.jpg
そこからの登城口2.jpg
更に先にWCがある駐車場があります。そこの脇に訪城口がある。
更にその先の駐車場.jpg
解説板2.jpg
城域の中心部に一気に上がれます。
登城口いちばん近い.jpg
最初はこうですが.jpg
道が無くなったが.jpg
獣道の先に.jpg
途中に獣道が20mほどありますが、すぐ千畳敷という平場に出て、そこから舗装された尾根の道を東西に歩けば楽チンです。
千畳敷.jpg
この千畳敷には駐車スペースも多少あります。細いながら道も舗装されており、ここまでくるまで上がって来れないこともないようです。
ガードレールもあるから小型車なら可能かも知れない。
平場の碑.jpg
解説板3.jpg
解説板4.jpg
解説板5.jpg
千畳敷の正面に二の郭、横地神社。
横地神社1.jpg
横地神社2.jpg
横地神社3.jpg
土塁壕.jpg
二の郭解説板.jpg
郭を繋ぐ道1.jpg
中の城へ。薮が酷くて中には入っていません。
中城跡.jpg
本郭へ続く道。
尾根を繋ぐ道2.jpg
木戸跡.jpg
本郭へ。
本郭解説板1.jpg
本郭解説板2.jpg
本郭へ1.jpg
本郭へ2.jpg
本郭に到着.jpg
本郭3.jpg
眺望、南を望みます。
見渡す1.jpg
見渡す2.jpg
見渡す3.jpg
最初に作ったのは室町時代初期の頃、に横地太郎家長(家永)という人。
紀尾井さんのルーツである横地一族の当主を並べると、初代家永、2代頼兼、3代長宗、4代長重、5代長直、6代師重、7代師長、8代長国、9代長則、10代家長、11代長豊、12代長泰、13代長秀、14代秀国、15代元国、全部の当主が太郎何々といふそうです。紀尾井店主は数えて何代目だろうか。

この地に駿府の今川氏が攻め込んで来た。往時の駿府太守は今川義忠という人で、義元の祖父の時代です。
今川義忠は駿河の守護だが、お隣の遠江の守護職を斯波氏と争っていた。
相手は斯波義廉という人で、もとは今川氏が遠江の守護職も持っていたのを斯波氏に奪われた形になっていたらしい。
ダラダラ10年以上も続いた戦争、応仁の乱で今川義忠は東軍に属した。不仲の斯波義廉氏が西軍だったからである。

(この乱より前だと思いますが、今川義忠は室町幕府の執事だった伊勢盛時(新九郎)と知り合い、その姉か妹を貰った。北川殿と伝わる女性との間には龍王丸(後の氏親)が生まれている。)

乱の途中で応仁2年(1468年)今川義忠は、東軍総帥細川勝元の指示で斯波義廉の遠江を騒擾させる為に帰国して遠江へ攻め入る。
その過程で齟齬が生まれる。今川義忠と同じ東軍陣営に別の斯波氏、斯波義良という人がいて、幕府がその人を何故か遠江守護に任命してしまった。東軍と西軍がそれぞれ別個に遠江守護職を馬の鼻先にブラ下げたニンジンのように乱発したもんだから、今川義忠は同じ東軍の斯波氏とも敵対構図になる。
更にヤヤコシイことに、斯波義良の家臣で甲斐敏光という人を西軍から東軍に寝返らせる為に、またしても遠江守護職をチラつかせた。甲斐敏光はそれに乗って寝返ったから、遠江守護職が東軍西軍合わせて3人(義廉、義良、敏光)になってしまったのである。
遠江から斯波氏を追い出したい今川義忠は、東軍西軍構わず実力行使に出た。対斯波氏、対甲斐氏、それに連なる国人衆と干戈を交えることになる。
ここで横地城が登場する。横地太郎秀国(14代)は斯波義良に付き、分家の勝間田氏と組んで今川義忠に抗戦する。

文明7年(1475年)と翌8年に今川義忠は横地城に攻めてきた。
今川軍の兵数は500だというが、その単位は500人?500騎?
500騎だったら従者や軽輩を入れたらその分兵数が増えるが、500人でこの城域全体を包囲できるかどうか。
歩いてみてわかったのは、この城は山の峰々に郭を分散して配置しているので、ひとつひとつの郭はそう大きくないのだが、山の峰は裾に広がっているものなので麓でぐるっと全部を包囲するにはかなりの兵数が必要かと思う。
逆に言うと、城域内の山の峰々に郭が点在しているので、全部を守ろうとするにもそれ也の兵数が必要である。守る横地一族がどれぐらいの兵力だったかわからないが、攻める側が1点に多勢を集中すれば突破口は開けるかも知れない。

横地城は7日間の籠城戦に耐えた説、横地秀国が戦死して落城した説とある。
どちらにも共通の結果がある。駿府に引き上げる途中の今川義忠は、地の理に詳しく先回りして伏せていた横地軍の残党に襲撃され、矢を受けてあっけなく戦死した。
尾根を繋ぐ道3.jpg
虎口か?.jpg
見て廻ったのですが旧いタイプの縄張りです。
時間の都合で全部は見れなかったのですが、山の峰々を主に3つの郭に分け、千畳敷のすぐ前に西の城、東に歩いてすぐに中の城、東に本郭(金寿丸)、これらを尾根道で繋いでいる。私の見立てでは、東の本郭より西の城の方が高いようです。
主将、副将1、副将2、3郭を守る将校たちが上手く連携を取らないと、攻め入った敵兵を撃退するのは難しそうである。
戻って千畳敷から西へ。
何だこれは?
谷1.jpg
谷2.jpg
谷3.jpg
横地さんの森.jpg
幽体離脱した紀尾井さんの店主と出逢ったりして。

横地城は攻防戦が有名なのではなく、前述のように落城後に横地や勝間田の残党たちが今川義忠を討ち、それが今川家の後継者問題を引き起こし、伊勢盛時(新九郎、早雲)の登場となるきっかけを作った城で有名なのです。
残党たちが射かけた矢がたまたま命中して戦国時代の扉を押し開けた。その為に存在し、落城した。

マスター.jpg
横地一族には生存者もいて、帰農した者、三河松平氏に仕えた者、甲斐の武田氏に身を寄せた者がいるようです。
四散した一族郎党の中には、時空を遥かに超えて宮ヶ崎町の居酒屋の店主に落ち着いている方もいる。
その店がボロいのは城が落城した名残で?店主の風貌は落ち武者そのモノを表しているのか。
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井伊の井平 [隠れ郷土史]

おんな城主が井伊虎松の後見に就いたのは、小野父子(和泉と但馬)の讒言と、度重なる合戦で井伊家中に男子がいなくなったからだというが。壮年の男が少な過ぎる。
他に誰もいないから尼小僧様を還俗させて、直虎と名乗って井伊虎松の成人までの後見に据えた?小野但馬や今川家の介入を防ぐ為に。
実際そうだとしても、おんな城主誕生の理由付けにしてはちと強引と思わないでもない。そこまで井伊に男がいなかったのだろうか。
男の重臣が少な過ぎである。この凸凹2人と銭の犬、酒ばっかり飲んでる和尚とその寺にいる屈強の兄弟子2人だけでよく家中が保てたものである。
この連中だけ.jpg
と皮肉を言いましたが、井伊家の庶流はいなかったのだろうか。
麓の居館跡1.jpg
井伊谷の北方、井平の郷を治めた井伊に繋がる一族、井平氏のこと。
場所は引佐(イナサ)町伊平、そこにいたのは井平氏だが現在の地名は伊平。井が伊に変わったようです。
井伊谷から井伊谷川に沿って257号線を北上、東名浜松いなさICの表示が見えたら、右手の脇道に逸れて井伊谷川を渡ります。
井平への道は.jpg
民家の敷地脇に解説版があった。
麓の居館跡2.jpg
『この場所は、井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3年(1245)井伊家から分家した井伊直時は此処に居館を構え、この先北方300mの山麓に城を築き、井平氏の祖となりました。
それから330年の間、井平氏は井伊氏を支える有力な家系となり、井伊直虎の曾祖母や祖母(井伊直平の妻や井伊直宗の妻)はこの地で誕生しております』
ああ、この爺さん(20代)の奥さんが井平氏の出なんだ。
おじいちゃん.jpg
おんな城主のお父さん(22代)の前、登場しない21代の奥さんも井平氏の出だそうです。
おとうさん2.jpg
井伊家との関係.jpg
この系図はわかりやすいが井伊家しか書いていないのです。往時の井平氏の事績についてはあまり触れられていない。
次に元亀3年(1572年)、武田軍の遠州侵攻で、当時の井平家当主、井平直成の名前が出て来る。昨日の仏坂で戦死した人です。
「・・・井平城(仏坂)の戦いで当時の当主、井平直成は88名の家臣と共に討死しました。城郭、居館は焼き討ちに遭い、井平氏は一時絶えました。
その後、天正元年(1573年)井伊直平の末子、井平直種が井平氏の当主となり・・・」
爺さんの末子が復活させたようですが。
「・・・天正18年(1590年)、直種の嫡男弥三郎は井伊直政の家臣として小田原攻めに参戦し、18歳の若さで討死、井平家は断絶しました・・・」
ガクッ!!
なんてこったい。
小田原攻めで戦死??あの大軍攻囲戦でか。
小田原征伐での本格的な戦闘は本城小田原よりも山中、韮山、松井田、鉢形、八王子、忍といった支城攻めの方が苛烈ですが、小田原本城の攻囲戦で攻める側がマトモな戦闘を仕掛けたのは、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けたぐらいですよ。
直政が無理したのかも知れないが、勝ち戦で討死するなよ。
駐車場.jpg
この先井平城1.jpg
では北方へ。井平城の駐車場は案内矢印の先にあります。少し上がって、また下りてくると登城口。
だけどこの案内、舗装路と草むらの中の獣道とどっちを指しているのか。
この先井平城2.jpg
「どっちに行けばいいんだ?」
「・・・」
私は草むらに踏み込んだ。ジャン妻は坂を見て断念、下で待機させた。
ジャン妻は断念1.jpg
ジャン妻は断念2.jpg
こんな狭い自然の坂です。
城域へ登る.jpg
これが大手木戸口の跡らしい。
狭い大手.jpg
ところがこの先ですぐ舗装路に出た。井伊家ゆかりの幟がここにもくたびれてはためいていた。
何だ?舗装に出たじゃんか.jpg
なんだ、草むらに入り混まなくても舗装路を上がってくればよかったのか。
3枚の解説板があり右手には駐車場もありました。ここまでくるまで来れます。
説明板三枚.jpg
3枚の説明板の先には1軒の民家があり、この地に至るまでの舗装路はそこにお住まいの方の生活道路だといっていい。
説明板三枚の先に民家が.jpg
説明板1.jpg
説明板2.jpg
説明板3.jpg
一帯は畑などに変わっているが、かつて段曲輪だったような地形がある。

土塁1.jpg
土塁3.jpg
土塁2.jpg
土塁か縦堀か。急場の連絡路か。下りてみたら。。。
土塁8.jpg
マムシ!!
マムシ.jpg
土塁9.jpg
冗談ではない。上に戻りましたよ。
下までおりた訪城プロの方のサイトもあります。探してみてください。
土塁4.jpg
土塁5.jpg
土塁6.jpg
土塁7.jpg
あまり敷地内をウロつくのは憚られますが、見て思ったのは、家がある辺りが主郭でその先の尾根筋の方が高いのです。
この先は尾根筋を断つ堀切も見当たらない。最高所には携帯電話の鉄塔が建っているようだが、北の守りが脆弱のようです。
だから仏坂へ打って出たのだろうか。
搦め手の方が高いのか.jpg
山県三郎右兵衛尉昌景はこの城も難なく落とす。率いる赤備他の兵数が5000人もいたなら充分過ぎる。
旧鳳来寺街道を抑えている要衝にしては心許ない規模である。

遠州国境戦から仏坂、井平城、一連の戦いにおんな城主は出張っていません。
武田軍へ燈籠の斧のように刃向ったのは、あの近藤康用の子の秀用という人(之の字が名前を言っていた)、仏坂でも触れましたが「討死した父にお経をあげてください」と懇願した鈴木重好14歳か15歳(・・・柴崎コウさんは一本町史の台詞よりも、お経を詠む方がキレイで上手ですね・・・)、鈴木の叔父で重俊という人(権蔵とも、出雲守とも)、そして井平城の主である井平直時とその一党です。
一連の戦いは井伊側にとっては退却戦です。山県軍からしたら追撃戦なのでその先にある豊穣な井伊谷の地を目指してやる気満々だったに違いない。
家康は援軍を出せなかったようです。この頃は全く頼るに値しない。
舗装道路でも上がって来れます1.jpg
帰りは舗装路を下りました。
堰堤があった。砂防指定地らしく大水が出た形跡もある。
舗装道路でも上がって来れます3.jpg

井伊の郷.jpg
井の国の散策は終わりました。
奥山や宇利(近藤が前にいたところ)までは足が延ばせなかった。
井の国ではないが、まだUpしていない遠州ネタが。。。
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赤備を迎え撃った井伊の武人たち [隠れ郷土史]

クランクアップ、お疲れさまでした。
クランクアップ.jpg
個人的な感想ですが。
おんな城主がおんな農婦になって、還俗してチンピラ雲龍丸と同居、無理に主役で引っ張ってましたが「炎立つ」や「葵三代」のように第1章と第2章とかに分けても良かったかもね。
第1部は直虎編、城主を下りた第2部では井伊万千代編、だって直虎さんは井伊家の再興を諦めたんだからさ。
井伊谷はモミアゲ近藤が治めているのにおんな農婦が出しゃばって差し出がましくああしてはどうかこうされよと。言われっ放しの近藤もどうかと思うが。
龍雲丸とのラブシーンは現代そのものだし。ちょっと興冷めした。
でもまぁ最後まで観ますよ。要所要所でいいネタや奥深い台詞もあったし。
では描かれなかったネタを掘り起します。
井伊谷城を焼いて隠れ郷へ退避し、瀬戸村、祝田村は焼かれて焦土と化したが、「農民はひとりも死ななかった・・・」
・・・それはよかったですね。逃げるに如かずが成功したと。
では一戦も交えず逃げ出したのかというとそうではなく、例の三人衆が武田軍を喰いとめようとした痕跡はある。
武田軍2.jpg
いきなり武田軍が攻めかかって来るシーンが。
これはおそらく、設楽原のロケだと思うけど。
次にスタジオ撮影、何処かの山の中での戦いが少し描かれた。
合戦シーンが少ないと叩かれていたが、希少なシーンではある。
仏坂1.jpg
仏坂2.jpg
仏坂3.jpg
仏坂4.jpg
ではこれは何処の戦いなのか。

東名浜松いなさICから257に入り、井伊谷に下る途中で、「仏坂十一面観世菩薩、ふろんぼ様」の縦看板がある。
戦闘があった場所へ行くにはこの細い道に入ります。
仏坂への道.jpg
途中の道.jpg
振り返る.jpg
曲がったらいきなり急坂で、その先も緊急車両が入れるかどうか、行き違いが殆どできなさそうな細い道が続きます。この先には人家が1軒と寺院があるのですが、まずすれ違うこたぁないだろうと油断したら、途中で1台の軽トラとすれ違った。
運転してたのはオバさんだった。この道は対向車と行き違いできる場所が決まっていて、待っててくれたようである。また余所者が入って来たと思ったに違いない。
ここに停めた.jpg
ここに停めた。ジャン妻を待たせておいて。
実はこの先もくるまで行けます。寺院があから。
「すぐ戻る」
「無理しないのよ。革靴なんだから・・・」
ここから歩く.jpg
歩く1.jpg
歩いて振り返る.jpg
歩いて見上げたら住居があった。さっきすれ違った軽トラのオバさんはここの住民だったのかも。
このカーヴの先に.jpg
船山温泉の林道、作業道よりガレてない。
ヘアピンカーブを曲がるとその先に、おんな城主の舞台ですよの幟がここにもはためいていた。
その先に何かがある.jpg
仏坂1.jpg
この辺りに旧道があります。旧鳳来寺街道という。幟がはためく坂を仏坂というそうですが、ここで戦いがあった。家康が惨敗した三方ヶ原の前哨戦です。
ドラマでは松平信玄が自ら本体率いて井伊谷に攻め込み、焼き払った後で南渓和尚が直談判していたが、実際に井伊谷を荒らしたのは武田軍の別働隊、率いて来たのは赤備えの山県昌景だった。
山県昌景は遠州に乱入して三人衆の鈴木氏の小城を抜いた。その報を受けた井伊軍(というか、徳川に靡いた国衆連合軍)がこの仏坂で山県軍を迎撃しようとする。
仏坂2.jpg
仏坂3.jpg
仏坂4.jpg
顔触れは例の三人衆他で、井伊家不在の井伊谷城代のモミアゲ男・近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の遺児で重好、井伊に繋がる一族の統領で井平直成という人(井平というのはこの辺り一帯の郷の名でもある)たち。
鈴木重好は直虎に「お経を詠んでください」と言ったあの子ですよ。
鈴木重好15歳.jpg
コウさんは台詞よりもお経の方がキレイで上手ですね。歌手だからね。

井平や鳳来寺街道、仏坂は井伊谷の橋頭堡で、ここを抜かれたら井伊谷は目と鼻の先といっていい。
解説板4.jpg
元亀3年(1572年)10月22日、坂を下って来た山県軍に対して坂を見上げる不利な体勢で、数にも劣る井伊谷三人衆と井平の連合軍は敗れ去る。
井伊直平はこの地で戦死、鈴木の遺児・重好を補佐していた鈴木重俊という人は、「頬当(ほほあて)の下菱縫(ひしぬい)に鉄砲を受けて・・・」、享年僅か22歳で戦死した。2人とも鉄砲の被弾で絶命したそうです。
他、この戦いで亡くなった井伊勢の戦死者88名か、武田兵と併せて88名かがここに眠っている。
四畳半ほどの塚が盛り上がり、自然石が積まれていた。
解説板1.jpg
解説板2.jpg
井伊の残兵は山中に3日間隠れてその後で逃走、井伊谷城を放棄したのです。
山県軍はこの後で取り上げる井平城も抜いた。上州でもそうだったが放火乱捕りが大好きな武田軍は飢狼のように奪う気満々でやって来て、龍潭寺他あちこちを焼いたらしい。武田軍がやたらと荒らすのは上州でもそうだったがクセのようである。
井伊谷城炎上3.jpg
本当にこんなところで合戦があったのか?と思ほど狭い印象。
旧鳳来寺街道1.jpg
現在の舗装された道幅ではなく、こんな細い道で激戦に。。。
旧鳳来寺街道3.jpg
旧鳳来寺街道2.jpg
これが旧鳳来寺街道で、命を狙われた幼い頃の井伊直親が、今村藤七郎と隠れた場所が500m先にあるらしいが、行くのは止めといた。私は直親には共感できない。
行かなかったけど.jpg
逃げる亀.jpg

解説板3.jpg
三人衆(鈴木は遺児)は自ら出張らず援軍を出しただけかも知れないが、井平直成はこの戦いで亡くなっている。
兵力に差があるし、戦場慣れた場数でも圧倒されたに違いないが、逃げずに山県軍に立ち向かった井平直成とは何者なのだろうか?
井伊?井平?紛らわしいですが。
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気賀一揆(堀川一揆)異聞 [隠れ郷土史]

後世に生きる我々が知る英雄たちの記録は勝者側が記したもので、都合の悪いことは後世に残さない為に記載されない。それらは改竄か抹消される。
だが、地元に語り継がれる伝承や僧侶の記録、他家の第三者的な記載等で後世に伝えられるものもなくはない。
特に僧侶は死者を弔い埋葬に立ち会う。施政者に庇護されなはらも、民衆との間で中立の立場ともいえる。だから感情を交えず大袈裟に書きたてず、事実起こったことを淡々と記載する。
それらは日の目を浴びることなく何処かの奥にしまわれるが、後世に発見され、史料と成り得る場合もある。
堀川城の戦い1.jpg
血を流さない英雄はいない。
信長、秀吉、信玄、政宗。。。
では泰平の礎を築いた家康はどうか。
堀川城の戦い2.jpg
36話からおんな城主がおんな農婦になってしまい、もう城主じゃないからといって龍雲丸(何者よ?)と訳がわからん同居生活で無理に引っ張ってたのには食傷した。
その前から「合戦シーンが無い」「大河じゃない」と言われた。やっぱり女性脚本家はダメだな~と思ったものである。
だが厳しい視聴者や批判の矛先に一矢報いたのが気賀・堀川城のジェノサイド。堀川城に籠った気賀の農兵1700人か2000人。この数だと往時の殆どの人口といっていいようだが、史実のとおり皆殺しにされた堀川城の戦については、現地の浜松市細江町気賀を廻ると至極当然のように記載されていたですよ。
気賀一揆、堀川一揆ともいう。彼らがいた気賀は現在の浜松市北区細江町です。家康がいた浜松市に組み込まれているが家康を全く持ち上げていません。
家康を貶めているとまで言わないが良く言う訳がない。あれをやらかしたのは事実なのです。
それでいて同じ気賀町内には大河ドラマ館が開場されていたから微妙な空気である。おんな城主の舞台でもあり、それに若き日の家康が絡むから、虐殺された舞台である堀川城にもおんな城主の幟がシャァシャァとはためいていた。あくまで舞台としてである。
堀川城2.jpg
堀川城1.jpg
堀川城4.jpg
虐殺の舞台である堀川城は現在は何もない。どんな形状をしていたのかさえわからない。
田が広がる低地で、すぐ近くに都田川が流れ、それは浜名湖に直結するから満潮時に船を利用していたといふ。水城だったのか。
そこで起きたことだけが記されている。永禄12年(1569年)3月27日のこと。
合成CGでのメージ??
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こんな海の上に浮かんでたら魚はバカバカ釣れそうだが、湿気でその他の食べ物が傷んでしまわないか。
堀川城3.jpg
堀川城に籠った今川軍と農兵は1700人か2000人あまり。攻めて来た家康軍は3000人。戦闘員も非戦闘員も構わず皆殺しにされ、その後に捕えられた700人が同年9月9日にこの付近で首を討たれた。
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皮肉にも徳川家の家臣、大久保彦左衛門の記録に「男女共に撫で切りにした」とあるそうです。その首をこの小川に沿った土手にさらした。
碑のある辺りに普通に住宅が建っています。
獄門畷の場所は362号線沿いです。気賀関所前から西へ走り、気賀駅北信号の先にあります。
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獄門畷4.jpg
井伊谷のおんな城主が家康に通じたが為に、永禄11年(1568年)12月に家康が遠江へ侵攻してくるわけですよ。
NHKでは堀川城の城兵が地域住民を連行したように描かれていたが、ある歴史サイトを見たら地元の寺社が絡んでいるともいふ。自ら抵抗すべく立て籠もったと。堀川城と近隣の刑部城の戦闘は対今川軍といいよりも、地元の民衆が徳川軍に抵抗した一揆の意味合いが強いのではないか。
NHKが視聴者に与える影響は大きい。それが史実だと思ってしまう。だから創作がそのまま視聴者を信じ込ませる可能性もあるが、この堀川城大虐殺は目をそむけずによく描いたと思います。
現地の国衆、尾藤主膳、山村修理、竹田高正も登場していたし。
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気賀一揆掃討戦は家康の生涯で最も残酷な戦場となった。あまり知られていないだけである。
家康を悪く描きたくない為か、家臣の酒井忠次の独断のように描いていたが、家康がやらせたのです。
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現在、日光で神君化されている家康の若い頃の蛮行である。それをNHKが描いた意義は小さくないと思う次第。
堀川城も獄門畷もGoogleMapには表示されます。

東海道線用宗駅から見える持舟城に歩いた時、途中の街の一画に略史があった。その略誌は何かを訴えたいかのように黒い板に金の文字で禍々しい。
水運の要衝にあった持舟城は都合3回も陥落しているのだが、2回目の戦闘記述にこうあった。
「三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった・・・」
天正七年九月の戦は最も残虐であった。。。
用宗は静岡県静岡市駿河区です。後年は家康のお膝元といっていい。その地に地元の英雄・家康を貶めるような記載があって憚らないのに驚いたものだが。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-02-11

この時代は農民イコール非戦闘員ともいえない。武器は持った筈である。
とはいえ若き家康、やり過ぎたんじゃないかい?

