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新幹線駅チカの城塞 [隠れ郷土史]

その城跡は上越新幹線の駅近にある。
駅からは歩いて5分足らずです。
こりゃ楽そうだな。実際、そこへ行くのは楽だった。着いてからも楽だった。道路は城域の高さと一緒だったからである。比高差がない。
上毛高原駅1.jpg
チケット.jpg
高崎駅9:51発、MAXたにがわ309号・越後湯沢行に乗車。乗車時間僅か16分足らず。10:07に上毛高原駅に着いた。
ここで帰りの上り電車時刻を確認しとくべきだったのだが。。。
上毛高原駅2.jpg

見えてきた.jpg
小川城標注.jpg
国道291沿いに徒歩5分。デカい案内標識があった。幟もはためいている。
国道は城域を横断している。向かって左側が本郭、道路を挟んで右の畑、集落が二の郭。
国道=城域の高さなので、そのまま入って行ける。一旦、堀の中に下りて本郭に上がる。深さは5m程度。
折れてる堀.jpg
堀1.jpg
堀2.jpg
堀3.jpg
堀4.jpg
この時期、蜘蛛の巣がある。蚊もいる。
暑かったが、敢えて上着で身を護った。
本郭1.jpg
本郭の大部分は、何やら植林されているスペースがあって踏み込めない。整備されていない花壇?
本郭2.jpg
現地の解説板はこの城塞の興亡についてかなり詳しく述べてある。地元の「おらが殿さま」のいいトコだけを述べている訳ではない。
地元の沼田氏の支配下だった小川氏がいてドタバタ内乱している説明に10数行も割いている。その後、小田原北条氏の脅威が北上してきた頃のこと。
「大永4年(1524年)上方より北面の武士(京都御所軽微)浪人して此の地に来る。赤松則村の裔にして赤松捨五郎祐正と言う。客分として城内にとどまるうち次第に軍議にも加わり其の才を認められ、後に景季(小川景季という人)の後家と女合わせ、上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斎と名乗る」
赤松捨五郎祐正~小川可遊斎とは何者なのか。
応仁の乱で荒れ果てた京から地方へ流れて来た浪人、若い頃の北条早雲(伊勢新九郎)のようなイメージだろうか。
解説板をそのまま読むと、内乱で城主がいなくなり、京都から名門・赤松氏の末裔と自称するアヤしい浪人が流れてきて、客分だったのが軍議にも加わり、おそらく小さい戦闘で功を表し、他に候補者がいなかったので前城主かその嫡男の未亡人を娶り、棚から牡丹餅のように小川氏の名跡を継いで小川可遊斎と名乗り、それを越後の上杉謙信が裁可したといふものだが、このままストレートに読むとちょっと疑問符が付く。
上方から赤松則村の裔、赤松捨五郎祐正が来たのが大永4年(1524年)。
まだ謙信はこの世の生を受けていない。享禄3年(1530年)生です。
そこに引っ掛かるかって?
由来1.jpg
由来2.jpg
上げ足を取るわけではないが、謙信が関東に影響力を及ぼすのは、関東管領上杉憲政が北条氏康に追われ、上州から越後へ逃亡したのが天文21年(1552年)以降である。この年の8月に謙信自らではなく、越後からは配下の本庄繁長他を上州に送り込んで沼田から北条軍を撤退させている。
上毛のいち土豪の内紛にクビを突っ込み可遊斎を裁可するとしても、可遊斎がこの地に流れ着いた1552年と、謙信の生年1539年では30年近くの差がある。
後に景季の後家と女合わせ上杉謙信の裁可を得て名跡となり・・・
後家さんを貰ったのはいいが、謙信の裁可を得たのはかなり後ではないか。タナボタで城主になった小川可遊斎が謙信の裁可を受けたのは遥か後年、関東管領上杉憲政を受け入れ上杉家の名跡を継いだ頃か、京に上洛して将軍足利義輝と謁見した頃(天文21年、1552年以降?)だと思う。

