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持舟城は何故3回も落城したのか? [隠れ郷土史]

地図上で見ると、持舟城はJR東海道線用宗駅の裏山に連なる東海道新幹線のトンネル上にある。
現地案内図ではこんな位置関係。
位置関係.jpg
現在の海岸線とは違って当時は海に面していた。用宗城は水軍基地だった。舟を持っているから持舟、または持船、船を用いるから用船、用宗という変遷でしょう。
上り電車.jpg
用宗駅は2面3線のホーム(単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線)で、東側の単式ホーム1番線に駅舎があり、そこに改札がある。
駅から近い筈だが改札と逆側、線路の向こう側(西側)か。だが駅西側には改札が無いのです。私は改札から見て線路の向こう側(西側)へ行きたいのだが。あっちへ渡るにはどうすればいいんだ。
窓口に1人で寂しそうに勤務していた駅員さんがいたので訊いてきた。
「線路の向こう側に行くにはどうやって行けばいいの?」
「向こう側に行かれるには、線路に沿って上り方面へ歩いて、最初の踏切を渡るんです。(反対側を指差す)そこまで戻られるにはコの字を描いたようにお進みください」
コの字だと??
行って反対側に渡ってまた戻ってくるのか。
仕方がない。駅前から上り線に沿って歩いた。
そこは幾つかの個人商店を交えた住宅地で、そこの公民館前に、持舟城を家康が攻撃した際に戦死した城将、向井正重らを供養する城山列士供養塔と持舟城由来略誌があった。
城山地蔵尊.jpg
金文字.jpg
持舟城は用宗駅前の地上から見て標高80mもない小城だが、今川、武田、徳川氏によって3回の攻防戦があった。水軍の要衝だったので奪い合いになったのである。
しかも3回とも落城している。
略誌の金文字にはこうある。途中読み難い箇所があるので濁点を入れます。まず、1回目の戦闘記述。
「川中島で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄十一年末駿河に侵攻して持舟城を攻略。城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。」

次に2回目の戦闘記述はこうある。
「三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川方の血をひく正室築山御前を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め、武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫、叔父伊兵衛政綱、長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。」
天正七年九月の戦は最も残虐であった。。。
残虐とあるぞ。
我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め。。。
家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり???

ここ用宗の番地は静岡県静岡市駿河区用宗城山町というのだが、後年としては家康のお膝元といってもいい。その地に、地元の英雄・家康を貶めるような記載があって憚らないのに驚いた。