ひとつの謎がある。
おんな城主は気賀の領主ではない。気賀堀川一揆鎮圧後に南渓和尚他とこの地で経を唱え、死者を弔ったかも知れないが、街を治めてはいないです。
堀川城に籠った前述の尾藤主膳、山村修理、竹田高正、これ以外に聞き捨てならないことがあります。
気賀に全得寺というお寺があります。山の斜面にある酷な参道を登る臨済宗の寺です。
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上り口にかすれた文字ながら解説板があって、そこにも堀川城と気賀一揆の顛末が記載されているのですが。
全得寺の解説b1.jpg
最後の方に「大正十二年に、堀川城主新田喜斉(ヨシアキ?)を祀っていた知足院を合併し、山号を知足山とした」とあります。
全得寺の解説b2.jpg
堀川城主新田喜斉?
そんな人は登場しなかった。クレジットは城将らしい尾藤主膳、山村修理、竹田高正だけだったと思う。
ムロツヨシさん演じる瀬戸方久が商人でありながら城主だか城代の位置づけだったような。
この寺の境内は山の斜面を登るのですが、そこに新田喜斉(方久)という人の墓があるのですよ。
小雨降る中傘も差さずにゼェゼェ登って発見した。お墓そのものは撮らず解説板のみ撮影した。だが帰宅してダウンロードしたらその写真だけ消えていたのです。
ガーックリ来たのでこの情報を得たサイト「BUSHOO!JAPAN(戦国未来@武将ジャパン)」の管理者Iさんにご連絡して、新田喜斉(方久)の解説板の写真だけ借用をお願いしたら快く了承して下さったのでここに転載する次第。
新田方久の解説板.jpg
【写真/戦国未来@武将ジャパン(https://bushoojapan.com/)】
私は銭で味方になった者は裏切る時も銭が理由だと思うのだが、銭で転ぶキャラなこの人は新田の末裔なのだろうか?
方久5.jpg
実際は単なる商人ではないらしいのだ。堀川城主でありながら一揆で戦死せずに生き残ったらしい。
解説板によると訴事に関わって八十二歳で刑死とある。そんな年寄りを処刑せんでもよさそうなものだが、実は気骨ある人で、老いてもその気骨は尚失われずにいたのだろうか。
単なるモデルかもしれないが方久という人は実在したようです。ついでながら、ここから南に龍雲寺という寺もあることを付け加えておきます。
龍雲寺2.jpg
龍雲丸.jpg
方久と号する新田喜斉についてはこのサイト以上の情報を持たないので、出典明記のお約束でもあるので詳細をごらん下さい。私の嫌いなキャラ龍雲丸の意外な正体についても触れています。
https://bushoojapan.com/iinaotora/2017/07/09/101675
ご承諾ありがとうございました。
暗い散策は終わり。浜松市内のホテルにインして、美味しい居酒屋へ向かいます。
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井の国 [隠れ郷土史]

井伊谷一帯は直虎の舞台をアピールする幟がそこらじゅうにパタパタしていた。
昨年に登った井伊谷城は、おんな城主云々のアピールは麓の訪城口にしかなかった。
頂上は単郭で、とても緊急時の詰の城とは思えない。
井伊谷城1.jpg
頂上まで行ったら詳しい説明板があると思いますが、今回は井伊谷城は行かないです。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-03-17
これは市内の道から望見したところ。
井伊谷城2.jpg
行きたい城は明日、ここから北にある。それは別項で。

それより龍潭寺他、見て廻りたいものは麓に、井伊谷の平地にある。
いちいち探さなきゃならんと焦っていたら、井伊谷一帯にやたらと直虎の舞台をアピールする幟がはためいていた。何かを探すまでもない。そこらじゅうに幟が立っているので、「あ、そこにも」、「あ、あんなとこにも」、「まだある」、「もしかしてあれもか?」、その都度急ブレーキを踏んでUターンして、下りてサッと写真撮っての繰り返し。
観光客誘致の為でもあろうが、こちらも助かった感はする。
加えて何処へ行っても解説板があった。それは掘り下げた内容ではなかったが「ああ、あのキャラクターか」と思い出させる。
逆に言うとドラマを見てないと入っていけないかも知れない。

井伊家の館跡。公民館が建っていた。
館跡1.jpg
平時に井伊谷城に居住していた訳じゃない。あんな高い山で日常を暮してたら不便でしょうがない。
館から井伊谷城を望見したところ。
館から望む1.jpg
館から望む2.jpg
初期のキャラたち.jpg
長老たちのイライラ.jpg
初期の頃のキャラクターのイメージは薄れてきている。それだけ高橋一生さんの存在が光ったってことだろうか。
私は井伊直親に全く感情移入できないし、前半、井伊一族の謀叛の企ての稚拙さに呆れてもいる。
特にこの人。宇梶さんが演じた直満。
直満叔父.jpg
井伊家の人々は家臣を含めてかなり絞られているようだが(一族や庶流を多く登場させても、直〇ばっかりで混乱するだけかも。)実際の謀叛では直義という弟も誅されているそうである。
井殿2.jpg
くるまを出しては停め、出しては停めを繰り返す。
「あ、何かあった」
「・・・」
Uターンか、脇見に逸れて何かあった箇所に戻るを繰り返す。幸い近世の城下町ではないので一方通行が無いのが幸い。
「そういう散策スイッチが入るともうダメねアナタは」
「そうそうここに来れる訳じゃないしさ」
「その執着を仕事にも活かせばいいのにね」
「!!!」
新野1.jpg
行ったら新野佐馬介(親矩)の館跡だった。幼稚園の敷地になっている。
平日だから園児たちの嬌声が聞こえた。
新野2.jpg
あなたはどっち派.jpg
近隣住民も今年はしょうがないと諦めているのか、路上にデンと停車しても誰何されなかった。そんなに長居しないですよ。

だが時間がない。ナビを見誤り設楽原まで行ってしまったので時間をロスった。
見てそこに何があったか確認してまた次へ走り去る。
直虎と直親.jpg
父親と同じ道を踏襲した井伊直親の墓(塚)が龍潭寺と別にあります。
そこへ向かおうと龍潭寺を出て南へ走り、T字路にぶつかったら、一両編成単行でゴトゴト走る鉄道を見た。天竜浜名湖線。
これは他から拝借した写真ですが、現在の天竜浜名湖線を跨いだような構造が残っている。
ウィキから.jpg
おんな城主散策とは関係ないネタ、余談ですが。
浜松市の遠鉄浜松駅(貴田乃瀬の近くにある現在の遠州病院駅)から、家康がボロ負けした三方原を突っ切って、当時は二俣線といった旧国鉄の金指駅を経て引佐町の先まで結んでいた遠州鉄道奥山線が二俣線を跨いだ跡だそうです。
この遠州鉄道、金指駅から先はあの気賀に駅を設け、途中、井伊谷駅もあり、その先は六佐衛門の郷?奥山駅まで通じていた。
軌間は762mm。開業当時から赤字で、私が生まれた昭和38年(1963年)から39年に廃止になったとか。
井伊谷駅へ1日に何本の列車が行き交ったかはわからない。

金指駅東の踏切を渡って(257線)を南下すると祝田橋にぶつかるのですが・・・。
祝田?
徳政令ですったもんだした祝田村(ホウダムラ)はこの辺りらしいな。
新祝田橋で都田川を渡らず、そのまま川の土手を右折、堤防上の細い道を300mほどソロソロ走ると右手下に見えてきます。
堤防の道.jpg
あった.jpg

直親一行が来た.jpg
朝比奈兵の待ち伏せ.jpg
朝比奈泰朝?.jpg
討たれた直親.jpg
ドラマでは五体そのまま井伊谷館に寝かされていたが、直親の首は掛川城下に晒されていたという。それを井伊家の家臣が強奪して祝田村(ほうだむら)に持ち帰り、この辺りの河原で火葬されてここに埋葬されたとか。親父(直満)だって首級だったんだから。
直親の塚.jpg
直親の塚解説板.jpg
「傘要る?」
「要らない」
差さずに飛び出し、堤防を下りて写真に収めてたら、いつの間にかタクシーが土手に停まっていて、後ろのドアウインドウが開いて中から爺さん婆さんが顔を出し、カメラで撮りだした。
タクシーは私らと反対側から来たようですれ違った。
すれ違いギリギリ.jpg
くるまのすれ違いギリギリですね。舗装されている幅が1台ちょっと分で、その両サイドの路肩とも言い難いが、堤防の芝になっていた。
その芝は河原に向かって緩やかな面になっているので、あまり脇に寄せると転落しますよ。

鉛色の空の下、気賀へ。
関所にも立ち寄ったが、大河ドラマ館には寄らなかった。WC借りただけ。
気賀関所は日本全国に関所が50数ヶ所もあったうちのひとつ。浜名湖、井伊谷川、都田川に囲まれた要害で、わざと橋を架けなかったらしく、往来は舟で行き来したそうです。
気賀へ.jpg
気賀2.jpg
気賀3.jpg
木戸、番所、御要害堀、これらは江戸時代のものを復元したのかな。
気賀4.jpg
気賀5.jpg
気賀7.jpg
気賀6.jpg
気賀の商人たち.jpg
後年、気賀関所を管理していたのは例の近藤に連なる一族ですが詳しく確認していません。
おんな城主がおんな農婦になり、ウルサい万千代は戦功をたてて箕輪、高崎、そして彦根に移る訳ですが、その間に近藤氏は井伊谷、気賀を治めていた。おんな城主は気賀を治めていません。
近藤.jpg

傘をさすほどではないが。雨がやまない。
次はこの鉛色の重たい空に相応しい散策へ。
堀川城4.jpg
堀川城2.jpg
「誰が為に城はある」
「隠し港の・・・」
オチョクったようなサブタイトルが多いが内容的にはヘビーだった気賀一揆・虐殺の場所堀川城へ向かいます。
若き家康の生涯の汚点ともいう。あのNHKがよく避けずに描いたもの。
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井の国 [隠れ郷土史]

龍潭寺1.jpg
龍潭寺2.jpg
「前に来たよね?」
辛うじて覚えているらしい。前回来たのは昨年の3月です。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-03-17-1
「アナタはくるまから下りなかったじゃないか」
私ひとりで行ったのです。寺の境内には入らず、井伊家の墓地だけ。
平日なのに昨年より人が多い。お寺の境内より墓地の方が見学者が多かった。戦国ファンか高橋一生さんのファンか、若い女性もいた。
龍潭寺3.jpg
いきなり歴代墓所へ。
ジャン妻は日頃「お墓見てもしょうがない」と言い切るが、今回はドラマと被るので興味深々のようである。
歴代墓所3.jpg
歴代墓所4.jpg
歴代墓所1.jpg
歴代墓所2.jpg
「直虎と並んでるの?直親夫人って誰?」
「貫地谷しほりさんだよ」
「直盛ってお父さん?」
「杉本哲太さん」
直盛夫人は戝前直美さんですよ。
直盛が22代、直政は23代なのを訝しんでいるジャン妻。
直虎は女性なので、代にカウントされていない。虎松(直政)の後見としての女性地頭なんだね。
直盛.jpg
母.jpg
女同士.jpg
スケコマシ.jpg

そして家臣団の墓地へ。
桶狭間戦死者.jpg
奥山一族.jpg
奥山一門の墓。六佐は何代目なんだろう。
あのキャラクターは人が好いだけで、他に何が取り柄なのかわからないですね。無能といっていいんじゃないか。言い過ぎかな。
之の字と六左.jpg

之の字2.jpg
中野一族.jpg
「之の字の墓があるよ」
中野一門の墓である。ジャン妻は之の字のファンで「可愛い・・・」を連発。
「女子(オナゴ)じゃな所詮・・・その女子に俺は一生付いて行くつもりだったんだぁっ!!」
あれはあれで告白だったのではないか?
之の字.jpg

三人衆.jpg
井伊谷三人衆.jpg
井伊谷三人衆もここにまとまっていた。
鈴木重時だけ単独に標柱がある。最も井伊寄りだったからだろうか。調整能力に欠けたお人よしのオッさんというイメージしかない。
鈴木重時.jpg
重時.jpg

もうひとり、菅沼忠久は三河野田城(信玄が狙撃された)で取り上げた菅沼定盈の同族です。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-05-28
で、問題の近藤康用もあった。敵なのか味方なのか悪人なのか善人なのかワカラン。
「何故近藤がいるんだ?」
「後でここ一か所に集めたんじゃない?」
問題児.jpg

小野家歴代.jpg
意外にも小野家の墓所は他の家臣たちより広かった。他の重臣たちの墓所を凌駕している。
だが高橋さんが演じた小野但馬の墓碑はこの境内にはないのだ。
小野玄蕃.jpg
「玄蕃の墓がない・・・」
こう呟いた若い女性にすれ違い様「玄蕃(小野朝直)はこの先ですよ」
玄蕃.jpg
「・・・って教えてあげたの」
「言ったの?若い子に?」
「軽く教えてあげたんだが・・・」
「止めなさいよビビったらどーすんの?」
「・・・(憮然)」
龍潭寺4.jpg

井戸1.jpg
井戸2.jpg
これは寺から徒歩数分にある例の井戸。
セットは森の中にあったが、今は田んぼの中にある。
「ここで和尚が酒喰らってたんかな」
「・・・」
井戸3.jpg
井戸4.jpg
井戸.jpg
では小野但馬の墓でも供養塔でも終焉の地でもいいが、それは何処にあるのか。
史実では家老でありながら井伊を乗っ取った謀反人として磔にされている。政次人気、高橋一生人気の上昇もあってか現在は「小野但馬守政次終焉の地」という看板表示がされています。その看板は供養塔の傍に立っていたのだが、そこへ至るまでの道筋がやや難しい。
これで位置関係を。Googleマップには表示されます。
井の国マップ1.jpg
小野但馬供養塔の場所は、新東名浜松いなさICで下りて南下していきなり行こうとしても説明し難いのです。目印が無い。
龍譚寺を起点とした方がいいかもしれない。一旦寺に行って、「何で小野一族がこれだけ墓地スペースがあって、玄蕃の墓はあるのに但馬は無いんだ?」と疑問に思ったうえで探すのが自然かも。
寺を出て、257号線を北上して左に井伊谷城を遠望しながら、緩いカーブに差し掛かった辺りで減速して細い路地を左折・・・としか言いようがないが、目印はあります。唯一の左折目印は左カーブを終えた最初の40キロ速度様式です。これしかない。
Googleのビューで表示してみた。この標識を左折です。
ビュー.jpg
その先すぐ細い路地脇に「小野但馬守終焉の地」の看板と供養塔が並んでいます。
但馬終焉の地1.jpg
但馬終焉の地2.jpg
狭い路地なのでその真ん前は停車できないですが、そこを過ぎた先に墓地があって、短い時間だったら停めてもいいかなと思わせるスペースが2台~3台ほどあった。
井伊谷地区一帯は、「直虎の舞台」と謳った幟がやたらとはためいていますが、停められそうな墓地の辺りにもギリギリ許せるかのように直虎幟がはためいていた。如何にも他所からのナンバーで見学者のふりをしてマナーよくしていたら現地の人からも誰何されないでしょう。
但馬終焉の地3.jpg
この看板は近年設置されたものらしい。
それまでは史実にのっとり、謀叛人の供養をしていたのが、高橋一生さんの大人気で後から取って付けた感もなくはない。
ご丁寧に、政次が処刑された場所への案内もあった。
蟹渕案内.jpg

但馬の最後.jpg
小野但馬が処刑地された地は、沢蟹が獲れたからか蟹渕という。
257号線に戻り北へ走らせて右折、護岸工事の進んだ井伊谷川を渡って、この辺りかなと推定するしかない。
蟹淵.jpg

但馬の微笑み.jpg
小野家全部が井伊家を貶めて乗っ取ろうとしたのか、そこは疑問符が付くな。
井伊家の菩提寺・龍潭寺にそこそこの規模で小野家の墓所があり、田楽狭間で討死した小野玄蕃の墓は単独で設けられ、玄蕃の子孫は彦根藩井伊家の分家・越後与板藩の家老を務めたというし、小野亥之助(朝之)は万千代(直政)と家康に出仕し井伊家に仕えたという。
小野但馬守政次と一族その後のスピンオフでも製作してみたらどうだろうか。
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何故か設楽ヶ原へ [隠れ郷土史]

今日からの一連の記事は個人的な旅行と出張時のドサクサ探索が混ざっています。
いずれも場所は遠州方面です。

おんな城主がおんな農婦になり、この子のカオ力のせいで何だか別ドラマになった感のある井伊谷方面へ向かう前に。。。
とらまつ.jpg

私のナビには全線開通した新東名自動車道はいなさJCTまでしか表示されない。
自分のくるまを示す矢印は、遠州の山あい、道なき山の空を東から西へ飛んでるように見える。
いなさJCTで東名に入るところをそのまま真っ直ぐ走ってしまった。
「どうも行き過ぎたらしい」
「???」
「さっきのJCTで逸れるんだった。このまま真っ直ぐ行ったら名古屋方面へ行っちまうな」
「意外と名古屋って近いね」
私はジャン妻が独身だった頃に名古屋にいた時代を知らない。
「長篠城って出てるよ」
ナビに表示された。
「前に行ったぞ」
「行ったっけ?」
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2010-10-27
「再現された馬防柵で写真撮ったじゃんか」
「覚えてない・・・」
これだから連れて行き甲斐がないんですよ。
柵1.jpg
柵2.jpg
柵3.jpg
柵6.jpg
せっかく来たので設楽原を再訪したら、柵が増えたような気がする。
背後の山は陣城だったのだろうか。削平地らしきものはあるようである。
まずは柵の内側へ。連合軍の視点で。
柵の内側1.jpg
柵の内側2.jpg
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柵の内側4.jpg
馬防柵の解説.jpg
何故に総兵数に劣る武田軍が無謀な突撃をして倒されたのかわからないが。
近年疑問視されている連合軍の火縄銃の数3000丁や三段撃ちが無かったとしても、大多数持ち込んだ火縄銃の集中射撃で武田兵を負傷させ、負傷者を後方に下げるのに最低1名必要だとしたら部隊毎に戦線から離脱させることは可能ではないかな、のように思いながら歩いてみた。

古戦場というものはそこで会いまみえた兵数が多ければ多いほど広範囲にわたる。要所要所(本陣、陣城、首塚、胴塚、供養塔その他)を全部見るのがタイヘン。
設楽原も全部は見て廻れなかったが、武田軍将校の戦没場所は、丸山陣地の馬場や柵に取りついて大音声を発した土屋を除いて、復元された馬防柵よりも南に散見されるようである。
往時の武田軍の両翼たる山県と内藤は左翼、馬場と真田兄弟が右翼から迂回して柵の内側に入り込もうと突撃を繰り返したが、中央の部隊の親類衆(信廉、信豊、穴山)が早期退却イコール戦死していないところに武田軍総崩れの真の理由があるのかも知れない。
柵に取りつくも.jpg
柵の内側と土塁1.jpg
柵の内側と土塁2.jpg
柵の内側と土塁3.jpg
草場を歩いてみた。
「こういうところを歩く靴を1足、くるまの中に置いときなさいよ」
連吾川に出て、攻めかかる武田軍の目線で歩み寄ってみたところ。
連吾川1.jpg
連吾川2.jpg
柵4.jpg
柵5.jpg
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これだけでなく、武田諸将の終焉の地でもあるので、あちこちにそういう最後の場所がある。
山県昌景の塚があった。
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山県塚3.jpg
山県昌景.jpg
「山県ってあの人相の悪い人?」
「そう」
山本龍二さんていう俳優さんです。
「アタシにとって山県は篠田三郎さん(武田信玄)なんだけど」
「風林火山では・・・あの背の高いモデルさん(前川泰之)か」
この山県が井伊谷へ別働隊を率いて荒らしに来るのだが、ドラマでは松平信玄自ら来てましたね。ほうとう食べてたし。
散策モードのスイッチが入ってしまったので、何かの碑か解説板を見つける度に急ブレーキ。
「また?戻るの?」
「もう遅い。一度スイッチが入ると見なきゃ気が済まない。そうそう来れないしな」
甘利碑.jpg
「広いな~。全部見て廻れないよ」
「・・・」
「これが関ヶ原だったらまる1日かかるだろうな」
「・・・」
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丸山2.jpg
おんな城主で設楽原は描かれるのだろうか。
「そこまで続く?」(ジャン妻)
「ワカランなぁ」
井伊谷を近藤に取られおんな城主でもおんな領主でもなくなったおんな農婦は信長が本能寺で横死した天正10年で没するので、設楽原や武田家滅亡までは被るのである。
長篠、設楽原は、井伊谷をブン盗った橋本じゅんさん(近藤康用、悪人なのか善人なのか、単なる普通の人なのかさっぱりわからないキャラ。)の子で秀用という人が別働隊として鳶ヶ巣山攻撃に参加しているが、万千代直政本人は参戦していない。
井伊万千代の徳川カンパニー社員研修のような展開になるのかも知れない。

実の後、気賀の関所の売店でおんな城主グッズコーナーにドラマストーリーが置いてあって、止せばいいのに手に取ったら例によって人を喰ったフザケたサブタイトルで「敵は高天神」だの「本能寺が変」だの「長篠に立てる柵」なんてのがあった。
柵を岐阜から?.jpg
岐阜から柵を?そりゃタイヘンだ。
これを見て脚本家は閃いたのかな。井伊谷に材木あるって。
とかくフザケたサブタイトルが多いので売店の女性スタッフに話しかけたのよ。
「何ですこの『本能寺が変』ってのは?」
女性スタッフは「誰が考えるんでしょうねぇ」と笑ってた。
長篠に立てる柵?井伊谷から丸太でも切り出したのだろうか。おんな城主の最終章プレマップを見たら。。。
http://www.nhk.or.jp/naotora/special/movie/18.html?f=bbr
後半1:24辺りから設楽原のシーンが映し出されたものである。
設楽原1.jpg
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設楽原3.jpg
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大戦があった古戦場だが現在は農地で普通に住宅が建っていた。
「結構立派な家が多いね」(ジャン妻)
「住んでて夜中に剣戟の音や喚声や銃声で目覚めたりしないのかな」
「・・・」
「硝煙のニオイで目覚めたりして」
「・・・」
設楽原.jpg
「資料館は行かなくていいよ」(ジャン妻)
資料館は行かなかった。その辺りをUターン、急ブレーキを繰り返して30分ほど散策して「もういいかな」と切り上げた次第。
井伊谷へ向かわないと。

おまけ。10年前に設楽原&長篠城に来た時のフォト。
ジャン妻は細く若かった。
設楽原古戦場の馬防柵とジャン妻(このころは細かった).jpg
長篠城のジャン妻(このころは細かった).jpg
「今でも若いっ!!」
「・・・」
「今とそう変わらないっ!!」
「・・・」
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十九首と掛川古城 [隠れ郷土史]

