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井伊直孝の隠れ寺(豪徳寺の写真追加) [隠れ郷土史]

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北野寺1.jpg
安中市、下後閑にあるお寺です。北野寺(キタノジ)
家康が関東に入府した際、譜代家臣4天王・赤備えの井伊兵部大輔直政を上野に配した。箕輪城→高崎城に移って、関ヶ原の功で近江佐和山に移封される。その頃かもっと前か、赤備えの井伊直政の次男、直孝という人が幼少の折、この寺の薬師堂で晩学に励んだ。彦根藩二代目藩主になる人です。
戦国大戦.jpg
井伊直孝は誰が演じるかわからないが来年の大河でも登場する可能性が高い。
直孝は大阪冬の陣で真田勢の挑発に乗り、真田丸に抜け駆けして押し寄せたが、真田勢や木村重成勢の反撃を喰らい500人の死傷者を出して惨敗した人です。
豊臣秀頼と淀殿が逃げ込んだ大坂城山里曲輪を包囲し、一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ人でもある。
北野寺3.jpg
これだけだとイメージが悪いので他に幾つか。
夏の陣では挽回し、若尾八重で長宗我部盛親勢を破り、捕えられた盛親が粗末な雑食を与えられていたのを座敷に上げて最後の晩餐ではないが、大名料理を喰わせた人。
仙台博物館に現存しているが、伊達政宗の100万石のお墨付きを、「今更こんなのを持って何になるんですか」と本人の目の前でビリビリに破いたか、火鉢に放り混んで焼き捨てちゃった人。
世田谷に鷹狩に出た時に雷雨に見舞われ、荒れ寺で猫が手招きしたので雨宿りを兼ねて寺の和尚と親しくなった。これが現在の井伊家菩提寺でもある世田谷の豪徳寺。招き猫、ひこにゃんの由来。直孝の墓もそこにある。
先日、行って来ました。豪徳寺です。↓
豪徳寺1.jpg
豪徳寺境内、井伊家の墓所入口です。↓
井伊家墓所.jpg
直孝公のお墓は奥にあります。↓
直孝公のお墓.jpg

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直孝は後年、亡くなるまで幕府の要職にあった。最初の大老(最初は大老と呼ばなかったかも知れない)でもあり、家中で殉死を禁じたり、清に滅ぼされた明の出兵以来を秀吉の朝鮮出兵を例に出して反対したり。少なくとも暗君ではなさそうである。
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関ヶ原までは、高崎から安中にかては井伊領だった。でも直孝は安中藩主にはならなかった。それは後年、井伊本家の彦根藩を継いだからだが、初代安中藩主は直孝の異母兄、直勝という人なんです。
実はこの異母兄・直勝が井伊直政の嫡男で、一旦は近江佐和山に入っているのだが、家中不和等あって家康と幕閣が直勝の井伊本家相続を認めず、近江の井伊本家18万石を異母弟の直孝に継がせ、直勝を安中藩3万石に持ってきた。
なので直勝は本家たる彦根藩主には数えられていない。分家の初代安中藩主になっている。この入れ替えには何か事情があったようです。直勝は身体が弱かった(直孝よりも長命だったそうだが。)、家康が直孝に甘かった(真田丸の抜け駆けも咎めず)、譜代井伊家家臣と武田遺臣との不和とか。
直孝が北野寺に預けられたのは、母の出自がそれほど高貴ではなかったか、井伊直政が正室と直勝に対して遠慮があった・・・後世の人はいろいろ考える訳です。家康のご落胤説とかね。
ホントの嫡男、直勝にしてみれば、自分は嫡男なのに安中藩3万石で、弟の直孝に彦根本藩を奪われてしまった訳です。直孝は固辞したが幕閣の裁定は覆らなかった。元和元年(1615年)家康が亡くなる前年、「兄直勝ガ多病ニシテソノ任ニ耐エズ、汝父直政ノ家督ヲ相続シ軍務ヲ掌ルベシ」・・・安中市史にはこう書いてありました。家康の意志はあくまで直孝にあったらしい。
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傷心していたかも知れない直勝は荒れていた安中城と城下を整備したが、安中藩は直勝の次、直好の代で遠州に移封され、その後に水野家、堀田家、板倉家、内藤家と続くが、ここ北野寺を長年庇護したのは安中藩よりもむしろ彦根藩の井伊本家ではなかったか。

寺はご住職の住居も兼ねているようです。でも境内には誰もいなかった。いたら「直孝公は何処でお勉強してたの?」と訊いてみたかったのだが。
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北野寺のある下後閑からくるまで10分ほどの場所には、前に載せた真田幸隆が隠れていた長源寺があって、幸隆はそこの住職から餞別に六枚の銭を貰いそれが六連銭の旗印になった。その旗は真田丸にも靡いていたわけで、真田丸に立て籠もった家、真田丸に攻め寄せた人、時代の差はあれど、後世に因縁浅からぬ両家が隠れていたという不思議な地です。
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