So-net無料ブログ作成

豆を煎るには豆殻を以て・・・ [隠れ郷土史]

2000年の大河「葵徳川三代」第1話の関ヶ原総括は、NHKにしては戦闘シーンが大迫力で、その後も度々使い回しされている。
後半で小早川中納言が裏切り、大谷刑部旗下の寄騎の脇坂、朽木、小川、赤座らも寝返った。東軍の大勝。では次に西へ進む軍議の最中、津川雅彦さんの家康が、伏見城攻めを詫びる小早川に言うには、
「本日の戦功その罪を補うて余りあり。遺恨は今後いっさいこれなく。ただし明朝、関ヶ原を出立し、江州佐和山に至り、(石田)三成が居城を攻め落とすべし」
小早川は石田三成の佐和山城攻めを命ぜられた。寝返った立場上、承るしかないのだが、脇坂、朽木、小川、赤座たちもお追従する。
「おそれながら」
「我らにもご下命を」
「佐和山城を落とし、ご奉公を仕りたく」
磯辺勉さんが演じる池田輝政が嘲笑った。
「なるほど。豆を煎るには豆殻を持ってすべしか
居並ぶ東軍諸将もドッと笑った。

「豆を煎るには豆殻を以て・・・」
これは三国志の逸話。魏の曹操が逝去し曹丕が後を継いだ時、曹操が生前中に可愛がっていた異母弟の曹植を誅せんと試した逸話、「七歩の詩」のこと。
曹丕に、「七歩進むうちに詩を作れ」と言われた曹植の詩文には、
煮豆持作羹
漉支以爲汁
稘在釜下燃
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急

豆を煮て以て羹・・・アツモノ、器のことです。
支を漉して以て汁と爲す・・・漉しては濾す、濾過する、濾過して爲す、すなわち、豆汁をつくること。
稘(まめがら)は釜の下に在りて燃え・・・ポイントはここからです。
豆は釜の中に在りて泣く
本と是れ根を同じくして生じたるに
相煎ること何ぞ太(はなはだ)急なる
七歩の詩.jpg
3行目から先です。「豆と豆殻は同じ根から出たのに、煮たり煮られたりするのか」・・・「私(曹植)と兄上(曹丕)は同じ父から生まれた異母兄弟なのに、あなたは私を殺そうとするのか・・・」

西軍だった5将に石田三成の本拠地を攻めさせる(かつての味方にぶつける)策を、池田輝政や東軍諸将はその故事になぞらえて皮肉り嘲笑った訳ですが、曹丕、曹植は異母兄弟なので、曹植の漢詩をそのまま寝返り5将に当てはめるのはやや無理がなくもないが。
戦後、小早川は言うに及ばず、脇坂は所領安堵、朽木は減俸、小川、赤座は改易されたが、戦後は命を永らえている。
寝返った、あるいは降伏した敵将を先陣に立たせる、あるいは先導を命ずるケースはよくあること。だが、関ヶ原から遡ること10年前、秀吉の小田原征伐で上方軍に抵抗、松井田城に籠城したが、降伏して先導役を務め最後に自裁させられた武人がいる。
大道寺政繁という人。
川越線.jpg
西川越駅.jpg
JR川越線の西川越駅。
この近くの行政へ私は年に1回か2回、公用で訪れる。
その行政はアポ必須だが、川越線の本数は少なく、埼京線直通が絡んでダイヤが乱れがちなので、近年は、
「何時ころお見えになりますか?」
「川越線次第ですが、午後1時~2時の間に伺います」
ややアバウトになってきた。
少なっ.jpg
その公用の延長、入間川を渡った先に河越館がある。行ってみたらダダッ広い広場、草原だった。
過去記事です。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-10-05
西川越駅から河越館へ向かい、入間川を渡ってすぐに常楽寺というお寺がある。
常楽寺.jpg
本編の主役、大道寺政繁はここで自裁させられた。小田原征伐後に戦争責任を取らされたのである。
政繁さんの供養塔があるというが、境内に自裁云々の案内は特に表記されていないようである。一般の墓地の中を探さなくてはならない。供養塔は本堂左手の奥にあった。
碑文を読む.jpg
碑文には戒名の次に、武州川越城々主、上州松井田城々城主、大道寺駿河守平政繁公他、一族や末裔?の名が彫られている。
(平政繁公とあるから平氏なのか。)
公用上の地である武州河越と、私が満喫しまくった上州の松井田、点と点が繋がったぞ。

大道寺家が小田原北条家中で「御由緒家」と呼ばれる家柄、宿老なのは、初代伊勢盛時(後の北条早雲)が駿河、伊豆へ下向した際に一緒に付いて来たから。
駿河下向時に仲間が6人いてその中に大道寺政繁の何代か前(重時?)がいた。7人の誰かが城持ちになったら他のメンバーはその者の家臣になる約定があった・・・が通説になっている。
盛時が今川氏の内紛を収めて小さいながらも城持ちになったので、他のメンバーは盛時の家臣になった。素浪人だったのが代々重臣になるのである。
大道寺政繁が大道寺家の何代目かなるかわからないのだが、政繁は氏康、汁かけ男の氏政、何故かキレ気味に描かれる氏直、3代に仕えた。三代氏康の河越夜戦大勝後は河越一帯を支配していたようである。常楽寺にある供養塔の碑文には河越城主とあるが実際は城代ではないか。
河越を発展させる基礎を造ったのは大道寺政繁だといっていい。坂戸宿もそう。