滅多に行かない掛川市内の公用で寄り道したところ。
掛川城下を東西に走る県道沿い、市の中心部から少し西よりの住宅地に、十九首(ジュウクシュ)というアヤし気な地名がある。
閑静な住宅地で、突然細くなった県道の旧道と、区画整理したら道幅は広くなったが、直角に折れた新しい県道?に挟まれた三角定規のような一帯だった。区画整理の中途のようだった。
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十九首2.jpg
十九首?
何だか禍々しい地名です。如何にも誰かとその従者、合わせて19人の首がどうかなったかのような場所?そういう印象を受けます。
実際そういう伝承がある場所です。この近くにあるお寺に平将門とその一行19人が討たれた場所、塚があるらしいです。私はそこには行っていません。
路駐でその公園に歩きかけたら、地元の老人たち数人が、まだ陽が高いのに酒盛りの最中で、こっちをジロジロ見られたから引き返したのよ。
この辺りで首級が埋葬されたのかどうか?ここで討たれたのか?その真相や裏付けもわからないです。日本各地に伝わる将門の首塚のひとつに過ぎないのかも知れない。将門を畏怖する後世の人達が祀ったか。
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十九首の謂れがもうひとつあって、NHKの紀行でもサラッと触れていたが、三浦春馬さんが演じた井伊直親が討たれた場所ともいうそうです。
直親っていましたね。もう小野但馬の印象が強過ぎて、直親の印象が日に日に薄れていった。主人公が許嫁と添い遂げられなかった悲愛路線ではなく、永劫叶わぬ硬派のメロドラマになった感がある。
(これからはあの盗賊の頭とどうかなっちゃうのだろうか。)
直親が討たれた場所の史実の裏付けもないようです。現地の解説板には直親や井伊家のことには全く触れられていなかった。
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だがこんな話がある。
井伊直勝という人。間もなく登場する井伊直政の長男だが、井伊本家は異母弟の直孝が継いでいる辺り、いろいろ事情があったらしいがここでは割愛します。
直勝は長男でありながら井伊本家を継げず、それとは別に上州安中藩初代藩主になり、三河西尾藩を得て掛川藩へやってきた。
掛川へ来た時は隠居しており、子の井伊直好が掛川藩主になるのだが、三浦春馬さんの井伊直親は直勝から見たら祖父で、直好から見てそ曾祖父にあたる。非業の最期を遂げた直親をこの地で思い出し、もともと将門一行の伝説があったここ十九首という地に、直親の終焉の地でもあると準えたというもの。

十九首は現在の掛川城天守閣からはやや離れていますが、城下で血を流したのだろうか。
この場面ですね。城下ではないね。途中の街道筋でしょうか。
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誰が討ち取ったのか。
朝比奈泰朝という。今川家の大重臣で掛川城を預かっていた人。
真ん中の人だろうか。
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朝比奈の軍勢は井伊谷城を攻める為に武具を纏っていたので、兵数も数百あったというから、そこへ直親一行が十九人でノコノコやって来たもんだから、多勢に無勢で簡単に殺害できたのではないか。
討たれた直親.jpg
随分と爽やかな死に顔だな。

今川家中には朝比奈が多い。ドラマでは登場しなかったが、阿部サダヲさんの松平元康がオロオロして傍らを顧みて「朝比奈殿・・・」・・・あれ?いないや?困ったような場面で確かに口に出しておりましたな。
朝比奈泰朝は井伊直親を討ち取った人でもあるが、その後、駿府が武田に攻められ、重臣の殆どに裏切られた今川氏真が駿府から脱出して泰朝の掛川城に逃げ込み、城を包囲した徳川軍に抗して籠城戦に耐えた守将として有名かも。
半年の籠城戦の末に氏真の除名を条件に開城。朝比奈泰朝は氏真に従って小田原北条氏の庇護を受けたが、後年、氏真が家康を頼った時にいたのかどうか、その後のことはわからない。

井伊直親の首は掛川城下にさらされた。首と胴体がくっついたままの亡骸で井伊谷に還ったわけがない。
さらした城下は山内一豊とその女房殿で有名観光地化した現在の掛川城なのかどうか。
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現在の掛川城は実は2代目で、天守のある場所から東に200mいった第一小学校北に小山があり、そこに龍華院のある一帯を掛川古城といって、文明5年(1473年)、朝比奈泰凞という人が最初に築いた初代の掛川城です。
古城の説明1.jpg
古城の説明2.jpg
古城の説明3.jpg
泰凞、泰能、そして泰朝と3代続くが、泰能の頃には現在の掛川城に移った。
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徳川軍が半年も攻めあぐねたのは、掛川新城、掛川古城、2つあったからではないだろうか。先に古城が陥落し、家康は占領したこの古城も包囲陣の一画にした。他にも北東にある龍尾神社や、東名掛川ICの南にある青田山他、幾つかに陣城を置いて包囲したが長引いた。。
大井川を境に遠州を分け合おうと武田と密約したが、予想に反して朝比奈が粘ったので、武田が約束を反故にして大井川の西まで来ないかと心中焦ったことは想像できる。

城下の駐車場が何処も満車で。図書館駐車場は空き待ちのくるまが並んでいた。
龍華院へ行く麓の道は「この先行き止まり」になっていて、上に駐車場もあるにはあったが、この急坂を上れるか心許なく、いいとこ軽乗用車か軽トラ。セダン車や大型ワゴン、車高の低いくるまは厳しい。
古城上り口.jpg
背後の土塁。現在はそう高くない。
古城本郭の土塁跡1.jpg
古城本郭の土塁跡2.jpg
古城本郭の土塁跡3.jpg
デカい堀切を上から見下ろしたところ。下手すると転落しますよ。
大堀切を見下ろす1.jpg
大堀切を見下ろす2.jpg
本郭から下りて、デカい堀切を見たところ。
堀切の斜面に防空壕が5基あるそうだが確認していません。
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大堀切2.jpg
城塁.jpg

十九首4.jpg
朝比奈泰朝は今川氏真の命によって井伊直親を殺害した人で、凋落した今川家の最後の大忠臣、その2つの逸話で後世名を残しているが、あくまで主命で討ち取っただけで、直親本人に遺恨は無かったに違いない。
主君氏真から「殺れ」と言われたから実行しただけ。
登場するかと期待したが、登場しなかった。
(登場しなかったが、吉田朝(あさひ)さんが朝比奈泰勝という人を演じたらしい。)
この地へは十九人で来てはいけないのではないか。
数を確認して増やすか減らすかしましょう。一行を半分ずつに分けて通過するとか。
十九人で来ると何かが起きるのかも。
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ぶすじま城 [隠れ郷土史]

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凄い名前です。毒をブスと読むそうです。
美人な柴崎コウさんと違って、ここの女城主はブスだったのか?いや失礼。子供の頃に女の子に向かってブスブス言って傷つけ泣かせた私ですが、いいトシになってからは抵抗を感じるようになった。
以下はカタカナではなく平仮名でいきます。
毒島(ぶすじま)城は、渋滞がそれほど無いと言われる群馬県郊外では珍しく渋滞の名所と言われる伊勢崎市西久保町一丁目五差路を左折して76号線に入り、田んぼで視界が開けて前方に何やら工場が見えたら右折して、田んぼの中を延々北へ走ります。目印や案内版は皆無ですがGoogleマップにも表示されます。
この時期は田んぼに水が満ちているので、映画「のぼうの城」を観た人ならロケーション的に「あ、あれだ」とすぐわかるかも知れない。田んぼを沼地に例えて浮き城を想像すればよろしいかと。
そこへ至る最後の1本道がこの状態で。おそらく農耕者の轍の跡だと思うが、轍の間の草がボウボウに伸びて生えきっている。草がくるまの底を擦る音がした。
ぶす6.jpg
ぶす7.jpg
その先にくるま1台何とか停められるスペースがあってそこは舗装されていません。僅かな砂利と土と草です。
城域の東にこの辺りを開墾した記念碑があってそこにも停められますけど。
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おそらくこの辺りが小口(虎口)で、城内に入るのはここ1箇所だけ。周囲が沼地だったら搦手は無いと思う。
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写真のとおり、白い看板が立っているように見えますが、実はこれが城の解説板で、これが無けりゃただの田んぼの中の耕地でしかないのです。
ぶす1.jpg
文字が薄いなこりゃ。
何とか解読しました。
『毒島城跡は多田山丘陵東側に位置し、周囲は水田に囲まれ、平面形は東西約150mの楕円形を呈している。古くは湿地に囲まれた島であったとされている。
毒島城跡の構造に関しては、中心の本郭とそれを囲む腰曲輪から成っており、戸口は西南面中央1箇所のみであり、攻撃性は低く、出城としての機能を有していたと推測される。
また、毒島城には次のような伝説がある。三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれず西に脱出し、城はたちまち落ちたという。
毒島城は、赤城南麓の戦国時代を解明する重要な文化財であることから、町指定の文化財とした。 伊勢崎市教育委員会。』
重要な文化財だと?
私は鼻で嗤った。だって耕地、私有地なんだモン。
城内はこんな感じです。
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どうみても文化財ぽくないね。
かろうじて堀の跡っぽいのがあった。
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毒島城は田んぼの中にそこだけ5mほど盛り上がった平べったい台地のようになっている。
周辺には城より高い場所が幾つかある。そこに物見を建てれば城内は丸見えではないか。
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写真右手の田んぼに農耕作業中のオジさんがいます。
私に対しては知らん顔。作業のジャマしても悪いので話しかけませんでした。
農耕機の回転音がもと沼地に響いていた。
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縄張り図を見ても単純な構造。この地に立てば一目瞭然、ゾウリムシのようなカタチをしたダダっ広い単郭です。敵を誘い込んで逆襲する構造じゃない。
おそらく当時はこの辺り一帯が沼地で、この道が城域へ到達する1本道。攻めてきてもそこに1点集中して矢を射かけるだけ。後は敵兵が諦めて引くのをじっと我慢して待つ。それだけだと思うのだ。
もしくは近隣住民の避難場場所か。周囲に水はあるから兵糧さえあれば何とか持つだろうか。
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ぐるっと廻ってみた。
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ゆっくり走って撮影。すぐ後ろに地元農家のオッさんが運転する軽トラがくっついてきたけど。意図を察してか、じっと待っててくれた。
こうして見ると田んぼが沼に見えてくるから不思議である。
沼城、浮城、のぼうの城で有名な埼玉県忍城のイメージを想い描いた。
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これだけだとツマんないので。解説板にこの城を攻めたら大蛇がいたので、「三浦河内守謙庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れた・・・」とあるでしょう。
三浦河内守謙庭なんて知らないけど、毒をどうやって作ったのか。
漢方の世界で葛根加朮附湯、桂枝加朮附湯、桂枝加苓朮附湯、芍薬甘草附子、麻黄附子細辛湯・・・難しい漢字ばかりですが、いずれも附という漢字が使われているでしょう。
附これは生薬でいう附子(ブシ)のことで、原材料がトリカブトなのです。トリカブトの根を乾燥させたもの。だがそのまま調合したら毒のままなので、毒性を弱める処理をするのだと思います。
三浦河内守がそういう薬学的な知識があった人かどうかわからない。毒にも薬にもなる、ならない、と言いますが、配合や調合によっては毒(ぶす)にも薬(附子=ぶし)にもなるということです。三浦はトリカブトをすり潰して毒を流したか、矢先に塗ったのだろう。
三浦は毒島城に立て籠もったのではなく攻めた側です。籠城して毒を流し込んだら自分らが毒死してしまうからね。
この伝説があるので、毒島という名前はまんざらハッタリでもないのです。
最近は、毒島といえばこの方を連想されるかも知れないけど。
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先日、高崎市で史料を漁ったら、毒島城については「謎の城」とだけあった。
この地に立つ解説板以上のものはなかった。
ウチの社員に毒島姓はいなかった。いたら「おいブス」って言いかねない。私は訴えられらぁ。
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まぁるい城跡 [隠れ郷土史]

藤枝市街から東名焼津ICに向かって一般道を走行中、ナビにヘンな区画が表示された。
その区画の道が同心円状になっていたのです。
地図にはこうなっている。
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あ、これってもしかして。閃いた。円郭式の縄張りをした平城がこの辺りにあった筈です。
築城初期の頃は中心部だけの小さい一画だったのが、時代の流とともにまるい郭がどんどん広がっていき、土居、堀、いつしか3重になった特異な縄張り構造だった。
現在は後世の壊変で、中心部に2つの小中学校が建てられ、広大な城域も住宅か田畑になっており、水路とそれに沿った道路で何となく形状がわかる程度。一部の土居や堀の跡が散らばっている筈です。
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初日の夕方に行ったら駐車場が17時で閉鎖されるのがわかったので、翌日に出なおした。
見学者は私以外にくるま3台程度。昼休憩内で1時間の散策スタート。
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駐車場に建てられた簡易地図を見ると、城域一帯は円郭式の縄張りの名残があり、道路も宅地も水路も農業用地も、本丸跡に建てられた小学校を中心にぐるりと丸く取り巻いていた。
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平城だし、今あるものは会津の神指城のようにポツンポツンと残骸のように散見されるだけだとタカを括った私は、武家屋敷の駐車場から徒歩で本丸の小学校を目指し、途中の三日月堀、水を蓄えた二の堀、農地と住宅地を遮る廃線跡の築堤のような土塁や、「ここに何がありました」の標注他、遺構の残存部を見て廻った。
家々の敷地内に標注があったりする。
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説明標柱2.jpg
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この城は何処にも高所がない。丸くて平らな田中城が堅城だったのは円形で死角が生じなかったのと、円形縄張りの外に丸い馬出しを幾つも配置したことや、この辺り一帯が湿地帯だったから・・・らしい。
三日月堀の跡は芝生の窪みにしか見えなかったぞ。
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本丸跡1.jpg
本丸の小学校。ここには箱庭と模型がある。箱庭には三日月堀も再現されている。
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実際はこんな天守閣はなかったらしいが。
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二の堀は水を湛えていて池になっていた。
隣には中学校がある。おそらくこの小学校を卒業したら、地元から離れない限り隣の中学校に入学するに違いない。先輩後輩の上下力関係が9年続くわけである。
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小学校正門前を背に真っ直ぐ歩いていくと畑に出ます。そこに残っていた大土塁。廃線跡の築堤のようになっている。
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畑仕事していたオバちゃんに声をかけてみた。
「そっちにいってそれ(土塁)写真に撮ってもいい?」
「アタシが写んなきゃいいよ」
ご厚意に甘えて中までズンズン闖入して上ってみた。
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三の丸土塁4.jpg
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「ありがと」
「はぁ~い」(オバちゃん)
その大土塁の前にある用水路は道も緩くカーヴしている。
円形を描いている.jpg
近世にも残った田中城(田中藩)は、酒井家、桜井松平家、水野家、藤井松平家、何故か後北条氏の傍流北条綱成の系譜で北条家、西尾家、雅楽頭家の酒井家、土屋家、太田家、内藤家、土岐家、正重系(※)の本田家になるまではコロコロ城主が変わった。丸い縄張りをさらに拡張したのは最初の酒井家。
大藩ではない。石高も5万石がMAXでそれ以上にはならなかった。
(※)家康の参謀、弥八郎正信の次男、政重の系譜ではないです。正信の弟です。
この城を舞台にしたドラマがもうひとつあって。
豊家を滅ぼした家康が晩年に(家康がいつから晩年なのかよくわからないのだが)この辺りに鷹狩りに来て、鯛の揚げものを食べてアタったのがここ田中城だそうです。
ギットギトに衣を漬けて揚げる天ぷらではなく、唐揚げ、素揚げかも知れないが、鯛の天ぷらなんて今の時代でも見ないけど。
山岡荘八の徳川家康では、天ぷらの他に、潮汁を二杯替え、飯もたっぷり二膳食べた、のような描写があった。粗食に慣れた家康生涯最後の贅沢だったに違いない。

駐車場に戻ろうと近道を探したが方角を誤った。
まるい城の縄張りの影響で道が緩い円を描いているのと、本丸の小学校を円の中心部としたら私が小学校正門から畑の土塁まで歩いた道程は45度、小学校正門から駐車場までは30度、その間を短い距離で真っ直ぐ突っ切る道がみつからない。
往路で渡った旧瀬戸川まで戻ればいいと思ったが、その川も45度の角度で流れている。
私は方向音痴ではないつもりだが、地理感や方向感覚を見失い駐車場に戻るのに多少時間がかかった。狙い定めた方角を目指したら45度ズレたのです。
まるい田中城の直径はおよそ600mほどだが、現在の城域一帯を東西南北・十文字に突っ切る真っ直ぐな道がないようです。面倒でも円の半径方向に歩いてから、何処かで円周に沿うように曲がらないと駐車場に戻れないのがわかった。
田中城地図2.jpg
ジャン自室の史料に田中城が載っていて、そこには、円形の縄張りは死角が無く、城内を兵が移動し易い利点があるなどと記載されてあったが、現地は四角い縄張りと違って移動し難いこと。
その中、城内の一画にこんな店があった。
ちっきん1.jpg
ちっきん?
キッチンではなく?(続く)
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ゲートボール城 [隠れ郷土史]

天守閣の宿(泊まった訳ではない)を出て、しばらく走ってから路肩にくるまを停め、この界隈に何か他にもあるか検索してみた。
そしたらここから北へすぐの場所にアヤしいものを発見した。
そこへ至る道の説明は難しい。桂昌寺という寺の北です。
幸い、案内版があるのですが。道狭いです。
案内版21.jpg
くるまを停めるスペースがない。
これから目指す域は、この案内版が立っている舗装路から緩いコンクリートの坂道を上がっていきます。くるまで入れなくもないが、段差になっている箇所があるので、車高の低いくるまは無理かと思いました。
コンクリ農道.jpg

レンタカーを傷つけると面倒なので、無理して奥まで入らずに案内版が立っている農道の脇に寄せたのですが、舗装されているとはいえ路肩スペースがない。
その辺りは耕地と住宅地が混在していて、余所者の私は路駐したことで多少周囲を意識しましたね。
すぐそばに家々があって、そこの窓から誰かに見られてるような気がするんだよな。
すみませんね私は他所から来た閑人ですよ。お宅の家の真ん前にあるアヤしいものを見せてくださいね。
歩きかけたら清掃車が来た。
何でこんな午後に。すれ違えるかな。くるまに戻りかけたが、私のレンタカーはTOYOTA-Vitzなので清掃車とすれ違いができた。
セダンじゃすれ違いは無理だと思います。
停車スペース.jpg歩いていく.jpg
奥にある木々、薮がそれらしい。
だが、行ってみたらそこはグラウンドになっていた。
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きれいに均されている。
何のグラウンドだろ?
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雑草生い茂る辺りに解説板が立っていた。それによると、
解説板21.jpg
「真壁城は丘の頂上に本丸を置き、周囲に空壕をめぐらせた単郭型の砦で、東西50m、南北70mほどと小型ながら、戦国時代築城法の模式的なものと評価されている城です。」
昨日のアヤしい天守閣に続いてまたも単郭か。子供の頃、理科か生物の授業で、顕微鏡で観察したゾウリムシのような縄張りである。
「かつては屏風折の土居、横矢溝、安土馬出しなの遺構が見られましたが現在はその面影を止めていません。」
横矢溝は何となくわかるが、安土馬出しって何?
「城の東側には字堀之内、南側には字寄居の地名が残ることから、この辺りに城を守る人々が生活していかことが伺われます。」
地元の人が管理して有事に立て籠もったのだろうか。
「城主として記録に残るのは・・・」
え、誰がいたかわかってるんだ。
「・・・白井城主長尾氏の四天王に次ぐ重臣、神谷三河守です」
そういう人は知らないなぁ。知らなくても日常生活に支障は全く無さそうですが。
「三河守は天正10年(1582年)に・・・」
・・・から先は打つのめんどくなってきたので省略します。締めはお決まりの、「天正18年(1590)、白井城とともに落城しました。」
天正18年、小田原征伐ですよ。
神谷三河守(おそらく私称だろうけど)の白井長尾家での席次がどの辺りなのか。四天王に次ぐ重臣??
中堅将校だろうか。
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縄張図に山崎一氏とある。
ときおり目にするお名前。上州一ノ宮氏の館跡について富岡市に電話で尋ねたら、「山崎先生が・・・」って言ってた。その筋では高名な方らしい。
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奥の主郭は薮でした。
入ってみたが革靴では足場が悪く、私有地のようなので引き返しました。何かを栽培している気配もあった。
畑、私有地、運動場、誰も人がいないので話を聞けないじゃないか。
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改めて見回すと、こりゃ何の運動場なのか。
サッカーやフットサルではないな。バトミントン?バレーボール?
風強い上州渋川でそのような屋外スポーツが普及するものだろうか。
閃いた。これはゲートボール場だね。
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グラウンドを踏み荒らしたりすると悪いので、突っ切ったりせずグルッと外側を歩いて戻りました。

箱田城の方角に向かってみたところ。
アヤしい天守閣は見えない。
箱田城が見える.jpg
耕地のどの場所までが城域かわからないが、箱田城との繋ぎの狼煙台かも知れない。
仮想敵国は北条か武田か。そこへ割って入る越後長尾か。

ゲートボール場か。年老いたら私もいつかそういう集まりに入ったりするのかな。
私は点数を競う競技は苦手なんだよな。これまでゴルフもやったことないし、ボウリングも嫌いだし。
「ゲートボールって興味ある?」
「興味ない」(ジャン妻)
「アナタならできると思うけど。前にゴルフやってたし」
「ゴルフとは全然違うと思うよ。あれ(ゲートボール)はチームでやるんじゃないの?」
詳しくは知らない。そうなのか。
「ゴルフは自分で自分のボールを打つんだけど、あれ(ゲートボール)は相手チームのボールを弾きだすんじゃなかったっけ?」
ええ~そういう競技なのか。自分のボールを打つのではなく、相手を蹴落とす競技なの?
だからゲートボールは高齢者同士の人間関係を悪くする要素があるということか。どこかでトラブって傷害事件になったケースもあるそうだね。
自分はあまりやりたいと思わない競技である。そういうのに参加している自分の情景を想像したら何だか不快になってきた。
このゲートボール城(場)でプレイしているであろうお年寄りたちも社会でバリバリ現役だった時代があった訳でさ。私だってあと6年の宮仕えです。ではその後はどうしよう。やらないぞゲートボールなんか。
では延長再雇用で会社にしがみつかざるを得ないのだろうか。もうそれほど遠くないところまできてしまった。
でもそれはその時のこと。まだ6年ある。今現在でも社員からバカバカしい相談事を受けたり、諸問題に接している今の自分の立ち位置を不満に思ったりせず、なるべく後悔しないように対応しようと思い直した。

渋川へ戻ってくるまを返却した。
駅に向かったら、14:58の上り電車が行ってしまった後だった。次は15:52までない。
1時間待ちかぁ!!
ああ無情.jpg
前橋までバスで行こうかとも考えたのですが。
これも30分待ち!!
前橋行時刻表.jpg
さぁどうしよう。
贅沢な待ち時間をどう過ごすか?
あ、ルナちゃんがあった!!
ここでお茶して過ごそう。
ルナ1.jpg
ジャジャジャジャーン!!
ケーキ1.jpg
社で女性事務員が甘いお菓子を配ってても「いらねぇ」
披露宴や料理屋で出されるコース料理の最後のデザートも「いらねぇ。誰か替わりに喰ってくれないか」
さらの木や船山温泉の最後のデザートもホンネでは「喰いたくねぇな」
私のBlogで、私の意志でオーダーしたこういうものが取り上げられるのは初めてかもです。
カテゴリーにスイーツはありませんから。
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天守閣の宿 [隠れ郷土史]

昨日、群馬館林で35℃を超えたそうですね。
もう日本は春と秋が無く、夏と冬しかない国になったんですね。
私は館林で下車したことはないですが。一度、ネタ拾いに体感してみましょうか。
さておき昨日の続きですが。
難しくて時間を要した渋川市内の公用が上手くいき、その写しを持って前橋市内の某行政へ出向き、さぁこれで一件落着、スッキリした気分、渋川へレンタカー返却するぞと17号を北上。阪東橋を渡るべく快走したら、下箱田という地で、右手にある段丘にこんなものを発見した。
アヤしい天守閣.jpg
停めて撮影したところ。
群馬に天守が残存するものなんてない筈だぞ。
平成24年こっちに住んでた頃、吉井町の一郷山の三層天守もどきに騙されて細い山道を登っていったら荒れ果てた展望台だったことがある。
これも模擬天守ではないか?

