So-net無料ブログ作成
検索選択

北条早雲出世城 [隠れ郷土史]

興国寺城1.jpg
興国寺城3.jpg
興国寺城4.jpg
興国寺城5.jpg
興国寺城6.jpg
興国寺城7.jpg
伊勢新九郎、後の北条早雲の出世城は、沼津市の東海道線原駅北にある巨大な大蛇の土塁・興国時城とされている。(写真)は2011年11月のもの)
現地、沼津教育委員会の説明には・・・
『興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です
早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ・・・』
興国寺城2.jpg
では今川家に身を寄せていました・・・その頃は何処にいたのだろうか。興国寺城の前、ファーストジェネレーション的な小城が焼津駅の北東にある。
石脇城といって高い値段のマグロを喰わせる日本坂PAの東です。東名高速と国道150線が並走する間の丘。
石脇城1.jpg
石脇城の周囲は、石脇城よりもっともっと高い山や丘があるのだが、石脇城そのものは比高30mほどしかない。
正面に見える名前もわからない高い山を見て、
「まさかあんな高い山じゃないでしょうねぇ」
「比高30mぐらいだって」
「アナタ出がけには60mって言ってなかった?低くなってるけど」
そ、そうだったかな。私も寄る年波で山城訪頂がキツくなってきている。60mと30m、その差30mも坂によってはキツさが倍になる。標高と比高でも負担が違ってくる。
私も探し当てるのに勘が働くようになっているが、このくたびれた標柱が無ければわからなかったと思う。
訪城口2.jpg
付近に駐車場はないが、この道はやや路肩が広いのでそこに停めた。
我が愛車.jpg
「アタシはいいわよ」
「・・・」
「くるまにいる。登ってきなさい」
2011年の秋に興国寺城に登ったんですがね。(最初の7枚の写真)
ここ最近は全くそういうのに付き合ってくれないです。
助手席にジャン妻を残して、「誰かに誰何されたら、石脇城に登ってる教育関係者だと言いなさい」
「教育関係者ぁ・・・?」
訪城口1.jpg
麓の道はこれが登山道なのか、個人の敷地なのか判然としないが、上り口に解説板があった。
麓の解説版1.jpg
沼津の興国寺城解説板には、伊勢新九郎が興国寺城にいたのは長享元年以降(1487年~)とあった。
ここでは、今川義忠が伊勢新九郎をここ石脇に住まわせたのは文明年間(1469年~)とあるから、やはり興国寺城の前にいた場所のようです。
麓の解説版2.jpg
崩落の恐れあり.jpg
登る1.jpg
くるまを停めた麓から訪城道を登ること僅か5分で第二郭に達します。
石脇城山頂の最も高いところに大日堂、一段低いところに城山八幡宮がある。小さい神社の規模といっていい。
城山八幡宮.jpg
八幡宮から第二郭に至る道も左右が石垣で補強されているが、参道の幅が極端に狭く、夏場は蜘蛛の巣だらけになるは必至である。
城山神社の参道.jpg
山全体は地盤が緩いのか、後世の石垣で固められている。
小さい城域で格別の見どころは無い。全体的に削平地がある程度。
周囲を崖に囲まれているが比高が低く、郭も小規模で数百人も入れそうにない。伊豆の韮山城他、北条氏の巨城たちとは比べくもない。
第二郭-1.jpg
第二郭-2.jpg
第三郭?.jpg
更に登る.jpg
第一郭、大日堂へ登る。
そこには麓より見やすい解説板があった。記載されてる内容は麓にあったものと同じ。
大日堂.jpg
大日堂の説明版1.jpg
大日堂の説明版2.jpg
大日堂の位置関係.jpg
大日堂の裏手に土塁らしきものが。これもアヤしい。大日堂を作った時に土を寄せたのかも。
裏はゴミ捨て場みたいになってましたね。
土塁1.jpg
土塁2.jpg
土塁3.jpg
土塁4.jpg
来年の大河でおそらく仇役にされる駿河今川家の6代当主に義忠という人がいる。
この人は後年、織田信長に桶狭間で討たれる義元の祖父にあたる。
今川家は駿河と遠江の守護職だったが、応永年間に斯波氏にとって代わられていた。義忠は応仁元年(1467年)の京都を巻き込んだ大乱時に上京し、その時に遠江守護職だった斯波義廉に対抗して東軍に参加する。
義忠は在京中に室町幕府政所執事だった伊勢氏と縁があり、後年に北条早雲になる伊勢新九郎長氏、または伊勢新九郎盛時の姉か妹かを娶ったらしい。北川殿がこれ。

義忠は乱で荒れ果てた京から帰国後、遠江守護斯波義廉への対抗心から度々遠江へ進出し、斯波氏や国人衆と矛を構えたが、その過程の文明8年(1476年)、遠江の在地土豪の罠に嵌って不慮の死を遂げた。
北川殿との間に生まれた僅か6歳の龍王丸、後の氏親という人が残され、他にも一族の小鹿範満が継承権を主張し、譜代家臣の多くは範満の家督継承を支持。龍王丸派と範満派が相争う内乱状態となる。
関東管領の力が大きくなるのを警戒した幕府が龍王丸の叔父にあたる伊勢新九郎を派遣する。(政所執事、伊勢氏が幕府の意向を受けて遣わした?)

この内乱のドサクサに、足利氏や関東管領上杉氏が介入しようとして太田道灌が登場してえいえる。新九郎は龍王丸派、反龍王丸派、双方と折衝する。「双方で争ってると太田道灌の軍勢に攻められるぞ」、「関東管領に駿河を盗られてもいいのか」とでも脅し田に違いない。私ならそうする。
和解の条件は、「龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行すること」
成人とは何歳か。15歳としておく。
太田道灌とも会った。今川家中は落ち着きましたのでお引き取りあれというところだろう。
太田道灌は本音では長尾景春という叛鬼が跋扈する関東へ早く帰りたかったので駿河から撤退した。
石脇城の解説板には「駿河記によると文明年間(1469~1486)に住まわせた」とある。この時の恩賞で石脇城を貰ったのだろうか。
でも伊勢新九郎は一旦は京に引き上げているようです。幕府の命を受けて来たのだから報告がてら戻ったに違いない。

だが15歳になったら家督を返す・・・?
そんな約束が守られよう筈がない。
龍王丸は後年、今川氏親になって、桶狭間で信長に討たれた義元の父に当る人だが、この人の生年は文明3年(1471年)辺りで、プラス15年だと文明18年(1486年)。。。文明から長享に改元されたのが1487年で、15歳を過ぎた辺りのその年に、北川殿は京に戻っていた伊勢新九郎に再度助けを請う。
新九郎は再び駿河に下り、自らの譜代衆の他、石脇城で反小鹿派の兵を集める。
大田道灌は前年に殺されており今度は上杉氏は介入できないと踏んだ。同年11月に駿河の館を急襲。小鹿範満を自害させた。
伊勢新九郎は富士郡下方荘十二郷を与えられ興国寺城にお引越し。
石脇城はその後に廃されたらしい。早い時期に廃されたので遺構は崩れてしまったのかも知れない。
ここに三鱗の幟がはためいた訳ではなと思います。
南を望む.jpg
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。