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石巻康敬のこと [隠れ郷土史]

佳境に入りつつあるコメディ大河、「真田丸」で、真田と北条が奪い合う沼田問題を太閤秀吉が裁定した後、北条氏が奪取した名胡桃城事件にまつわる話。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-03
名胡桃城2.jpg
2014年12月に名胡桃城を訪れた時、城域をざっと見て踵を返したら、地元在住の初老の男性3人に出逢った。
年少者の私から声掛けしたら、
「何処から来られたんですか?」
「横浜からです」
「じゃぁ北条ですね」
敵だと言いやがったな。でも沼田は真田と北条の国境なので、地元の人がどっちをヒイキするとではないらしい。むしろ陰に隠れてしまっている地元の沼田氏を憐れんでいたように思った。
私はその地元の人に、「名胡桃城奪取事件は北条兄弟の誰かが部下の猪俣邦憲の監督不行き届きで起こったんでしょ」のように口ごたえしている。新史料が出ない限りは、猪俣を何者かが唆した、猪俣が唆された、そういう説があってもいいと思う。
六文銭の楯?.jpg
名胡桃城を奪っておいて上方へ弁明に行かされた人が石巻康敬(ヤスタカ)という人で、北条家の家臣で評定衆の1人。
石巻家は康敬の父で家貞という人が大永七年(1527年)の書状から永禄11年(1568年)の書状まで名前があるそうで、初代早雲公から四代氏政公までお仕えした譜代の大重臣の家柄。ザッと計算して42年間も現役だった訳である。
石巻家貞はこの史料に名前が散見されます。
史料.jpg
その子、康保が継いだけど死去したらしく、弟の康敬が継承する。通称は五太夫、または彦六郎、左馬允、次いで父や兄と同じく下野守。
この人も北条氏が接する国境の守備であちこちコキ使われたらしい。石巻家が北条家にお仕えして最後のご奉公が、名胡桃城奪取事件の弁明、言い訳、申し開きに上洛したというもの。
上洛したのは板部岡江雪斎じゃないのかって?
沼田問題の裁定で上洛したのが板部岡江雪斎で、その後の名胡桃城奪取事件の弁明の為に上洛したのが石巻康敬です。(江雪斎は石巻家とも繋がりがあるのですがここでは略します。)
石巻康敬の上洛交渉は成功しなかった。豊臣方の官僚の誰かに会えたのかどうか。会ったところでどのように理論武装したのだろう。
秀吉にしてみれば名胡桃城事件は北条氏を攻める恰好の口実。だから後年、秀吉が唆したような内容のストーリーがまことしやかに出回ったりもする訳でさ。
石巻康敬は虚しく引き上げる途中、沼津三枚橋でその頃は東海の覇者だった徳川家康の手の者に捕らえられ幽閉されたそうです。小田原に戻れなかった。
この石巻康敬関連のものが、私の日常生活圏ギリギリの地にあったのを最近、知った。お墓、知行地、陣屋(推定)です。遅ればせばがら取得した夏休みで現地調査にTRY。
横浜市営地下鉄中田駅で下りてエレベーターで3番出口へ出ます。そこから長後街道に沿って西へ。
中田駅界隈.jpg
昨日、載せた「源泉」、頑張ってる店ですが再訪は無いですね。
源泉1.jpg
その先、プロミスのある交差点を右折して北へ。
あ、まだ営ってたんだこの店。もう5~6年、行ってないですね。
たちばな.jpg
その先の交差点を左折して右折・・・曲がってばっかりいますが、石巻康敬の墓はGoogleMAPには表示されています。マンションの隣にあった。すぐ見つかります。
指定文化財.jpg
名胡桃城事件で弁明の為に上方へ派遣された件は書いてないぞ。
解説板1.jpg
下野守.jpg
拘留された石巻康敬は、小田原北条氏が滅んだ後で関東に移封された徳川家康に預けられ、鎌倉郡中田村(現在の中田)で蟄居していた。
ほどなくして家康の謀臣で地元の玉縄城主でもあった本田正信が中田村にやってきて石巻康敬は家康に推挙される。それは石巻家は三河の出身(現在の新城市)で家康と同郷だったからではないだろうか。
知行は中田村に111石。旗本。特に役職は聞かないが、地元の管理を委ねられたのではないか。
では石巻康敬の陣屋は何処にあったのだろうか。
Wikipediaで「横浜市泉区」を見ていただきたいのですが。下の方に。。。
玄蕃新墾(げんばあらく、伝・石巻氏陣屋跡。鯉ヶ久保ふれあい樹林周辺は濠跡という)
石巻康敬墓(市登録文化財)
とある。
玄蕃新墾(げんばあらく)は石巻康敬の墓からほど近い白百合公園の高台。それがこれ。
げんばあらく.jpg
陣屋跡と書いてあります。
解説碑文1.jpg
では鯉ヶ久保ふれあい樹林周辺は濠跡とは如何に??
鯉ヶ久保1.jpg
鯉ヶ久保樹林はこんな風景です。この辺りは南北が高台に挟まれた低地に二条の川が流れている。鯉ヶ久保、鯉のいた窪地、昔は湿地帯か池だったのかも知れないが。
鯉ヶ久保2.jpg
鯉ヶ久保3.jpg
位置関係はこうです。
石巻氏関係.jpg
玄蕃新墾から数百m離れている。111石の旗本にしては規模がデカくなってしまう。
ゲームに登場する石巻さんです。
目つきが悪すぎ!!
戦国大戦.jpg
石巻康敬は慶長18年(1613年)10月1日に没した。。
名胡桃城奪取事件をどう弁明したのか。
目通りは叶ったのか。
弁明相手の豊臣官僚は誰だったのか。
何処に幽閉され、赦免後の陣屋は何処にあったのか。
謎のまま、未完の記事と締めくくらさせていただきます。
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