私は白亜の楼閣がある城には興味がないので無視しちゃうのだが、この物件がある位置を考えてみた。ここは上州沼田、白井、厩橋を結ぶラインで利根川に接しているからである。要衝そのものというか、点と点を結ぶ途中といっていい。
Uターンして崖下の細い道を走って訪城口を探した。
落石注意の注意喚起看板が立っていた辺りでナビを見たら、あ、表示されとる。
これらしいですね。
ナビ.jpg
あの天守は何か。そこに何かあったのか。
今あるものはイロものかも知れないが、昔に何かあった場所へああいう模擬天守を建てたんだな。
箱田城?
まともな案内版.jpg
天守閣の宿?
旅館なのか?
城山表示1.jpg城山表示2.jpg城山表示3.jpg
帯郭のような駐車場にレンタカーを停めて見上げたところ。
天守閣3.jpg
天守閣のある本丸に入っていく。
この先に.jpg
何だか急いで作って後から構床したような造り。
17号から見上げた天守は木々に隠れて下の階層部分が見えなかったが、こうして近くでみると低い建造物ですね。
天守閣1.jpg
解説板があった。やはり何かあったらしい。渋川市の指定を受けておるようです。
「上野国守護代、白井長尾氏の出城として箱田地衆によって築かれたと考えられている。」
考えられている?
「城の形式は丘城で、長袖140m、横幅75mと西北-東南にやや長い。」
縄張り図を見たら単郭で、何だかゾウリムシの拡大のようである。
「山頂を内郭としてその周囲に土居、土井の外側に壕、更にその外側に土を盛った高土居となっている。」
今はそこまで残ってないです。
「城の東北に追手虎口、西南に搦手虎口が開き、両虎口ともに内枡形様の構造をもっている。搦手の内側には武者屯、北角には櫓台跡があり、中世末期城郭の築城法がわかる好遺構である。」
でも天守閣もどきが建っているよね。
「昭和47年12月7日、渋川市教育委員会。」
解説板.jpg
縄張図.jpg
他でも調べてみたらだいたい同じような記述ばかりで、1360年代に箱田地衆という地侍(おそらく半農)が守備していたと。
誰々何々の守のような城主がいたかどうか不明瞭らしい。昨年の初夏に渋川駅からテクテク歩いて訪城した白井城の白井長尾氏の被官が守っていたのでしょう。
この模擬天守閣のある箱田城も、小田原征伐で廃城になったというお決まりのパターンのようです。
渋川市指定.jpg
宿の敷地内とはいえ、こんな表示が立ってたりする。
櫓台.jpg
塁の跡も僅かに。
土居の跡.jpg
宿利用者、関係者以外は立ち入り禁止までいかないが、立ち入り遠慮を喚起する注意書きがあるので、では宿の誰かを誰何してみようと。別に宿に用事はないけど自分で用事をわざと作ってみましょう。
模擬天守の入口から入ってみたら、なるほど団体旅館の趣であった。
エントランス.jpgフロント.jpg
受付、フロントで声をかけてみた。
「ごめ~ん」
「ハイいらっしゃいませ」
出て来た若い女性スタッフは箱田城山の名に相応しく、四角い箱のようなカオをした美人であった。
「パンフ1枚ずついただいていいかな」
「ハイこちらにございます」
女性は私を予約下見の客と思い込んだようで。
「料金表が入っておりませんね。こちらの黄色い紙に料金が記載されてございます。お値段の高いコースには豚肉が付いて下り、それより更に高いコースですと牛肉のお料理がついてございます」
とまぁランキングも含めてPRに懸命であった。
パンフにある料理コースは一気出しの宴会料理といった感じである。
ただ、昔ながらの旧いタイプの宿らしく、
「お部屋にWCがついておりませんので・・・」
そりゃぁ私らの宿泊基準条件の大事な部分をクリアしとらんな。
「ここに昔、こういうのが建ってたの?」
「ハイ」
ニッコリ微笑まれただけであった。
こっちも立入を正当化したかっただけなので。
立入禁止1.jpg
フロントを出て駐車場に下りて、その先へ歩いてみた。
駐車場の先の立ち入り禁止区画こにも何か立っているので自己責任で見てきました。
立入禁止2.jpg
帯郭.jpg
搦手.jpg
壕(ホリ)というか、薮ですな。
壕というか薮.jpg
曇天で赤城山が見えない。まてよ?こっちは榛名かな。
単郭の城塞にいると方角がわからなくなる時があります。
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出典先を明記して鳥瞰図をお借りする余湖先生のサイトを見たら、この模擬天守はもとは老人福祉センター、老健施設、城山荘という名前だったらしい。
それが2004年頃経営難により閉鎖されまた復活したというのが真相のようです。この天守閣宿の復活だけではなく、この一帯は2つの温泉施設がある。
①天守閣の宿 たちばなの郷 城山 北橘町下箱田606-2
②ばんどうの湯 北橘町下箱田605-5
番地と枝番が僅かに違う2つの施設が併設されている。別法人なのだろうか。
ばんどうの湯の方が後からできたらしく、天守閣の宿よりは新しい感がした。
北橘温泉といいます。泉質はナトリウム、カルシウム塩化物、低張性高温度、弱アルカリ性だそうです。
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天守閣2.jpg
湯に入らなかったのかって?
入ってみてもいいんですけどねぇ。入ったらもう仕事の気が完全に抜けてしまうし。
別に私はこの宿、施設の廻し者ではないですが、宿のパンフを添付しておきますね。
パンフ1.jpg
パンフ2.jpg
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泊まらなかったのかって?
泊まらないですよ。団体旅館でしょ。
領収書きったら疑われるだけです。お前は群馬に何しに行ってんだって。
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大胡城 [隠れ郷土史]

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高崎駅コンコースに鎮座しているレプリカ、上野三碑のひとつ「山ノ上ノ碑」にこうある。
辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也
放光寺僧
何のこった??
ひとりで考えてもワカランので三碑の解説サイトを見たのだが、それを見ても1行と2行と3行の途中まで皆目わからず。
刀自(トジ)、これは女性、足尼(スクネ)、これは男性のこと。3行目の後半から、大児の臣に嫁いで生まれた私こと長利僧が母(黒売為自)の為に定めた文也(である)・・・。
碑文にある大児臣、これが大胡氏ならびに大胡の地名だと推定されている。
その地に土着した豪族がその地名を名乗るケースは多々あるが、大胡は大児臣からなら名前が先で、大児臣が居住していた場所が現在の赤城山麓の大胡であろうというもの。
ということは三碑のひとつに銘打たれるくらいの名族で、遠い奈良平安の頃からここ赤城山麓にいたのだろうか。
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だが大胡町史によると、赤城山麓の大胡という地は他の古代の記録にはないそうで、現れるのは中世の頃からだそうです。
建武の頃にようやく「上野国大胡郷内・・・」とあり、赤城山麓の大胡荘を管理する地頭職が東京都新宿区牛込に来る前の大胡氏と推定するしかない。
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大胡城は地頭職の城塞にしてはデカ過ぎる。
駐車場の二の郭の南側に枡形門跡とあり、そこには石積みまである。これらは近世のものでしょう。
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おそらく村上さんが殺陣まわりをしたロケ地はここかなぁ。
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塁壁は高く、壕もまぁまぁ深い。本郭の西を囲む塁の上に立ったら吸い込まれそうである。
今日は比較的風が穏やかでいいが、強風に煽られたら転落するかも。
本丸土塁4.jpg本丸土塁5.jpg
さっきまでゴルフの稽古をしていた爺さんは、上から見下ろす私の視線がうるさくなったのか、そのうちいなくなってしまった。
その後でもうひとり、見学者とおぼしき初老の爺さんが来て、この上の塁まで登って周囲を見渡していた。
この虎口の断面は後世に切り開いた感があるな。
虎口か後世の壊変か.jpg
虎口と土橋.jpg
虎口の断面1.jpg
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北側の塁壁。園児らの嬌声が聞こえる。幼稚園のある一帯も城域の一画。卒園式らしい。
子供らや父母から城壁にへばりついている自分はどう見えるのだろう?
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吾妻鏡の大胡氏については例によって何々太郎、次郎、の記述が多く、大胡太郎、大胡弥次郎、大胡左衛門次郎、大胡五郎、正式に任ぜられたかどうかアヤしいが、官途名でも大胡左衛門尉、大胡掃部助などが散見される。
後世になって大胡氏の末裔という牛込氏が作成した系譜が絡んでくる。これには牛込太郎重俊、太郎成家、太郎俊行、彦次郎俊光、宮内少輔光建、彦次郎光重、彦太郎光之、太郎重清、彦太郎重高、五郎重國とあり、次の彦次郎で宮内少輔の重行が小田原の北条氏康について大胡を去り、現在の牛込に移り住み、次の助五郎で宮内少輔の勝行が大胡氏を牛込氏に改めたというもの。
これは新宿区の寺の境内にあった解説文と一致する。
大胡氏が小田原北条氏についたのはここ赤城山麓の大胡の地を追われたからだが、その辺りの経緯はよくわからない。ここから西南、太田市にある太田金山の由良国繁に攻め落とされたとか、伊勢崎の那波氏の軍勢に落とされたとか、例の剣聖、上泉伊勢守が実は大胡氏の出なので箕輪の長野氏の傘下に入ったとか。
わかっているのは永禄2年(1559年)の小田原衆所領役帳に大胡民部が江戸牛込や比々谷本郷などを所領とする旨の記載があるというので、その頃には赤城山麓を去って牛込にいたこと。
大胡氏改め牛込氏の何代か後の俊重という人は、駿河大納言卿徳川忠長側だったので、他家へ預かりの身になったらしいが、赦免後に旗本、次の勝正のとき無嗣が無く改易され、勝正の弟である重恭という人の家系が幕末まで続く。
家康公はケチで牧野氏の大胡藩は僅か2万石でしかない。大胡藩は2代で終焉になり、牧野氏は越後長峰を経て長岡へ移封になる。
戊辰戦役でガトリング砲を切り札に、新政府軍に抗戦した越後長岡藩の祖。
大胡藩は廃藩になり、前橋藩領に併呑された。
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これは町史にあった縄張図です。
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城域は城の北側の塁下を流れる川(近世の用水路か?)を挟んだ幼稚園のある一帯や、その先にある大胡神社の西~北側の背後まで深い壕に囲まれていた。(空壕の一画に墓地があります。)
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寺の堀3.jpg
ここからすぐ西にある養林寺という寺院の北側にヤブに覆われた壕があった。ボケて写真にならず。

解説板を改めて見ると、大胡には家康の関東移封から近世大名の牧野氏がいた時期があり、現在見るものは藩政時代の大改修のものといっていい。大胡氏については「中世上野の名族」という表現以外は触れられていない。
大胡城3.jpg
想像図.jpg

大胡城1.jpg
正味1時間の散策が終了し、駐車場に戻ってタクシーを呼んだ。
20分くらいかかるという。それでも大胡駅11:20発の前橋行に間に合ったが、まぁ電車が来るまでの待ち時間の長く感じられること。
前橋行が来た.jpg
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来た電車は往路と同じ塗装?同じ電車?
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東京都牛込と赤城山麓を結ぶもの [隠れ郷土史]

白亜の楼閣がある近世の城郭には興味がなく、国宝・姫路城すら行ったことがありません。(会津鶴ヶ城は別)
今は何もなくても、「かつてそこに何かがあった」だけでいいのです。
大都会・東京新宿区内のさるお寺にこういう説明板があります。
牛込1.jpg
以下、説明文から。
このお寺、光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところ。
堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明。
住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。
(赤城山の麓?大胡氏?)
天文年間(1532~55)に当主大胡重行が南関東に移り北条氏の家臣となった。
天文二十四年(1555)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正十八年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊された。
処理済~小僧1.jpg
昨年の12月半ば頃。新宿三丁目駅で新宿区の某行政に出向き、そこから北へトボトボ歩いて東新宿駅で都営大江戸線に乗車し、後楽園駅の上にある文京区の高層行政、シビックセンタービルへ向かう途中でした。
駅ホームのベンチに腰を下ろして大江戸線を待ってたら、隣に品のいい坊やが2人いた。
おそらく中学1年生かと思いますが、その子らがお城のスタンプラリーカードのようなものを見せっこしていて「小峰城に行って来たんだぁ」って自慢げに見せとったんですよ。
小峰城?白河市の?
あれは震災で石垣が崩れて復旧工事中だったんじゃないのか。
(リンクしているあかべぇさん・・・会津他東北の復興親善Blog大使が今年4月に行かれてます。白河市のHP見たら、まだ完全ではないにせよ、かなり復興したようですね。)
私は小僧(失礼)に話しかけて訊いた。
「小峰城って石垣崩れとったのは復旧したんか?」
最初は「何このおっさん」と身構えたが、物怖じせず答えてくれた。
「復旧しましたよ。どこそこまでなら見学できます」
「ほうかい。復旧したんだ・・・」
ボソッと言ったそのタイミングで新宿方面へ向かう電車が来たので、そのガキんこらは幸いとそっちへ乗って去っていった。なかなか教育の行き届いたしっかりした坊やだったですよ。
そこで閃いたのが、確か大江戸線の牛込柳町か牛込神楽坂のどちらかに何かあったなと。
ふらり途中下車して地上に出てすぐ見つけたのがこのお寺、光照寺。東京都地下鉄大江戸線、神楽坂牛込駅下車、A2出口からすぐです。
牛込2.jpg
現在の光照寺の境内には本堂と墓地が広がっている。
寺の周囲は隣同士の境界が狭い旧い下町住宅と、モダンな住宅が混在していた。寺のある一帯が最も高台のようですが、境内に設置された解説板だけが、かつてこういう場所だったという事実だけを伝えている。
牛込3.jpg
牛込4.jpg
私がひっかかったのは、赤城山麓にいた大胡氏のことです。
ダイゴではなくオオゴです。社内にも大胡姓が2人いて、うちひとりは群馬出身者。ふたりめはどっかから天下りできたひとです。誤解のないように書き添えますが、公的関係からではなくどっかの有名企業のおエライさんが他社から趣向か転籍して来た人。この方と私は直接会話したことはないが、私の上司に「彼、群馬の人ですかね?」と聞いたら、「そう切り出すと、自分は違いますって即座に否定されるんだよね」
何故否定するんだろう。群馬談義ができないじゃないか。まぁそれはどうでもいいか。牛込にいた改姓前の大胡氏は、新前橋から西桐生を結ぶあのサイクルトレイン上毛電鉄沿線にいた筈である。
思い出した。悔いが残っているんです。有料プランに切り換えなかったが為に1GBで満タンになった前Blog、下記のシリーズで、
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-10-12
から6話か7話ほど、上毛電鉄とその沿線にあるものをUpしてますが。。。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-10-14
この記事で江木駅から乗車してきてデケぇ声を張り上げるヘンなオッさんから地元の女子高生を庇うべく楯になった。オッさんの相手になったタイミングが大胡駅と樋越駅だった。大胡という駅は確かにあった。
私は大胡駅の北にある大胡城と、その郭にある施設の廃墟(現在は解体されて存在しません)を取材に行こうとしていたのですが、私が大胡駅で途中下車してしまうとヘンなオッさんの矛先がその女高生に向いてしまう。見捨てたら後で後悔すると思ったので、大胡駅の北にある取材対象はパス、そのまま付き合った。
その先の勝頼素肌攻めの膳城と、ついでに山上城を見学した後で前夜の飲み過ぎが祟り始め、歩き廻った疲労もあって体調を崩し、大胡城は取材できないまま赤城駅から東武特急で帰京してしまった。
大胡城訪問断念はず~っと悔いが残っていた。昨年3月、旅人の惑星さんがUpされた記事で、大胡城主だった牧野氏と越後国内の某城が関係したバスツアー計画の記事を見て「いつかきっとリベンジを・・・」と心中期するものがあった。
そして今年の3月、BS朝日で村上弘明さん主演の神泉伊勢守のドラマのポスターをJR上越線八木原駅で見つけた。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-03-23
BS朝日3.3.jpg
これ観ました。内容はイマイチでしたね。展開が唐突で、上州一揆衆の大義もよくわからなかった。
村上さんが演じた剣聖、上泉伊勢守が殺陣してるロケ地が箕輪城と大胡城だといふ。
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住吉晃典さんという俳優さんが大胡民部左衛門という幕僚を演じておった。
上泉伊勢守も大胡氏の出とも聞き及びます。
大胡民部.jpg
牛込神楽坂で見つけた大胡氏に関連するお寺・・・
旅人の惑星さんの記事・・・
BS朝日の大胡城ロケ・・・
これらに呼び起こされた。私の中で点と点と点が繋がった。
大胡城が私を呼んでいる。見に来なさいよと呼んでいる。
幸いに急峻な山城ではない。
大胡駅1.jpg
快晴の下、2度目の上毛電鉄乗車。下りたのは大胡駅。
大胡駅2.jpg
大胡城1.jpg
機会到来である。続く。。。
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ふたつの桃井城 [隠れ郷土史]

飲み食い記事ばかりだと飽きてしまうんです。
合間にこういう記事を書きたくなる。
高崎からレンタカーで国道17号線に入って渋川に向かいました。
問屋町入口交差点を斜めに左折して25号線(高渋バイパス)を北上した途中に銘酒・船尾瀧の蔵元があり、町名を確認したら吉岡町とあった。
すぐ西隣の榛東村(シントウムラ)との境目に大藪という交差点がある。
この交差点の東になだらかな丘陵があって何やら工事中の模様。
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私はこの辺りに何があったかアタリを付けて来ている。周囲をグルッと廻ってみた。
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はて?参考にした各方面のサイトでは、この辺り一帯は農地だった筈だが。
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比高は大して高くない。20mか30mといったところ。
デカい溜池(灌漑用)に挟まれた丘陵の東斜面には重機が3機置いてあったが、斜面を水平に削平してないから造成地の工事ではなさそう。
緩斜面に細い材木がある間隔を保持して打ち込まれている。
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最上部に標注と解説板、縄張り図があった。
折からの強風で今にも倒壊しそうです。
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ここは太平記で高橋悦史さん(故人)が演じた桃井直常がいたところ。
この人です。
この人です.jpg
(お写真はあるBlogから借用致しました。その旨を申し入れしようとしたのですがコメントが入らず。)
原作も読んだし、TVも観たけど、あの世界は唯でさえ登場人物が多く、どのキャラクターもおどろおどろしく、主役も脇役も南朝と北朝に分れ、足利尊氏・直義の兄弟喧嘩に至っては相関関係が何が何だかワカラン。
桃井直常は戦争ばっかりしていた人で、最初は足利尊氏に付いたが、執事の高兄弟(師直・師泰)と不和になり、尊氏・直義兄弟喧嘩にも巻き込まれ、京都、北陸、信濃、駿河、飛騨を転戦し、ここ故郷の吉岡町を長く留守にしていたみたいである。
解説板2.jpg
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吉岡町のまちづくり構想に「南下城山防災公園」という項があって「歴史性や優れた眺望を活かしつつ、防災機能も有する公園としての整備を図ります」とある。
ちょっと前になりますが、2013年8月日本工業経済新聞社の情報だと「吉岡町は防災機能を備えた南下城山防災公園(仮称)整備にかかわる総事業費について「7億円+α」を見込んでいることを明らかにした。資材価格などの高騰を見込んで試算した。2018年度の完成へ向け本年度から用地買収に着手する。・・・(途中省略)・・・整備箇所は主要地方道高崎渋川線バイパスの東、十日市貯水池と大藪貯水池に挟まれ桃井城址を中心に・・・」
これ私が来た場所、丘陵です。
農地じゃなくなり、公園化するんですな。
麓にあったぐんまちゃんの工事看板には94、000、000円となっていた。殆ど1億円ではないか。
工期は今年の3月半ばまで。
工事中のぐんまちゃん.jpg
農地を防災公園化するにあたり、地下埋設型の耐震貯水槽10ton、臨時ヘリポート2カ所(上州一ノ宮上空をうるさく飛んでいるあれか?)、防災備蓄倉庫、災害時のテントを取り付ける休憩所、常設WC、非常用WC、他を建設し、公園中央部に災害時の避難場所となる広場、公園全体には遊歩道が作られるそうである。
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渋川駅前で拾ったタクシーの運ちゃんが言うには、渋川駅前は閑散としているが、郊外の吉岡町や榛東村は人口が増えている町だという。
近隣から移住して来るのは我々から見て第2世代らしい。900人/1年も。
となるとインフラを整備しなきゃならない。道路整備や学校の他に、飲料水の不足の解消目的で配水池を増やすのだと。吉岡町は銘酒・船尾瀧で知られるように榛名からの湧水が多いのです。
現在も桃井城の東と西にデカい貯水池が2つある。(十日市貯水池、大藪貯水池)これらの池には注ぐ川が見当たらないので榛名からの湧水だろうか。水が多い。だから船尾瀧のような銘酒が生まれた。
桃井城は低くなだらかな丘陵なのであまり防御性は無さそうだが、城域の周囲が自然の地だったら、池か沼に浮かぶ水城だったのかもしれない。
(余湖さんの鳥瞰図です。)
桃井城鳥瞰図.jpg
ここを取り上げたサイトによってはその時々によっては農地だったり、耕作放棄された荒地、藪だったりで、公園化に踏み切ったのはもとの所有者に後継者がいないか、後継者がいても相続税や固定資産税が重くのしかかり吉岡町に売っちゃったのかも。
城郭縄張り図、鳥瞰図の第一人者・余湖先生の掲示板に報告しました。でも皮肉なことに公園整備の工事中まっただ中のお蔭で法面が見やすくなった感がする。
桃4.jpg
いずれ公園になる2郭の三日月形に囲む土塁も明瞭に見えた。
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吉岡町が示した公園化計画から。
「広場北側には現在ある雑木林を生かした自然エリアとする」・・・第2郭がこれだな。
「前方後円墳跡も避難広場の1つとする予定」・・・これは気付かなかった。
「広場や雑木林エリア以外の大部分は敷芝される」
「東部、中央部、西部とそれぞれ高低差があるため・・・」・・・そりゃそうだよ。城跡なんだから。「・・・東部と中央部間で約50m、中央部と西部で約20mの階段を設置する」
「平常時には桃井城址や古墳などを散策する歴史性を有した公園となる」
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風が強い日だった。
西の榛名から山おろしが吹き付ける。だが不思議と砂塵ば舞わないのは何故か。
残雪も残っていた。風さえなければいい散策日和なのに。

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塚1.jpg
東の麓に桃井直常の墓?供養塔?がある。
夫人のものと並んでいる。
各方面を転戦して疲れ果て、晩年はここ吉岡町桃井荘に戻って来たのだろうか。
夫人と泉下から工事現場を遠目で眺めているかも知れない。
桃10.jpg
当初、ここでひとまず終了のつもりでしたが。
桃井城は東西2つあることがわかりまして。もうひとつはここから西に1kmの地もうひとつあった。
西1kmとはいえ直線コースで一気に行けない。農道、新道をジグザグに進んで、山子田交差点の右一帯にあった。
地図2.jpg
おそらくあの辺りだろう・・・そういう勘で来たらビンゴだった。
何も遺構は無い。往時を見て来たような詳細な解説が幾つもあった。
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桃井城9.jpg
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解説には東西210m、南北190m、往時、そんなに人がいたのだろうか。
何で東西2つ造ったのかもわからない。
出張の合間、昼休憩の1時間を利用しての軽い散策です。おユルシあれ。
「またこんなとこを見にいったのっ?」(ジャン妻)
「・・・」

信之.jpg
信之公が亡くなられました。
終盤で初めておこう(草の者)を謁見していた。
「この人は草の者の意味をわかってなかったのかな?」
「草を使わないスタイルを貫いたのよ」
ご冥福をお祈りします。
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上州一ノ宮氏の謎 [隠れ郷土史]