さっきからタナボタタナボタ言ってますが、小川可遊斎と言う人、戦巧者ではあったらしい。
可遊斎は小田原北条氏の軍勢を2度撃退している。
初回は天正7年(1579年)10月、謙信の跡目相続争い(御館の乱)で北条家出身の景虎を救援できず北条氏照、氏邦兄弟が関東に撤退した際、腹いせまぎれに小川城を攻撃したが小川可遊斎はこれを撃退した。
翌天正8年(1580年)、可遊斎は上州に進出して来た真田昌幸勢と共闘して再度、北条氏邦の軍勢を撃退している。この戦闘の背景は真田の主君、武田勝頼が、上杉景勝から黄金を貰ってと和睦し、形の上では甲越同盟になったので、武田と北条が手切れになってしまったからである。対北条戦線で「敵の敵は味方」の構図になり可遊斎は真田の寄騎という形にになった。
だが真田昌幸はこの地、小川から先の沼田が欲しいのである。小川可遊斎のアタマ越しに沼田城へ調略の手を伸ばす。これが北条氏邦を本気で怒らせ、天正8年の秋に3度目の攻撃を受けた。それほど大きい城ではないのだが、「数倍の兵力を以って小川城を囲む」とある。
小川城は陥落する。可遊斎は上毛高原駅の西にある見城山の柵に籠って抵抗するが、水や糧秣の補給に苦しみ、自分を認可してくれた謙信不在の越後へ落ちていった。
この時、真田昌幸は助けに来なかったらしい。結局真田はこの地をGETするのだが、この辺りはちょっとアヤしくもある。
最後に抵抗した見城山が見えます。
最後の抵抗.jpg
これは二の丸一帯。集落と畑、後はヤブです。ヤブを除いて完全に私有地です。
向こうは二の郭.jpg
二の丸1.jpg二の丸2.jpg
二の丸3.jpg真田伊賀って誰?.jpg
地元のヒーロー可遊斎が光芒のように輝くのは天正7年と8年の2年足らずでしかない。だが小が大を撃退するサマは痛快ではある。
最後に振り返る.jpg
楽チンな訪城であった。道路と城域の高さが同じなので、平城と見間違うばかりである。
それでも靴と裾がやや泥で汚れてしまった。
自販機で水を買って洗った。本郭の入口には自販機があって、そこで水分補給はできます。WCは無いです。(それでも泥汚れは落ちず、帰宅してからすぐさまクリーニング屋へ直行。)
最後に振り返った上の写真の時刻は10:37で、駅に戻ったら、10:41の上り電車が行ってしまった後だった。
次の上り電車は11:45発、MAXたにがわ410号までないぞ。
腹が減った~。
コメント(2) 

コメント 2

るな

確かに比高差がないと訪れるのが楽ちん。
しかしこの時期、蚊の餌食になりませんでしたか(*_*)
蜘蛛の巣もイヤイヤ。

幟もあるし自治体が推してる感ありますね。
訪城はこれからがベスト。
by るな (2015-10-25 23:57) 

船山史家

るなさんおはようございます。
名胡桃城もそうですが、そこへ至るまでの公道の高さが郭中心部と同じ比高ですのでサッと入れます。延々登ったりしません。
もっともそういうケースの場合は公道が郭の一部を貫いているので、破壊されたり後世の壊変になってしまうんですよね。
蜘蛛と蚊はいました。堀に下りて、上がる道に蜘蛛がいたのと、本郭に蚊がブンブン。本郭に白い柵があるでしょう。その間しか歩いちゃいけないみたいなんですよ。そこに蚊がいるの。
訪城はこれからの時期ですね。葉が紅葉に色づいて、舞って落ちて、気付いたら齢を重ねているという。歳月がどんどん過ぎていきます。
by 船山史家 (2015-10-26 06:38) 

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