その後にフォローするような箇所もあって、「後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り。。。」とある。
そして3回めはあっけない。
「天正八年二月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正十年二月、徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を抜き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。」
朝比奈という城将は、過去に2回も落ちた城なんか守れるかと端っから見切ったのだろう。
訪城口.jpg
最初の踏切で向こう側へ渡り、また駅の方向へ戻るように歩くのですが、途中に入口がある。
この先の急坂は舗装されていますが、公道というより農道で、城山一帯に広がるミカン畑の農業関係者、もしくは居住者の専用作業道の意味合いが強いようです。
坂道を登る途中、左右にはミカンを運ぶモノラックが敷設されているが、中には途中で途切れていたり、廃線のようになっている箇所もあった。
ミカン畑を縫う.jpg
ラックレール1.jpg
ラックレール2.jpg
かなり急な坂です。ヘアピンを曲がるように行くと、本郭へ上がる登城口があった。
登り口.jpg
そこからは舗装されていない。途中途中に細い石の仕切があって土の階段を形作っている。
えっちらおっちら登ったら前方にご老人の姿が見えた。
爺さん1.jpg
そこもその先も傾斜が急です。
このような石垣があったりするが、積み上げられた石の中にはコンクリートを粉砕した石があたりするのでこれはどう見ても後世のものでしょう。
後世の石垣?.jpg
ご老人と私との距離が近づいて行く。
私もバテてきたが、ご老人に比べたら私はまだまだ壮年である。だんだん距離が狭まってきた。
ご老人は背後の私の気配を察して振り向いて一瞬、ギョッとしたが、年少者の私の方から、「どうも~」とひと声あっけて私は先に出た。
ご老人は私に、「お若いですねぇ」、と返してくれて、マイペースでゆっくりゆっくり上がってくる。姿恰好はラフなので地元の人のようだが、リハビリという感じでもない。
爺さん2.jpg
追い抜いた私は時折振り返る。
大丈夫かな。倒れたりしないだろうなって。
頂上が近づいてきた。
もうすぐ本郭.jpg
頂上、本郭はこんな感じ。
何もないです。
碑.jpg
本郭1.jpg
開設板1.jpg
開設板2.jpg
背後の堀切1.jpg
背後の堀切2.jpg
尾根続きは一条の堀切で断ち切っただけ。
ツマンナイの。でも大した高さではないのに眺望はスバラシイ。
眺望1.jpg
眺望2.jpg
眺望3.jpg
眺望4.jpg
イノシシが出るのか。麓はここまで来る道にはそんなの無かったぞ。
小田原のミカン農場をサルが荒らしてる。サルは出ないのかな。
イノシシ.jpg
持舟城は何で3回も落城したのだろうか。
ひとつの考察を述べます。あくまで私の推測ですよ。
持舟城は水軍の拠点ですが、朝鮮出兵の頃と違い、今川・武田・徳川の海上戦は船上での重火器がそれほど発達していなかった。海上での撃沈は稀で、むしろ船を損傷させて浜辺に追い込み、上陸させてそこで捕獲、拿捕、積荷を奪ったりしていた。
水軍の拠点が海に面して土塁や堀を掘っても意味がないと思うのです。だって海から攻めて来たらこっちも小舟を出撃させで迎え撃ち、上陸させまいとしたに決まってる。
逆にこっちから船で攻めに出たら何処かの海上で大海戦になるか、そうならなければ敵国の海辺の漁村を荒らしまわる訳でさ。
だが遠州に家康が侵攻して来たことで、徳川軍は陸路を伝って持舟城に攻めて来たもんだから激戦になった。この小城にいた城将の名前は、一宮左兵衛尉元実、関口刑部少輔親長、一宮出羽守宗是、一宮左衛門尉某、三浦兵部義鏡、向井伊賀守正重、向井兵庫正綱、朝比奈駿河守氏秀、(朝比奈信置とも)といった面々だが、最後の城将、朝比奈は、「形成不利と戦わずして城を明け渡し」とあるからそれほど陸戦に対する備えは無く、日常は水軍のや海運、港町の拠点だったのでしょう。海上交通の番城だったのです。おそらく現在の海岸線ではなく、眼下の用宗駅辺りか、すぐ崖下に船溜りになりそうな天然の良港があったに違いない。
この城での陸戦を意識しなかったのではないだろうか。
爺さん3.jpg
一休みしていたご老人のところへ私から歩み寄ったのは礼というもの。
「地元の方ですか?」
「そうです。ここ(持舟城)を御存じで?」
「知ってました。駅の裏山にあるぐらいの甘い認識で登ってきたら結構キツかった」
「ああそうですか。あれですか?あっちこっちこういうところを廻られてるとか?」
「いや、ここだけですよ」
「ここだけですか?」
「所用で焼津まで来て、早く終わったから今日、行っとこうと思って途中下車したんですよ」
この小城の戦い、興亡についても若干、お伺いしたが、ご老人は「ここは武田が作った城」と言ってましたね。御年は聞かなかったが、70後半でしょうか。
「上り電車で帰京するのでお先に下ります」と言って下山しました。
杖があるぞ.jpg
下りたら杖があるじゃないか
やはりそれだけ急峻な山道だったという証である。
最後に振り返ります。
持舟城遠望.jpg
上り電車.jpg
用宗駅に戻ったら駅員がいないぞ。
「すっげぇ大回りだった」ってイヤミのひとつも言ってやろうかな~んて、冗談ですよ。そこまで私も意地悪くないです。
この駅の営業時間は7:00~19:00で早朝と夜間は無人になる。さっきの職員さんはどっか他の駅に籍を置いてる方でそこから派遣されてるのだと思う。戻る私より先に帰っちゃったんだな。
静岡駅で新幹線に乗り換えて帰京しました。
今月も遠州出張が入ってますが。。。
コメント(2) 

コメント 2

ちまき

絶景かな 絶景かな~ 素晴らしい景色ですね。
これを見るために登る価値ありかも!!
こんな景色見たいです~
by ちまき (2016-02-11 23:09) 

船山史家

ちまきさんおはようございます。
水運を押さえる船城だから、遠目が効かないと意味ないようです。
晴天でよかった。曇りや雨だったらパスしたでしょう。
ちまきさんは三崎方面にお詳しいですよね。三崎にも北条水軍の巨大な要塞があった筈ですよ。安房の里見としょっちゅうやりあってたようです。
by 船山史家 (2016-02-12 10:08) 

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