今日明日とでかけます。
14:46分頃にどこかでくるまを停めて、黙祷を捧げようと思います。

私が出張から戻ると、ジャン妻は私のi-Phoneの画像を見よるんです。
ひとりで何を食べたのか。
何処へ飲みに行ったのか。
アヤしい店に行かなかったか。
ヘンな場所に行かなかったか。
そういう視点でチェックするの。イヤらしい性格だな~。
「七じゃなくて和が家へ行ったんだ?」
「これは日本酒BAR?」
そんな調子である。
人差し指でi-Phoneの画面をスイスイめくってたジャン妻の眦が釣り上がった。
「何よこれは!!」
何だ?私はヤマしい店には行っとらんぞ。
「これは何?何処へ行ったのっ??」
堀1.jpg
あ、これか。
「空堀じゃん」
「・・・」
堀2.jpg
「これは富岡市の教育施設の敷地内だよ。〇〇への帰りに昼休みがてら立ち寄ったんだっ」
「で、何で空堀なのよ」
「たまたま立ち寄ったら空堀があったんだよ」
実はあるの知ってたけど。
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上州一ノ宮駅の北に一之宮貫前神社(イチノミヤヌキサキジンジャ)という有名な神社がある。
貫前(ヌキサキ)です。私は貴前(キマエ)と読んで訂正されたことがある。
創建から1500年近くも経つ凄い神社らしいから古代からそこにあるそうです。いつの時代も有力者の庇護を受け、武田軍が上州を侵略しに来た時も荒らされなかったらしい。
由緒や文化財については難しいので省略します。その筋のサイトをご覧ください。
神社1.jpg
貫前神社の麓の道は高崎市に住んでた平成24年~から今日までくるまで走ったことが何回もありますが、神社そのものには一度も参拝しなかった。
参拝しなかった理由はこの神社の本境内に入るのがエラくタイヘンで、上信電鉄の上州一ノ宮駅から600m、歩いて約10分程度ですが、正面参道から何段あるかわからない石段を延々と上がり、上がって総門を潜ったら今度は同じような数の石段を下らないと社殿に行けない下り宮という造り、配置になっているからです。上がってぇ~下りてぇなのです。
わざわざ上がってまた下りるということは帰路はまたその逆を上り下りしなくてはならない。地形の制限か何かの苦行か、わざとそうしたのか、そういう造りになっている。
神社5.jpg
こんな感じです。上州一ノ宮駅で下車するとこの階段を上って来るんでしょうね。
誰もいないけど。
神社3.jpg
これが総門です。潜ると下に社殿が見えます。誰もいないですね。
下りたらまた上がって来なきゃならないわけですよ。
神社2.jpg
写真撮ってる私はここまでまともに歩いて上って来たわけではないです。レンタカーで神社の北東、県道47号線の麓から上ってきました。(La gemmaの辺り)
神社の近隣に普通に住宅も建ち並んでいるので生活道路もあるのです。くるまで上がって来たら①上がって下りて、②また上がって下りて、この上がったり下がったりの2往復が1往復で済むわけ。
でも足腰弱い人はタイヘンだと思いますよ。
神社4.jpg
神社に参拝していない私が来たのは冒頭の写真でジャン妻が「何処をほっつき歩いてたの?」と眉間を険しくした写真です。この有名な神社の東の敷地にある。
そこには市役所の分室(教育施設)がある。コンクリではなく木造で昔ながらの屋敷をモチーフした洒落た建物です
切岸1.jpg
切岸2.jpg
その施設の敷地は東西に長く南北は切岸になっていて、東西の尾根を空堀で断ち切ってあった。その堀を施設の屋根付渡り廊下が渡って結んでいるのです。
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この空堀は北の雑木林に向かって落ち込んでいてその先はヤブ。まだ先まで続いているようです。
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西から東に渡った施設の裏手にはこんな土居の跡が。
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ここに誰がいたのか。
高崎市にあった富岡市の史料を見たら貫前神社の神官の一党、一之宮氏(一宮氏)と伝わるがそれ以上の詳細はわからなかった。
だいたい富岡市は製糸場にまつわる明治~近世のネタには膨大な頁を充てるが中世についてはイマイチ消極的で、この館跡についても「第5章中世、五 一宮氏」と項目があるにはあるが、402頁~405頁と僅か4頁しか割いてない。
僅か4頁からうかがえる一宮氏名前は、一宮駿河守(上州なのに駿河守?)、一宮修理亮他、左衛門太郎、新太郎が5人、神太郎が2人、兵部助、左衛門尉が3人といったもの。
これらは神社を庇護した往時の守護たち、関東管領上杉憲政、武田二代、小田原北条家他との書面の宛先や差出人からわかったようです。
一宮氏は地元で有名な多胡氏、小幡氏とは別一族のようですが小幡氏とは近いかも知れない。富士浅間神社(大宮城)の富士氏のようにこの地の象徴、貫前神社の寺社勢力=自衛の為の武装勢力がいたのでしょう。
館跡の施設は高台にあります。そこから見た富岡市の風景。
風景1.jpg
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富岡市教育委員会に電話したのですよ。
「そちらの市で有名な神社の東の敷地に木造でできた市の施設があって、そこにデカい空堀を見たけど、あそこにはもともと何があったのですか?」
詳しいものに替わりますと言われ、電話に出られた方が言うには、
「あの場所はこの地にいた一宮氏の館跡と言われております」
「貫前神社に関係するんですね」
「そのようですが、詳しいことはわかっておりませんです」
「あの神社は有名だし、大々的にアピールしているけど、隣のあの場所がそういう場所だという説明は何もなかったですよ」
別に私は責めた訳ではないですよ。
「ハイ・・・ございません。発掘調査とかそういうのもしていないのです」
私もしつこく裏付けを取ろうとした。
「では何を元にそうだとわかったんですかね?」
「富岡市史か、山﨑先生のご本か」
山崎先生って何処かで聞いたことがある。その方があの場所を館跡と断定された方らしいが、その筋のマニアには有名な先生らしく、私も史料やサイトでよくお名前を見かけるあの人かも知れない。
(今年になって高崎~渋川間をウロウロした時、仕事ですよっ、ある場所でお名前をお見かけした。)
「その史料は富岡市の何処かに行けば見れるのでしょうか?」
あるといふ。富岡市でなく高崎市にあった富岡市史を引っ張りだして見たのですが、やはり富岡市の中世は弱い。製糸場を中心にした生糸産業や近代史が圧倒的に多かった。
一宮氏はどういう一族なのか。どんな治世を敷いていたのか。ぼんやりして掴めないのである。
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この空堀があるが為に渡り廊下を1径間で跨がざるを得なかったのかも知れない。
これが鉄筋コンクリートの箱物だったら埋められていたでしょう。
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諏訪原城 [隠れ郷土史]

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築かせたのは武田勝頼公。
縄張りは馬場信房(信房)。
命名は勝頼公が諏訪の出だから。
城内に小さい諏訪神社がありました。
石碑と解説.jpg
今川家を駆逐した武田側から見たらここは遠州松平との最前線。
遠州を欲する武田家が橋頭堡と兵站所も兼ねて造らせた。
縄張.jpg
広い城域だった。
金谷駅からだと比高140mほど。
一度、金谷駅から徒歩で上がって来え途中で断念して引き返したことがあります。坂だし歩ける距離じゃなかった。
今回は金谷駅からタクシーで上がってきました。
だがそこまで上がってみると険峻な山城には見えない。
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駐車場と城域入り口が同じ高さなのでくるまで来るのがおススメ。
私は山城の麓に駐車場があって、そこから歩いて登り、延々尾根を歩くタイプの城塞は避けています。
くるまで着いてそこからなるべく比高差の無いのがいいです。
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駐車場から入ってすぐに置いてあるパンフ。
パンフあり.jpg
いきなり窪みが。
大手の堀の跡らしい。
窪みは大手外堀1.jpg
窪みは大手外堀2.jpg
大手北堀.jpg
右手にあるカーヴした堀です。三日月堀はこの城域に幾つかあります。
最初の三日月堀1.jpg
最初の三日月堀2.jpg
でもヤブと陽の光で見難いのです。堀の向こう側の曲輪(馬出)から撮影したのがこれ。
大手馬出の三日月堀.jpg
大手馬出の背後の堀1.jpg
大手馬出の背後の堀2.jpg
南曲輪背後の堀1.jpg
また三日月堀がある。
これは見やすいです。
三号堀(三日月堀)1.jpg
三号堀(三日月堀)2.jpg
三号堀(三日月堀)3.jpg
三号堀(三日月堀)7.jpg
三号堀(三日月堀)5.jpg
三号堀(三日月堀)8.jpg
三号堀(三日月堀)4.jpg
諏訪原城の位置づけは政治・統治の拠点、象徴としてではなく、実戦を想定して作られたようです。
①多数の兵員を駐屯させられる敷地。
②大量の物資を置いておける補給基地。
③東海道と大井川水運の要衝。
④最前線なので手早く工事しなきゃならない。
①②③④の理由により、細かい技法ではなくひとつひとつの曲輪をガッツリ広く大きくした。
右は堀で左は二の曲輪.jpg
二の曲輪1.jpg
二の曲輪2.jpg
三の曲輪(南曲輪).jpg
二号堀1.jpg
二号堀2.jpg
二の曲輪と三の曲輪は区別が明確ではないのですが、中央に仕切があった。
仕切土塁1.jpg
仕切土塁2.jpg
仕切をよく見ると石が混ざっている。焼き鳥のつくねでいうところの、細かく砕いた軟骨のようです。
仕切土塁3.jpg
仕切土塁4.jpg
丸馬出以外はそれほど複雑な縄張りではないので、郭の間に敵兵を誘い込むキルゾーンタイプではない。
台地の先端に位置し、東側の崖を背後に本曲輪が置かれて東の急斜面には搦め手と水手曲輪、少しの腰曲輪とその先にも出城がありそうだが、この城の名物でもある複数の丸馬出は西と南に限定されている。迎撃対象は徹底して遠州松平がいる西に限定している。
馬出とは何だ?
馬出とは何ぞや?.jpg
昨年のコメディ大河で終盤ようやく登場した真田丸。あれも似たようなものですが、塁線が弧を描いて形成され火箭に死角をなくしたものです。
寄せ手に対して初めは飛び道具を散弾させ、弧の根っこにある出撃口から出撃して敵に損害を与える。寄せ手に銃火器や矢玉、投石で馳走し、出丸のサイドから主人公が打って出たでしょう。あれです。あの戦法です。
二の曲輪東馬出1.jpg
二の曲輪東馬出2.jpg
二の曲輪大手馬出.jpg
生命線、水の手もあります。
水の手曲輪.jpg
カンカン井戸.jpg

本曲輪.jpg
天守(櫓台).jpg
本曲輪の大雑把な解説板.jpg
城内、深い堀だらけ。
国境最前線だからおそらく急いで造ったと思いますが、重機の無い当時の土木工事としては凄いです。
堀が深すぎる箇所が幾つかあり、そこには自然の谷がもともとあったのかも知れないが、土橋や土壁が狭く、全体を撮影しようとして下手に後ろに下がると転落しかねない。
五号堀.jpg
五号堀2.jpg
六号堀.jpg
九号堀.jpg
十六号堀.jpg
内堀.jpg
その他の堀1.jpg
その他の堀2.jpg
その他の堀3.jpg
壁立.jpg
土橋.jpg
先に述べた馬出迎撃は守る側から見たら痛快だが、1度2度ならともかく、守兵に数倍する寄せ手が押し寄せたらどうなるか。
この城は数多い守備兵や、た~くさんの武器弾薬、糧秣を多く置いとける敷地面積がありますが、現在茶畑になっている東側と城内の高低差がそれほどなく傾斜も緩やかだから、寄せ手が物量作戦で攻めて来たら長くはもたない気がする。
馬出からそのまま西に歩いてったらいきなり茶畑に出た。ここから西の緩斜面に何か防御施設があったのだろうか。
茶畑に出たぞ.jpg
東の斜面から逃げるしかないでしょう。実際そうだったらしい。写真に撮らなかったけど本郭の一画に「搦め手」があって、そこから榛原郡吉田方面へ落ち延びたとか。
馬出のある西からは逃亡できないのはわかりますが、本郭にいる城主か城代か、主将格が真っ先に逃げられるようになっているのは笑えた。
やはり落ちない城というものは無いのかもしれない。
富士が見える.jpg
眼下に金谷.jpg
この居城に、限られた期間でこの貴人がいたらしい。お家が滅んでからです。
だがすぐ解任されたとも。
蹴鞠の名手.jpg

古そうな解説板.jpg
碑.jpg
見学所要時間は60分ほどでした。やはり広いです。
見学者は私の他に2名ほどいた。
見学者がいた.jpg
タクシーがなかなか来ない。コミュニティバスが1日に4本ある。タクシー待ち20分の間に、14時9分のバスが来ちゃった。
バスもあるにはあるが.jpg
整備工事中.jpg
諏訪原城は現在整備中です。
平成29年2月の時点で、WCはありますが自販機は無いです。
夏場は飲料持参でおでかけください。
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蒲原城 [隠れ郷土史]

コメダのパンで腹が苦しい。
「ご飯とパンとどっちが太るんだ?」
「パンね。塩分あるし。バターとかつけるし」
「・・・」
「アナタはパンにバター浸け過ぎだし」
そういう問題か。
「だったらモーニングなんか頼まなきゃよかったんだ。あの厚切りトースト1枚でうっぷってなったモン」
「アタシもモーニングにするならミックストーストどうしようかなぁって思ったんだけどね。でもコーヒーは必要なの」
「オークで飲んだじゃないか」
「いいの」
「そうか。では今日はさらでウエルカムケーキ食べるの禁止!!」
「えぇ~!!ケーキは関係ないじゃ~ん!!」
「こんなにパン喰ったらディナーに影響する」
「大丈夫だモン」
蒲原城?.jpg
「腹ごなしに山城へ登ってくる」
「革靴で行くの?」
「・・・」
ナビで新蒲原駅をセット。富士由比バイパスを東へ走り、そろそろ富士川河口に沿って左に曲がる前に、左手に鉄塔のある山が見えて来る。
私はこの鉄塔のある山が目指す場所かと思ってたら、実際はそのひとつ西の山だった。
途中で新蒲原駅方面へ下ります。高さ制限のある低いJRのガードを潜って左折、西へ戻り、旧東海道の善福寺交差点を右折して山を登っていきます。センターラインのある広い道です。
東名高速をアンダークロスしてS字カーヴを過ぎると、左手に訪城口と駐車場がある。
「アタシは行かない」
「30分ほどで戻る」
「行ってらっしゃい、あ、風強いよ」
強風で枯葉が舞っている。
登る1.jpg
住宅地の裏に訪城道が伸びている。
登る2.jpg
解説板が立っていた。ラフな鳥瞰図も。
説明板1.jpg
説明板2.jpg
松井田城のように四方に伸びる山の峰、尾根に郭が展開されていたら見て廻るのがタイヘンだなと危惧したが、大雑把な縄張りのようですな。駐車場から1往復の見学で済みそう。
説明板3(鳥瞰図).jpg
何処に堀切があるのかヤブでワカランぞ。
何処に?.jpg
更に登ります。風が強い。強風で枯葉が舞い上がる。
登る3.jpg
駿河湾が見えてきた。
眼下に由比、東海道を押さえ、西は駿府の橋頭堡の薩捶峠がある。
なるほど北条と武田が奪い合いをする立地ではある。
駿河湾1.jpg
駿府の今川義元が桶狭間で信長軍に討たれ、その後は次第に弱体化し、甲相駿三国同盟が何となく破られムードになり、武田軍の駿東侵攻によって同盟は完全に破綻。駿東一帯は武田と北条が睨みあうことになる。
その辺りの経緯はめんどくさいので割愛しますが、この城に小田原北条氏の一軍が立て籠もっていた時期がある。
だが陥落した。後北条5代に通しで仕えた大長老・北条幻庵という人の次男と三男でがここ蒲原城の城将だったが、永禄12年(1569年)、武田軍の四郎勝頼、典厩信豊の次世代他がこの駿河蒲原城に攻めて来て、守備していた幻庵の次男・新三郎綱重、3男・長順が戦死している。
守備兵の清水、笠原、狩野といった北条家臣でよく聞こえた者ども一千も玉砕。
登る4.jpg
登る5.jpg
登る6(もうちょい).jpg
本郭1.jpg
本郭2.jpg
駿河湾2.jpg
駿河湾3.jpg
本郭3.jpg
頂上の本郭は海抜150mほど。駿河湾を一望できます。伊豆半島も。
北側には富士山も遠望できる。
眼下に見るのはこの後に寄る善福寺郭。
富士を望む.jpg
北条は海は見慣れているだろうが、武田はここで初めて海というものを見たのかも。勝頼、信豊の従兄弟同士も。
麓の漁村からあがる魚を刺身で喰ったかも。生シラスや桜海老を喰ったかも知れない。

本郭から下りて北側の善福寺郭へ。
その2郭を分断するデカい堀切。深さは目視で8mほど。
大堀切1.jpg
大堀切2.jpg
足場がゴツゴツしている。渡してある木の板も欠けたり折れたりしている。岩盤を力任せに四角く掘った感がする。
堀切の左右壁面もゴツゴツしていて、草木のせいで見難いが一部に石積みが欠けて積まれていた。
石垣?1.jpg石垣?2.jpg
大堀切3(上から).jpg
善福寺郭を見上げると、何やら太い木の枝が迎えてくれる。逆茂木?
サカモギ1.jpg
何だこの復元ギミックは?
サカモギ2.jpg
土塁2.jpg
低い土塁も頼りなく復元のようです。どれも同じような形をした復元逆茂木も何だかわざとらしい感がするな。櫓も公園によくあるようなもの。
整備にケチをつける気はないですが、本郭と善福寺郭を断ち切る堀切の端に、蒲原城整備工事と銘打った工事現場によくある注意書が倒され枯葉で埋もれていた。予算枠でできるところまで整備して途中で止めちゃったのかも知れない。そしたらこうなっちゃったのだろう。
善福寺郭1.jpg
出土品.jpg
善福寺郭の解説板のひとつは色あせた茶色い金属プレートで、彫ってある文字が見難い。
さきほどの大堀切の地層に、火災があった痕跡があるとか書いて(彫って)あった。
落城時に炎上したのだろう。
善福寺郭の説明1.jpg
善福寺郭の説明2.jpg

北郭1.jpg
北郭の石垣1.jpg
北郭の石垣2.jpg
善福寺郭を囲む北側の城塁はしっかりした石垣がぐるっと巡らされているが、これが往時のものなのかどうか。
蒲原城に石垣があった?いやなかった?論争があります。そのサイトも見た。武田や北条がここまでキレイに石垣を積んだか疑問です。
北郭の石垣3.jpg
北郭の石垣4.jpg
北郭の石垣5.jpg
ここは街道の要衝なので、蒲原山の地形を生かして急いで城を築いたら、いつの間にかこんな感じになったといった感で、あまり細かい縄張り、技巧は感じられなかった。
私が駐車場から上がってきたルートは搦手で、ホントの大手口は東海道や海岸線に面した南側にあったそうだがそこは東名高速道路建設で消失したようです。その代わり城域の東側に私が登って来た生活道路が普通に通っており、城山の中腹にある駐車場に停められ、そこから主郭まで割と緩やかな坂道を10分ほど登るだけ。見学し易い城域ではある。
飯に何度も汁をかけて喰う氏政公や、そのオヤジ殿から権限を実質禅譲して貰えない氏直公、秀吉を甘く見て上京するしない、名胡桃城を奪っちゃって、大軍勢に包囲され、いつまで経っても決まらない大評定、そして滅亡、そんな風に描かれてばかりで、おそらくは未来永劫大河の脇役に据え置かれたままの小田原北条氏がもし大河その他、主役で扱われたら、北条幻庵は脇を固める重要キャラで登場するのは間違いないが、北条幻庵の息子2人が戦死した蒲原城攻防戦はさしずめナレーションだけで片付けられそうである。
北条幻庵は往時としてはエラく長生した。最も長い生没年説だと明応2何(1493年)生まれで天正17年(1589年)11月に死去だと享年97歳。
他にも天正12年(1584年)没、天正13年(1585年)没、相当な長寿。幻庵の死から9ヵ月後に後北条氏は滅亡するのだが、息子たちを先に失って長生きせざるをえなかったのかも知れない。
箱根権現の別当を兼ねながら水軍の三浦衆、陸戦の小机衆を束ね、戦場にも出て、一門最大の領地をあてがわれ、子供もいて、出家なのか還俗してたのか、僧侶なのか政治家なのか。
スケールこそ違うが、井伊直虎に出てくる小林薫さんの役と同じようなものだろうか。
では余湖先生の鳥瞰図を。
余湖先生の鳥瞰図.jpg
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/sizuoka/kanbaramati.htm

くるまに戻った。この後、富士宮市の浅間神社に初詣してから伊豆高原八幡野へ。
往復運動したので大分腹は楽になってきた。
訪城口.jpg
そういえば。。。
この蒲原城近くにウチの社員が住んでいるんです。ここより由比寄りだけど。海岸線に沿った旧東海道沿いにいる。
これから行く浅間神社の北、先日船山温泉をチェックアウトした際のアクシデントでくるまを持ち込んだカーディーラーのすぐ近くにも1人住んでいる。
それだけじゃないのだ。船山温泉に行く為に下りる富士川SAの出口から半径1km以内に1人いる。
船山温泉に向かう途中の芝川町にもひとり。
まだある。紀尾井から半径1.5Kmのところにも。
「何だか静岡の社員たちにジワジワ包囲されてない?」(ジャン妻)
「・・・」
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北条早雲出世城 [隠れ郷土史]

興国寺城1.jpg
興国寺城3.jpg
興国寺城4.jpg
興国寺城5.jpg
興国寺城6.jpg
興国寺城7.jpg
伊勢新九郎、後の北条早雲の出世城は、沼津市の東海道線原駅北にある巨大な大蛇の土塁・興国時城とされている。(写真)は2011年11月のもの)
現地、沼津教育委員会の説明には・・・
『興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です
早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ・・・』
興国寺城2.jpg
では今川家に身を寄せていました・・・その頃は何処にいたのだろうか。興国寺城の前、ファーストジェネレーション的な小城が焼津駅の北東にある。
石脇城といって高い値段のマグロを喰わせる日本坂PAの東です。東名高速と国道150線が並走する間の丘。
石脇城1.jpg
石脇城の周囲は、石脇城よりもっともっと高い山や丘があるのだが、石脇城そのものは比高30mほどしかない。
正面に見える名前もわからない高い山を見て、
「まさかあんな高い山じゃないでしょうねぇ」
「比高30mぐらいだって」
「アナタ出がけには60mって言ってなかった?低くなってるけど」
そ、そうだったかな。私も寄る年波で山城訪頂がキツくなってきている。60mと30m、その差30mも坂によってはキツさが倍になる。標高と比高でも負担が違ってくる。
私も探し当てるのに勘が働くようになっているが、このくたびれた標柱が無ければわからなかったと思う。
訪城口2.jpg
付近に駐車場はないが、この道はやや路肩が広いのでそこに停めた。
我が愛車.jpg
「アタシはいいわよ」
「・・・」
「くるまにいる。登ってきなさい」
2011年の秋に興国寺城に登ったんですがね。(最初の7枚の写真)
ここ最近は全くそういうのに付き合ってくれないです。
助手席にジャン妻を残して、「誰かに誰何されたら、石脇城に登ってる教育関係者だと言いなさい」
「教育関係者ぁ・・・?」
訪城口1.jpg
麓の道はこれが登山道なのか、個人の敷地なのか判然としないが、上り口に解説板があった。
麓の解説版1.jpg
沼津の興国寺城解説板には、伊勢新九郎が興国寺城にいたのは長享元年以降(1487年~)とあった。
ここでは、今川義忠が伊勢新九郎をここ石脇に住まわせたのは文明年間(1469年~)とあるから、やはり興国寺城の前にいた場所のようです。
麓の解説版2.jpg
崩落の恐れあり.jpg
登る1.jpg
くるまを停めた麓から訪城道を登ること僅か5分で第二郭に達します。
石脇城山頂の最も高いところに大日堂、一段低いところに城山八幡宮がある。小さい神社の規模といっていい。
城山八幡宮.jpg
八幡宮から第二郭に至る道も左右が石垣で補強されているが、参道の幅が極端に狭く、夏場は蜘蛛の巣だらけになるは必至である。
城山神社の参道.jpg
山全体は地盤が緩いのか、後世の石垣で固められている。
小さい城域で格別の見どころは無い。全体的に削平地がある程度。
周囲を崖に囲まれているが比高が低く、郭も小規模で数百人も入れそうにない。伊豆の韮山城他、北条氏の巨城たちとは比べくもない。
第二郭-1.jpg
第二郭-2.jpg
第三郭?.jpg
更に登る.jpg
第一郭、大日堂へ登る。
そこには麓より見やすい解説板があった。記載されてる内容は麓にあったものと同じ。
大日堂.jpg
大日堂の説明版1.jpg
大日堂の説明版2.jpg
大日堂の位置関係.jpg
大日堂の裏手に土塁らしきものが。これもアヤしい。大日堂を作った時に土を寄せたのかも。
裏はゴミ捨て場みたいになってましたね。
土塁1.jpg
土塁2.jpg
土塁3.jpg
土塁4.jpg
来年の大河でおそらく仇役にされる駿河今川家の6代当主に義忠という人がいる。
この人は後年、織田信長に桶狭間で討たれる義元の祖父にあたる。
今川家は駿河と遠江の守護職だったが、応永年間に斯波氏にとって代わられていた。義忠は応仁元年(1467年)の京都を巻き込んだ大乱時に上京し、その時に遠江守護職だった斯波義廉に対抗して東軍に参加する。
義忠は在京中に室町幕府政所執事だった伊勢氏と縁があり、後年に北条早雲になる伊勢新九郎長氏、または伊勢新九郎盛時の姉か妹かを娶ったらしい。北川殿がこれ。

義忠は乱で荒れ果てた京から帰国後、遠江守護斯波義廉への対抗心から度々遠江へ進出し、斯波氏や国人衆と矛を構えたが、その過程の文明8年(1476年)、遠江の在地土豪の罠に嵌って不慮の死を遂げた。
北川殿との間に生まれた僅か6歳の龍王丸、後の氏親という人が残され、他にも一族の小鹿範満が継承権を主張し、譜代家臣の多くは範満の家督継承を支持。龍王丸派と範満派が相争う内乱状態となる。
関東管領の力が大きくなるのを警戒した幕府が龍王丸の叔父にあたる伊勢新九郎を派遣する。(政所執事、伊勢氏が幕府の意向を受けて遣わした?)