北条家中の軍団は幾つかに分れ、〇〇衆のように呼ばれている。政繁が率いていた軍団は河越衆。駐屯地が武州のド真ん中なのもあってあちこちに参戦させられる。
河越にいた政繁が上州松井田と縁ができたのは武田が滅んだ後のこと。例の天正壬午の乱のドサクサで政繁は信濃まで侵攻した。
北条と家康の間に講和が成って信濃から引き上げるのだが、真田昌幸が吾妻~岩櫃~名胡桃~沼田辺りを治めるが、政繁は北条氏の領分として安中~松井田を治め、松井田城代になった。中山道の上州入口である。

補陀寺.jpg
中山道の上州入口の街でもある松井田に、旧空く場町に面して補陀寺というお寺がある。
曹洞宗のこのお寺の境内に政繁さんのお墓がある。菩提寺でもある。
何でも小田原征伐後、河越で切腹させられた政繁の首級を、誰かがこの寺へ持ち帰ったとか。

墓所を示すもの1.jpg
駐車場側には大道寺政繁云々は明記されていないが、中山道側の山門には標注が立っていた。
政繁さんの墓は本堂左手の裏、一段高いところにある。
墓所を示すもの2.jpg
墓所を示すもの3.jpg
墓所.jpg
この寺の中山道側にこんな解説板があった。
長い歳月で風雪に耐えかねたのか、下の方がめくれて剥がれかかっている。
松井田城解説1.jpg
松井田城??
松井田城は寺の背後の山の峰に展開している。この寺も松井田城の郭のひとつで補陀寺郭ともよばれた。政繁さんは天正18年(1590年)年の松井田落城までこの地にいた。平時に居住していたのかも。
だが、松井田城ねぇ。
高崎に住んでた頃は行こうと思わなかったなぁ。比高はどれくらいあるんだろう。キツそうだなぁ。
高崎の小料理屋「浜潮」で旅人の惑星さんに、
「松井田城は行ってない」
「松井田城ですか・・・」
彼はボソッとこぼして会話はそこで途切れた。「止めといた方がいいですよ」ってことかなぁ。
その会話をしたのが1月で、今の季節は春。木々の緑が映え、蔓や蔦が伸び、虫が飛びまわり、蜘蛛の巣だらけになる時期である。
熊、猿、猪が出るともいう。
せめて場所と訪城口だけでも把握しようと思い、くるまを走らせた。
松井田城へ至る道.jpg
松井田城へ行く路の説明が難しい。
補陀寺から18号松井田バイパスに乗って東へ走り、途中、左下に下りるか、松井田の街を東へ走って松井田郵便局の先を左折、松井田八幡宮を右手に見て北上してバイパス18号を潜るかです。ただ、有名な巨城なのでナビにも表示されます。私のにも表示された。
ナビ.jpg
その先に案内板の板っきれが植えてある。
松井田城入口.jpg

あまり訪城者を歓迎していないように見える解説板と縄張図である。
松井田城案内図1.jpg
松井田城案内図拡大.jpg
松井田城解説2.jpg
そこからは細いながらも舗装された山道を中腹まで上がっていけます。
松井田城訪城口.jpg
数台停められる駐車場がある。
駐車場から訪城路入口.jpg
松井田城は山の峰に展開された巨城なので、全部を見るのに相当な体力を要しそう。せめて安中郭まで行けるかな~と思ったのだが、靴も履き変えた方がよさそうさし、これからの季節、山々が自然に還っていそうである。虫、蜘蛛、蛇、猿、猪、熊。。。
引き返す勇気.jpg
獣道を見て断念、撤退しました。

この巨城に秀吉の命を受けた北陸連合軍がやって来る。
天正18年(1590年)、松井田城を守っていた政繁は、前田利家、上杉景勝、徳川の寄騎なのに何故か真田昌幸、彼らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが3大名の連合軍に衆寡敵せず。
松井田で籠城戦になる。松井田城は広大だが山の峰々に郭が展開されているので数に押されて分断されたに決まっている。水脈を断たれ兵糧蔵も焼かれ開城降伏した。
政繁は北陸連合軍を関東へ先導させられる。忍城、武蔵松山城、鉢形城、八王子城、北条氏の拠点の攻城に加担させられ、八王子城では搦手を教え、自身も攻めかかっている。
「豆を煎るには豆殻を以て・・・」である。

小田原城開城後、戦争責任を被せられ切腹させられたのが、北条家前当主の氏政、一門の氏照、家中代表として松田憲秀と大道寺政繁。
ていよく利用され捨てられたのである。ホントの豆殻になってしまった。
無念だったと思うが小田原北条ファンから見たら数少ない寝返り者ではある。北条氏はお家騒動や裏切り・寝返りがゼロとは言わないが、他の家中に比べて少ないようでもある。少ないだけに松田憲秀と併せて寝返りがそこだけ目立つ。
後年、加賀藩前田家は参勤交代の時に碓氷峠を越えて中山道を通過する。富岡に支藩の七日市藩があるからそっちに逸れたかも知れないが、補陀寺の政繁の墓は前田家の行列が通過すると悔しさのあまり汗をかいた。
涙ではなく汗???
前田利家あたりと助命の密約でもあったのだろうか。反故にされた怨みか。
供養塔、墓碑には子孫の名前があるので。大道寺氏の系譜は残ったらしい。
途中の道から妙義.jpg
いつか松井田城へ登る日が来るだろうか。
年齢がここまで来たから行くならここ数年のうちですが。
上級者コースだからなぁ。フラッと立ち寄れる規模じゃない。躊躇しているんですよねぇ。
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。