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新田の庄 江田館 [隠れ郷土史]

群馬泉酒蔵を過ぎて、伊勢崎市方面へ向かう途中の散策バナシ。
群馬県太田市に新田と名のつく町がある。新田〇〇町がたくさんある。
新田赤堀町、新田市町、新田市野井町、新田市野倉町、新田大町、新田大根町、新田金井町、新田嘉弥町(カネチョウ)、新田上江田町、新田上田中町、新田上中町、新田木崎町、新田小金井町、新田小金町、新田権右衛門町、新田下江田町、新田下田中町、新田反町町、新田高尾町、新田多村新田町、新田溜池町、新田天良町、新田中江田町、新田萩町、新田花香塚町、新田早川町、新田瑞木町、新田村田町といった塩梅で数えてみたら28町あった。新田氏を、新田義貞を誇りにしている地域である。
南側からの入口.jpg
今回取り上げるのは新田上江田町にある江田館というもの。
近世の大城郭じゃないですよ。鎌倉時代の豪族屋敷にちょっと手を加えたもの。
ここには新田一族の傍流。江田氏がいた方形館。夏空の晴れた昼下がりに群馬泉酒蔵の延長でここを通りかかった。
説明板.jpg
想像図.jpg
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新田氏を上野源氏と呼ぶそうだが、もとは河内源氏3代目・八慢太郎源義家の四男・義国の長子である新田義重が新田氏の始祖といふ。
義重の四男・新田義季(※)から4代目が江田行義という人でここに住んでいた。新田一族の傍流といっていい。
江田行義という人は新田義貞が挙兵して鎌倉へ攻め上るきっかけのひとつを担っている。
義貞が挙兵したのは護良親王か後醍醐天皇から綸旨を受け取ったという大義名分があったとしておこう。だがそれは表向きであってホントの挙兵要因は、新田荘に幕府の徴税使がやってきて6万貫文の軍資金を出せと。納期の期限は僅か5日。
無理難題である。6万貫文って現代だと幾らくらいだろうか。経済的に追い詰められて一族で挙兵したというのが真相ではないだろうか。
吉川英治の私本太平記では銭5万貫となっていて、「銭五万貫五日ノ内ニ上納ノ事 右、領主庄家、一致シテ違反ナカルベキ旨、御上意也」とある。
義貞の弟、脇屋義助が「無い袖は振れぬ」と拒絶する。徴税使は「しからば直接我らの手で徴発する」50人の兵を連れて新田の庄を恐慌状態に陥れるのだが、叛旗を翻す決意をした義貞に誅殺された。
この事件とは別に江田行義は北条得宗家から嫌がらせをうけている。最後の執権北条高時は、江田の所領を東武伊勢崎線世良田駅から南800mにある長楽寺という寺に寄進する文書を発給した。江田行義の名前はこの時に登場するのだが、寺に寄進する云々は売却寄進と思わ、寺に江田の所領を売ることにより幕府はその寺の庇護者となり、門前町の上がりを搾取するという仕組みではないだろうか。
だが太平記では江田の所領売却には触れていない。そのまま一族は挙兵する。
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私本太平記で義貞が挙兵する項「触れ不動」で、船田という新田家の執事が点呼をとっている。
脇屋二郎義助・・・義貞の弟ですね。大舘宗氏、堀口貞満、堀口行義、岩松経家、里見義胤に続いて江田行義が名前だけ登場する。江田行義は挙兵した義貞について行き、分倍河原では右軍の将を努め、鎌倉の極楽寺坂を抜こうと同族の大舘宗氏と共に攻めかけた。新田次郎著の小説では江田は化粧坂を攻めて幕府軍の中枢、赤橋守時一族を混戦の末に破っている。
極楽寺坂切通は突破できず大館宗氏は戦死。新田義貞は極楽寺坂切通の突破を断念し、伊稲村ケ崎に剣を投じて干潮を祈願した伝説に繋がる。
稲村ケ崎.jpg
後年、新田義貞は足利尊氏と対立する。江田行義も室町幕府の追討を受ける側になる。江田行義は義貞と離れて行方がわからなくなるが、足利幕府が滅んでから江田一族の誰かがこの地に戻って来た。既に館一帯は小田原北条氏に属した由良氏の所有となっていたのだが、江田氏の子孫がこの地一帯を氏神として保全する。ここに祀ってあったものは明治8年(1875年)に太田金山城(関東に石垣の城は無いを覆した巨城、私は行ってません。)の新田神社に移された。
駐車場.jpg
舗装されていない砂利と雑草だらけの駐車場にくるまが数台停まっており、何かのイベントかと中心部を見たら、野良着姿(失礼)のオジちゃんオバちゃんたち10数人が発掘の最中だった。
土塁の上にはアウトドア用の折り畳み椅子、テーブルが少しあって、昼食とお茶した痕があった。形ばかり「こんにちは」「どーも」最低限の挨拶だけ交わして後はお互い知らん顔。
炎天下の昼下がりにスーツ姿で現れた私をいぶかしむようでもある。
発掘中で立ち入り禁止.jpg
発掘中1.jpg
発掘中2.jpg
何故カットしてあるのかな.jpg
立ち入り禁止のロープと札があったので、方形館を囲む土塁上の一周は諦め、内側から少し見てまわり、一旦外に出て反時計まわりに館をぐるっと一周した。ほぼ全周を掘が巡ってましたね。
南側の堀1.jpg
南側の堀2.jpg
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北側の土塁から堀を見下ろす2.jpg
西側のライン1.jpg
西側のライン2.jpg
西側の堀.jpg
夏空に映える江田館跡.jpg
どれも同じような写真ばっかりですが、平城、館なんでのはこんなものですよ。なかなかいい散策でしたよ。なんてったって山城と違ってゼェゼェハァハァ息が切れないのがいいね。

(※)四代遡って義季から分かれた家に、得川姓、世良田姓を名乗るようになった家がある。
得川・世良田は後世の徳川将軍家に連なる系譜?後世のデッチ上げでなければ江田氏と徳川氏は遠く縁戚関係にある家柄だったのか。
反町館.jpg生品神社.jpg
またこことは別に、義貞が住んでいた?反町館や、挙兵時の舞台生品神社等も訪問済みですが、それは項とUp時期を改めます。
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