この内乱のドサクサに、足利氏や関東管領上杉氏が介入しようとして太田道灌が登場してえいえる。新九郎は龍王丸派、反龍王丸派、双方と折衝する。「双方で争ってると太田道灌の軍勢に攻められるぞ」、「関東管領に駿河を盗られてもいいのか」とでも脅し田に違いない。私ならそうする。
和解の条件は、「龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行すること」
成人とは何歳か。15歳としておく。
太田道灌とも会った。今川家中は落ち着きましたのでお引き取りあれというところだろう。
太田道灌は本音では長尾景春という叛鬼が跋扈する関東へ早く帰りたかったので駿河から撤退した。
石脇城の解説板には「駿河記によると文明年間(1469~1486)に住まわせた」とある。この時の恩賞で石脇城を貰ったのだろうか。
でも伊勢新九郎は一旦は京に引き上げているようです。幕府の命を受けて来たのだから報告がてら戻ったに違いない。

だが15歳になったら家督を返す・・・?
そんな約束が守られよう筈がない。
龍王丸は後年、今川氏親になって、桶狭間で信長に討たれた義元の父に当る人だが、この人の生年は文明3年(1471年)辺りで、プラス15年だと文明18年(1486年)。。。文明から長享に改元されたのが1487年で、15歳を過ぎた辺りのその年に、北川殿は京に戻っていた伊勢新九郎に再度助けを請う。
新九郎は再び駿河に下り、自らの譜代衆の他、石脇城で反小鹿派の兵を集める。
大田道灌は前年に殺されており今度は上杉氏は介入できないと踏んだ。同年11月に駿河の館を急襲。小鹿範満を自害させた。
伊勢新九郎は富士郡下方荘十二郷を与えられ興国寺城にお引越し。
石脇城はその後に廃されたらしい。早い時期に廃されたので遺構は崩れてしまったのかも知れない。
ここに三鱗の幟がはためいた訳ではなと思います。
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石巻康敬のこと [隠れ郷土史]

佳境に入りつつあるコメディ大河、「真田丸」で、真田と北条が奪い合う沼田問題を太閤秀吉が裁定した後、北条氏が奪取した名胡桃城事件にまつわる話。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-03
名胡桃城2.jpg
2014年12月に名胡桃城を訪れた時、城域をざっと見て踵を返したら、地元在住の初老の男性3人に出逢った。
年少者の私から声掛けしたら、
「何処から来られたんですか?」
「横浜からです」
「じゃぁ北条ですね」
敵だと言いやがったな。でも沼田は真田と北条の国境なので、地元の人がどっちをヒイキするとではないらしい。むしろ陰に隠れてしまっている地元の沼田氏を憐れんでいたように思った。
私はその地元の人に、「名胡桃城奪取事件は北条兄弟の誰かが部下の猪俣邦憲の監督不行き届きで起こったんでしょ」のように口ごたえしている。新史料が出ない限りは、猪俣を何者かが唆した、猪俣が唆された、そういう説があってもいいと思う。
六文銭の楯?.jpg
名胡桃城を奪っておいて上方へ弁明に行かされた人が石巻康敬(ヤスタカ)という人で、北条家の家臣で評定衆の1人。
石巻家は康敬の父で家貞という人が大永七年(1527年)の書状から永禄11年(1568年)の書状まで名前があるそうで、初代早雲公から四代氏政公までお仕えした譜代の大重臣の家柄。ザッと計算して42年間も現役だった訳である。
石巻家貞はこの史料に名前が散見されます。
史料.jpg
その子、康保が継いだけど死去したらしく、弟の康敬が継承する。通称は五太夫、または彦六郎、左馬允、次いで父や兄と同じく下野守。
この人も北条氏が接する国境の守備であちこちコキ使われたらしい。石巻家が北条家にお仕えして最後のご奉公が、名胡桃城奪取事件の弁明、言い訳、申し開きに上洛したというもの。
上洛したのは板部岡江雪斎じゃないのかって?
沼田問題の裁定で上洛したのが板部岡江雪斎で、その後の名胡桃城奪取事件の弁明の為に上洛したのが石巻康敬です。(江雪斎は石巻家とも繋がりがあるのですがここでは略します。)
石巻康敬の上洛交渉は成功しなかった。豊臣方の官僚の誰かに会えたのかどうか。会ったところでどのように理論武装したのだろう。
秀吉にしてみれば名胡桃城事件は北条氏を攻める恰好の口実。だから後年、秀吉が唆したような内容のストーリーがまことしやかに出回ったりもする訳でさ。
石巻康敬は虚しく引き上げる途中、沼津三枚橋でその頃は東海の覇者だった徳川家康の手の者に捕らえられ幽閉されたそうです。小田原に戻れなかった。
この石巻康敬関連のものが、私の日常生活圏ギリギリの地にあったのを最近、知った。お墓、知行地、陣屋(推定)です。遅ればせばがら取得した夏休みで現地調査にTRY。
横浜市営地下鉄中田駅で下りてエレベーターで3番出口へ出ます。そこから長後街道に沿って西へ。
中田駅界隈.jpg
昨日、載せた「源泉」、頑張ってる店ですが再訪は無いですね。
源泉1.jpg
その先、プロミスのある交差点を右折して北へ。
あ、まだ営ってたんだこの店。もう5~6年、行ってないですね。
たちばな.jpg
その先の交差点を左折して右折・・・曲がってばっかりいますが、石巻康敬の墓はGoogleMAPには表示されています。マンションの隣にあった。すぐ見つかります。
指定文化財.jpg
名胡桃城事件で弁明の為に上方へ派遣された件は書いてないぞ。
解説板1.jpg
下野守.jpg
拘留された石巻康敬は、小田原北条氏が滅んだ後で関東に移封された徳川家康に預けられ、鎌倉郡中田村(現在の中田)で蟄居していた。
ほどなくして家康の謀臣で地元の玉縄城主でもあった本田正信が中田村にやってきて石巻康敬は家康に推挙される。それは石巻家は三河の出身(現在の新城市)で家康と同郷だったからではないだろうか。
知行は中田村に111石。旗本。特に役職は聞かないが、地元の管理を委ねられたのではないか。
では石巻康敬の陣屋は何処にあったのだろうか。
Wikipediaで「横浜市泉区」を見ていただきたいのですが。下の方に。。。
玄蕃新墾(げんばあらく、伝・石巻氏陣屋跡。鯉ヶ久保ふれあい樹林周辺は濠跡という)
石巻康敬墓(市登録文化財)
とある。
玄蕃新墾(げんばあらく)は石巻康敬の墓からほど近い白百合公園の高台。それがこれ。
げんばあらく.jpg
陣屋跡と書いてあります。
解説碑文1.jpg
では鯉ヶ久保ふれあい樹林周辺は濠跡とは如何に??
鯉ヶ久保1.jpg
鯉ヶ久保樹林はこんな風景です。この辺りは南北が高台に挟まれた低地に二条の川が流れている。鯉ヶ久保、鯉のいた窪地、昔は湿地帯か池だったのかも知れないが。
鯉ヶ久保2.jpg
鯉ヶ久保3.jpg
位置関係はこうです。
石巻氏関係.jpg
玄蕃新墾から数百m離れている。111石の旗本にしては規模がデカくなってしまう。
ゲームに登場する石巻さんです。
目つきが悪すぎ!!
戦国大戦.jpg
石巻康敬は慶長18年(1613年)10月1日に没した。。
名胡桃城奪取事件をどう弁明したのか。
目通りは叶ったのか。
弁明相手の豊臣官僚は誰だったのか。
何処に幽閉され、赦免後の陣屋は何処にあったのか。
謎のまま、未完の記事と締めくくらさせていただきます。
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上州白井城 [隠れ郷土史]

今年の夏、初めて上越線(吾妻線)渋川駅で下りました。
渋川市は人口87500人ほどだそうです。沖縄を除いて日本列島のほぼ中央にあり、日本の臍のひとつだって。
西に榛名山、東には赤城山が見える。北にも山々がそびえる。利根川と吾妻川が市内で合流する。
合流する前、吾妻川が二筋に分れてまたひとつになる箇所があり、そこの断崖にあるものは。。。
吾妻川.jpg
私は渋川市を南北に通る291号(三国峠)が吾妻川を渡る橋の手前、そこにある某行政に向かう為に来ました。「昼前に行きます」と大雑把にアポを取ってあります。
その行政までは駅西口から2kmほどだから徒歩20分以上は歩くのだが、昼前までまだまだ時間がある。渋川駅から高崎方面上りダイヤは1時間に1本~2本くらいなので途中で寄り道をすることにしました。
渋川駅は改札が西口(伊香保温泉口)だけだが、わざわざ跨線橋を渡って東側へ。渋川総合病院を右手に見て17号線を北上。新吾妻橋を渡ると右手にカインズホームが見えてくる。
ピーカンではないけど炎天下。歩いているバカは私ひとりだけでしたね。
右手にカインズホームを見て、白井下宿という交差点を左折、細い道に分け入ると幾つか老健施設のようなものがあり、その裏手に何やらそれっぽい地域が見えてくる。
それっぽいぞ.jpg
そこらは私有地で、何処から入ったらいいのかわからない。
ネギ畑の畔を突っ切り、笹郭の斜面を直登した。
そしたら堀に入り込んでしまった。
帯郭1.jpg
帯郭2.jpg
私は敵の雑兵よろしく東の外郭から攻め上って内側にある堀に落ちてしまったようなもの。
こうして普通に歩いてますが、戦時なら左右上から放たれる矢に当って討死してるでしょう。
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堀5.jpg
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そしたらいつの間にか半月の堀になっていた。
堀には水があるが、雨水がたまった水たまりでしょう。
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三日月堀3.jpg
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白井城は断崖の上にある平城です。幾つか枝分れした長尾家のひとつ、白井長尾家の根拠地。
長尾家中のバタバタ内紛についてはよくわからないので割愛していいですか?
幾つかある長尾家の本拠地です。ここは白井長尾家。
ジャン自室にこんな本があります。この本の最初に白井城が出てくる。
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文明5年(1473年)から永正8年(1511年)までの30数余年、関東で叛乱に明け暮れてばかりいた長尾景春という人が主人公。白井長尾家のこの人は生涯の殆どを戦争と叛乱に明け暮れ、畳の上で枕を高くして寝たことが無いのではないかと思わせるくらい波乱な生涯を送った。
私は主人公の景春が何をやりたいのかさっぱりわからなかった。読み終えた印象は関東を蹂躙した人、引っ掻き回した人という印象でしかない。
登場人物が山内、扇谷、関東公方他、初めて知るような人物ばかりで新鮮だったが、どういう相関関係かよく勉強しないとわからない世界である。
キャラ.jpg
戦国時代でいちばん戦争に弱い関東管領上杉憲政が河越で北条氏康に大負けして上州平井を経て越後へ亡命。関東管領の名跡を長尾景虎に禅譲、長尾→上杉になった景虎が、三国峠を越えて関東に度々やって来るのだが、来ては帰る、叛かれる、で、また来る、帰る、これの繰り返しになるのだが、越後軍が関東にやってきて最初の基地が白井城だった。大軍が駐屯できるだけの規模はあるようです。
本丸1.jpg
本丸2.jpg
本郭には草刈りの爺さんたちが10人ほどいた。
全員が軽トラでここまで来ている。くるまで本丸跡まで乗り入れられることがわかった。
軽く会釈はしましたが、スーツ姿の私をウサン臭げに見るなよ。
本丸3.jpg
見学して唸る部分は本丸と、それを取り巻く三日月堀一帯というところでしょうか。
本丸土塁の上を歩く。三日月堀に沿って湾曲している。
本丸土塁1.jpg
本丸土塁2.jpg
本丸土塁3.jpg
虎口の土塁.jpg
休憩を終えて草刈りを再開した爺さんたち。
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草刈り中2.jpg
私に続いて男女ペアが見学にやってきたぞ。私以外にそういうヒマな人もいるのである。
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北一帯は耕地になっている。耕作Jしている人はお年寄りばかりでしたね。
これも堀らしい.jpg
二の丸畑.jpg
三の丸畑.jpg
北郭畑.jpg
秀吉の小田原征伐の時、上州松井田城を攻略した前田利家&上杉景勝らの軍兵に包囲されて開城した。その後、元和9年(1623年)までは近世の藩として継続したそうである。
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吾妻川と白井城.jpg
北郭から東へ抜けて、鯉沢という交差点から今度は南下。吾妻川を再び渡って渋川市の行政へ。地図上で見ると渋川駅を拠点にして、291号に沿って時計廻りに歩けば2kmだが、17号に沿って反時計廻りで寄り道したので3kmを要したことになる。
白井城経由で歩いた疲れを引き摺って出向いた渋川市への届出は、書類上の中身(経緯や今後の方針等)の説明が必要な内容なので多少の時間を要した。そこから2km歩いて渋川駅まで戻る気力はもう失せてタクシーを呼んだ。最近はこのパターンを繰り返している。往路は徒歩、帰途はタクシー。
歩いて来たんですよと言ったら相手は半ば呆れ驚かれたが別に嘘ではないよね。白井城へ寄り道しただけである。
寄り道とはいえ城域を歩いてもそれは目的地の行政へ向かう方向と一致しているので疲れただけのこと。
平城だったのが幸いだった。山城だったら途中で断念したでしょうな。渋川駅にレンタカーがあるので多少の出費になってもくるまを利用した方がいいですよ。
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お盆だから?首塚ネタ [隠れ郷土史]

案内版1.jpg
満州事変の起きた昭和6年(1913年)
日本は大戦に向かって突き進んでいくのだが、事変の半年前3月10日のこと。群馬県碓氷郡原市町(現在は安中市)の墓地に何処かの家族が墓参に来た。
その家族に小学生の子供がいて、寺での法事から続く読経に退屈したのか、その辺りを歩き廻っていたら小さい墳丘を見つけた。
実はその墳丘は古墳(原市町12号墳)であり、首塚も兼ねていたのだが、子供には何の丘かわからない。子供心に興味津々でその辺りをいじくりまわし、何やら白い欠片?を拾ったのである。
子供は大人に見せた。こういうのを見つけたと。
おそらく家族の大人の誰かが疑問に思ったのだろう。河原の石にしては素材、質がヘンだと。
「オカシイぞ?」
「これってもしかして?」
ということになり警察に持ち込んだら人骨、しかも、頭骨の一部であることがわかった。
だが事件性は薄れた。立ち会った学術関係者によると、近世でなはく中世のもの判明されたからである。
案内版2.jpg
以上は私が推測した情景だが、さほど違ってないと思う。
だが墳丘から頭蓋骨がザクザク発見されその数何と150体分あったという。
墳丘に1m×2mの穴が掘られ、そこに埋葬されていたと。
東から見た全体.jpg
150体という数も凄いが、昭和27年に調査に来た東京の学者さんは骨のカタチに注目した。飽食の現代日本人に比べてアタマが長く、顔は短く、鼻が広くて付け根が低い、イコール中世の日本人のもの。
下顎が無く、四肢の骨も発見されていない。中世合戦の戦死者の埋葬と推測された。
埋葬された頭蓋骨は天明3年(1783)、大噴火した浅間山から降って来た軽石に覆われていたそうである。
説明板.jpg
中世の戦死者が埋葬されたと仮定して、ではいつの頃か。
永禄4年(1561年)、甲州武田軍がこの地にやって来る。
武田軍は自国の甲斐が豊穣でない為か近隣諸国の侵略に執着する。この地、原市の首塚の西に陣城を設けて松井田城と安中城を分断した。松井田城に安中忠政、安中城には安中忠成(どちらが親で子かわからないのですが)この二城の連携を断ったのである。
安中一族は上州一揆衆の盟王、箕輪城の長野業政を後ろ盾に武田軍と抗戦する。一揆衆には内応者もいたようだが、長野業政が斃れるまでは勝てないまでも負けなかった。
だがこの辺りにあった松井田~安中の防衛ラインに点在した小城は抗せず潰される。
榎下城。(久昌寺)
さるお寺.jpg
梁瀬城。(城山稲荷)
簗瀬城の札.jpg
滝山城。(聖明寺、カジュアル酒場ナスビの対岸)
境内も段郭.jpg

埋葬されていた人骨はその時の地元戦死者と見て間違いないだろう。
何処の合戦でも後年の軍記物だと戦死者数が誇大に吹聴される趣があるが、150体という数なら農兵も含めて相応な数ではないか。
斜めに見る.jpg
平成24年に高崎市に住んでた頃に一度だけ見に来たことがある。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-26-1
今年の初夏に偶然通りかかったら竹藪だらけだった辺りがキレイに刈り取られ、梁瀬二子塚古墳という全長130mの巨大古墳の公園になっていた。
首塚はその公園脇の道を西へ入り、すぐ右折した坂の途中にある。巨大な梁瀬二子塚古墳公園と隣接しているのである。首塚は旧原市町十二号墳(円墳)ともいう。
もともとあった古墳に150体分を埋葬したのだろうか。
隣にある古墳公園.jpg
幾つか伝説があって、発見された頭蓋骨は甲府の方へ向けられていたとか。
攻めて来た甲州軍の骨なら故郷を望郷している?
地元の兵、被災者の骨なら、甲州を恨んで向いていた?
落武者の霊の目撃情報はどうか。高い確率で心霊写真が撮れるとか。そういうものが写ったとしたら埋葬されていた頭蓋骨の主たちでしょう。
霊感がニブい私だが、そういう場所なのでさすがに心中で念じながら近づいた。自分は荒らしではない、この地で起きたこと、この地にあった事象に興味があるだけであると。
近寄ってみる.jpg
正面から見ると古びたお堂が禍々しく見える。
裏手にまわると、なるほど墳丘なのがわかった。
確かに墳丘である.jpg
裏側から見る.jpg
裏手には真新しい住宅も建っていた。
住宅は首塚側の壁にも窓があって、それほど意識していないようである。
住んでる人が庭にでも出てきたらお話を伺ってみたいが誰も出ていなかった。
造成地?-2.jpg
首塚は戦死者、処刑された者を供養するために作られた塚なので、祀ることにより怨霊や祟りを抑えるものでもある。強い念を残した者が祀られる。
この原市の首塚も心霊スポットのひとつに取り上げられたりする。そういうイワレの場所だが、周辺は整備や開発の槌音がする。東隣にある公園脇に工事業者さんが3人ほどいて一服していたが、遠目に私を見て何やらブツブツ言っているようではあった。物好きが来たと思ったのかも知れない。
今宵は迎え盆だからこの地に還ってくるかも知れない。
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花倉城 [隠れ郷土史]

密謀4.jpg
駿府、今川氏館の一室で密謀を凝らしているアヤしい3人。
寿桂尼(演、藤村志保さん)
太原崇孚雪斎(演、伊武雅刀さん)
梅岳承芳(演、谷原章介さん)
いずれも剃髪している。アヤしい限りである。
この時の彼らは、生き残りを賭けた瀬戸際から、やや自派の存続に有利に傾いていたので、何処か余裕がある風に見えなくもない。

24歳で急死した今川家当主、氏輝の後継者争いである。
この氏輝と同日に実弟の彦五郎という者も死んでいる。謀殺の匂いがプンプンするが、寿桂尼は憤りを胸に抑えてまずは家中を鎮め、纏めようとする。
梅岳承芳.jpg
今川氏輝には2人の弟がいて僧籍に入っていた。
上を玄広恵探(げんこうえたん)、下がこの場にいる梅岳承芳(ばいがくしょうほう)・・・。
2人とも還俗させられて俗世に引き戻される。これで家中が割れるのだが、後者の方が後継者の椅子に近い。
上の玄広恵探は氏親の側室、福島氏の子で、梅岳承芳は正室、寿桂尼の子だからである。これに承芳の補佐役(軍学他の師)だった太原崇孚雪斎も加わり、冒頭のアヤしい3人の密議になる。
密謀1.jpg
寿桂尼は氏輝の後見人でもあったので既に政務に携わっていたので家臣への影響力も小さくない。これに太原崇孚雪斎が重臣どもの各方面を廻って承芳側につくよう説得した。
密謀3.jpg
重臣どもの多くは承芳側につき、玄広恵探は孤立した。唯一の味方は母方の福島(くしま)氏だけ??
福島一派は花倉城(藤枝市)と方ノ上城(焼津市)に籠城して承芳側と抗戦しようとする。
花倉城内.jpg

梅岳承芳に対抗する玄広恵探(演、井川哲也さん)
玄広恵探.jpg
福島(クシマ)越前守(演、テリー伊藤さん)
福島越前守1.jpg
だが素人の私から見ても、玄広恵探と福島側の何処に勝算があったのかと言いたくなる。
兵数が少なく、味方に付く国人衆も僅かで、立て籠もった花倉城は籠城したが最後、他国から援軍が届く場所ではない。
不利な戦況を唯一打開できるとしたら甲斐の武田が富士川沿いに南下するぐらい。このポイントで、2007年の大河でこの乱が取り上げられた。駿河出身の主人公の謎の前半生について、想像、脚色、膨らませて描かれた。
方ノ上城は省略されたが花倉城攻防戦は夜間ロケでしっかり描かれている。
花倉城攻め1.jpg
花倉城攻め2.jpg
花倉城攻め3.jpg
武田信虎が、内応してきた福島方を見捨てたことでこの乱は終息する。援兵が来ず、花倉城は炎上、陥落した。
花倉城を攻めた岡部親綱もチョイ役程度だが登場している。岡部という地は花倉城と同じ藤枝市にあるので、福島氏を放逐した暁には幾何かの恩賞を貰ったに違いない。
花倉城炎上.jpg
花倉城はこれ以降、全く登場しない。この乱でのみ登場する。
玄広恵探は自害。梅岳承芳は駿河国主となって義元へ改名する。

花倉城へ行くには第二東名藤枝岡部IC、藤枝バイパスの薮田ICで下りて、ナビに葉梨小学校を検索。小学校の北を廻って、橋を渡ると案内板がある。
案内版1.jpg
案内版2.jpg
平野部はまだ道幅が広いが、どんどん道が狭まってくる。
登城口1.jpg
登城口2.jpg
登城口から先はみかん畑や茶畑で、その間の極細い坂道をすり抜けながら延々登るしかない。急坂とS字カーヴの連続です。
対向車とのすれ違いはまず無理。ただ、すれ違う可能性は少ない。
登城口3.jpg
褪せて判読し難い解説板。この脇に3台ほど停められます。
説明板1.jpg
説明板2.jpg
説明板3.jpg
いきなり現れる一騎駆けの土橋。
一騎駆けの土橋.jpg
城域を分断する幾つかの堀。城域は傾斜はあるが、本郭も含めてはそれほど広くない。
空堀1.jpg
空堀2.jpg
空堀3.jpg
空堀4.jpg
本丸1.jpg
本丸2.jpg
本丸3.jpg
本丸4.jpg
二の丸.jpg
眺望.jpg

遠望.jpg
城域はそれほどの規模はない。反乱を起こして立て籠もるには小さく、1000人も立て籠もれない。
現在は城域に至るまでと、麓からの往路復路が難攻不落といっていい。運転初心者や一般乗用車では厳しいと思います。
下城した際、道を間違え、急な下りS字カーヴにさしかかり、ギアをロウのまま、フット&サイドのダブルブレーキングを駆使、道に倒れている竹をバリバリ踏み砕き、背筋に冷や汗を流しながら下山した。
行かれるなら自己責任でお願いします。
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豆を煎るには豆殻を以て・・・ [隠れ郷土史]

2000年の大河「葵徳川三代」第1話の関ヶ原総括は、NHKにしては戦闘シーンが大迫力で、その後も度々使い回しされている。
後半で小早川中納言が裏切り、大谷刑部旗下の寄騎の脇坂、朽木、小川、赤座らも寝返った。東軍の大勝。では次に西へ進む軍議の最中、津川雅彦さんの家康が、伏見城攻めを詫びる小早川に言うには、
「本日の戦功その罪を補うて余りあり。遺恨は今後いっさいこれなく。ただし明朝、関ヶ原を出立し、江州佐和山に至り、(石田)三成が居城を攻め落とすべし」
小早川は石田三成の佐和山城攻めを命ぜられた。寝返った立場上、承るしかないのだが、脇坂、朽木、小川、赤座たちもお追従する。
「おそれながら」
「我らにもご下命を」
「佐和山城を落とし、ご奉公を仕りたく」
磯辺勉さんが演じる池田輝政が嘲笑った。
「なるほど。豆を煎るには豆殻を持ってすべしか
居並ぶ東軍諸将もドッと笑った。

「豆を煎るには豆殻を以て・・・」
これは三国志の逸話。魏の曹操が逝去し曹丕が後を継いだ時、曹操が生前中に可愛がっていた異母弟の曹植を誅せんと試した逸話、「七歩の詩」のこと。
曹丕に、「七歩進むうちに詩を作れ」と言われた曹植の詩文には、
煮豆持作羹
漉支以爲汁
稘在釜下燃
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急

豆を煮て以て羹・・・アツモノ、器のことです。
支を漉して以て汁と爲す・・・漉しては濾す、濾過する、濾過して爲す、すなわち、豆汁をつくること。
稘(まめがら)は釜の下に在りて燃え・・・ポイントはここからです。
豆は釜の中に在りて泣く
本と是れ根を同じくして生じたるに
相煎ること何ぞ太(はなはだ)急なる
七歩の詩.jpg
3行目から先です。「豆と豆殻は同じ根から出たのに、煮たり煮られたりするのか」・・・「私(曹植)と兄上(曹丕)は同じ父から生まれた異母兄弟なのに、あなたは私を殺そうとするのか・・・」

西軍だった5将に石田三成の本拠地を攻めさせる(かつての味方にぶつける)策を、池田輝政や東軍諸将はその故事になぞらえて皮肉り嘲笑った訳ですが、曹丕、曹植は異母兄弟なので、曹植の漢詩をそのまま寝返り5将に当てはめるのはやや無理がなくもないが。
戦後、小早川は言うに及ばず、脇坂は所領安堵、朽木は減俸、小川、赤座は改易されたが、戦後は命を永らえている。
寝返った、あるいは降伏した敵将を先陣に立たせる、あるいは先導を命ずるケースはよくあること。だが、関ヶ原から遡ること10年前、秀吉の小田原征伐で上方軍に抵抗、松井田城に籠城したが、降伏して先導役を務め最後に自裁させられた武人がいる。
大道寺政繁という人。
川越線.jpg
西川越駅.jpg
JR川越線の西川越駅。
この近くの行政へ私は年に1回か2回、公用で訪れる。
その行政はアポ必須だが、川越線の本数は少なく、埼京線直通が絡んでダイヤが乱れがちなので、近年は、
「何時ころお見えになりますか?」
「川越線次第ですが、午後1時~2時の間に伺います」
ややアバウトになってきた。
少なっ.jpg
その公用の延長、入間川を渡った先に河越館がある。行ってみたらダダッ広い広場、草原だった。
過去記事です。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-10-05
西川越駅から河越館へ向かい、入間川を渡ってすぐに常楽寺というお寺がある。
常楽寺.jpg
本編の主役、大道寺政繁はここで自裁させられた。小田原征伐後に戦争責任を取らされたのである。
政繁さんの供養塔があるというが、境内に自裁云々の案内は特に表記されていないようである。一般の墓地の中を探さなくてはならない。供養塔は本堂左手の奥にあった。
碑文を読む.jpg
碑文には戒名の次に、武州川越城々主、上州松井田城々城主、大道寺駿河守平政繁公他、一族や末裔?の名が彫られている。
(平政繁公とあるから平氏なのか。)
公用上の地である武州河越と、私が満喫しまくった上州の松井田、点と点が繋がったぞ。

大道寺家が小田原北条家中で「御由緒家」と呼ばれる家柄、宿老なのは、初代伊勢盛時(後の北条早雲)が駿河、伊豆へ下向した際に一緒に付いて来たから。
駿河下向時に仲間が6人いてその中に大道寺政繁の何代か前(重時?)がいた。7人の誰かが城持ちになったら他のメンバーはその者の家臣になる約定があった・・・が通説になっている。
盛時が今川氏の内紛を収めて小さいながらも城持ちになったので、他のメンバーは盛時の家臣になった。素浪人だったのが代々重臣になるのである。
大道寺政繁が大道寺家の何代目かなるかわからないのだが、政繁は氏康、汁かけ男の氏政、何故かキレ気味に描かれる氏直、3代に仕えた。三代氏康の河越夜戦大勝後は河越一帯を支配していたようである。常楽寺にある供養塔の碑文には河越城主とあるが実際は城代ではないか。
河越を発展させる基礎を造ったのは大道寺政繁だといっていい。坂戸宿もそう。

北条家中の軍団は幾つかに分れ、〇〇衆のように呼ばれている。政繁が率いていた軍団は河越衆。駐屯地が武州のド真ん中なのもあってあちこちに参戦させられる。
河越にいた政繁が上州松井田と縁ができたのは武田が滅んだ後のこと。例の天正壬午の乱のドサクサで政繁は信濃まで侵攻した。
北条と家康の間に講和が成って信濃から引き上げるのだが、真田昌幸が吾妻~岩櫃~名胡桃~沼田辺りを治めるが、政繁は北条氏の領分として安中~松井田を治め、松井田城代になった。中山道の上州入口である。

補陀寺.jpg
中山道の上州入口の街でもある松井田に、旧空く場町に面して補陀寺というお寺がある。
曹洞宗のこのお寺の境内に政繁さんのお墓がある。菩提寺でもある。
何でも小田原征伐後、河越で切腹させられた政繁の首級を、誰かがこの寺へ持ち帰ったとか。

墓所を示すもの1.jpg
駐車場側には大道寺政繁云々は明記されていないが、中山道側の山門には標注が立っていた。
政繁さんの墓は本堂左手の裏、一段高いところにある。
墓所を示すもの2.jpg
墓所を示すもの3.jpg
墓所.jpg
この寺の中山道側にこんな解説板があった。
長い歳月で風雪に耐えかねたのか、下の方がめくれて剥がれかかっている。
松井田城解説1.jpg
松井田城??
松井田城は寺の背後の山の峰に展開している。この寺も松井田城の郭のひとつで補陀寺郭ともよばれた。政繁さんは天正18年(1590年)年の松井田落城までこの地にいた。平時に居住していたのかも。
だが、松井田城ねぇ。
高崎に住んでた頃は行こうと思わなかったなぁ。比高はどれくらいあるんだろう。キツそうだなぁ。
高崎の小料理屋「浜潮」で旅人の惑星さんに、
「松井田城は行ってない」
「松井田城ですか・・・」
彼はボソッとこぼして会話はそこで途切れた。「止めといた方がいいですよ」ってことかなぁ。
その会話をしたのが1月で、今の季節は春。木々の緑が映え、蔓や蔦が伸び、虫が飛びまわり、蜘蛛の巣だらけになる時期である。
熊、猿、猪が出るともいう。
せめて場所と訪城口だけでも把握しようと思い、くるまを走らせた。
松井田城へ至る道.jpg
松井田城へ行く路の説明が難しい。
補陀寺から18号松井田バイパスに乗って東へ走り、途中、左下に下りるか、松井田の街を東へ走って松井田郵便局の先を左折、松井田八幡宮を右手に見て北上してバイパス18号を潜るかです。ただ、有名な巨城なのでナビにも表示されます。私のにも表示された。
ナビ.jpg
その先に案内板の板っきれが植えてある。
松井田城入口.jpg

あまり訪城者を歓迎していないように見える解説板と縄張図である。
松井田城案内図1.jpg
松井田城案内図拡大.jpg
松井田城解説2.jpg
そこからは細いながらも舗装された山道を中腹まで上がっていけます。
松井田城訪城口.jpg
数台停められる駐車場がある。
駐車場から訪城路入口.jpg
松井田城は山の峰に展開された巨城なので、全部を見るのに相当な体力を要しそう。せめて安中郭まで行けるかな~と思ったのだが、靴も履き変えた方がよさそうさし、これからの季節、山々が自然に還っていそうである。虫、蜘蛛、蛇、猿、猪、熊。。。
引き返す勇気.jpg
獣道を見て断念、撤退しました。

この巨城に秀吉の命を受けた北陸連合軍がやって来る。
天正18年(1590年)、松井田城を守っていた政繁は、前田利家、上杉景勝、徳川の寄騎なのに何故か真田昌幸、彼らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが3大名の連合軍に衆寡敵せず。
松井田で籠城戦になる。松井田城は広大だが山の峰々に郭が展開されているので数に押されて分断されたに決まっている。水脈を断たれ兵糧蔵も焼かれ開城降伏した。
政繁は北陸連合軍を関東へ先導させられる。忍城、武蔵松山城、鉢形城、八王子城、北条氏の拠点の攻城に加担させられ、八王子城では搦手を教え、自身も攻めかかっている。
「豆を煎るには豆殻を以て・・・」である。

小田原城開城後、戦争責任を被せられ切腹させられたのが、北条家前当主の氏政、一門の氏照、家中代表として松田憲秀と大道寺政繁。
ていよく利用され捨てられたのである。ホントの豆殻になってしまった。
無念だったと思うが小田原北条ファンから見たら数少ない寝返り者ではある。北条氏はお家騒動や裏切り・寝返りがゼロとは言わないが、他の家中に比べて少ないようでもある。少ないだけに松田憲秀と併せて寝返りがそこだけ目立つ。
後年、加賀藩前田家は参勤交代の時に碓氷峠を越えて中山道を通過する。富岡に支藩の七日市藩があるからそっちに逸れたかも知れないが、補陀寺の政繁の墓は前田家の行列が通過すると悔しさのあまり汗をかいた。
涙ではなく汗???
前田利家あたりと助命の密約でもあったのだろうか。反故にされた怨みか。
供養塔、墓碑には子孫の名前があるので。大道寺氏の系譜は残ったらしい。
途中の道から妙義.jpg
いつか松井田城へ登る日が来るだろうか。
年齢がここまで来たから行くならここ数年のうちですが。
上級者コースだからなぁ。フラッと立ち寄れる規模じゃない。躊躇しているんですよねぇ。
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レプリカの正体 [隠れ郷土史]

上州玄関口、駅コンコースにデカい石の塊が3つ鎮座している。
上野三古碑。いずれもレプリカ。世界記憶遺産候補だそうである。
日本は何かあると世界何とか遺産へ登録するのが好きな国だが、この三古碑とは何なのか?
レプリカ1.jpg
レプリカ2.jpg
この三古碑の学術的詳細はその筋のサイトに譲りますが簡単に述べます。日本で最も古い時代の文字で刻まれた碑たち。
多胡碑
山ノ上碑
金井沢碑
いずれも高崎市吉井町にある。現在は高崎市に合併されている。
高崎市が、県庁を持ってかれた前橋市と、初代県令で関わりの深い製糸場を持つ富岡市との連携に対抗すべく、日本で最も古い文字碑、三古碑を持つ吉井町を欲した?と私は思っている部分もある。
私は吉井町でいろいろ見て食べてしたが、まぁ長閑な町、村です。高崎市はそれ也に中央へ歌える力はあるが、吉井町単独だったら世界記憶遺産へ申請へ辿りついたかどうか。
レプリカ3.jpg
レプリカ4.jpg
レプリカ5.jpg
私は古代史~奈良時代の世界は苦手なのですが。
ビッグコミックに連載されている「天智と天武」・・・ようわからんマンガがまだ連載されてるが、時代的にはその頃のもので、大雑把に言えば奈良時代??
紙が貴重だった当時、木、竹、石に文字を刻んでいた。
軟弱な石だったら歳月とともに崩れたり風化したり、破損したり土に埋もれたり、何かの基礎に用いられたりして消えてしまうが、石や金属類(剣、楯、鉾)に固いものに刻まれていたものが残ってたら、発掘されたら、当時を伝えるものとして学術者の貴重な研究対象になるそうである。
日本全国で書道史上から最重視されたのが日本三大古碑で、那須国造碑、多賀城碑、高崎駅コンコースのレプリカのひとつに鎮座している多胡碑、この三つを誰かが日本三大古碑に括ったらしい。
だが、この日本三大古碑より古くに作られた(碑文が刻まれた)のが、これまた高崎駅コンコースに鎮座している山ノ上碑で、ビッグコミックのマンガの時代、天武10年(681年)のもの。
山ノ上碑は古墳が隣接しているので、埋葬者への墓誌と考えられている。

レプリカ3つめは、多胡碑と山ノ上碑のこれまたすぐ近くにある金井沢碑。これは神亀3年(726年)のもの。
内容は先祖の菩提と父母の安穏を祈願している。
前述の日本三大古碑のひとつ、多賀城が造営されたのは神亀元年(724年)だから、金井沢碑はそれよりも古いのです。上州吉井に3つもあるのでこれらを日本三大古碑とは別に、多胡碑、山ノ上碑、金井沢碑を上野三碑、上毛三碑と括った。
その3つのレプリカが、推薦運動よろしく上州玄関口に鎮座している。

三碑のなかで多胡碑が筆頭なのは、刻まれてる碑文が和銅4年3月9日(711年)、近隣の群から幾つかの村が振り分けられて多胡郡が新設された内容で、上からの命令文そのままであること。
文中に穂積親王、藤原不比等といった当時の高官の名が伺えること。

その昔.jpg
多胡郡は現在の高崎市山名町から市に合併された吉井町一帯です。そこに多胡郡を設けたのは中央政権の都合だと思うがよくわからない。
吉井町の何処かに庁舎のようなものが置かれた筈。
多胡郡の長官は、羊、としかわかっていない。大陸からの渡来人と推定される。羊・・・ヒツジ?ヨウ?羊太夫ともよばれているが、太夫、これは貴人を敬う意味で後世の人が付けたのだと思う。
多胡は地名でもあり、現在でも多胡という姓名は多い。だが多胡の初代長官、羊、は、あまりいい最後ではなかったらしく、中央への讒言で討たれたともいう。よくあるネタではある。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-04-12-2
中世城郭サイト、武蔵の五遁様の記事では、多胡羊太夫の陣城について触れています。
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-2739.html

上毛三碑は律令制度が崩壊してからは(地方地主層や新興支配者の勃興)、700年ほどはどこにあったのかわからない。
この碑の保存や価値を強く訴えたのは初代群馬県令の楫取素彦さん。群馬の大河なのに高崎市ではまったく盛り上がらなかった「花燃ゆ」で大沢たかおさんが演じたあの人。
楫取県令が碑に着眼したのは、尊王の旗を掲げて討幕した長州藩閥だからでしょうよ。自ら何処かにあった多胡碑を訪れ保護の重要さを中央に訴えたと聞き及ぶが。
第二次大戦後、文部省の通達で多胡碑は付近の桑畑に埋められ隠されたらしい。。戦後、近代になってから群馬県出身の総理大臣、政治家たち、各方面の著名人が訪れ、昭和29年(1594年)には三碑とも国の特別史跡に指定されている。

多胡碑は市で作った記念館が併設されている。保存状態が良くて覆堂のガラス越しからでも碑文が読めるというが、私は近くを走ったことはありますが見ていません。
吉井駅.jpg
最寄駅は上信電鉄の吉井駅だが田子碑のある場所へは駅から2kmほど歩きます。くるまで行かないと厳しい。
吉井町を稀に大型観光バスが走っているのは、大抵はその記念館へ行くひと達かと。
私は吉井町、甘楽郡、小幡辺りでよく散策したが多胡碑はとうとう行かなかった。
山ノ上碑入口.jpg
でも山ノ上碑には行った。
わざわざ見に行ったのではない。平成25年になってからすぐに転勤解除命令が出て、その年の春には泣く泣く帰京しなくてはならなくなったので、山名城~根小屋城を急いで訪城した最初の訪城口の途中にあったのです。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-02-15
山ノ上にあるもの1.jpg
山ノ上にあるもの2.jpg
この中に.jpg
この時、覆堂の中を覗いてみましたが、私の気持ちは山名、根小屋を制覇して、無事に下山するのに向いていたので殆ど気に留めんかった。
厳重に保管されていた。
鎮座している.jpg
推薦するもの.jpg
上州玄関口の高崎駅は、県庁所在地の前橋駅の倍の乗降客数がいるので、群馬県下では最も多く人の目に触れている筈である。
いつもの宿.jpg
推薦登録されて、ワールドインターナショナルなスペシャルタペストリーに昇華できるだろうか。
いつかその報道を耳にするだろう。でも今はいつもの定宿を見たら、今宵は何処で杯を傾けるかに気分が向いてしまった。
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谷保の城山(ジョウヤマ) [隠れ郷土史]

西国立駅の勘十郎にご縁ができたついでに。
JR南武線で次の駅、矢川駅。駅南口に出てトコトコ南下。256号線(甲州街道?)に出たら左折。遠くに歩道橋が見える。
その歩道橋は国立第一小学校への通学路でもある。幾人かの小学生とスレ違う。
小学校登下校路の先に森が見えた。
登下校道路の先に.jpg
森がある.jpg
そこに簡単極まりない解説板がある。
「谷保の城山」、「三田城」、「三田氏館跡」とある。
津戸三郎為守が城主だった云々。でも発掘調査などが行われておらず、詳細は不明ですとも。
何かヘン。木々の隙間から個人宅が垣間見える。
説明板1.jpg
これは個人宅の門構えである.jpg
ぐるっと廻ったらこんな門構えがある。これは「ここから見学どうぞ」と誘う入口ではなく、写ってないけど右に大きい家があって、その家と、小学校側の木々から垣間見えたもう1軒、2軒の家の敷地共通玄関口らしいのだ。
「三田氏館跡見学者へのお願い。これより先は個人の敷地になりますので、立ち入らないようお願いいたします」と丁寧な文言で書いてあります。
立ち入りご遠慮下さい.jpg
強い文言じゃないので間違ったフリをして遠目に覗いて見たら、2軒の敷地を分ける土居があった。(余湖先生の鳥瞰図参照)その土居は丸石で固められてもいた。石は後世のものかも知れない。
奥の家の表札までは確認できないが、公道に面した側、「立ち入らないようお願いいたします」の個人宅はまさしく〇〇さんで館名と同じです。中世の館跡だが現代に居住する個人住宅敷地と兼ねているのです。
2軒とも同じ名前だと思います。親戚ではないか。
ってことは、この館跡敷地内を堂々と見学できるのは、家の人、親戚友人知人、新聞配達、郵便配達、宅急便の人に限られるんだな。
南側に廻ったらいきなり崖になっていた。この敷地内は解説板のとおりせり出した段丘の端にあって、家の庭には転落防止の為か土居が自然に伸びていたからね。
そこから降りたら武蔵野の自然を意識した公園になっていた。公園の北側は湿地帯になっていて、そこにせり出して木々に茂った崖が館跡&個人宅です。
結構広い敷地だと思いますよ。
またまたお借りした余湖先生の鳥瞰図を見ると、中世の方形居館のようである。(許可を得て転載)
谷保鳥瞰図.jpg
公園を歩いてたら、子供連れのママ、散歩していたご隠居とスレ違ったが、こちとら例によって平日の白昼だからスーツ姿。何だかアヤしまれる視線を感じたよ。
公園側の散策路入口.jpg
公園の東端に散策路入口があった。ここから小学校へ伸びる散策路が、この城域で唯一、堂々と踏み込んで見学できる域。
読み難い説明板だな。
説明板2.jpg
堀底を行く1.jpg
堀底を行く2.jpg
堀底を行く3.jpg
堀底を行く4.jpg
堀底を行く5.jpg
堀切か後世の崩れか.jpg
散策路は堀の底です。深さ4mほど。公園側から学校側まで100メートルほど続いている。
途中、階段があって、個人宅への勝手口?になっているようです。私は階段を上ってません。そのまま私邸の庭に入り込んでしまうのでしょう。撮影なんてトンでもない。見るのも憚られる。
2軒の私有地はもちろんだが散策路になっている箇所以外も左右立入禁止。それ以外のスペースも環境保全地域に指定されているせいか、あちこちに立入禁止看板だらけ。公園化されてるにしては厳重過ぎるきらいがある。
しばらくしたら小学校側に抜けた。
振り返る.jpg
結局のところ郭内には入れないが、自然を見るという視点では、景観的にまぁまぁの満足感。
都か市から指定を受けているかどうかわからないが、発掘調査がなされていないのはこの地の伝承があっても先に2軒も住まわれちゃったから発掘も検証もできないのでしょう。
だけど住んでる方も気を遣うでしょうな。修理増床するにしても現状を変えないようにしなくてはならないだろうしね。
個人宅が見える.jpg
郷土史では、延喜年間(平安時代です)、三田県主平貞盛の館跡。
新編武蔵風土記稿では津戸三郎為守の館跡。
現在は敷地内に住まわれる館名と同じ個人の館なのです。そういう意味では跡だけど現役の館でもある。
るなさんのBlogによるとミタ・・・三田さんは青梅の土豪で、この地からはかなりの距離がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/64407670.html
http://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/64436056.html
(るなさんの許可を得ています。)
この地から南西2kmの方角には、多摩川を挟んで一昨日Upした高幡城がある。睨みあうカタチになっているのだが、要害性はあまりないとみた。
谷保の城山にいた三田氏は青梅辛垣城で滅んだ三田氏の末裔なのだろうか。その辺りはいよいよ城内にある2軒の家のブザーを鳴らして、家人に聞かないとわからないだろう。
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高幡不動の裏山にあるもの [隠れ郷土史]

高幡不動の裏山は比高数十m程度ですが最初の坂が急です。
そこにあるものは事前に余湖先生(お城の鳥瞰図の第一人者)の記事を見て概略はわかっている。あまり明確で鋭い遺構はないらしいのだ。
鳥瞰図です。余湖さんの許可を得ています。
余湖先生の鳥瞰図.jpg
私もこの程度の坂で息切れするようになったか。
登る1.jpg
登る2.jpg
こんな急坂を上って来た2台の軽トラ。木々を伐採する作業員さんが3人いた。
登る3.jpg
城域は八十八ヶ所巡ハイキングコースになっていて遊歩道だらけ。随所に小さい仏像が祭られています。順番に廻って公園内の自然、草花、木々を愛でるコースになっています。コース造成のために壊変されているんです。
心神深い人は一番から八十八番まで順番に歩いているが、私は順番を無視して山頂の本郭へ直行した。
番号札.jpg

城跡を示すもの1.jpg
城跡を示すもの2.jpg
示すものはこれだけかい。
爺さんが1人下りてきて、
「ここにお城があったんですかねぇ?」
「それを見に来たんですが。何もないですな・・・そこに(立札を指す)あるだけですよ」
あまりに簡潔に過ぎるのだが、ホントにこれぐらいしかないようである。
「これだけでも何もないよりはいいんじゃないスか」
「そうですねぇ」
みたいな会話をしてその場を離れたが、「あったんですがねぇ」と疑問符が出るくらいに鋭さがない地形である。
爺さん.jpg
小口?.jpg
腰郭?.jpg
城域1.jpg
城域2.jpg
その先は鯨の背中のような1本郭が続いていた。
頂上部だけ南北に歩いてみたら直線的に3つの郭が連続して配置され、周囲に帯曲輪が廻らされている。それも殆どハイキングコースと重なっているので、往時からある地形か後世の壊変かわからない。
山全域が自然公園で植物の説明が多く、他は、柵内に入るな、草花を獲るな、草木を自然を大事に。。。そんな立札ばかり。

どこかで聞いたような、見たような。。。
何処かで聞いたような.jpg
急坂.jpg
こんな急な坂を下りる途中、下から婆さんが杖を突きながら上がってきた。
「そっち〇〇番ですか?」
「そうだと思いますが」
番号なんか見ちゃいない私は適当に答えてその場を離れた。

関東で享徳3年(1455年)~文明14年(1483年)まで、30年近くもダラダラ争った乱があった。
争いの発端は鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏だが、要は関東での覇権争いである。大義名分などない。
経過を羅列するのも煩わしいこの大乱は登場人物も同じような姓名が多く、誰が誰で敵味方なのか煩雑でややこしいが、敵味方どちらもヒーロー格がいないので、おそらくこれから未来永劫ドラマ化はされないと思う。
その乱の最中にこの高幡城は存在したらしい。すぐ近くを多摩川が流れているのもあって、乱の最中、立河原(立川)、分倍河原で戦闘があったりしたので、渡河地点を監視する目的で置かれたのではないか。
高幡城はおそらく上杉方のものと思われるが、ダラダラと無駄で長い歳月を争った両氏は分倍河原や立川で度々干戈を交え、享徳4年(1455)に関東管領上杉一族の誰かがこの高幡で自刃している。
それ以降も史料が少ない。北条氏康が川越城を夜襲して関東管領を追い払った後は戦略的価値は薄れたのではないだろうか。
天正18年(1590年)小田原征伐の頃には、八王子城で戦死した高幡十右衛門という謎の人がいたとも。
土方歳三の像.jpg
高幡不動は土方歳三の菩提寺の方が有名なので、麓の参道にある売店で、新選組のTシャツをチョイス。
「背中に印刷してあるのはないかい?」
「表だけなんですぅ」
表だけか。背中がいいんだが。
「1枚くれ」
「サイズは?」
高崎銀座アーケード、「梅ふく」のもーちゃんに買ってってあげよう。
営業中.jpg直江兼続.jpg
私を新選組ファンと思った売店のオバちゃんは、新選組祭り開催云々を話してくれたが、私は混雑するイベントには行かないよ。
売店.jpg
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まぼろしの本庄城 [隠れ郷土史]

市役所そびえ立つ.jpg
埼玉県本庄市役所に出向いた。
その役所は北側に流れる河川の段丘上にあった。地形がアヤしい。
私の中でアヤしい燗・・・じゃなかった、勘が働く。
役所裏の切崖1.jpg
役所裏の切崖2.jpg
本庄は中山道の宿場町でも大きい方。
地形から見て何かあるなと睨んだらホントにそうで、市役所一帯には本庄城の跡地だった。第一次と第二次とあって城主は4人いたそうです。
簡単な解説.jpg
初代本庄城主が本庄宮内少輔実忠という人。
別に知らなくても一般常識的に全く問題、支障が無いけど、この人は明応6年(1497年)生まれで天正8年(1580年)まで生きたから、当時としては随分と長命だった人。
それまで本庄氏がずっと長い歳月を過ごしてきた東本庄館(新幹線本庄早稲田駅のすぐ東にある総合公園の辺り)からこの地に移転してきた。
あまり防御性の無い館からこの地に城塞を構えて引っ越してきたのは、本庄一帯が武州北西部の国境の為、対古河公方、対後北条、対越後長尾、どれに帰属しても最前線だったからである。
ここに最初に造ったのが弘治2年(1556年)というから、実忠は齢60歳を過ぎてから移転してきた訳である。隠居してもおかしくない年齢なのに隠居できない訳でもあったのだろうか。
本庄実忠は板挟みに合う。主君を二転三転とする。関東管領上杉憲政が上州平井に逃げてからは小田原北条氏、越後長尾景虎、織田軍の関東司令官滝川一益らの間であっちへ付いたりこっちへ付いたり。
まるで信州の嘘つき男、二枚舌だけど演技力絶賛されている某小大名のようだが仕方がないのだ。生きる為に。
それでも85歳の天寿を全うした。
次の第一次本庄城、2人めの城主が息子の本庄隼人正近朝という人。家督を継いだのが天正8年(1580年)で、あまり目立った事績は無いようで、太閤秀吉の小田原征伐の時に小田原城に籠城。本庄城は誰が守っていたのかわからない。
気の毒にも近朝は天正18年(1590年)の小田原開城時に自裁している。本庄城は開城前の5月27日に落城したか降伏開城した。
その後、徳川家康の関東江戸入府で小笠原掃部信嶺という私も全く知らない人が本庄城に来た。これが第二次本庄城。
僅か1万石である。
信嶺の次が信之という人。この時に本庄藩となったが、慶長17年(1612年)に古河藩に移封され本庄藩は廃藩、本庄城も廃された。
城山稲荷の標注1.jpg
現在、本庄城を示すものは市役所の東隣にある城山稲荷神社周辺(久城堀西側)と、その東にあるに八坂神社辺りに僅かに面影がある。
八坂神社の東側にある堀のような地形。
往時のものか、後世の壊変かはわからない。
堀切か後世の壊変か1.jpg
堀切か後世の壊変か2.jpg
でもそれらが本庄氏の第一次のものなのか、小笠原氏の第二次のものなのかはわからない。廃城が早過ぎたのだろう。
城山稲荷の標注2.jpg
これは市役所の東隣にある城山稲荷に接する民有地、個人の敷地内だが、遠目にこんなものが望見される。
何かあるぞ.jpg
拡大してみる。
拡大してみる.jpg
次に市役所の裏手。
そこは自転車置き場と市の駐車場、くるまは軽のワンボックスパトロール車、他、資材置き場になっていて、そこから覗くとこんなのがある。
役所の裏にも1.jpg
こんなのも。土塁に木が根付いている。
役所の裏にも2.jpg
フェンス越しに望見されるだけでそこへは立ち入れない。何だか世田谷城や、国立にある谷保城(記事待機中)のような入っちゃいけません隠れ遺構を思い出したよ。
役所の裏手は関係者職員以外立ち入り禁止でもないようだが、市のパトロールカーに混じって警察の軽自動車も出入りしてた。
資料館.jpg
説明板があまり詳しくないので、近くにある資料館に寄ってみることにした。
市内をトコトコ歩いてたら携帯が鳴った。http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-04-04のボヤキ記事、くだんの女性社員からだったんですよ。
歩きながら携帯で退職意志の確認と、「私宛に送ってくれ」って言ったの。
話し終えたら気分がドヨ~ン。ええっと、本庄市資料館に着いたぞ。敷地内に職員さんとおぼしき方が2人いてのんびりと煙草を吸っていた。
入館料無料とあるのでズカズカ入ろうとしたら呼び止められ、本庄市全体の案内を聞かされそうな雰囲気になった。
有料でも無料でもどこの資料館でも、来館者数が少ないところほど来場者に対して有難迷惑なくらいに懇切丁寧で親切なのである。安中市武家屋敷、甘楽郡小幡、名胡桃城でもそうだった。
要はヒマなのである。こっちはヒマじゃないので先にテーマをぶつけた。
「本庄城だけ知りたい」
「本庄城だけ?」
「そう。それだけ」
だけ??
肩すかしを喰らった感の職員さんは、「では2階へ。そこに本庄城の史料が1つだけあります」という。
かなり細くて急な階段を上がったら、2階に本庄城の推定地図があった。あくまで推定である。
「これ、撮っていいスか?」
「どうぞ」
「これから行ってみるんで」って言い切っちゃった。実は既に見てからここへ来たのだが、「今から役所へ行くのでその時に」とゴマカしてしまった。
取りつくシマも無い私に職員さんは、「本庄城は・・・残存度は低いですね」と言われた。
推定図.jpg
本庄氏の在城期間は2代で34年。小笠原氏の城下町としての歴史は22年足らずだが、残された城下町は中山道最大の宿場町となる本庄宿として歩んで行く。
本庄実忠が60歳の老体に鞭を打って引っ越して来なければ本庄宿の繁栄は無かったかもしれないのだ。
桜の本庄城1.jpg
昨日、またまた本庄市に行ったら桜満開だった。
桜の本庄城2.jpg
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井伊の虎 [隠れ郷土史]

ゆかりの寺.jpg
井伊家の菩提寺である龍潭寺に寄った。直虎公のお墓を見に行ったのだ。
「お腹空いた」(ジャン妻)
「今夜は貴田乃瀬なんだから我慢しろよ」
「・・・」
またしてもジャン妻は私のお供を拒否。車の中にいた。ツマンないヤツだなぁ。
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この寺で井伊直虎公は出家し、ここから還俗し、井伊家を継いだ養子の直政を見届けてから出家して余生を送る。
井伊家を継がせるべく送り出した住職さんも井伊本家に連なる一族のようです。兄弟の誰かを仏門に入れるのはよくあるケースだから。
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寺は庭園は拝観料が要りますが、井伊家歴代のお墓は不要です。山門から入り、仁王門を潜って正面から左へ廻った辺りにあります。
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真田丸で何を言い出すかわからない嘘つき男、真田(草刈)昌幸が信濃の国人衆国人衆と連呼しているが、ここ引佐井伊谷の井伊家も遠州の国人衆だった。
だが、一族で男がいなくなった。
仕方が無く?麓の寺(龍潭寺)で出家して尼になっていた次郎法師という女性が還俗し、女性でありながら井伊谷の国人領主になる。
女性説のある上杉謙信や、女性だったら?の創作織田信長とは違う。立花闇千代や寿桂尼でもない。女性が男の名前、直虎を名乗ったということです。
その女性、井伊直虎は生涯未婚だった。
許嫁はいた。井伊直親という人で、直虎の実父、直盛の従兄弟にあたる人。男児がいなかったので、直盛を娘婿として迎え入れようとしたのだろう。
直虎は還俗後に井伊家当主を継いでからの名前で、出家中は次郎法師という尼さんぽくない名前。井伊家伝記による。

還俗するからには出家していた訳で、出家したのには理由、動機がある。
来年のドラマでも登場するだろうけど、井伊家の家老で(今川家からの目付も兼ねていたのだろうか?)小野道高、小野道好という悪役父子が登場する。絶対に登場する筈である。
この父子は井伊家の家老なのに、父子二代に渡って井伊家を今川本家に讒言した。家老でありながら井伊家と同等な力を持っていた。
天文13年(1544年)、許嫁だった直親の父直満、叔父の直義が粛清される。直親は遠州を脱出、信濃へ逃げた。誰か家臣に連れられて落ち伸びたらしい。
出家動機の1、許嫁が脱出したことで婚約解消。失意のあまり出家した?
動機がイマイチ弱い気がする。
でも現代人の感覚とは比較できないかも知れない。

10年後の弘治元年(1555年)に直親は今川氏にヒョッコリ復帰する。「生きていたのですね」と喜ぶところだが、かつての許嫁直親は奥山という家から室を迎えていた。
もしくは今川家復縁後に娶ったか。この室も必ず登場するだろう。動機の2としては、それで失意と当てつけ?の余り出家したのだろうか?
自身が既に出家していたのだから何もできなかったのかも知れない。どちらが動機にしても、生きて戻って来たかつての許嫁は妻帯者になってしまっていた。今時の芸能界だったら週刊誌がこぞって書きたてるだろう。
この直親の子が後年の徳川四天王赤備え井伊直政なのだ。

井伊家の悲劇が続く。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦で、実父の井伊直盛が戦死した。
跡を継いだ井伊直親は永禄5年(1562年)に、今度は悪役の息子の方、小野道好に讒言され、今川氏真に粛清される。朝比奈一族の誰かが駿府に出仕途中の直親を襲撃したという。
今川家中は大黒柱の義元を失って疑心暗鬼に陥っていたのだろうが、三国同盟を破棄した甲斐武田の脅威が見えてきたころである。そんな内ゲバをしている場合ではないのだが。

井伊家の悲運はまだ続く。
永禄6年(1563年)に今度は曽祖父の井伊直平が、今川氏真の命で何処かの城攻め最中に急死する。
これも謀殺の匂いがプンプンする。ここで飯尾連竜というもう1人の悪役が登場するかもです。
その後も井伊家は今川氏真にいいようにされ、井伊家擁護側の新野親矩や重臣たちの討死が続き、井伊家を継ぐに適する男がいなくなった。
直親の遺児、虎松(井伊直政)は元服前。こうして永禄8年(1565年)に直虎が井伊当主として登場する。
その後も悪役小野道好の専横はまだ続くし、今川氏が衰退して徳川氏についても、上洛途中の甲斐武田軍の脅威が迫り、なかなか落ち着かないようです。
境内の森.jpg
さて、来年はこの題材でどのようなドラマになるのだろうか。
舞台は遠州井伊谷が中心で、広範囲の設定ではないし、井伊家全体が悲劇悲劇悲劇の連続だからね。かなり膨らませて引っ張ることになるのではないか。
これまで脚光を浴びていない題材だけに、幾らでも創作できそうだがね。
なるほど中小企業を継いだ女性社長か、地方の政治家が急死して、後援者に担がれた女性政治家さんの趣はあるが、直虎公の治世でちょっと首を傾げるのがある。
別にケチをつけるつもりはないですが、図書館の史料で見た中に、井伊谷徳政令というのがあった。
当時の事情を知らない私から見たら徳政令は簡単に言うと債権債務の破棄、すなわち借金棒引きです。だから井伊谷領内の貧しいひとたちが救われたのかと思った。
だが、事実はそうではないようである。
永禄9年(1566年)に井伊谷に徳政令を発布したのは今川氏真なのである。これはどういうことなのか。
引佐図書館職員さんにコピーして貰った史料を読み返してみた。

図書館受付.jpg
引佐図書館は高崎市図書館のようにコピー機がセルフで置いていないの。
こういう場所は大抵何かの申請用紙があって、それにコピーする書籍名と頁数、枚数を記入するものと決まっている。
井伊家の書籍を鷲掴みにしながら受付に歩み寄り、
「コピーするには何かの用紙に書くのかな?」
気の弱そうだが実直そうな男性職員さんが、「こちらにご記入を・・・???」
「それっぽい(書式の)用紙がないぞ?」
「そうですね。少々お待ちください」
オドオドしながら先輩の女性事務員さんに聞いてやがる。
「この用紙にご記入お願いします・・・」
氏名年齢住所職業電話番号まで書かなきゃならんのか。記入して、「じゃぁこの頁からこの頁まで1枚ずつお願いします」
奥の職員室で複写してるみたいだった。
できあがったコピーを持って来て、「コピーした頁と枚数、間違いないか確認お願いします」
職員さんは何だかすっごく緊張してましたね。
「間違いない」、「80円です」、「うん」、釣り銭ないように渡した。
その場を立ち去ろうとしたら、
「あ、あの・・・」
まだ何かあんのか?
「こ、こちらの領収書にサインをお願いします」
「領収書ぉ??」
昔ながらの手書き、複写の領収書である。サラサラっと記入した。
館内の何処かにいるであろうジャン妻を探してたらまた職員さんが来て、その80円の領収書を私に渡そうとするのである。
「あ、あの、先ほどの領収書です」
「要らねぇよそんなの。捨てちゃってくれ」
「あ、ハイ。ありがとうございました」
何をオドオドしてやがるんだ。
さて、史料コピーにあった意外な記述とは、今川氏真が発令した徳政令が井伊谷では2年間発動されなかったというもの。
もちろん発動しないで徳政令を塩漬けにしたか、今川本家に対して撥ねつけたのは領主、井伊直虎である。
その井伊谷で2年間発動されなかった徳政令がようやく発動された文書が史料に載っている。それを要約したものに依ると、徳政令賛成派と反対派とあって、賛成派は今川氏真、前述の悪役小野但馬守(道好)、そして井伊谷の農民たち。
反対派が直虎と井伊家中、そして井伊谷の債権者(史料には銭主方とある)です。
この2派の対立があった。つまり井伊直虎は債権者側だったのである。徳政令を発動すると井伊家へ納める税も未納になってしまうからである。
今川氏はこの対立に付け入った。もしくは煽動した。徳政令に賛同する農民たちを取り込んで、言う事を聞かない井伊家の井伊谷に直接支配介入しようとしたのだ。
井伊直虎は債権者側(搾取する側、いや、貧しい農民に貸し出した側)に付いて、今川本家は農民側に付いた?(煽った?)このような単純な構図でいいのだろうか?
この辺り、尚、調べてみる必要があるかも知れない。
私は今川氏真って蹴鞠しか能が無い人と思ってたのだが、現代でもよくあるようなやり方で上級権力として介入したのが意外な気がした。
この件で井伊直虎は地頭職を解かれたらしいが、直虎の内政手腕をどう描くのだろうか。

今川氏真の井伊谷介入は三河の徳川家康が攻め入ったことで終息はする。
井伊家に難癖つけてばかりいる今川氏真に見切りをつけたか、井伊家につけられた寄騎3人が家康を井伊谷に導き入れた。小野は誅殺される。
井伊家を支えた者ども.jpg
井伊谷三人衆.jpg
そしたら今度は甲斐武田軍の先鋒、山県昌景軍が井伊谷にやって来る。
三方ヶ原の後、野田城で武田軍の侵攻が停滞し、信玄が陣没することでようやく救われることになる。
直虎は直政を家康に出仕させるまで養母として育てる。かつての許嫁の忘れ形見だが、自分の実の子ではない。直政にとっては養母でもあり、はとこでもあるという訳です。
直虎が安堵してかつての寺(菩提寺)に帰るのは、育てた許嫁の忘れ形見、直政を家康に出仕させる天正3年(1575年)まで待たなくてはならない。
歴代墓所の説明1.jpg
直虎が疲れた目を閉じたのは天正10年(1582年)8月26日。
直虎公のお墓は許嫁、直親の隣にあった。あったのだが、直親さんは夫人と許嫁直虎に挟まれているじゃないか。
許嫁の隣に.jpg
原作といっていいのか、これも読んだです。
カバーに描かれた女の子の目がコワい。ホラー小説かと思ったモン。
不思議な力を持つけど掴み所のないキャラクターだった。
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柴崎コウさんってもちろん美人なんだけど、濃いお顔ですねぇ。
時代劇に向いてるかと思ったが、信長協奏曲に出演されてるんですな。
コウさん.jpg
いろいろ書いたが、実は今年の大河以上に来年は楽しみではある。
お願いだから長澤まさみさんのように時代劇中で現代語を駆使するのは止めて貰いたい。
あれはヒド過ぎないか。信繁にタメ口、ゴッドマザーに口ごたえ、食い物を投げつけたり。
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井伊谷城 [隠れ郷土史]

全線開通した新東名自動車道で西へ。
旅のメインは夜の浜松、貴田乃瀬でした。昨夜BS11「ふらり旅いい酒いい肴」浜松遍で放映されましたね。
貴田乃瀬だけだと往復の経費が何なので、富士宮の富士浅間大社で本年度初詣(今頃!!)を済ませ、浜松市北区にあるものに立ち寄った話を。いつものようにマニアックなネタなのです。
西へ走る私のくるまのナビは古くて新東名が表示されない。くるまを示すヤジルシは駿州、遠州の山あいにあって、道なき山の空を東から西へ飛んでるように見える。
そのまま真っ直ぐ行ったら名古屋方面へ行ってしまう。助手席のジャン妻に、
「いなさJCTってのが見えたらそっちへ行くから。進行方向左、南に逸れる」
「いなさ?ひらがなね」
引佐という町で浜松市北区です。もとは引佐郡か引佐町で2005年に浜松市に編入された。
いなさJCTから南へ逸れ、浜松いなさICで一般道(R257)へ出て浜松市方面へ南下します。
「引佐は知ってないと読めないな~」
「だから平仮名なんでしょうね」
その先、カーヴがうねった先、引佐町の井伊谷交差点を目指した。
「そこに図書館があるからそこで待っててくれないかな」
「何があるの?」
「・・・」
「まさか山城?」
ジャン妻は例え公園化されていても山城歩きを好まない。100%拒否。
「アタシは行かない」
それはわかっている。
「1人で行って来るから」
「だったら靴を履き替えてっ!!」
「大丈夫だよ。公園化されて舗装されてるから」
「・・・」
事前に調べたのだ。靴は汚れないさ。井伊谷上交差点を右折~引佐図書館の駐車場に停めた。
赤い幟.jpg
来年の大河の幟が数本、ヨレヨレしながら立っている。いずれも赤い幟。
坂道の向こうに見える山が井伊谷城。
井伊谷城遠望.jpg
「(図書館の)中で本でも読んでなよ。携帯を持っててくれ」
「うん。気を付けて」
登城地図1.jpg
登城地図2.jpg
登城口.jpg
頂上まで320m.jpg
急坂1.jpg
急坂2.jpg
急坂3.jpg
なるほど階段含めてしっかり舗装されてはいる。
急な坂ではある。用宗城ほどキツくない。
でも少しばかりアシに来た。息遣いも荒くなってくる。もう若くはないのだ。
急坂4.jpg
急坂5.jpg
上りながら見て思ったのだが、たいした縄張りではないようである。
城山稲荷がある一画以外は山の自然地形で、帯郭や腰郭に見えるのも山に登る為の道で後世に切り開いたような感なのだ。
10分ほどで頂上へ着いた。
本郭1.jpg
平場があった。縄張りとしては殆どそこだけといっていい。横堀、縦堀、堀切もないのである。
西側に一段下がって平場があるが、そこには工事中立ち入り禁止のWCがあった。
本郭2.jpg
頂上の説明板の辺りは一段高い平場があった。本郭には簡単すぎる解説板のみだった。
それには井伊道政という人が後醍醐天皇の皇子、宗良親王をお迎えして、この井伊城を本拠として50年に渡って各地を転戦されたことが表示されている。
南北朝の頃ですよ。だから縄張りが簡素なのかな。山頂にある館だろうか?
赤い幟の題材については一切触れていない。これからいろいろアピールするのかも知れないが、それ目的で訪れた私にとっては随分な違和感がある。
本郭4.jpg
本郭5.jpg
解説板.jpg
本郭6.jpg
木々がジャマしているが、南方への視界がやや開けている。
眺望3.jpg
あっさり散策終了したが何となく消化不良でもある。
図書館にあった井伊谷城の縄張りもこのようなものだった。
縄張り.jpg
やはり頂上の平場だけのようです。山城とはいえ単純に過ぎる。要害性ゼロとまで言わないが、とても敵を迎え撃つものではないなと。
井伊家も日常は麓にあったと推定される館で居住、政務を執っていたと思われますが、非常時の詰城としては縄張りが簡単過ぎないかぁ。
(もっともここから2kmほど北にある三岳城が井伊家の詰城だった説もあるが、今回は未訪です。)
小口1.jpg
下る.jpg
麓に下りた。
図書館でジャン妻が待っている。これから史料漁り。
引佐図書館.jpg
私が図書館で資料を漁ると、いつものことながら最初は職員さんに怪訝そうに警戒される。ズカズカ踏み込んだ私はヒマそうにしていた受付さんに、
「井伊直虎公の史料は何処です?」
そしたら丁寧に入口まで案内された。
史料漁り.jpg
パラパラめくって井伊直虎公の箇所だけチェックした。
製作発表.jpg
来年の大河の主役、井伊直虎公は女城主だが、女武者ではないようです。
巴御前、板額御前、瀬戸水軍村上武吉の娘、安濃津城富田高安夫人、豊後鶴崎城吉岡妙林尼、武州忍城成田甲斐姫、会津藩娘子軍&山本八重のように実戦はしていない。
生涯独身だから美濃岩村城女城主(信長の叔母)とも違う気がする。
あくまで井伊谷の女性領主です。井伊谷を守り後年の井伊直政に繋げた。
ではどのような治世だったのか。漁った史料を見てたら、ちょっと意外な箇所があったのです。(続く)
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